東京の人

くるみあるく

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3.妻との死別

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はじめちとせがヒットを飛ばし始めた頃、私は妻と出会った。三月生まれの彼女へ私は珊瑚のイヤリングをプレゼントした。プロポーズした時、耳元で赤い珊瑚が揺れていた。
結婚してほどなく、息子が生まれた。二人とも元ちとせが好きなのと、息子が十一月生まれなので、千歳ちとせと名付けた。男女どちらでも使えて縁起の良い名前でもあったからだ。
千歳が誕生して巡ってきた最初の秋、妻が倒れた。勤務から大学病院へ急行すると、妻はICUへ運び込まれ面会謝絶だった。母が千歳を抱いたまま、ロビーで佇んでいた。
「脳出血しているってよ」
私は老母の手から千歳を抱き取った。スヤスヤ眠っている。
「あんたが来るちょっと前まで大泣きしてたけど、泣きすぎて疲れたんだはず」
私がしばらく頭を撫でていると、彼は目を覚ました。老母が持ってきた哺乳瓶でミルクを与え、おむつを交換してやる。彼はまだ歩けない。座席に座らせちょっと目を離すとすぐに廊下を這い回ろうとする。老母が追いかけて彼の手足をウェットティッシュで拭いている。
主治医に呼び出され、私は説明を受けた。輸血が確保できたので早朝から手術に踏み切りたい、成功の確率は半々とのことだった。私は承諾し、書類にサインした。
やがて姉夫婦らが母を迎えにきた。私は千歳を抱きながら礼を言って別れた。私も家へ帰らなくてはならない。妻の荷物や千歳の着替えなどを取りに行かなくては。

秋の日暮れは早く、あたりはすでに暗い。千歳ちとせを後部座席に乗せチャイルドシートを装着させる。彼はいつも以上にグズったが、乗せているうちに眠ることがほとんどなので私は構わず車を発進させた。しかし今日に限ってやたら長くクズっている。とうとう大声で泣き出した。
私は舌打ちして路肩に駐車した。ちょうど私の母校である大学の前だ。私は後部座席のドアを開け千歳を抱き上げた。顔を真っ赤にして泣き続けている。
私は彼の背中をトントン叩きながら大学の校舎を見る。この夏、米軍のヘリコプターがここへ墜落した。夏休みの最中に勉学にきた学生らや付近の住民らが必死で逃げ出すと、まもなく米兵らが包囲網を張り巡らせた。私たち沖縄県警の出る幕はなかった。

ここは日本だ。ここは私の母校だ。決してアメリカではない。なのに、なぜ?

私は自問自答を繰り返す。しかし答えは今も見つからないままだ。薄暗い中、私の目の前にはどす黒い痕跡を残した校舎の壁があり、手前のガジュマルはホラー映画に出てくる魔女の寝ぐらのように焼け焦げたまま立っている。怖いのだろう、千歳は私の腕の中で狂ったように泣き叫んだ。彼の母親は、私の妻はずっと生死を彷徨っている。黄泉の国へ誘おうとする魔女の手から逃れようと必死でもがいているはずだ。
ここは日本なのに。日本の中の沖縄が酷い目に遭っているのに、誰も助けに来ない。多くの日本人はアテネオリンピックの金メダルラッシュに夢中で、学術施設に戦闘ヘリが堕ちた大惨事を語り合おうともしなかった。痛いよ、怖いよ、助けて、と声を張り上げたのに、誰も寄り添ってはくれなかった。なぜ日本は抱き止めてくれないのか。なぜ日本は黙り続けているのか。私たちの身体からは赤い血が流れ続けているが、新北風が空っぽの心を吹き抜けていくだけなのだ。
私は泣いた。千歳を抱きながらあたりを憚らず泣いた。心の中で訴えた。神様、私たちから妻を、この子の母親をどうか取り上げないでください。慈しみ深い存在であるなら、どうか私たちの心を温かく包んで涙を拭ってください。

願いが届いたのか、妻の手術は成功した。退院後の十年間は脳出血の出来事が嘘のように感じられるくらい元気だった。忙しい勤務の合間を縫って私たち家族はよくドライブに出かけた。山原やんばるの道を散策し、セミやクワガタを捕った。よく海に連れて行って千歳を肩車すると、彼は私の頭にしがみついてキャッキャっと喜んだ。朗らかでよく笑っていた。

千歳が中学に上がった頃、妻は突然嘔吐した。頭が割れるように痛いと言い、再びICUへ運び込まれた。医療スタッフの必死のケアで何とか一命を取り留めたが、余命いくばくもないと告げられた。その後、妻の強い希望で緩和病棟へ移ったが、日が経つごとに妻は痩せ細っていった。
ある日、妻は見舞いにきた私を手招きした。繰り返す脳出血で左半身は不随だったが、言葉はしっかりしていた。
「これね、もし貴方が再婚したら、新しい奥さんに渡して頂戴」
そういって彼女は私の右の掌に一対の珊瑚のイヤリングを転がした。私は血相を変えて食い下がった。
「私は誰とも結婚などしないよ」
「いいのよ、その言葉だけで十分。私は貴方と千歳には淋しい思いをして欲しくないから」
妻はそう言って私にイヤリングを握らせた。
「相手の方が気に入ってくださるといいのだけど」
妻はひっそりと笑った。それが最後の言葉だった。次の日の朝、彼女は眠るように息を引き取った。
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