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第二章 失って得たもの
2-65 マルク視点<回想>4
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そんなはずはない。アンリがここにいる訳がない。けれど俺の体に染み付いた感覚が、間違いなくアンリだと訴えかける。
焦燥と恐怖に鼓動が早まり、甲高く耳鳴りがして喧騒が聞こえなくなる。
アンリがいた。
権力を笠に着た俺の傲慢な振る舞いを見られた。いや、それよりもアンリが立っている場所。あそこは、先程俺が卑劣な加護差別を口にした場所だ。まさか全部聞かれていたのだろうか。
だとしたら。だとしたら――。
思わずアンリの名を叫ぼうとして口を開くが、それは俺を馬車に押し込める従者の手によって遮られてしまった。思考に飲まれて動けなくなっている間に、馬車は人をかき分け走り出す。
遠くなっていく広場をずっと振り返りながら、俺は恐ろしさに震えた。アンリを失うかもしれない恐怖に。
屋敷に着くなり、家督相続の文書を王城へ差し遣わせた。後日改めて国王へ挨拶に赴かねばならないが、今この瞬間をもって名実共にカサール家は俺の物になった。
その感慨に浸る暇もなく、しつこく酒宴に誘うスタニスラスを無視して、俺はローブを纏って屋敷を飛び出した。先程の人影は見間違いであってくれと祈りながら、アンリの家へ向かった。
当初はアンリが心を痛めることなど決してないよう、充分な根回しをし、準備を整えてから迎え入れる予定だった。だが、最早そんな悠長なことを考えている余裕など俺にはなかった。今すぐにアンリを迎えに行く。俺はカサール家の当主だ。もう誰の顔色を窺う必要もない。それから後のことはどうとでもしてみせる。
アンリが家にいてくれることだけを願って、逸る心臓に喘ぎながら路地裏の細い道を走った。
数年経っても変わらず、不気味な程に静かで少し薄暗い通り。今の俺の心の有り様そのものだった。
忘れもしない道を右へ左へ何度も折れて、やっと目的の屋根が視界に入る。呼吸を整えながら一歩一歩近づき、小さな家の正面に立った時、俺は絶望に膝をついた。
粗末なドアには板が打ち付けてあり、空き家になっていたのだ。
これはどういうことだ。
板は風雨に晒されており、釘も赤茶に錆びていた。随分以前から設えられていたものだと誰の目にも分かる。
一体いつアンリはここを出て行った? この前大家に言付けを頼んだ時には何も言っていなかった。先程広場にいたのは本当にアンリだったのか? じゃあアンリは今どこで暮らしているのか。
混乱して頭がどうにかなりそうだった。冷静に思考を導くことなどできそうもない。俺は早々に考えることを諦め、大家の家へ向かってまた走り出した。
「マ、マルク様!」
突然の俺の来訪に、大家は取り乱していた。貴人の訪れに慌てているのとは違う。
作り笑顔で揉み手するようにご機嫌を窺い、それでいて俺に話を切り出させたくないとばかりに巧妙に視線を逸らしている。明らかに後ろめたいことがある時の人間の顔だ。
俺は胡乱な視線をあからさまにして、アンリの行方を追及しようと大家に詰め寄った時だ。家のドアが乱暴に開き、見知らぬ女が家に入ってくるなり甲高い声を出した。
「お客さんかい? ……あらやだ! マルク様!? さっきまで広場で見てたんですよう。まぁまぁいらっしゃるなら前もって言って下さいな。アタシったらこんな格好で恥ずかしい」
名乗りもせずにベラベラと大声で話し続ける女を、眉間に皺を寄せ眺めていると、大家が愛想笑いを浮かべて言った。
「マルク様には機会がなくご報告がまだでしたが、数年前に嫁を貰いまして」
はじめまして、と今更しおらしく頭を下げた妻に、俺は一気に全身が冷えていくのを感じた。
大家は善人という訳ではないが小心者で、カサール家を欺くような真似ができる男ではない。だがこの妻はどうだ。
この国の男女比は男に偏っているから得てして女は無条件に優遇され、それ故に大抵の女性は気が強く恐れ知らずだ。例に漏れずこの妻も、カサール家当主を前にしても物怖じする素振りすらなく、夫と対照的に堂々として一方的に世間話を続ける厚かましさである。
この妻なら己の立場に慢じて、カサール家を出し抜こうとすら考えるかもしれない。
「アンリはどうした」
妻の終わらない話を遮り、鋭く見つめながら言った。自然と声は低くなった。
途端に大家は顔色を悪くするが、妻の方は笑顔すら浮かべて言ってのける。
「それがね、勝手に出て行っちまったんですよう。ちょうどマルク様に知らせなきゃと思ってた所で」
空き家の様子からは、出て行ってから相当の年月が経ていると分かる。それだけの間、金だけ受け取り報告義務を怠っていたのは、完全に大家側の手落ちだ。だというのに、さも悪いのはアンリとでも言いた気に、いけしゃあしゃあとこの妻は嘯いてのける。
俺が目を眇めるのにも構わず、妻は続けてこう言った。
「書き置きがありましてね。マルク様の仕送りじゃ足りないから他の男を探す、って。あれだけの額をもらっておきながら、忌人ってのはなんて強欲で浅ましい生き物なんだろうって怖気が走りましたよ。人の好みにあれこれ口出すもんじゃないけど、カサール家をお継ぎになったんですから、マルク様もお戯れもほどほどにしてせめてまともな人を囲うべきですよ。そうそう、アタシの身内に器量のいい娘がいてね、いかがです?」
焦燥と恐怖に鼓動が早まり、甲高く耳鳴りがして喧騒が聞こえなくなる。
アンリがいた。
権力を笠に着た俺の傲慢な振る舞いを見られた。いや、それよりもアンリが立っている場所。あそこは、先程俺が卑劣な加護差別を口にした場所だ。まさか全部聞かれていたのだろうか。
だとしたら。だとしたら――。
思わずアンリの名を叫ぼうとして口を開くが、それは俺を馬車に押し込める従者の手によって遮られてしまった。思考に飲まれて動けなくなっている間に、馬車は人をかき分け走り出す。
遠くなっていく広場をずっと振り返りながら、俺は恐ろしさに震えた。アンリを失うかもしれない恐怖に。
屋敷に着くなり、家督相続の文書を王城へ差し遣わせた。後日改めて国王へ挨拶に赴かねばならないが、今この瞬間をもって名実共にカサール家は俺の物になった。
その感慨に浸る暇もなく、しつこく酒宴に誘うスタニスラスを無視して、俺はローブを纏って屋敷を飛び出した。先程の人影は見間違いであってくれと祈りながら、アンリの家へ向かった。
当初はアンリが心を痛めることなど決してないよう、充分な根回しをし、準備を整えてから迎え入れる予定だった。だが、最早そんな悠長なことを考えている余裕など俺にはなかった。今すぐにアンリを迎えに行く。俺はカサール家の当主だ。もう誰の顔色を窺う必要もない。それから後のことはどうとでもしてみせる。
アンリが家にいてくれることだけを願って、逸る心臓に喘ぎながら路地裏の細い道を走った。
数年経っても変わらず、不気味な程に静かで少し薄暗い通り。今の俺の心の有り様そのものだった。
忘れもしない道を右へ左へ何度も折れて、やっと目的の屋根が視界に入る。呼吸を整えながら一歩一歩近づき、小さな家の正面に立った時、俺は絶望に膝をついた。
粗末なドアには板が打ち付けてあり、空き家になっていたのだ。
これはどういうことだ。
板は風雨に晒されており、釘も赤茶に錆びていた。随分以前から設えられていたものだと誰の目にも分かる。
一体いつアンリはここを出て行った? この前大家に言付けを頼んだ時には何も言っていなかった。先程広場にいたのは本当にアンリだったのか? じゃあアンリは今どこで暮らしているのか。
混乱して頭がどうにかなりそうだった。冷静に思考を導くことなどできそうもない。俺は早々に考えることを諦め、大家の家へ向かってまた走り出した。
「マ、マルク様!」
突然の俺の来訪に、大家は取り乱していた。貴人の訪れに慌てているのとは違う。
作り笑顔で揉み手するようにご機嫌を窺い、それでいて俺に話を切り出させたくないとばかりに巧妙に視線を逸らしている。明らかに後ろめたいことがある時の人間の顔だ。
俺は胡乱な視線をあからさまにして、アンリの行方を追及しようと大家に詰め寄った時だ。家のドアが乱暴に開き、見知らぬ女が家に入ってくるなり甲高い声を出した。
「お客さんかい? ……あらやだ! マルク様!? さっきまで広場で見てたんですよう。まぁまぁいらっしゃるなら前もって言って下さいな。アタシったらこんな格好で恥ずかしい」
名乗りもせずにベラベラと大声で話し続ける女を、眉間に皺を寄せ眺めていると、大家が愛想笑いを浮かべて言った。
「マルク様には機会がなくご報告がまだでしたが、数年前に嫁を貰いまして」
はじめまして、と今更しおらしく頭を下げた妻に、俺は一気に全身が冷えていくのを感じた。
大家は善人という訳ではないが小心者で、カサール家を欺くような真似ができる男ではない。だがこの妻はどうだ。
この国の男女比は男に偏っているから得てして女は無条件に優遇され、それ故に大抵の女性は気が強く恐れ知らずだ。例に漏れずこの妻も、カサール家当主を前にしても物怖じする素振りすらなく、夫と対照的に堂々として一方的に世間話を続ける厚かましさである。
この妻なら己の立場に慢じて、カサール家を出し抜こうとすら考えるかもしれない。
「アンリはどうした」
妻の終わらない話を遮り、鋭く見つめながら言った。自然と声は低くなった。
途端に大家は顔色を悪くするが、妻の方は笑顔すら浮かべて言ってのける。
「それがね、勝手に出て行っちまったんですよう。ちょうどマルク様に知らせなきゃと思ってた所で」
空き家の様子からは、出て行ってから相当の年月が経ていると分かる。それだけの間、金だけ受け取り報告義務を怠っていたのは、完全に大家側の手落ちだ。だというのに、さも悪いのはアンリとでも言いた気に、いけしゃあしゃあとこの妻は嘯いてのける。
俺が目を眇めるのにも構わず、妻は続けてこう言った。
「書き置きがありましてね。マルク様の仕送りじゃ足りないから他の男を探す、って。あれだけの額をもらっておきながら、忌人ってのはなんて強欲で浅ましい生き物なんだろうって怖気が走りましたよ。人の好みにあれこれ口出すもんじゃないけど、カサール家をお継ぎになったんですから、マルク様もお戯れもほどほどにしてせめてまともな人を囲うべきですよ。そうそう、アタシの身内に器量のいい娘がいてね、いかがです?」
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