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御曹司は昼行灯(ひるあんどん)
6.裕太、上間(うえま)勉(つとむ)と再会する(1)
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At the Southern Hospital, Nakagusuku Village, Okinawa; October, 1999.
The narrator of this story is Yuta Terukina.
その日は、突然やってきた。
研修生活に慣れ始めた十月のことだ。ある内科のシニア研修医が、廊下でこうぶつぶつ言っていたのだ。
「ちぇっ、採血だってさ。このクソ忙しいのに。何で俺なんだ?」
すぐ近くだったから、思わずこう聞き返した」
「先生、どうしたんです? 患者さんの検査ですか?」
奇妙な習慣だが、医者同士だと相手に「先生」と敬称をつけて呼び合う。
「違うよ。オペに使う輸血のだよ」
その先生は舌打ちした。
「スタッフからの採血だってさ。だったら自分で取れっていいたいね。まったく。RHがマイナスだろうがプラスだろうが、血に変わりはないじゃないの」
RHマイナスという言葉が、不意に上間先輩を思い起こさせた。もし上間先輩だったら、サシで話をするチャンスだ。そして、僕は採血が得意だった。
「その採血、僕がやってもいいですか?」
そう切り出すと、先生は驚いたように目を丸くしたが、
「あ、照喜名先生が行ってくれるの? 助かるねー。俺、昼飯まだだったんだよ。じゃ、頼むね。すぐ血液管理部へ向かってくれたらいいから」
言うが早いが、僕に書類をことづけてさっさと食堂へと去っていった。
僕は血液管理部から簡単に説明を受け、採血キット一式を手に奥の部屋のドアを開けた。
「失礼します。じゃあ、はじめます」
「お手柔らかにね」
ベッドから声が聞こえた。上半身を起こし、金髪の頭をこっちへ向け、左腕を差し出している。
やっぱり、そうだ。眼鏡越しの茶色い瞳と目があった。一瞬、鳥肌が立った。
「琉海大学の上間先輩ですよね?」
僕は上間先輩の左腕をつかんだ。
「そうだけど? あれ、琉海大生?」
意外そうな顔をしている。僕は笑顔で自己紹介をした。
「照喜名裕太っていいます。先輩、有名人でしたよ」
「何で有名だったか、聞いてもいい? 医学生で一番貧乏だったとか?」
そっぽを向いたまま気乗りしない声だ。どうやら、目立つことはあまり好きではないらしい。
「それもありましたね。でも、サザン・ホスピタル奨学生でしょう?」
「返済は全額免除にしたよ」
そっけない返事。会話しながら、僕は肘関節の静脈を探し当てた。
「ええ、そちらの噂も聞いてますよ。秀才だけど決しておごらない、そして努力家でもあると」
「持ち上げてもなーんも出ないぞー」
先程までとは打って変わったような、明るくおどけた様子を見て、僕は確信した。
間違いない。この人は決して、無愛想や偏屈者なんかじゃない。表向きはそう振舞うことで、好奇な人の目を避けているだけなのだ。
インスピレーションが走った。この人になら、心を許せる!
そう思えば、もう迷いはなかった。僕は全速力で考えをめぐらせた。この出会いを無駄にはできない。どうしても、もう一度会いたい。僕の胸中をすべて曝け出したい。できれば、より安全な空間で。
「では、左腕から採血でよろしいですか?」
僕は駆血帯を巻き、注射針を構えた。太い20G針だ。
「じゃ、いきます。チクッとしますよー」
刺した。注射針は彼の血管に一発で入った。僕は針をテープで固定し、採血器具を取り付けた。採血量は600㏄。みるみるうちに採血バックが血で満たされていく。
「……採血の腕は、まあまあだね」
上間先輩はそう僕を褒めた。
この瞬間、決めた。僕は、僕の情報を勝負カードにすることを。
「ありがとうございます。僕、実家が照喜名内科・小児科医院なんです」
彼は驚いた表情で僕を見た。狙い通りだ!
「うそ! あそこは、有名だよ?」
「何で有名なんですかね?」
「戦前からあるんだろ? しかも、沖縄の有名人の掛かりつけ医だよな? 照喜名医院の御曹司がなんで、わざわざサザンに来たの?お前さん家の財力なら、大学病院でも苦労はしなかっただろうに?」
僕は自嘲した。
「御曹司ね。宗家の嫡子と言い換えれば、どうです?」
「残念ながら、俺は天涯孤独の身の上なんでね。家族がいるってのは、うらやましい気もするよ。お金の苦労もないとなれば、なおさらだ」
先輩はそう、ぼそっとつぶやいた。確かにそうかもしれない。寂しさで胸が潰れる思いを抱きながら、この人は日々をすごしているのだ。
「確かに金銭的な苦労は、あまりしてないかもしれませんね。でも、金目当てで近づく人も、いっぱいいますから。親戚も敵ですよ。さあ、これで終了っと」
血液バッグが一杯になった。僕は駆血帯を外し、彼の静脈から針を抜くと、止血バンドを巻き、採血セットを片付けた。
The narrator of this story is Yuta Terukina.
その日は、突然やってきた。
研修生活に慣れ始めた十月のことだ。ある内科のシニア研修医が、廊下でこうぶつぶつ言っていたのだ。
「ちぇっ、採血だってさ。このクソ忙しいのに。何で俺なんだ?」
すぐ近くだったから、思わずこう聞き返した」
「先生、どうしたんです? 患者さんの検査ですか?」
奇妙な習慣だが、医者同士だと相手に「先生」と敬称をつけて呼び合う。
「違うよ。オペに使う輸血のだよ」
その先生は舌打ちした。
「スタッフからの採血だってさ。だったら自分で取れっていいたいね。まったく。RHがマイナスだろうがプラスだろうが、血に変わりはないじゃないの」
RHマイナスという言葉が、不意に上間先輩を思い起こさせた。もし上間先輩だったら、サシで話をするチャンスだ。そして、僕は採血が得意だった。
「その採血、僕がやってもいいですか?」
そう切り出すと、先生は驚いたように目を丸くしたが、
「あ、照喜名先生が行ってくれるの? 助かるねー。俺、昼飯まだだったんだよ。じゃ、頼むね。すぐ血液管理部へ向かってくれたらいいから」
言うが早いが、僕に書類をことづけてさっさと食堂へと去っていった。
僕は血液管理部から簡単に説明を受け、採血キット一式を手に奥の部屋のドアを開けた。
「失礼します。じゃあ、はじめます」
「お手柔らかにね」
ベッドから声が聞こえた。上半身を起こし、金髪の頭をこっちへ向け、左腕を差し出している。
やっぱり、そうだ。眼鏡越しの茶色い瞳と目があった。一瞬、鳥肌が立った。
「琉海大学の上間先輩ですよね?」
僕は上間先輩の左腕をつかんだ。
「そうだけど? あれ、琉海大生?」
意外そうな顔をしている。僕は笑顔で自己紹介をした。
「照喜名裕太っていいます。先輩、有名人でしたよ」
「何で有名だったか、聞いてもいい? 医学生で一番貧乏だったとか?」
そっぽを向いたまま気乗りしない声だ。どうやら、目立つことはあまり好きではないらしい。
「それもありましたね。でも、サザン・ホスピタル奨学生でしょう?」
「返済は全額免除にしたよ」
そっけない返事。会話しながら、僕は肘関節の静脈を探し当てた。
「ええ、そちらの噂も聞いてますよ。秀才だけど決しておごらない、そして努力家でもあると」
「持ち上げてもなーんも出ないぞー」
先程までとは打って変わったような、明るくおどけた様子を見て、僕は確信した。
間違いない。この人は決して、無愛想や偏屈者なんかじゃない。表向きはそう振舞うことで、好奇な人の目を避けているだけなのだ。
インスピレーションが走った。この人になら、心を許せる!
そう思えば、もう迷いはなかった。僕は全速力で考えをめぐらせた。この出会いを無駄にはできない。どうしても、もう一度会いたい。僕の胸中をすべて曝け出したい。できれば、より安全な空間で。
「では、左腕から採血でよろしいですか?」
僕は駆血帯を巻き、注射針を構えた。太い20G針だ。
「じゃ、いきます。チクッとしますよー」
刺した。注射針は彼の血管に一発で入った。僕は針をテープで固定し、採血器具を取り付けた。採血量は600㏄。みるみるうちに採血バックが血で満たされていく。
「……採血の腕は、まあまあだね」
上間先輩はそう僕を褒めた。
この瞬間、決めた。僕は、僕の情報を勝負カードにすることを。
「ありがとうございます。僕、実家が照喜名内科・小児科医院なんです」
彼は驚いた表情で僕を見た。狙い通りだ!
「うそ! あそこは、有名だよ?」
「何で有名なんですかね?」
「戦前からあるんだろ? しかも、沖縄の有名人の掛かりつけ医だよな? 照喜名医院の御曹司がなんで、わざわざサザンに来たの?お前さん家の財力なら、大学病院でも苦労はしなかっただろうに?」
僕は自嘲した。
「御曹司ね。宗家の嫡子と言い換えれば、どうです?」
「残念ながら、俺は天涯孤独の身の上なんでね。家族がいるってのは、うらやましい気もするよ。お金の苦労もないとなれば、なおさらだ」
先輩はそう、ぼそっとつぶやいた。確かにそうかもしれない。寂しさで胸が潰れる思いを抱きながら、この人は日々をすごしているのだ。
「確かに金銭的な苦労は、あまりしてないかもしれませんね。でも、金目当てで近づく人も、いっぱいいますから。親戚も敵ですよ。さあ、これで終了っと」
血液バッグが一杯になった。僕は駆血帯を外し、彼の静脈から針を抜くと、止血バンドを巻き、採血セットを片付けた。
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