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第二章 失って得たもの

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 びくりと身体を震わせて振り向くと、そこに立っていたのはクリストフだった。

「あれほど言ったのに、どうして君は寝ていないんだ」

 フードの中で眉間に皺を寄せ、クリストフは呆れたように溜息を吐いた。僕は、緊張した体の力が一気に抜けていくのを感じた。
 気が緩んだあまり微笑みすら浮かべてしまった僕を見て、反省の色なしと感じたのか、クリストフが更に口角を下げる。

「今からでも休むように。店の亭主はどこだい? 私から話をつけよう。今後の君の処遇についても相談したい」

 そう言って辺りを見回すクリストフの後ろを見遣れば、例の三人組はこちらに注意は向けているようだが、席についたまま話し合いを続けている。すぐに何かしらの行動に移る様子はない。
 僕はともかく急いで状況を知らせなければと、クリストフの袖を引っ張り耳元に顔を近づけた。

「そんなことよりクリストフ、大事な話があるんだ」
「そんなこととは何だい。私は――」

 むっとしたようにクリストフが言い返したその時、店の入り口の方から大きな衝撃音が響いた。慌ててそちら見れば、重い金具の付いた木製のドアが吹き飛んでいる。幸い怪我人はいないようだが、入り口付近の客は唖然とした面持ちで、外を見つめていた。

 開け放たれた入り口から、まず獣の足が見えた。人間の頭ほどの大きさがある足の先には綺麗に並んだ鋭い爪が覗いている。大理石のような輝きを放つ灰色の斑模様の爪は、どこか見覚えがあった。
 その足が持ち上げられ、みしりと床板を鳴らしながら店の中に一歩入る。床に当たる爪が硬い音を立てた。そして大きな体を屈めてゆっくり入り口から姿を現したのは、虎によく似た生き物だった。しかし僕の知る虎とは明らかに違う。丸い耳と長い尾、筋肉質でしなやかな体躯はそのままだが、体は一回り大きく、口元からは二本の長く伸びた牙が見え、灰色の毛皮に覆われている。そして何より異なっているのは、瞳にあるのが目玉ではなく古木の洞のようにぽっかりと開いた闇の窪みであり、唸り声と共にだらだらと臭気の漂う唾液を垂らし続けている点だ。ただの獣ではない。これは魔物だ、と初めて見たにもかかわらず僕は直感した。

 開放的になった入り口から、魔物がのっそりと入って来る。その後ろには同じ獣が更に二頭控えているのが見えた。最初の一頭が徐に前足を持ち上げて、入り口の前にあるテーブルを薙ぎ払った。それだけで、テーブルは真っ二つに折れ、飛び散った食器がけたたましい音を立てる。それを合図に、固まっていた客達が一斉に立ち上がり、ある者は逃げ惑い、ある者は大声を出す。

「なんでこんな所に魔物が出るんだ!」
「なんつう大きさだ! 見たことがねぇ!」
「俺ぁこいつを知ってるぞ……比べ物にならねぇほど小さかったが。ギルドの話じゃトロフォティグルじゃねぇかって」
「トロフォティグルだぁ!? 抜かせ! そんなA級魔物が王都に出るわけねぇだろ!」

 冒険者達の怒号が飛び交う。
 恐る恐る隣を見上げると、僕の視線を受けたクリストフは強張った顔で頷いた。

「昨夜、王都から少し離れた場所でトロフォティグルの群れが目撃された。しかし、辺りに気配はなく誤報とされていたのだが。まさか王都に迫っていたとは……」

 昨夜の騎士団の緊急招集は、この魔物の偵察の為だったのか。
 トロフォティグル。前にクリストフが言っていた非常に凶悪で危険な魔物だ。王都の外にたった一頭、しかも幼体が出没しただけでクリストフは愕然としていた。それが今、成体が三頭も目の前に迫っているのだ。

 血の気の多い冒険者達は、混乱からか魔物を前に罵り合いを始めている。戦闘などとは無縁の市民は、腰が抜けて床に這いつくばって泣き叫んでいる。酒場内はすっかり恐慌状態だった。僕自身も、どうしたらいいのか分からず、ただおろおろと店の中を見渡すことしかできない。

 そこへ、凛とした声が混沌を貫くように響いた。

「各自、己のできることを見極めろ! 戦える者は武器を持て。そうでない者は裏口から逃げろ」

 清涼ながら威厳のある声音に、騒然としていた酒場が一瞬にして静まり返る。誰もが皆、声の主であるクリストフに注目していた。
 思わず僕も仰ぎ見た隣の人は、既にローブを脱ぎ捨て、剣を構えていた。真っ赤な髪が揺れ、同じ色の瞳が冷静に魔物を睨めつけている。

「おい、ありゃまさか、近衛の……」

 誰かがそう呟いて、静まった酒場がまたざわりと揺れる。そのさざ波のような囁きが満ちていく中で、クリストフが僕に言う。

「相手が三頭では勝ち目がない。君は客と共に逃げて騎士団へ救援を要請してくれ」
「……クリストフは?」
「少しでもここで足止めしなければ、城下は大混乱になる」
「でもっ」
「心配ない。さあ早く!」
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