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074・フィールド・オーバーフロウ
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そのとき、大観衆が唄っていたのは日本国歌だった。
『We Are The Champions』でもない。『You`ll never walk alone』でもない。
『君が代』がスタンドを纏い、覆い尽くしていた。
紅白の発煙筒に包まれたスタジアム。
確かに聴こえる静かな調べ。
闘いの前に唄う歌ではないと、みんな言う。
では、闘いの終わった後ならば、
すべてが終わったときに、沸き上がり過ぎた魂を落ち着かせるために唄うのであれば、
この場に立ち会う日本人全員は右掌を心臓へと赴かせ、その高鳴る鼓動に心地よさを感じていた。
「俺に従えば、みんなより良くなれるんだ! より、豊かな生活を味わえるんだぞ!?」
ルカ・ボバンは、狼の断末魔にも似た叫び声を、その中で挙げる。
右手で大吾の襟を掴み、なかば恫喝するかのように。
「最後の、ボールの声を聴いただろう? 世の中は、君の理屈だけで回っていないことを知るべきだ!」
「俺に従えば……!!」
「従えば優遇する、邪魔だったら排除する。サッカーはそんな世界を望んじゃいないし、世界もまたそんなサッカーは望んでない! それが出来るのは、自分を信奉するものだけを救うセコイ神様だけだろう!」
「貴様だって同じだろう! ボールを征服し、意のままに操ろうとする。どこに違いがある!?」
悪魔も怯える形相で、ルカは言い返す。
「みんなひとりで生きてるわけじゃあないんだ。ひとりでフットボールをしているわけでもない。10人の仲間と、それを支えてくれるサポーター、スタッフ、そして応援してくれる国民全員。一方的な行為なら、家で一人でしてれば良い!」
左眉のやや外側から滴る血をそのままに、切り捨てる大吾。半年前ならば、ビビッて悪魔の迫力に負けていたかもしれない。だがこの半年とこの大会を通じて、大吾は大きくなった。
眼に見えないものを信用しないという人は多い。けれども、確実に向島大吾という人間はフットボーラー、そして男として爆発的に成長した。
厳しく躾けるヒステリックな女教師が叱りつけるかのように、それでいて優しさに溢れた父親が諭すかのように、大吾も咆哮し返す。
「スタンドのクロアチアのお嬢さんが、ルカ・ボバンにこれを渡してくれってよ」
スタジアムの端からふたりの横へと通りかかった真吾が、大吾に向ってコインを放り投げる。
「なんだ? これ……」
大吾がルカにそのコインを渡すと、ルカ・ボバンは激しく動揺する。
「こ、これは……」
それは血が染みついた1クーナと1ディナールをくっつけたコイン。
両面コインにうろたえたルカの動悸がより激しくなる。
「brat!」
「maja!?」
他の観客に混じり、スタジアムへと闖入してきた金髪の乙女がルカに声をかける。
「ずっと、いつ言おうか迷っていた。お父さんはお金稼ぎだけじゃなくて、世界平和のアイコンとしてお兄ちゃんが世界中のシンボルになることを望んでいたことを。お兄ちゃんが中心となって、世界のすべての問題を解決していくことを……」
うら若き女性は両手を握り、祈るかのようなポーズでルカを見つめる。
「いちフットボーラーにそこまでできるわけがないだろう……」
「できるよ! 引退後に国会議員になったり、大統領になったりしている人知ってるもん! フットボールはそれだけの力を持ってるんだよ!」
マヤはふっくらとした頬に涙を一筋流し、ルカに訴えかける。
「フットボールの可能性を肯定したり、否定したり……本当のお兄ちゃんはどっちなの!?」
金色の髪から髪へと、目尻から雫が一滴飛び散る。
致命的な悪戯がばれた子供のように、その言葉に、あきらかにルカは狼狽え、たじろぐ。
「ダイゴ、俺はどうしたら良いんだ!?」
自分自身だけで考えることを放棄し、ルカは先ほどまで敵であった男にすら助言を求める。
それはある種、藁をも掴む彼らしくない、およそ悪魔とは無縁の孤独。
「すべてをリセットして、イチから始めてみれば良いんじゃないかな」
すべてがすべて、クロアチア語を理解しているわけではないが、部分部分は理解している大吾はそう答える。
「すべてをリセットする……しかしそれでは俺はこれまでの俺を全部否定することになる!」
「それでいいじゃないか。これからの君に従えば、より良い生活を得られるんだろう?」
掴んだ藁はこの場合、幼い頃に登った大樹よりも安心感を与える。
「……なるほど」
ルカの脳内が、一瞬ざわつき揺れる。
「カネを稼ぐだけじゃないんだ。少なくとも君のフットボールは……」
「マヤ。どうやら、俺の引退後の道筋は大幅に決まっているらしい。期待に応えるのもスターの役目だ」
「お兄ちゃん!」
「そのまえに、何個かバロンドールを獲得して、指導力とカリスマを備えたスーパースターになっておかなくてはな……」
「凛に言うことは?」
大吾が問う。
「敗者の負け犬が言うべきことは何もない。よろしく適当に言っておいてくれ。俺にはすべきことができた。俺に従えば、みんなより良くなれる。より豊かな生活を味わえるのだから……」
ルカは金髪をかき上げる。
「誰よりも楽しそうにフットボールをプレーするダイゴ。次に試合をするときは全クロアチア人、400万人が相手だと思え!」
プロフェッショナル・フットボーラーとしての終わりが来たあとの生き方を見据えた男は、ニヤリと大吾に意味ありげな笑みを浮かべる。
彼はこの先もフットボーラーとしての生き方は変えないかもしれない。
それが別の世界で繰り返された時に、クロアチアという国はいかなる生き物に生まれ変わるのであろうか。
400万人もの絶対的な信者を持った神様。
そういう存在に、ルカ・ボバンという男はなるのかもしれない。
大吾はその両肩に日の丸を掲げながら、メインスタンドへとゆっくり歩みを進めた。
視線を凛に向け、威風堂々と。
「大吾選手!」
その視線が向けられた先に、幼女・利根佳奈が割り込んでくる。
「佳奈ちゃん、来てたのか!」
「やっぱり、カナがいないと大吾選手はダメダメだよね?」
後ろから大吾の尻がバシっと叩かれる。
「ほら、シャキッと応えろ! 男だろ!?」
利根亮平が大吾に返答を促す。
後ろを振り返り、頷いた大吾は、
「ごめん、佳奈ちゃん。俺には心に決めた人がいるんだ!」
「何のこと?」
「凛!」
「大吾……」
視線を交差し、まばたきすらしないふたり。そのひとことですべてが分かち合えた。
中野未来は、複雑な心境でふたりを眺めている。
日本代表を、向島大吾を100%信じきれなかった。負けるとしか思えなかった。彼を心から信じているのであれば、ここでオールインするべきであったのだ。
だけれども、ただひとり。彼女だけが。この向島大吾と見つめ合っている雨宮凛だけが、日本の勝利を信じて疑わなかった。
「悔しいけれど、お似合いです……完敗よ」
自分が、あの赤い眼鏡の女性を差し置いてまで彼の横に並び立っていることを確信することができない。最期の最期まで彼を、向島大吾を信じぬく心。自分にはそれが足りない。
糸をもつれさせ絡ませることを止め、潔く身を引く決意を固めた彼女は、身に纏った背番号14の蒼いユニフォームと共に身を翻した。
猛烈な紙吹雪が舞い落ちる中見つめあう二人は、どちらも自分から視線を外そうとしない。
そして、同時に少しだけ顎を傾け、互いの意図を再確認する。
憧憬を込めてスタンドを見上げる大吾。
慈愛を感じさせるかのようにピッチを見下ろす凛。
それは恋人の視線というより、既にそれ以上の情愛を感じさせるアイ・コンタクトであった。
もしも、彼女が、
もしも凛が、雨宮凛が、
俺の元から去って、他の誰かの元に歩き出したら、
俺の心はどうなるであろう
ただ、居ても立っても居られなくなって正気を失う。それだけだろうか
自分と、彼女と、彼女
三位一体
もしも、引き剥がされたら、
もしも、奪われたら、
今、言わなければ、
これから先、もう会えなくなるかもしれない
一生、消えることのない傷が、魂に刻み込まれるだろう
「……一生、付いて来て欲しい」
言葉にすることは一度きり
隣にいることが普通だと思っていた
だけれども、その想いは儚く散ることもある
ただ明日も、いやずっと傍にいてくれるだけでいい
一日たりとも放したくはない
そう思うのは贅沢だろうか
頷く凛。
大吾の視野は、血で真っ赤に染まっている。
凛の眼鏡が、羽織ったサマーカーディガンが、そして彼女の頬がより一層赤く見えるのは自分の勘違いであろうか。
「さあ、大吾。止血してヒーローインタビューに行って来い」
業を煮やした利根が、今度は大吾の頭をはたく。
「そしてそのあとは、娘を振った男への説教タイム、だ!」
――それでは同点ゴールと決勝ゴールを決めました向島大吾選手です。お見事でした!
「ありがとうございます!」
――日本サッカー界史上初のオリンピック・ゴールドメダルです!
「まあ、決勝へ進んだ時点で銀メダルは確実だったので。歴史を塗り替えられたかな、と」
――この優勝を誰に捧げますか!?
「サッカーを愛してくれるすべての日本人へ捧げます!」
――特にだれ、という方はいますか?
「僕の人生を豊かに彩ってくれる人々です」
――名誉の負傷ですね?
「男前が、この傷でより精悍になったと思います」
――向島選手はバロンドールを公言なさいました。ビッグクラブもこれで放っておかないと思います。次なる目標は?
「口に出したら叶わないってイタリアでは言われているんで……」
――それでも、お願いします。次のワールドカップは期待して良いんでしょうか?
「善処します」
――決勝点を決めた向島大吾選手でした!
「ありがとうございました!」
無邪気に、今だけは日本列島全体が沸騰している
18名はそれぞれ違うチームに所属している
国籍が同じというだけで、今は日本代表というチームに所属している
これから味方になることもあるだろう
これから敵対することだってあるだろう
日本に生まれていなければ、
同じ世代でなければ、
サッカーをやっていなければ、
出会えなかった大切な仲間たちだ
大吾は両手を挙げて大歓声に応える。
手を振り、声を挙げて、背中に日の丸を掲げて。
憧れていた父に、少しでも近づけただろうか
兄との距離は、少しでも縮まっただろうか
永遠にも感じるその隔たりは、今どれくらいだろう
ふと眼を横にやると、彼の直属の上司がこちらを見返していた。
山口荒生は向島大吾を見つめる。
かつての自分を重ね、そしてかつての自分を超えた存在として。
自分の体格の不利などまったく感じず、サッカーを楽しんでいた頃の、純粋な気持ちが脳内に蘇える。
向島大吾が芝を利き足で踏みつけ、こちらへ歩いてくる。
「監督、次のインタビューは監督ですよ」
ああ、と山口はそれに応じる。
「向島大吾」
ふいに山口荒生は声が出た。
「おまえの可能性を……これから先の行く末を、私は一緒に見てみたい」
山口荒生はスタンドを振り返る。
帰ろうとしている観客はいない。
それどころか、だれひとりとして座っている観客もいない。
自国開催のオリンピックで優勝。これ以上望みようがない。
スタジアムは轟音とも捉えられかねない大声援に包まれている。メイン・スタンドは赤と白の煙にくるまれ、『ニッポン・コール』が辞め時を失ったかのように大合唱されていた。
映るものすべてを通り抜けた22時の順光線に一瞬目が眩みかけたとき、インタビュアーが山口をインタビュールームへとスーツの袖を引っ張り、呼び込もうとする。
山口荒生は反射的にそれを振り払う。
「すみません。もうちょっとこの余韻に浸らせてください」
『向島博と山口荒生。ふたりはひとつ。ゴールとアシスト。光と闇。彼らが引退した後、日本サッカーに何が残るのであろう』
(彼は種を撒き、私が一度はそれを刈り取ってしまった。だが、刈り取ったあとの稲穂は、私とは比べようにもないしぶとさを見せて復活した)
山口荒生はポケットの中の右拳をギュッと握った。
14番のシャツを覆うように国旗を背負い、ウイニングランを開始しようとする大吾を見て、山口荒生は呟く。
「この年になって、また光が差す方を見るようになるとはな……」
その背中は、わずかに168cm。
実際、日の丸に全てを包み込まれるかのように小さい。
だけれども、彼の存在は大きい。
日本を、アジアを、地球を飛び越えて、宇宙すべてを、その身体全体に含んでいるかのようであった。
この感情をどう言うのだろう
どう言うべきなのだろう
自分よりも卑小で矮小であったはずの存在が、とてつもなく大きく頼もしく感じる
たとえるべき言葉が見つからない
自分の語彙が少ないせいなのであろうか
この魂を揺さぶるような感覚に、名称を付けるとすれば、それは……
山口荒生の失っていたボールの声を聴く感覚と、眠っていた21グラムの魂が揺り動かされる。
崩れかけ、冷めかけていたサッカーへの諦めにも似た想いが、30歳近く年下の少年によって息を吹き返しかけている。
50歳の、山口荒生の四半世紀もの間、錆び付きかけていた情熱の導火線に、今再び火が付き始めようとしていた。
「俺は……今までサッカーの可能性を捨てて、何をやっていたんだ」
そしてその独白は、マスコミのマイクが拾い上げるにはあまりにも小さすぎた。
「サッカーには、国境も身長も関係ないんだ……」
―――――――――――――――――――――
そうだ 君のことを考えるだけで 心が強くなれるのだ
―――――――――――――――――――――
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『ミスリル』
おめでとう、日本!
ミスリル世代、まさにその名に恥じぬ活躍。
ミスリルとはファンタジーの世界でしかお目にかかれない鉱物である。
しかし、日本のこの世代は(オーバーエイジの選手はいるものの)見事にファンタジーのフェアリー・テールを現実にして見せた。
もはや、日本が世界で勝つことはおとぎ話ではなくなったのだ。
おめでとう、日本。
ありがとう、日本。
筆者は著しく語彙力が低下している。
それはしょうがない。
いちライターである前に、いち日本人であるのだから。
ナショナリズムを激しく揺さぶる『ミスリル世代』
数ある鉱石の中で、その筆頭にいるのは間違いなく向島兄弟であるだろう。
シンフォニーのソリスト・向島真吾
そして、ジニアス・向島大吾
彼らを筆頭にした日本代表に、我々は年甲斐もない夢を見させられてしまう。
日本のワールドカップ優勝という果てしない夢を……
日本男子オリンピックサッカー代表 10.0
ワールド・ウィークリー・フットボール 雨宮凛
『We Are The Champions』でもない。『You`ll never walk alone』でもない。
『君が代』がスタンドを纏い、覆い尽くしていた。
紅白の発煙筒に包まれたスタジアム。
確かに聴こえる静かな調べ。
闘いの前に唄う歌ではないと、みんな言う。
では、闘いの終わった後ならば、
すべてが終わったときに、沸き上がり過ぎた魂を落ち着かせるために唄うのであれば、
この場に立ち会う日本人全員は右掌を心臓へと赴かせ、その高鳴る鼓動に心地よさを感じていた。
「俺に従えば、みんなより良くなれるんだ! より、豊かな生活を味わえるんだぞ!?」
ルカ・ボバンは、狼の断末魔にも似た叫び声を、その中で挙げる。
右手で大吾の襟を掴み、なかば恫喝するかのように。
「最後の、ボールの声を聴いただろう? 世の中は、君の理屈だけで回っていないことを知るべきだ!」
「俺に従えば……!!」
「従えば優遇する、邪魔だったら排除する。サッカーはそんな世界を望んじゃいないし、世界もまたそんなサッカーは望んでない! それが出来るのは、自分を信奉するものだけを救うセコイ神様だけだろう!」
「貴様だって同じだろう! ボールを征服し、意のままに操ろうとする。どこに違いがある!?」
悪魔も怯える形相で、ルカは言い返す。
「みんなひとりで生きてるわけじゃあないんだ。ひとりでフットボールをしているわけでもない。10人の仲間と、それを支えてくれるサポーター、スタッフ、そして応援してくれる国民全員。一方的な行為なら、家で一人でしてれば良い!」
左眉のやや外側から滴る血をそのままに、切り捨てる大吾。半年前ならば、ビビッて悪魔の迫力に負けていたかもしれない。だがこの半年とこの大会を通じて、大吾は大きくなった。
眼に見えないものを信用しないという人は多い。けれども、確実に向島大吾という人間はフットボーラー、そして男として爆発的に成長した。
厳しく躾けるヒステリックな女教師が叱りつけるかのように、それでいて優しさに溢れた父親が諭すかのように、大吾も咆哮し返す。
「スタンドのクロアチアのお嬢さんが、ルカ・ボバンにこれを渡してくれってよ」
スタジアムの端からふたりの横へと通りかかった真吾が、大吾に向ってコインを放り投げる。
「なんだ? これ……」
大吾がルカにそのコインを渡すと、ルカ・ボバンは激しく動揺する。
「こ、これは……」
それは血が染みついた1クーナと1ディナールをくっつけたコイン。
両面コインにうろたえたルカの動悸がより激しくなる。
「brat!」
「maja!?」
他の観客に混じり、スタジアムへと闖入してきた金髪の乙女がルカに声をかける。
「ずっと、いつ言おうか迷っていた。お父さんはお金稼ぎだけじゃなくて、世界平和のアイコンとしてお兄ちゃんが世界中のシンボルになることを望んでいたことを。お兄ちゃんが中心となって、世界のすべての問題を解決していくことを……」
うら若き女性は両手を握り、祈るかのようなポーズでルカを見つめる。
「いちフットボーラーにそこまでできるわけがないだろう……」
「できるよ! 引退後に国会議員になったり、大統領になったりしている人知ってるもん! フットボールはそれだけの力を持ってるんだよ!」
マヤはふっくらとした頬に涙を一筋流し、ルカに訴えかける。
「フットボールの可能性を肯定したり、否定したり……本当のお兄ちゃんはどっちなの!?」
金色の髪から髪へと、目尻から雫が一滴飛び散る。
致命的な悪戯がばれた子供のように、その言葉に、あきらかにルカは狼狽え、たじろぐ。
「ダイゴ、俺はどうしたら良いんだ!?」
自分自身だけで考えることを放棄し、ルカは先ほどまで敵であった男にすら助言を求める。
それはある種、藁をも掴む彼らしくない、およそ悪魔とは無縁の孤独。
「すべてをリセットして、イチから始めてみれば良いんじゃないかな」
すべてがすべて、クロアチア語を理解しているわけではないが、部分部分は理解している大吾はそう答える。
「すべてをリセットする……しかしそれでは俺はこれまでの俺を全部否定することになる!」
「それでいいじゃないか。これからの君に従えば、より良い生活を得られるんだろう?」
掴んだ藁はこの場合、幼い頃に登った大樹よりも安心感を与える。
「……なるほど」
ルカの脳内が、一瞬ざわつき揺れる。
「カネを稼ぐだけじゃないんだ。少なくとも君のフットボールは……」
「マヤ。どうやら、俺の引退後の道筋は大幅に決まっているらしい。期待に応えるのもスターの役目だ」
「お兄ちゃん!」
「そのまえに、何個かバロンドールを獲得して、指導力とカリスマを備えたスーパースターになっておかなくてはな……」
「凛に言うことは?」
大吾が問う。
「敗者の負け犬が言うべきことは何もない。よろしく適当に言っておいてくれ。俺にはすべきことができた。俺に従えば、みんなより良くなれる。より豊かな生活を味わえるのだから……」
ルカは金髪をかき上げる。
「誰よりも楽しそうにフットボールをプレーするダイゴ。次に試合をするときは全クロアチア人、400万人が相手だと思え!」
プロフェッショナル・フットボーラーとしての終わりが来たあとの生き方を見据えた男は、ニヤリと大吾に意味ありげな笑みを浮かべる。
彼はこの先もフットボーラーとしての生き方は変えないかもしれない。
それが別の世界で繰り返された時に、クロアチアという国はいかなる生き物に生まれ変わるのであろうか。
400万人もの絶対的な信者を持った神様。
そういう存在に、ルカ・ボバンという男はなるのかもしれない。
大吾はその両肩に日の丸を掲げながら、メインスタンドへとゆっくり歩みを進めた。
視線を凛に向け、威風堂々と。
「大吾選手!」
その視線が向けられた先に、幼女・利根佳奈が割り込んでくる。
「佳奈ちゃん、来てたのか!」
「やっぱり、カナがいないと大吾選手はダメダメだよね?」
後ろから大吾の尻がバシっと叩かれる。
「ほら、シャキッと応えろ! 男だろ!?」
利根亮平が大吾に返答を促す。
後ろを振り返り、頷いた大吾は、
「ごめん、佳奈ちゃん。俺には心に決めた人がいるんだ!」
「何のこと?」
「凛!」
「大吾……」
視線を交差し、まばたきすらしないふたり。そのひとことですべてが分かち合えた。
中野未来は、複雑な心境でふたりを眺めている。
日本代表を、向島大吾を100%信じきれなかった。負けるとしか思えなかった。彼を心から信じているのであれば、ここでオールインするべきであったのだ。
だけれども、ただひとり。彼女だけが。この向島大吾と見つめ合っている雨宮凛だけが、日本の勝利を信じて疑わなかった。
「悔しいけれど、お似合いです……完敗よ」
自分が、あの赤い眼鏡の女性を差し置いてまで彼の横に並び立っていることを確信することができない。最期の最期まで彼を、向島大吾を信じぬく心。自分にはそれが足りない。
糸をもつれさせ絡ませることを止め、潔く身を引く決意を固めた彼女は、身に纏った背番号14の蒼いユニフォームと共に身を翻した。
猛烈な紙吹雪が舞い落ちる中見つめあう二人は、どちらも自分から視線を外そうとしない。
そして、同時に少しだけ顎を傾け、互いの意図を再確認する。
憧憬を込めてスタンドを見上げる大吾。
慈愛を感じさせるかのようにピッチを見下ろす凛。
それは恋人の視線というより、既にそれ以上の情愛を感じさせるアイ・コンタクトであった。
もしも、彼女が、
もしも凛が、雨宮凛が、
俺の元から去って、他の誰かの元に歩き出したら、
俺の心はどうなるであろう
ただ、居ても立っても居られなくなって正気を失う。それだけだろうか
自分と、彼女と、彼女
三位一体
もしも、引き剥がされたら、
もしも、奪われたら、
今、言わなければ、
これから先、もう会えなくなるかもしれない
一生、消えることのない傷が、魂に刻み込まれるだろう
「……一生、付いて来て欲しい」
言葉にすることは一度きり
隣にいることが普通だと思っていた
だけれども、その想いは儚く散ることもある
ただ明日も、いやずっと傍にいてくれるだけでいい
一日たりとも放したくはない
そう思うのは贅沢だろうか
頷く凛。
大吾の視野は、血で真っ赤に染まっている。
凛の眼鏡が、羽織ったサマーカーディガンが、そして彼女の頬がより一層赤く見えるのは自分の勘違いであろうか。
「さあ、大吾。止血してヒーローインタビューに行って来い」
業を煮やした利根が、今度は大吾の頭をはたく。
「そしてそのあとは、娘を振った男への説教タイム、だ!」
――それでは同点ゴールと決勝ゴールを決めました向島大吾選手です。お見事でした!
「ありがとうございます!」
――日本サッカー界史上初のオリンピック・ゴールドメダルです!
「まあ、決勝へ進んだ時点で銀メダルは確実だったので。歴史を塗り替えられたかな、と」
――この優勝を誰に捧げますか!?
「サッカーを愛してくれるすべての日本人へ捧げます!」
――特にだれ、という方はいますか?
「僕の人生を豊かに彩ってくれる人々です」
――名誉の負傷ですね?
「男前が、この傷でより精悍になったと思います」
――向島選手はバロンドールを公言なさいました。ビッグクラブもこれで放っておかないと思います。次なる目標は?
「口に出したら叶わないってイタリアでは言われているんで……」
――それでも、お願いします。次のワールドカップは期待して良いんでしょうか?
「善処します」
――決勝点を決めた向島大吾選手でした!
「ありがとうございました!」
無邪気に、今だけは日本列島全体が沸騰している
18名はそれぞれ違うチームに所属している
国籍が同じというだけで、今は日本代表というチームに所属している
これから味方になることもあるだろう
これから敵対することだってあるだろう
日本に生まれていなければ、
同じ世代でなければ、
サッカーをやっていなければ、
出会えなかった大切な仲間たちだ
大吾は両手を挙げて大歓声に応える。
手を振り、声を挙げて、背中に日の丸を掲げて。
憧れていた父に、少しでも近づけただろうか
兄との距離は、少しでも縮まっただろうか
永遠にも感じるその隔たりは、今どれくらいだろう
ふと眼を横にやると、彼の直属の上司がこちらを見返していた。
山口荒生は向島大吾を見つめる。
かつての自分を重ね、そしてかつての自分を超えた存在として。
自分の体格の不利などまったく感じず、サッカーを楽しんでいた頃の、純粋な気持ちが脳内に蘇える。
向島大吾が芝を利き足で踏みつけ、こちらへ歩いてくる。
「監督、次のインタビューは監督ですよ」
ああ、と山口はそれに応じる。
「向島大吾」
ふいに山口荒生は声が出た。
「おまえの可能性を……これから先の行く末を、私は一緒に見てみたい」
山口荒生はスタンドを振り返る。
帰ろうとしている観客はいない。
それどころか、だれひとりとして座っている観客もいない。
自国開催のオリンピックで優勝。これ以上望みようがない。
スタジアムは轟音とも捉えられかねない大声援に包まれている。メイン・スタンドは赤と白の煙にくるまれ、『ニッポン・コール』が辞め時を失ったかのように大合唱されていた。
映るものすべてを通り抜けた22時の順光線に一瞬目が眩みかけたとき、インタビュアーが山口をインタビュールームへとスーツの袖を引っ張り、呼び込もうとする。
山口荒生は反射的にそれを振り払う。
「すみません。もうちょっとこの余韻に浸らせてください」
『向島博と山口荒生。ふたりはひとつ。ゴールとアシスト。光と闇。彼らが引退した後、日本サッカーに何が残るのであろう』
(彼は種を撒き、私が一度はそれを刈り取ってしまった。だが、刈り取ったあとの稲穂は、私とは比べようにもないしぶとさを見せて復活した)
山口荒生はポケットの中の右拳をギュッと握った。
14番のシャツを覆うように国旗を背負い、ウイニングランを開始しようとする大吾を見て、山口荒生は呟く。
「この年になって、また光が差す方を見るようになるとはな……」
その背中は、わずかに168cm。
実際、日の丸に全てを包み込まれるかのように小さい。
だけれども、彼の存在は大きい。
日本を、アジアを、地球を飛び越えて、宇宙すべてを、その身体全体に含んでいるかのようであった。
この感情をどう言うのだろう
どう言うべきなのだろう
自分よりも卑小で矮小であったはずの存在が、とてつもなく大きく頼もしく感じる
たとえるべき言葉が見つからない
自分の語彙が少ないせいなのであろうか
この魂を揺さぶるような感覚に、名称を付けるとすれば、それは……
山口荒生の失っていたボールの声を聴く感覚と、眠っていた21グラムの魂が揺り動かされる。
崩れかけ、冷めかけていたサッカーへの諦めにも似た想いが、30歳近く年下の少年によって息を吹き返しかけている。
50歳の、山口荒生の四半世紀もの間、錆び付きかけていた情熱の導火線に、今再び火が付き始めようとしていた。
「俺は……今までサッカーの可能性を捨てて、何をやっていたんだ」
そしてその独白は、マスコミのマイクが拾い上げるにはあまりにも小さすぎた。
「サッカーには、国境も身長も関係ないんだ……」
―――――――――――――――――――――
そうだ 君のことを考えるだけで 心が強くなれるのだ
―――――――――――――――――――――
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『ミスリル』
おめでとう、日本!
ミスリル世代、まさにその名に恥じぬ活躍。
ミスリルとはファンタジーの世界でしかお目にかかれない鉱物である。
しかし、日本のこの世代は(オーバーエイジの選手はいるものの)見事にファンタジーのフェアリー・テールを現実にして見せた。
もはや、日本が世界で勝つことはおとぎ話ではなくなったのだ。
おめでとう、日本。
ありがとう、日本。
筆者は著しく語彙力が低下している。
それはしょうがない。
いちライターである前に、いち日本人であるのだから。
ナショナリズムを激しく揺さぶる『ミスリル世代』
数ある鉱石の中で、その筆頭にいるのは間違いなく向島兄弟であるだろう。
シンフォニーのソリスト・向島真吾
そして、ジニアス・向島大吾
彼らを筆頭にした日本代表に、我々は年甲斐もない夢を見させられてしまう。
日本のワールドカップ優勝という果てしない夢を……
日本男子オリンピックサッカー代表 10.0
ワールド・ウィークリー・フットボール 雨宮凛
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