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4.南京の絵画
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それは、十月のある日のこと。
ダニエルから携帯に電話があった。新しくセッションする場所が決まったらしい。ホールの持ち主はダウンタウンにある有名中華料理チェーンの支配人で、ダニエルをいたく気に入ってくれているという。今度、その支配人が油彩画の個展を開くんだ。チケット二枚あるから、一緒にどう?
絵は大好きだ。それに、最近は専攻している心理学のレポート作成に追われ、部屋に缶詰状態のあたしはイライラしはじめていた。
よし、金曜の夜までに書き上げて、土曜は羽を伸ばそう。日曜に校正すればいいや。
深く考えずに“O.K.”と返事して電話を切った。
土曜日。ダニエルは車で迎えに来てくれた。ちょっとおしゃれをして、タイトなグレーのワンピースの上からブラウスを羽織り、助手席へすべり込んだ。ダニエルは頭のてっぺんからあたしを舐めるように眺め、足元のパンプスに目を留めると、おどけて一言。
“What's wrong? You can't walk in heels?”
(おやまあ、君はパンプスでも歩けるのかい?)
「ひどーい!」
あたしが怒ってハンドバックを振り上げると、ダニエルは首を振ってくすくす笑いながら車を走らせた。
個展の会場は、ダウンタウンのメインストリートからちょっと奥へ入ったところだ。地元ではかなりの名士らしく、駐車場にはCATVの取材車まで止まっていた。ダニエルの先導にしたがって、真新しい建物の中に入る。スロープを昇った先に個展の看板が出ていた。入口でチケットを出して、くもりガラス製の大扉を開いた。その瞬間、息を呑んだ。<
あのとき受けた衝撃は、とても言葉に出来ない。
あたしたちの正面にひろがっていたのは、《The Crime of Nanjing》(南京事変)と題された、砂嵐のような色合いの巨大な茶色いキャンバスの中で、累々と横たわる黒い死体。そして、死体と死体の間に埋め尽くされた、草書体とも行書体ともつかぬ赤い漢字の群れ。「反日」「悪鬼」「強姦国」……。
凍りついたように、あたしはその場に立ち尽くした。泣くまいと思ったが、涙が次から次へとあふれ出て止まらなかった。
ねえ、あたしは日本人? あたしは沖縄の人間だよ? かつて、琉球王国という国があって、それなりに繁栄して、中国とも長く交易していたんだよ? 薩摩藩と江戸幕府の支配下に入って、明治時代からは日本人ってことになったのに、日本本土からは「琉球人」と呼ばれてバカにされたんだよ? 太平洋戦争のときには地上戦が起きて、日本とアメリカの間で一般人は都合よくスパイ扱いされ、もみくちゃにされたんだよ?
それでも、あたしは日本人でしかない? ずっと日本の捨て石にされて、二十七年間もアメリカの植民地だった沖縄の人間なのに? アメリカ兵に乱暴されて身ごもった沖縄女性の血を引くあたしも、結局は、残虐なことをしたとされる人々の仲間でしかない?
“I don't like it! It's so awful!”
(僕はこんな絵は嫌いだ! 馬鹿げている!)
そばでダニエルの怒鳴り声がして、あたしはその両腕で強く彼に抱え込まれた。
“Rina, are you all right?”
(理那、大丈夫か?)
うなずこうとした。でも、体に力が入らず、あたしはダニエルの胸にへなへなと崩れた。
その後、どうやって彼の車へ戻ったのか、あたしには記憶がない。
気がつくと、あたしは彼の部屋のベッドに横たわってて、ワンピースの替わりに大きな白いぶかぶかのTシャツを着ていた。おでこの上には冷たいタオルがあった。どうやら、丸一日間、熱を出していたらしい。
“Don't worry. Stay here as long as you want.”
(心配しないで、居たいだけ居ていいからさ)
側から大きな黒い瞳が覗きこんで微笑む。熱でボーっとのぼせた重い頭を、あたしは、コクンと上下させるのがやっとだった。(5.へつづく)
ダニエルから携帯に電話があった。新しくセッションする場所が決まったらしい。ホールの持ち主はダウンタウンにある有名中華料理チェーンの支配人で、ダニエルをいたく気に入ってくれているという。今度、その支配人が油彩画の個展を開くんだ。チケット二枚あるから、一緒にどう?
絵は大好きだ。それに、最近は専攻している心理学のレポート作成に追われ、部屋に缶詰状態のあたしはイライラしはじめていた。
よし、金曜の夜までに書き上げて、土曜は羽を伸ばそう。日曜に校正すればいいや。
深く考えずに“O.K.”と返事して電話を切った。
土曜日。ダニエルは車で迎えに来てくれた。ちょっとおしゃれをして、タイトなグレーのワンピースの上からブラウスを羽織り、助手席へすべり込んだ。ダニエルは頭のてっぺんからあたしを舐めるように眺め、足元のパンプスに目を留めると、おどけて一言。
“What's wrong? You can't walk in heels?”
(おやまあ、君はパンプスでも歩けるのかい?)
「ひどーい!」
あたしが怒ってハンドバックを振り上げると、ダニエルは首を振ってくすくす笑いながら車を走らせた。
個展の会場は、ダウンタウンのメインストリートからちょっと奥へ入ったところだ。地元ではかなりの名士らしく、駐車場にはCATVの取材車まで止まっていた。ダニエルの先導にしたがって、真新しい建物の中に入る。スロープを昇った先に個展の看板が出ていた。入口でチケットを出して、くもりガラス製の大扉を開いた。その瞬間、息を呑んだ。<
あのとき受けた衝撃は、とても言葉に出来ない。
あたしたちの正面にひろがっていたのは、《The Crime of Nanjing》(南京事変)と題された、砂嵐のような色合いの巨大な茶色いキャンバスの中で、累々と横たわる黒い死体。そして、死体と死体の間に埋め尽くされた、草書体とも行書体ともつかぬ赤い漢字の群れ。「反日」「悪鬼」「強姦国」……。
凍りついたように、あたしはその場に立ち尽くした。泣くまいと思ったが、涙が次から次へとあふれ出て止まらなかった。
ねえ、あたしは日本人? あたしは沖縄の人間だよ? かつて、琉球王国という国があって、それなりに繁栄して、中国とも長く交易していたんだよ? 薩摩藩と江戸幕府の支配下に入って、明治時代からは日本人ってことになったのに、日本本土からは「琉球人」と呼ばれてバカにされたんだよ? 太平洋戦争のときには地上戦が起きて、日本とアメリカの間で一般人は都合よくスパイ扱いされ、もみくちゃにされたんだよ?
それでも、あたしは日本人でしかない? ずっと日本の捨て石にされて、二十七年間もアメリカの植民地だった沖縄の人間なのに? アメリカ兵に乱暴されて身ごもった沖縄女性の血を引くあたしも、結局は、残虐なことをしたとされる人々の仲間でしかない?
“I don't like it! It's so awful!”
(僕はこんな絵は嫌いだ! 馬鹿げている!)
そばでダニエルの怒鳴り声がして、あたしはその両腕で強く彼に抱え込まれた。
“Rina, are you all right?”
(理那、大丈夫か?)
うなずこうとした。でも、体に力が入らず、あたしはダニエルの胸にへなへなと崩れた。
その後、どうやって彼の車へ戻ったのか、あたしには記憶がない。
気がつくと、あたしは彼の部屋のベッドに横たわってて、ワンピースの替わりに大きな白いぶかぶかのTシャツを着ていた。おでこの上には冷たいタオルがあった。どうやら、丸一日間、熱を出していたらしい。
“Don't worry. Stay here as long as you want.”
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