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084・ア・コルーニャの新星

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 現在、最先端の戦術として『ポジショナルプレー』という言葉がある。

 ボールを保持し続けるポゼッションとは関係ない。
 攻撃側がポジショニングで優位性を獲得する『ポジション優位』という考え方がコンセプトである。
『ポジション優位』とは、相手の視野の外に、位置を取ることを言う。
 
 例えば、相手の守備時のフォーメーションが4-5-1だとする。
 その『-』のところに味方は位置し、なおかつ、横並びになった敵のあいだあいだにポジションを取る。
 ディフェンスのライン間にできるギャップやオープンスペースでプレーすることによって、人数の上で優位になるために、守備より攻撃の人数を多く配置させることである。



 そして『5レーン』

 フィールドを縦に5分割する。
1)5つのレーンの、縦レーンの中には、最大2名まで
2)4つの横ゾーン(ペナルティエリアを省いたエリア)には、最大3名まで
3)隣り合うレーンに位置する選手は、常に斜めの位置関係をとる

 5レーンには左から

左サイドレーン
左ハーフスペース
センターレーン
右ハーフスペース
右サイドレーン

 があり、相手ペナルティエリア外側(ハーフスペース延長上)のゾーンを『ポケット』と言う。
 ハーフスペースのパスコースは縦、外側、内側、後ろの4つ。センターレーンは縦、外側、後ろの3つとなる。

 早い話が、WやMの型に敵の視野から外れてポジショニングすることによって、バスケットボールのトライアングル・オフェンスを越えたダイヤモンド・オフェンスを繰り出すことに真骨頂がある。

 このハーフスペースや、ポケットの使い方が世界一巧いのが、イニエスタ選手と言われている。



 さらに『ゲーゲン・プレッシング』

 基本的にはボールを奪われた瞬間から数秒間だけ執拗にプレッシングを行い、ショートカウンターに持ち込むことである。
 人の筋肉に乳酸が貯まるのは5秒以上の運動をしたときとされ、プレスを行うのは通常5秒以内である。応用的に考えると、5秒以内であれば、疲労は蓄積されない。激しくプレスに行くことによってまず相手のカウンターを防ぐ。そして5秒以内にボール奪取できないときはリトリートを行い、その間に構築されたディフェンス組織によってゴール前に鍵をかけてしまう。



 どの戦術も、『正しいポジショニング』によって攻撃的なディフェンスと数的優位を作るために創り出されたものである。
 常に状況が変化する試合の中で、優位性を作り出すことを目的とするポジショナルプレーの原則を味方が完全に共有していれば、味方の連動を前もって事前に全部察知できることになる。
 任務を遂行するための技術とそれに伴う頭脳があれば、個人個人に強烈なスタミナがなくとも誰でも完璧な攻撃者兼守備者と成れる魔法の戦術と言って良い。
 将棋で例えるなら、飛車角落ちでも全員が成金と化す戦術である。

 名前を付けられたのが最近であるだけで、その理論・根底は1970年代からある。
 日本ではラモス瑠偉がボールを持った時の、都並敏史のポジショニングの取り方などである。



 あらゆる仮定をあらかじめ想定しておいて、その上で試合を行うという大吾のような閃きを持つものとは相性が良いとも悪いとも取れる。
 即興アドリブを否定するとともに、あらゆるパターンの中からオフェンスの選択肢を選ぶことが出来るからだ。

 サッカーはフィールドに立つと自由にプレーして良いというのは最早時代遅れである。
 パターン化されたプレーから最善のプレーを選び抜くことができるのが優良な選手なのだ。

 しかし圧倒的な組織力をもってしても、それを越えて行く圧倒的な個というものは必ず存在する。
 オランダ代表ファン・ヒンケルにはスピードがある。なのでプレスをかけるには他の者より素早く反応できるであろう。
 チェコ代表イザークにはスタミナがある。なので連続したプレーが可能であろう。
 イタリア代表サーラには決定力がある。なので最後の部分で確実にゴールを決めるであろう。
 そして日本代表瀬棚勇也には圧倒的なフィジカルがある。なのでよりボディ・コンタクトが強く次のプレーに支障がでないであろう。

 それが個性である。



※※※※※



「良いのか? 俺がふたりの邪魔にならないか?」
 
 勇也はそう言った。
 結婚を控えている大吾と凛の新居に勇也はお呼ばれしている。

「いいのよ」

「そうそう、おまえには結婚式でスピーチしてもらうしな」

 カップルはそう言った。
 
(まあ、そう言うなら……)

 実際、新居への引っ越しで勇也のパワーが炸裂した。
 重い荷物などは、勇也がそのフィジカルで運んだのだ。貸しを作ったとは思えないが、それでも今日一晩の饗応に応じるくらいはまあ良いのだろう。

 大吾の結婚に協力しているのは勇也だけではない。
 高校の同級生である坂本なども、式で使う音楽CDを日本で集めてくれていたりする。結婚式場で使う音楽は、基本自前で用意しなければならないからだ。通信販売でCDを岡山の実家へと取り寄せる手もあるが、やはり限界がある。
 そういう意味では、大吾の早過ぎる結婚は仲間内からは祝福されているともいえる。

 その親友カップルはシーズンが終わったオフではなく、ワールドカップが終わった後の短い休暇に式を挙げる予定だ。
 なんでもワールドカップで良い成績を残し、その祝勝気分でみずからの結婚も祝うという予定だ。

(なんとも楽観的な奴だ)

 勇也はそう思わざるを得ない。
 ワールドカップで惨敗したら、その式はお通夜だろう。そういうことを考えないのが、このカップルだ。新郎の方は『スター・システム』に乗ってしまい、若干後悔しているらしいが、その呑気で楽天的な考えはなかなかに図太い。
 もしかしたら、マスコミ関係者でもあった新婦の考えなのかもしれない。
 いずれにせよ、向島という一家はサッカーにすべてを賭けているのだ。


『スペインのア・コルーニャが、快進撃を見せています!』

 三人が同じ刻を過ごしているリビングに、けたたましくテレビがその存在を告げる。

「ア・コルーニャってチャンピオンズリーグに出場できるほど復活していたのね」

 元サッカー記者とは思えない彼女のスペイン・リーガへの関心の少なさに大吾は意表を突かれる。

「へえ、キミはやっぱりイタリア専門だったか」

 ふたりは顔を見合わせ、優しい笑顔を浮かべる。

「いや、ここ数年は向島大吾専属だったわ」

 と凛は笑い、惚気話に勇也は苦笑じみたニヤつきを顔に浮かべた。

『ア・コルーニャはこの夏、クラブの予算をつぎ込んでただ一人のブラジル人選手を獲得しました。もともとディフェンスは1部リーグでも上位でしたが、オフェンスの面で問題を抱えていました。それが彼の存在で一挙に解決されたのです!』

「決勝トーナメントで対決あるかもね!」

 無邪気に凛がそう応じる。

『それにしても、この18歳のブラジル人の名を聴くとサッカーファンはサウダージ郷愁を感じずにはいられません。その名もリバウド・アランテス・デ・リマ・ナシメント・ジュニオール!』

 その父親そっくりの人懐っこいスマイルをテレビカメラが捉えたときに、大吾の顔の表情筋が死に絶えるのを勇也は確認した。

『通称、リバウジーニョ・ジュニオール! あの日本人最高傑作と呼ばれた向島博を再起不能にしたバロンドーラー、リバウジーニョ・ガウショの実の息子です!』

 向島博大吾の父を破壊したときのように、彼のような組織全体を破壊する個性がサッカー界には存在し、また必要とされるのだ。



※※※※※



 ヨーロッパ・チャンピオンズリーグ。
 ラウンド16。
 イタリアの王者、グラン・トリノと、スペインの古豪ア・コルーニャの対戦が決まった。

 日本のマスコミはそれを大々的に報じた。
 向島大吾とリバウジーニョ・ジュニオール。前者の父が、後者の父によって再起不能にされたシーンをこれでもか、と垂れ流しながら。

 リバウジーニョ・ガウショが行う多彩なフェイントによって、それに対応できず付いて行けない哀れな日本人の脚が裂かれるさま。

『日本のサッカー史が変わった試合』

 そう注釈を付けられて。


「大丈夫か? 大吾……」

 心配そうに勇也がそう声を掛けてくる。
 大吾は『ああ、気にしてない。別に問題はない』と返すがその顔色は青く染まり、誰が見ても正常ではない。

 大吾は、ラウンド16に間に合わすように懸命にリハビリを開始する。ストイック過ぎるそれは、まるで兄弟対決を控えたときの真吾のようだ。

 同時に雑誌のインタビューや、CM撮影。
 大吾は結婚式の準備なども控えている。ここでは大吾は凛の控えめな主張に対して頷くだけであった。凛は、それが少しだけ不満でもある。だがそれが大吾の優しさであることもわかっている。花嫁が自分が自分をこう彩りたいと思うのであれば、それを通してやるのが男の甲斐性である、と7歳下の花婿が思っていることを知っているからだ。



『大吾の意識はすでに、父親の仇討ちに向かっているのではないか?』

 それが勇也が思うことだ。
 
 大吾の今の体重は61.4kg。ベストであるはずだ。相変わらず華奢ではあるが、その腹部はシックス・パックが出来上がっている。
 休養も充分。セリエAで何試合かを行い、直近の試合ではスタメンで出た。

 グラン・トリノのティフォージサポーターから愛されているとは言い難い。
 同時に入団したパヴェル・コザークは、その『永久電池』とも言えるスタミナを活かした献身的なプレーからティフォージに大いに受け入れられている。
 ファビオ・サルヴェッティもまた期待に違わぬ守護神全とした安定感から今や人気者だ。前任者のブラジル人ゴールキーパーが不安定だったから余計に。

 一方、勇也。
 確かに自分にはパワーがある、スピードがある。フィジカルに優れている。だが時折致命的なミスを行い、失点に繋がるようなプレーをしている。
 早くも放出候補に挙げられているのを己で知っている。

 向島大吾はどうだろうか?
 未だ完全に力を発揮しているとは言えない。ペルージャFCで見せていた華麗なスキルは、グラン・トリノでは100%発せられていない。

 だが、グラン・トリノはいわゆる『ファンタジスタ』を大事にするクラブだ。

 オマール・シボリ、ミシェル・プラティニ、ロベルト・バッジョ、アレッサンドロ・デルピエーロ、ジネディーヌ・ジダン、アンドレア・ピルロ。そしてジャンパオロ・サーラ。

 どこに出しても恥ずかしくない、一線級の芸術家たち。
 パトロンとしてのベルディ家は、多彩に満ちた芸術家たちをそれはそれは大事にしてきた。
 それが極東のアジア人であっても同じはずだ。



 勇也は、YouTubeでリバウジーニョ・ジュニオールの動画を見た。
 大吾の脳裏に、ある種のトラウマが蘇るのがわかった。親友の父親が、再起不能になったあのフェイント!

 スポーツ界では2世タレントは少ない。純粋に実力だけを評価されるからだ。親の知名度によってプロになるだけなっても、代表選手まで登り詰めた2世選手は数少ない。
 一方で親から受け継いだ才能と、英才教育によってまた確かな実力を持つものも増えてきている。
 ティモシー・ウェア、フェデリコ・キエーザ、マルクス・テュラム。
 そしてサッカー界に燦燦と輝くマルディーニ一家!
 向島家も2代・3人に渡って代表選手を送り出している。

「ムコウジマ? 悪いけど、知らないね!」

 そのジュニオールのインタビューがトリノに届いたとき。向島大吾のボールの声を聴く能力が鋭敏化した。
 勇也はそう思わざるを得ない。
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