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第二章 失って得たもの
2-64 マルク視点<回想>3
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就任式当日は雲一つない晴天だった。
馬車に揺られて広場へ向かいながら、しかし俺の心は雨が降り出しそうな程に曇っていく。初の貴族としての晴れ舞台、大勢の民衆の面前で自らの首を絞めるような馬鹿馬鹿しい演説をせねばならないことに気が滅入っているのは勿論だが、もう一つ、ささやかながら重大な気がかりがあった。
今日の式典に、もしもアンリが来てしまったらという憂惧だ。
大家の話では、最近のアンリは髪と目の色が露見することに怯え、すっかり家から出なくなっているというから、危険を冒して大衆の集まる場に赴くとは思えないが、一抹の不安は残る。
孤児院を出てから三年。アンリとは一度も会っていない。もしもアンリが俺の顔見たさに式典に来てしまったら、カサール家に染まりきった俺の振る舞いを見て、すっかり心変わりをしたと思うだろう。
勿論、就任式には来ないで欲しいと大家を通して再三言付けをしてあるし、アンリが俺の頼みを無視することなどこれまで一度もなかったから、杞憂に終わるだろうとは思っている。しかし、取り返しのつかないことになりはしないかと、悲観的な俺の思考が気分を落ち込ませるのだった。
華々しい音楽が奏でられる中を、スタニスラスに続いて舞台に上がる。
沸き上がる歓声に、引き摺り続けた憂鬱を断ち切って覚悟を決めた。ここまで来たら考えても仕方がない。俺はすべきことを抜かりなく全うし、できるだけ早く引き上げるだけだ。
式典の熱狂はスタニスラスを高揚させ、その退屈な演説を少々長引かせたものの滞りなく進んだ。演説を終え興奮に顔を上気させたスタニスラスに肩を叩かれ、いよいよ舞台中央に歩み出る。
俺は心を閉ざして、口だけで音を奏でるように指示された通りの暴言を放った。
「下賤のお前らに何を言っても分からんのだから時間の無駄だ。どうせお前らはこれさえ貰えれば満足なんだろう」
案の定民衆の冷え切った視線を一斉に浴びた。
しかし、銀貨を撒くなり一瞬でそこは狂乱と暴力の場へと変貌する。俺とスタニスラスの演説によって溜まった鬱憤を晴らすかのように、殴り合い、奪い合い、子どもが大勢の大人に寄ってたかって踏みつけにされる場面もあった。
これまでもカサール家での己の地位を確保する為に、本意ではない言葉を放ち人を傷つけたことは数え切れない。だが、これだけ大勢の咎なき人間を、徒に暴力へと駆り立てた俺の罪はどれほどだろう。
目を背けたくなる光景を前にして、俺はすっかり板についた作り笑顔を貼り付ける他なかった。
銀貨を撒き終えると、怒号渦巻く広場をそのままに、俺はスタニスラスを急かして早々に舞台を降りた。
あとは屋敷に帰り、家督相続の文書を提出すれば完全にカサール家は俺の物だ。もうこのような無益で愚かな振る舞いをしなくて済む。
歩を速める俺に対し、スタニスラスは群がる女を悠然と物色し始めた。恐らく、人々が傷付け罵り合う様子を見て気が昂り、それを女で発散しようというのだ。
動物にも劣るその感性に、こちらは反吐が出そうな思いだというのに、あろうことかスタニスラスはお前もどうだと誘ってくる。
「ご冗談でしょう。こんな髪も目も色の暗い、加護の薄い市井の女、気色悪くて触ることもできませんよ。父上もお年なんですから、そろそろその悪食をご自重ください」
俺は女達を一瞥して見せると、そう言い捨てた。
こんな所でいつまでもぐずぐずしていたくなはい。最も効果的にスタニスラスの気を逸らす方法は、この男の持つ卑しい選民思想を肯定し、満足させることだ。案の定スタニスラスは上機嫌になってすぐに歩き出した。
酷く侮辱的な差別発言を受けても、女達は甘い声で媚びるように口先ばかりの非難をするだけだった。だが、俺の方は後悔に自分の胸をかきむしりたくなる。とりわけ加護差別を口にする時は、心が乱れて止まない。加護差別とは、アンリを拒絶することだ。たとえ目的の為とはいえ、そんな言葉を吐き出す度に、アンリを裏切るようで胸が軋み、声にならない慟哭が溢れ出そうになる。
こんな非情な言葉を平然と言い放つ俺をアンリが見たら、どれだけ傷付けることだろう。どれだけ軽蔑されることだろう。沢山の穢れた言葉で染まった俺の舌を、アンリは許し再び口付けてくれるのだろうか。
俯きがちに馬車に辿り着き、ふと会場を振り返る。
アンリに決して来るなと伝えて正解だった。あらゆる悪に満ちたこの場に、アンリがいなくて良かった。
自己嫌悪に苛まれながら、それでも安堵の息を吐いて広場を見渡すと、人垣の隙間に控えめに佇む小さな姿に視線を引き寄せられた。
瞬間、どくりと冷たく心臓が戦慄く。
遠い人影はフードを被っていて、顔は良く見えない。だが、覗く顎先の面影。少し背は伸びているが華奢な肩。そして何より、静謐で清らかな空気を纏ったその佇まい。
あれは、――アンリだ。
馬車に揺られて広場へ向かいながら、しかし俺の心は雨が降り出しそうな程に曇っていく。初の貴族としての晴れ舞台、大勢の民衆の面前で自らの首を絞めるような馬鹿馬鹿しい演説をせねばならないことに気が滅入っているのは勿論だが、もう一つ、ささやかながら重大な気がかりがあった。
今日の式典に、もしもアンリが来てしまったらという憂惧だ。
大家の話では、最近のアンリは髪と目の色が露見することに怯え、すっかり家から出なくなっているというから、危険を冒して大衆の集まる場に赴くとは思えないが、一抹の不安は残る。
孤児院を出てから三年。アンリとは一度も会っていない。もしもアンリが俺の顔見たさに式典に来てしまったら、カサール家に染まりきった俺の振る舞いを見て、すっかり心変わりをしたと思うだろう。
勿論、就任式には来ないで欲しいと大家を通して再三言付けをしてあるし、アンリが俺の頼みを無視することなどこれまで一度もなかったから、杞憂に終わるだろうとは思っている。しかし、取り返しのつかないことになりはしないかと、悲観的な俺の思考が気分を落ち込ませるのだった。
華々しい音楽が奏でられる中を、スタニスラスに続いて舞台に上がる。
沸き上がる歓声に、引き摺り続けた憂鬱を断ち切って覚悟を決めた。ここまで来たら考えても仕方がない。俺はすべきことを抜かりなく全うし、できるだけ早く引き上げるだけだ。
式典の熱狂はスタニスラスを高揚させ、その退屈な演説を少々長引かせたものの滞りなく進んだ。演説を終え興奮に顔を上気させたスタニスラスに肩を叩かれ、いよいよ舞台中央に歩み出る。
俺は心を閉ざして、口だけで音を奏でるように指示された通りの暴言を放った。
「下賤のお前らに何を言っても分からんのだから時間の無駄だ。どうせお前らはこれさえ貰えれば満足なんだろう」
案の定民衆の冷え切った視線を一斉に浴びた。
しかし、銀貨を撒くなり一瞬でそこは狂乱と暴力の場へと変貌する。俺とスタニスラスの演説によって溜まった鬱憤を晴らすかのように、殴り合い、奪い合い、子どもが大勢の大人に寄ってたかって踏みつけにされる場面もあった。
これまでもカサール家での己の地位を確保する為に、本意ではない言葉を放ち人を傷つけたことは数え切れない。だが、これだけ大勢の咎なき人間を、徒に暴力へと駆り立てた俺の罪はどれほどだろう。
目を背けたくなる光景を前にして、俺はすっかり板についた作り笑顔を貼り付ける他なかった。
銀貨を撒き終えると、怒号渦巻く広場をそのままに、俺はスタニスラスを急かして早々に舞台を降りた。
あとは屋敷に帰り、家督相続の文書を提出すれば完全にカサール家は俺の物だ。もうこのような無益で愚かな振る舞いをしなくて済む。
歩を速める俺に対し、スタニスラスは群がる女を悠然と物色し始めた。恐らく、人々が傷付け罵り合う様子を見て気が昂り、それを女で発散しようというのだ。
動物にも劣るその感性に、こちらは反吐が出そうな思いだというのに、あろうことかスタニスラスはお前もどうだと誘ってくる。
「ご冗談でしょう。こんな髪も目も色の暗い、加護の薄い市井の女、気色悪くて触ることもできませんよ。父上もお年なんですから、そろそろその悪食をご自重ください」
俺は女達を一瞥して見せると、そう言い捨てた。
こんな所でいつまでもぐずぐずしていたくなはい。最も効果的にスタニスラスの気を逸らす方法は、この男の持つ卑しい選民思想を肯定し、満足させることだ。案の定スタニスラスは上機嫌になってすぐに歩き出した。
酷く侮辱的な差別発言を受けても、女達は甘い声で媚びるように口先ばかりの非難をするだけだった。だが、俺の方は後悔に自分の胸をかきむしりたくなる。とりわけ加護差別を口にする時は、心が乱れて止まない。加護差別とは、アンリを拒絶することだ。たとえ目的の為とはいえ、そんな言葉を吐き出す度に、アンリを裏切るようで胸が軋み、声にならない慟哭が溢れ出そうになる。
こんな非情な言葉を平然と言い放つ俺をアンリが見たら、どれだけ傷付けることだろう。どれだけ軽蔑されることだろう。沢山の穢れた言葉で染まった俺の舌を、アンリは許し再び口付けてくれるのだろうか。
俯きがちに馬車に辿り着き、ふと会場を振り返る。
アンリに決して来るなと伝えて正解だった。あらゆる悪に満ちたこの場に、アンリがいなくて良かった。
自己嫌悪に苛まれながら、それでも安堵の息を吐いて広場を見渡すと、人垣の隙間に控えめに佇む小さな姿に視線を引き寄せられた。
瞬間、どくりと冷たく心臓が戦慄く。
遠い人影はフードを被っていて、顔は良く見えない。だが、覗く顎先の面影。少し背は伸びているが華奢な肩。そして何より、静謐で清らかな空気を纏ったその佇まい。
あれは、――アンリだ。
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