3 / 8
3.妻との死別
しおりを挟む
元ちとせがヒットを飛ばし始めた頃、私は妻と出会った。三月生まれの彼女へ私は珊瑚のイヤリングをプレゼントした。プロポーズした時、耳元で赤い珊瑚が揺れていた。
結婚してほどなく、息子が生まれた。二人とも元ちとせが好きなのと、息子が十一月生まれなので、千歳と名付けた。男女どちらでも使えて縁起の良い名前でもあったからだ。
千歳が誕生して巡ってきた最初の秋、妻が倒れた。勤務から大学病院へ急行すると、妻はICUへ運び込まれ面会謝絶だった。母が千歳を抱いたまま、ロビーで佇んでいた。
「脳出血しているってよ」
私は老母の手から千歳を抱き取った。スヤスヤ眠っている。
「あんたが来るちょっと前まで大泣きしてたけど、泣きすぎて疲れたんだはず」
私がしばらく頭を撫でていると、彼は目を覚ました。老母が持ってきた哺乳瓶でミルクを与え、おむつを交換してやる。彼はまだ歩けない。座席に座らせちょっと目を離すとすぐに廊下を這い回ろうとする。老母が追いかけて彼の手足をウェットティッシュで拭いている。
主治医に呼び出され、私は説明を受けた。輸血が確保できたので早朝から手術に踏み切りたい、成功の確率は半々とのことだった。私は承諾し、書類にサインした。
やがて姉夫婦らが母を迎えにきた。私は千歳を抱きながら礼を言って別れた。私も家へ帰らなくてはならない。妻の荷物や千歳の着替えなどを取りに行かなくては。
秋の日暮れは早く、あたりはすでに暗い。千歳を後部座席に乗せチャイルドシートを装着させる。彼はいつも以上にグズったが、乗せているうちに眠ることがほとんどなので私は構わず車を発進させた。しかし今日に限ってやたら長くクズっている。とうとう大声で泣き出した。
私は舌打ちして路肩に駐車した。ちょうど私の母校である大学の前だ。私は後部座席のドアを開け千歳を抱き上げた。顔を真っ赤にして泣き続けている。
私は彼の背中をトントン叩きながら大学の校舎を見る。この夏、米軍のヘリコプターがここへ墜落した。夏休みの最中に勉学にきた学生らや付近の住民らが必死で逃げ出すと、まもなく米兵らが包囲網を張り巡らせた。私たち沖縄県警の出る幕はなかった。
ここは日本だ。ここは私の母校だ。決してアメリカではない。なのに、なぜ?
私は自問自答を繰り返す。しかし答えは今も見つからないままだ。薄暗い中、私の目の前にはどす黒い痕跡を残した校舎の壁があり、手前のガジュマルはホラー映画に出てくる魔女の寝ぐらのように焼け焦げたまま立っている。怖いのだろう、千歳は私の腕の中で狂ったように泣き叫んだ。彼の母親は、私の妻はずっと生死を彷徨っている。黄泉の国へ誘おうとする魔女の手から逃れようと必死でもがいているはずだ。
ここは日本なのに。日本の中の沖縄が酷い目に遭っているのに、誰も助けに来ない。多くの日本人はアテネオリンピックの金メダルラッシュに夢中で、学術施設に戦闘ヘリが堕ちた大惨事を語り合おうともしなかった。痛いよ、怖いよ、助けて、と声を張り上げたのに、誰も寄り添ってはくれなかった。なぜ日本は抱き止めてくれないのか。なぜ日本は黙り続けているのか。私たちの身体からは赤い血が流れ続けているが、新北風が空っぽの心を吹き抜けていくだけなのだ。
私は泣いた。千歳を抱きながらあたりを憚らず泣いた。心の中で訴えた。神様、私たちから妻を、この子の母親をどうか取り上げないでください。慈しみ深い存在であるなら、どうか私たちの心を温かく包んで涙を拭ってください。
願いが届いたのか、妻の手術は成功した。退院後の十年間は脳出血の出来事が嘘のように感じられるくらい元気だった。忙しい勤務の合間を縫って私たち家族はよくドライブに出かけた。山原の道を散策し、セミやクワガタを捕った。よく海に連れて行って千歳を肩車すると、彼は私の頭にしがみついてキャッキャっと喜んだ。朗らかでよく笑っていた。
千歳が中学に上がった頃、妻は突然嘔吐した。頭が割れるように痛いと言い、再びICUへ運び込まれた。医療スタッフの必死のケアで何とか一命を取り留めたが、余命いくばくもないと告げられた。その後、妻の強い希望で緩和病棟へ移ったが、日が経つごとに妻は痩せ細っていった。
ある日、妻は見舞いにきた私を手招きした。繰り返す脳出血で左半身は不随だったが、言葉はしっかりしていた。
「これね、もし貴方が再婚したら、新しい奥さんに渡して頂戴」
そういって彼女は私の右の掌に一対の珊瑚のイヤリングを転がした。私は血相を変えて食い下がった。
「私は誰とも結婚などしないよ」
「いいのよ、その言葉だけで十分。私は貴方と千歳には淋しい思いをして欲しくないから」
妻はそう言って私にイヤリングを握らせた。
「相手の方が気に入ってくださるといいのだけど」
妻はひっそりと笑った。それが最後の言葉だった。次の日の朝、彼女は眠るように息を引き取った。
結婚してほどなく、息子が生まれた。二人とも元ちとせが好きなのと、息子が十一月生まれなので、千歳と名付けた。男女どちらでも使えて縁起の良い名前でもあったからだ。
千歳が誕生して巡ってきた最初の秋、妻が倒れた。勤務から大学病院へ急行すると、妻はICUへ運び込まれ面会謝絶だった。母が千歳を抱いたまま、ロビーで佇んでいた。
「脳出血しているってよ」
私は老母の手から千歳を抱き取った。スヤスヤ眠っている。
「あんたが来るちょっと前まで大泣きしてたけど、泣きすぎて疲れたんだはず」
私がしばらく頭を撫でていると、彼は目を覚ました。老母が持ってきた哺乳瓶でミルクを与え、おむつを交換してやる。彼はまだ歩けない。座席に座らせちょっと目を離すとすぐに廊下を這い回ろうとする。老母が追いかけて彼の手足をウェットティッシュで拭いている。
主治医に呼び出され、私は説明を受けた。輸血が確保できたので早朝から手術に踏み切りたい、成功の確率は半々とのことだった。私は承諾し、書類にサインした。
やがて姉夫婦らが母を迎えにきた。私は千歳を抱きながら礼を言って別れた。私も家へ帰らなくてはならない。妻の荷物や千歳の着替えなどを取りに行かなくては。
秋の日暮れは早く、あたりはすでに暗い。千歳を後部座席に乗せチャイルドシートを装着させる。彼はいつも以上にグズったが、乗せているうちに眠ることがほとんどなので私は構わず車を発進させた。しかし今日に限ってやたら長くクズっている。とうとう大声で泣き出した。
私は舌打ちして路肩に駐車した。ちょうど私の母校である大学の前だ。私は後部座席のドアを開け千歳を抱き上げた。顔を真っ赤にして泣き続けている。
私は彼の背中をトントン叩きながら大学の校舎を見る。この夏、米軍のヘリコプターがここへ墜落した。夏休みの最中に勉学にきた学生らや付近の住民らが必死で逃げ出すと、まもなく米兵らが包囲網を張り巡らせた。私たち沖縄県警の出る幕はなかった。
ここは日本だ。ここは私の母校だ。決してアメリカではない。なのに、なぜ?
私は自問自答を繰り返す。しかし答えは今も見つからないままだ。薄暗い中、私の目の前にはどす黒い痕跡を残した校舎の壁があり、手前のガジュマルはホラー映画に出てくる魔女の寝ぐらのように焼け焦げたまま立っている。怖いのだろう、千歳は私の腕の中で狂ったように泣き叫んだ。彼の母親は、私の妻はずっと生死を彷徨っている。黄泉の国へ誘おうとする魔女の手から逃れようと必死でもがいているはずだ。
ここは日本なのに。日本の中の沖縄が酷い目に遭っているのに、誰も助けに来ない。多くの日本人はアテネオリンピックの金メダルラッシュに夢中で、学術施設に戦闘ヘリが堕ちた大惨事を語り合おうともしなかった。痛いよ、怖いよ、助けて、と声を張り上げたのに、誰も寄り添ってはくれなかった。なぜ日本は抱き止めてくれないのか。なぜ日本は黙り続けているのか。私たちの身体からは赤い血が流れ続けているが、新北風が空っぽの心を吹き抜けていくだけなのだ。
私は泣いた。千歳を抱きながらあたりを憚らず泣いた。心の中で訴えた。神様、私たちから妻を、この子の母親をどうか取り上げないでください。慈しみ深い存在であるなら、どうか私たちの心を温かく包んで涙を拭ってください。
願いが届いたのか、妻の手術は成功した。退院後の十年間は脳出血の出来事が嘘のように感じられるくらい元気だった。忙しい勤務の合間を縫って私たち家族はよくドライブに出かけた。山原の道を散策し、セミやクワガタを捕った。よく海に連れて行って千歳を肩車すると、彼は私の頭にしがみついてキャッキャっと喜んだ。朗らかでよく笑っていた。
千歳が中学に上がった頃、妻は突然嘔吐した。頭が割れるように痛いと言い、再びICUへ運び込まれた。医療スタッフの必死のケアで何とか一命を取り留めたが、余命いくばくもないと告げられた。その後、妻の強い希望で緩和病棟へ移ったが、日が経つごとに妻は痩せ細っていった。
ある日、妻は見舞いにきた私を手招きした。繰り返す脳出血で左半身は不随だったが、言葉はしっかりしていた。
「これね、もし貴方が再婚したら、新しい奥さんに渡して頂戴」
そういって彼女は私の右の掌に一対の珊瑚のイヤリングを転がした。私は血相を変えて食い下がった。
「私は誰とも結婚などしないよ」
「いいのよ、その言葉だけで十分。私は貴方と千歳には淋しい思いをして欲しくないから」
妻はそう言って私にイヤリングを握らせた。
「相手の方が気に入ってくださるといいのだけど」
妻はひっそりと笑った。それが最後の言葉だった。次の日の朝、彼女は眠るように息を引き取った。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
高嶺の花は摘み取れない
松雅
恋愛
会社の同僚の女性に恋をする主人公
しかしその恋には絶対に叶わない理由があった
さて、この文章を見て、何人の人が主人公を男性だと思っただろう
11月20日(土)0時 完結
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
〜輝く絆〜
古波蔵くう
恋愛
「輝く絆」は、トランスジェンダーの幼馴染、結城と大翔がダイバーシティ・ハイスクールで再会し、友情を深めながら、秘密や告白、困難に立ち向かう姿を描いた物語です。美咲も結城と大翔の秘密を知り、彼らを支えます。美緒の告白と大翔の拒絶が友情を試す中、彼らは団結し、新たな未来に向かって歩みます。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
好きな人がいるならちゃんと言ってよ
しがと
恋愛
高校1年生から好きだった彼に毎日のようにアピールして、2年の夏にようやく交際を始めることができた。それなのに、彼は私ではない女性が好きみたいで……。 彼目線と彼女目線の両方で話が進みます。*全4話
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
新妻はバイセクシャル
七瀬蓮
恋愛
皆様はセクシャルマイノリティという言葉をご存知でしょうか。
この物語は新婚夫婦の翔と芽衣はごく普通の若夫婦に見える。芽衣が両性愛者(バイセクシャル)である事を除いては。そんな2人の生活はどのようなものか。考えながら読んでいただきたいです。
愛の形容(かたち)
Lucky
恋愛
トランスジェンダーの女性(生まれた時の性は男性で自身のことを女性と認識している人/MtF)が主人公の話です。
中学一年生で初恋の男性と出会い、後に女性として結ばれ結婚します。
恋愛物ですが、主人公を始めとする家族の物語でもあります。
全7話で完結です。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる