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057・VAMOS! NIPPON!

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 闇空を背景にしてアンダー23日本代表と、アンダー23クロアチア代表の試合が開始しようとしていた。

 大吾はもちろんベンチ。それどころか出番があるのかないのか。
 戦犯として使われるために呼ばれたのではないだろうか、との危惧もある。
 一般客のお目当てである、クロアチア代表ルカ・ボバンもベンチ。
 観客はため息とともに、スターティングメンバー発表をオーロラビジョンで見させられる羽目となった。
 持ち込みが禁止されているはずの発煙筒が、赤く白く、闇が黒く際立つ午後7時の国立競技場のスタンドを彩っている。



「マグレだろ」

「マグレじゃないです、あれが向島大吾ですよ」

 昨日の大吾の、オーバーヘッド・ループシュートを見て、大吾に反感を持っていたチームメートは少しだけざわついた。それに対して勇也がいちいち説明して回った。
 大吾の『わざわざ国外から帰って来た自分を起用せよ』ともとらえられかねない発言は危ういもので、チーム内に亀裂をもたらしたかのようにも見える。

「あれが、俺の弟だ」
 真吾が短く言うと、チームの中に入った亀裂は、瞬間接着剤で応急処置されたくらいには落ち着いた。
 プロの世界での発言力というものは、実績に於いて基づかれるものである。その点、向島大吾の兄・真吾はチームメート全員に対する影響力を図らずも持っていた。


「でも、どうせベンチだろ」
「みせしめだよ」
「山口荒生じゃあね……」

 口さがなくそう言うものもまだいる。
 全員知っているのだ。山口荒生という指導者が、どういうモットーを持っているのかを。

――結果を出せば良い。それがプロサッカー選手だ

 だが、監督は結果を出させてくれようにない。結果を出す場すら与えてくれないのかもしれない。

 日本の部活は補欠を作るからダメだ! というものがいる。自分の身の丈に合ったチームを選べば、試合に出場でき、成長する場を与えられるという意味だ。
 ブラジルなどでは、ユースでも活躍すればすぐ格上のチームが獲得に乗り出す。一方、試合に出られない選手は出られる格下のチームに移籍する。
 それはおそらく正しい。しかし、プロでも、控えに納得し、今のサラリーをもらうことで現状に納得し妥協しているものは多い。

 けれども、代表となるとどうであろう。身の丈にあった国籍・・・・・・・・・を選び、国を裏切り、チームを変えることは正義であろうか。補欠になることは果たして志が低いのであろうか。
 FIFAの規定により、一度だけ変更の権利を与えられた究極の選択。



 日本の前線でファウルが起きる。
 トップ下の葛城哲人が、親善試合ではしなくても良い悪質なファウルを受けたのだ。

「まだ、行けますよ!」

 そう言って葛城は交代させられることを拒否した。
 
 日本のフリーキック。
 ペナルティエリアから左後ろにやや離れた位置から、葛城はスマートな左足キックでクロスをあげた。
 弧を描いたボールは空中を漂い、真吾の頭を正確に捉える。真吾は背を逸らし、元に戻すその反動でボールを叩きつけてゴールネットを揺らした。


「日本のキープレーヤーはあの7番葛城10番真吾のようだ」

 本番を前に潰せと言ったわけではないが、途端にプレーが荒くなる。まるで、怪我をわざと誘発させるかのように。

 ひとつひとつのプレー強度が上がり続ける。日本国内でやれば、確実にファウルだろう。イングランドのプレミアリーグと遜色ない、いやそれ以上の荒々しさ。
 必然、ファウルが起こり、国際審判がイレブンに落ち着くように指示する。

「「まるで戦争だな……」」

 大吾と勇也は、同時にフィールドの内と外で呟いた。
 チームの要の葛城が、本格的に怪我させられることを危惧した山口荒生は、ここで大吾を投入することを決意し、アップを命じる。

「向島」

 山口監督が、ベンチに座っている大吾の前にわざわざ足を運び言う。

「出番だ」

――チビの俺なら、怪我しても良いってか?

 正面にいる山口荒生は、立ち上がった大吾と身長が変わらない。

――思うところはあるんだろうが、勝つという意思は確実に同じはずだ!

 また葛城に対するファウルが起きて、ボールデッドになった。

 大吾はウインドブレーカーを脱ぎ棄て、試合に出る準備をする。足取りが重い葛城をよそに、電光式掲示板が7葛城14大吾の選手交代を告げた。日本屈指のプレースキッカー・葛城がいなくなると自然に次のキッカーは大吾、ということになる。

 大吾はいつも通り、左足からピッチに踏み込んだ。

「大吾」

 フリーキックのボールの元へとたどり着いた大吾に、真吾がそう声をかけた。

「何?」

 真吾は少し気まずそうに、昨日と同じように自分から視線を外した。

「……いや、何でもない」

 そう言い残し、真吾はクロアチアの壁の中に割り込んでいった。

「葛城さんがいないとなると、大吾と真吾さんくらいしか、フリーキッカーはいないからな」

 後ろから、勇也がそう言いながら上がってくる。

「技術は認められてるってことか……」

「身長も才能のうち! でもまあしゃーない! おまえはその短躯で世界を目指さなきゃ行けないんだから」

 勇也は大吾の頭に手をポンと置く。そのことが大吾に現実を見させる。

「だから、ここで監督にもチームメートにも現実を見せろ」

 勇也は手を頭から離す。

「圧倒的な技術と閃きは、体格に勝るって!」

 大吾はその言葉を聞いたあと、しばらくボールを凝視する。



 大吾はフリーキックを蹴る前に、壁の横に1メートル離れて立つ真吾に視線を送る。
 真吾も大吾を見つめ返す。
 そしてふたり同時にうなずく。



 大吾がフリーキックの助走を開始する。

 そしてボールの横に左足を添えて、右足がボールにインパクトする瞬間に、真吾は壁の裏へと走り込む。

 大吾はチップキックを繰り出し、それによってボールは壁を越した。絶好のフライ・スルーパスが真吾へと届き、キーパーとの1対1を真吾が決めた。



 2-0!



「観光ついでに来たつもりだったんだが、出番が早まったかな」

 クロアチアベンチでは、ひとりの男がダイゴ・ムコウジマという男の認識を改めなおした。



※※※※※



「ああっ、もう後半終りに近いわね」

 雨宮凛は、日本対クロアチア代表の試合が行われているスタジアムへとタクシーを飛ばしていた。

 イタリアから日本へ帰っての雑務。それが凛を縛り、この半年、大吾の試合は見逃したことがなかった彼女が、よりにもよって大吾のアンダー23代表のデビュー戦を見逃そうとしている。

 東京の街は渋滞が起きないことがない。

(なら、なぜみんな車で移動しようとするのだろう?)

 一向に動かないタクシーの窓から、夜空を見上げて凛は思った。

「もうここでいいです。あとは走ります!」

 スタジアムまであと少しのところで勘定を済ませ、彼女は大吾の劇場となっているであろう場所へと足を急がせた。

(さっき、スマホで試合を確認したときは大吾くんのフリーキックから点が入って2-0だった。今は……)

 スタジアムのほぼ全員が立ち上がって腕を振り上げて興奮している。
 凛はそれを、大吾が起こしたムーブメントだ、と確信した。

 はずであった。

 3-2

 いや2-3!
 そして今、電光掲示板の3が4へと変わろうとしている。

「いったい、なにが起きているの?」

 日本代表が4点も取られることは滅多にない。
 それもブラジルやアルゼンチン、フランスなどを相手にした場合だ。クロアチアは失礼ながら欧州の中堅国と言った感じで、日本代表相手に2-0から4点返すとは思えない。

「あれだよ、あれ。ルカ・ボバン! あいつが出てきてから一気に流れが変わっちまった!」

 凛が記者席に就くと、馴染みの記者がそう説明した。

(ルカ・ボバン! ディナモからアムステルダムに青田買いされたときに『期待の若手コーナー』で取材したことがある)


 試合は再開し、再びルカ・ボバンがボールを持つ。
 日本代表の選手は積極的にチェックに行かない。むしろ傍観しているようだ。それでも、パスコースだけは切っているのは流石、というべきだろうか。

「なんで、プレスをかけないんですか!?」

 凛がそう言うと

「まあ、見てろって」

 と返される。



 左サイドでボールを持ったルカに、日本代表の横溝がようやくチェックに行く。ルカは、ボールを目の前にさらけ出す。それでも横溝はそれを取りに行こうとはしない。

「何? 何が起こっているの?」

 横溝は、足を差し出す。その瞬間を狙って、ルカ・ボバンは股抜きを繰り出す。

 今度は瀬棚勇也がチェックに行く。ルカ・ボバンはシザースまたぎ・フェイントを繰り出す。
 勇也は足を出さない。いや出せない。長い足による懐の深さに加え、腕によって相手を押さえつけ敵を寄せ付けない。

 先に足を出したら抜かれる、出さなければフェイントの餌食。

 後の先

 先に行動を起こしたほうが負け
 完全なる後出しじゃんけん
 しかも、それを高速で繰り出す

 超光速のルイス・フィーゴ

 しかもフィーゴがサイドの選手であったのに対して、ルカ・ボバンは360度敵のフィールドの中央でやり遂げてしまう。たとえプレスに行っても、ただでさえ長い足を駆使した懐の深さがあるためボールを取りづらいのに、さらに腕によって相手を押さえつけ敵を寄せ付けもしない。


 前線から真吾が守備に降りてきてチャージを食らわせるが、ルカ・ボバンの痩躯とは思えない洗練されたフィジカル・・・・・・・・・・にはクッションのように吸収される。
 むしろ、その時を狙ったかのように、ボールを日本ゴールへと蹴りだす。

 凛は知っている。大吾がボールを彼女に例えていることを。だから自分が、大吾の中で一番になれないかもしれない、と自分が思い悩んでいることを。

 そして思い出した。
 ルカ・ボバンも、以前のインタビューでボールを彼女に例えていたことを。しかし、大吾がボールを愛でるように感じるのとは違い、ルカはボールを奴隷のように扱っている。

 はち切れんばかりの太ももから繰り出されるキック。歓声の中でもボールを惨く扱い、ボールの意思を無視するかのような軌道。

 ボールが悲鳴の旋律を奏でている。
 大吾ならそう言うであろう。実感であり、確信でもある。


 凛は恐怖を感じた。少なくとも、自分が知っているフットボールという競技とは違うものを見ているかのように感じた。そして、スタジアムに来て数分の自分がこれだけ感じているのだ、大吾くんの繊細過ぎるボールへの感性はどうなっているのであろう、とパートナーへと他人事ならぬ心配をする。



 観衆は熱狂の声を上げる。ボクシングのヘビー級絶対王者が挑戦者をこれでもか、と一方的に痛めつけリンチする展開。
 初めてサッカーを見た試合がこれであったらその人はむしろ不幸であるだろう。フットボールを格闘技と勘違いしてこれから先、フットボール・マニアサッカーファンとしての一生を送らなければならないのだから。

 ルカが右足アウトサイドでパンクするほどに蹴ったボールは半月状を描き、日本ゴールへと突貫する。202センチのクロアチアFWカラッチがそれをダイビングヘッドで捉える。しかしボールはキーパーに弾かれコーナーキック。

 コーナーへと向かうルカに対し、観客は大歓声をあげた。ルカのボールタッチは人間の加虐性を刺激し、ボールに対するそれは被虐性を加速させる。ルカとそのボールに自身を投影させ、倒錯させる。自分が生きていることを観客にどうしようもなく実感させるのだ。

 ルカのコーナーキックはまるでキャノン砲。右足から放たれた弾丸ボールに対応できない日本DFに当たり、オウンゴールを誘う。


 2-5!


 そして試合終了のホイッスルが鳴る。日本DFはまだ立ち上がれない。
 
 観客は一斉にため息をつく。
 日本が負けたからではない。魅惑的で破壊的で官能的な悪魔、ルカ・ボバン劇場をもっと堪能していたいからだ。

「あーあ、俺クロアチアに生まれてれば、無条件でクロアチア応援できたのになあ!」

 ひとりの観客がそう騒いだ。

 しかし咎めるものは一人もいない。観衆全員が内心思っていることを、その男が代弁したにすぎないからだ。

「日本人が無条件で日本代表を応援する時代は、もう終わったのかもなあ」

 馴染みの記者が、ノートパソコンのキーボードを操作しながらそう言った。

 まさか、と含み笑いしながら呟くことしか彼女には許されていなかった。
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