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第二章 失って得たもの
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「そうか……。しかし、せめて寝る場所くらいは私に用意させてほしい。鍵も掛からぬこの部屋で君が夜を明かすのは看過できない」
「どうして?」
「どうして、って……。先程も言ったように、本来なら君への客の不埒な視線すら、私は不快なんだ」
クリストフは僕の接客態度を快く思っていないのだろうかと、僕が首を傾げて黙り込んでしまうと、クリストフは自分の額に手を遣って苦笑した。
「まさか、まだ分からないのかい? 困ったな」
そう言って、今度は僕の両頬をそっと掌で包んで、蕩けるように柔らかく微笑んだ。
「私は君を愛していると言っているんだよ」
クリストフが僕を? まさか。
僕自身自分の気持ちに今気付いたばかりだというのに、その想いを返してもらえるなんて、そんな都合のいいことがあるだろうか。とても信じられない。けれどクリストフは人を傷付ける嘘や、意味のない冗談を言う人では決してないことも知っている。
まるで暗がりから春の陽だまりに突然引っ張り出されたような、高鳴る驚きと温もり。じわりじわりと胸の中に広がっていく悦びに心が痺れ、浮かれていくのを、僕は懸命に引き止めた。
クリストフはとても美しい人だ。強くて優しくて、大好きな人だ。
だからこそ、僕と一緒にいてはいけない。黒の忌人で、卑しい感情で満たされた僕のような人間と共にあっては、彼まで汚れてしまう気がする。
僕は最初から彼の隣に並び立つ資格などないのだ。
僕は視線だけを俯けた。頬にあるクリストフの硬い指先が宥めるように撫でるけれど、浮き立つ心を戒めて口を開く。
「僕はクリストフに相応しくないよ。とても醜い人間なんだ。見た目だけの話じゃない。心の中も真っ黒だ。さっきみたいに、クリストフのことになると、妬んだり羨んだり、醜い心でいっぱいになっちゃうんだ。だから――」
「私はそれを、君からの愛の告白と受け取ったんだけれどね?」
驚いて視線を上げると、クリストフは悪戯っぽく瞳を細めていた。
僕は狼狽えて、焦った声を出した。
「妬んだりするのは悪いことでしょう? クリストフはそんな感情をぶつけられて嫌じゃないの?」
「君からの嫉妬は、むしろ愛しさを感じるよ。私のことを愛しているから嫉妬してしまうのだろう? 私も同じだ」
クリストフの言っていることが分からない。
だって僕の知っている愛とあまりにも違う。
「愛はその人の幸せを願って、その人の為に自分を犠牲にしてでも尽くすことじゃないの? 妬んでしまうのは自分本位な身勝手だ。本当の愛じゃないと思う」
「それじゃあ、私の愛も偽物だと言うのかい?」
焦ったあまりクリストフを蔑ろにした僕の無礼な発言にも、彼は怒ることなく喉の奥で笑っていた。まるで僕の戸惑いを慈しむように、穏やかに僕を見ていた。
「そういう訳じゃないけど……」
言葉に詰まって再び目を伏せると、空気の動く気配がした。次の瞬間、柔らかなものが唇に触れた。クリストフにキスをされている。驚きに固まってしまった僕の頬に触れる指は、変わらずに優しい。唇は一度離れ、またすぐに寄せられた。触れるだけのキスを数度繰り返してから、息のかかる距離でクリストフが言った。
「愛は美しく高尚なものだけじゃない。時には醜くもなるし、利己的で、憎しみと表裏一体の時もある。だが、私はそういう人間の営みそのものの愛を、健気で愛しいと思う。君はどうだい?」
少し潤んで見える赤い瞳に、胸の内まで射抜かれたようだった。
僕の抱いた黒い感情は、およそ愛とは程遠いものだと思っていた。僕の心根が卑しいせいなのだと思っていた。
けれど、これも愛がもたらすものの一つなのだろうか。
だとしたら、愛とはなんて苦しいものなのだろう。
ただその人を愛して、慈しむだけで済めば心は穏やかで清くいられる。でも相手を想えば想うほど、苦悩が生まれ、葛藤に悶えなければいけないだなんて、愛とは残酷だ。自分を失くしてしまうような、恐ろしい激情だ。
そこへ身を投じる勇気なんて僕にはない。怖くて堪らない。
でも。相手がクリストフならば。
たとえ身を切られるような苦悩にもがくことになったとしても、クリストフのことを想いたい。愛し、愛されたいと思ってしまう。いつだって、クリストフがいれば何も怖くないと思えてしまうから。この激情の渦に一緒に飛び込めることを、喜びとさえ感じてしまえるのだ。
「……うん。そうかもしれない」
そう答えて、今度は僕から唇を寄せた。クリストフは驚いたように僅かに目を見開いたが、ぎこちない僕のキスを受け入れてくれた。すぐに唇を離して、僕はクリストフを見つめ返した。
「僕はあなたを愛してる。醜い僕の感情ごと、あなたに愛してもらいたいんだ」
そう想いを告げれば、クリストフは僕を胸に強く抱き締めた。
「勿論だ! 愛しているよ、君の全てを」
叫ぶように言ったクリストフの声と共鳴して、頬に当たる胸が震えている。情熱的で優しい温もりに包まれて、僕は安堵と喜び、そして常に付き纏う僅かばかりの恐れも感じていた。
愛は美しく、怖い。けれど、だからこそ愛しい。
クリストフの言う通りだ。
この恐怖に打ち勝つことが、人を愛するということなのかもしれない。
「どうして?」
「どうして、って……。先程も言ったように、本来なら君への客の不埒な視線すら、私は不快なんだ」
クリストフは僕の接客態度を快く思っていないのだろうかと、僕が首を傾げて黙り込んでしまうと、クリストフは自分の額に手を遣って苦笑した。
「まさか、まだ分からないのかい? 困ったな」
そう言って、今度は僕の両頬をそっと掌で包んで、蕩けるように柔らかく微笑んだ。
「私は君を愛していると言っているんだよ」
クリストフが僕を? まさか。
僕自身自分の気持ちに今気付いたばかりだというのに、その想いを返してもらえるなんて、そんな都合のいいことがあるだろうか。とても信じられない。けれどクリストフは人を傷付ける嘘や、意味のない冗談を言う人では決してないことも知っている。
まるで暗がりから春の陽だまりに突然引っ張り出されたような、高鳴る驚きと温もり。じわりじわりと胸の中に広がっていく悦びに心が痺れ、浮かれていくのを、僕は懸命に引き止めた。
クリストフはとても美しい人だ。強くて優しくて、大好きな人だ。
だからこそ、僕と一緒にいてはいけない。黒の忌人で、卑しい感情で満たされた僕のような人間と共にあっては、彼まで汚れてしまう気がする。
僕は最初から彼の隣に並び立つ資格などないのだ。
僕は視線だけを俯けた。頬にあるクリストフの硬い指先が宥めるように撫でるけれど、浮き立つ心を戒めて口を開く。
「僕はクリストフに相応しくないよ。とても醜い人間なんだ。見た目だけの話じゃない。心の中も真っ黒だ。さっきみたいに、クリストフのことになると、妬んだり羨んだり、醜い心でいっぱいになっちゃうんだ。だから――」
「私はそれを、君からの愛の告白と受け取ったんだけれどね?」
驚いて視線を上げると、クリストフは悪戯っぽく瞳を細めていた。
僕は狼狽えて、焦った声を出した。
「妬んだりするのは悪いことでしょう? クリストフはそんな感情をぶつけられて嫌じゃないの?」
「君からの嫉妬は、むしろ愛しさを感じるよ。私のことを愛しているから嫉妬してしまうのだろう? 私も同じだ」
クリストフの言っていることが分からない。
だって僕の知っている愛とあまりにも違う。
「愛はその人の幸せを願って、その人の為に自分を犠牲にしてでも尽くすことじゃないの? 妬んでしまうのは自分本位な身勝手だ。本当の愛じゃないと思う」
「それじゃあ、私の愛も偽物だと言うのかい?」
焦ったあまりクリストフを蔑ろにした僕の無礼な発言にも、彼は怒ることなく喉の奥で笑っていた。まるで僕の戸惑いを慈しむように、穏やかに僕を見ていた。
「そういう訳じゃないけど……」
言葉に詰まって再び目を伏せると、空気の動く気配がした。次の瞬間、柔らかなものが唇に触れた。クリストフにキスをされている。驚きに固まってしまった僕の頬に触れる指は、変わらずに優しい。唇は一度離れ、またすぐに寄せられた。触れるだけのキスを数度繰り返してから、息のかかる距離でクリストフが言った。
「愛は美しく高尚なものだけじゃない。時には醜くもなるし、利己的で、憎しみと表裏一体の時もある。だが、私はそういう人間の営みそのものの愛を、健気で愛しいと思う。君はどうだい?」
少し潤んで見える赤い瞳に、胸の内まで射抜かれたようだった。
僕の抱いた黒い感情は、およそ愛とは程遠いものだと思っていた。僕の心根が卑しいせいなのだと思っていた。
けれど、これも愛がもたらすものの一つなのだろうか。
だとしたら、愛とはなんて苦しいものなのだろう。
ただその人を愛して、慈しむだけで済めば心は穏やかで清くいられる。でも相手を想えば想うほど、苦悩が生まれ、葛藤に悶えなければいけないだなんて、愛とは残酷だ。自分を失くしてしまうような、恐ろしい激情だ。
そこへ身を投じる勇気なんて僕にはない。怖くて堪らない。
でも。相手がクリストフならば。
たとえ身を切られるような苦悩にもがくことになったとしても、クリストフのことを想いたい。愛し、愛されたいと思ってしまう。いつだって、クリストフがいれば何も怖くないと思えてしまうから。この激情の渦に一緒に飛び込めることを、喜びとさえ感じてしまえるのだ。
「……うん。そうかもしれない」
そう答えて、今度は僕から唇を寄せた。クリストフは驚いたように僅かに目を見開いたが、ぎこちない僕のキスを受け入れてくれた。すぐに唇を離して、僕はクリストフを見つめ返した。
「僕はあなたを愛してる。醜い僕の感情ごと、あなたに愛してもらいたいんだ」
そう想いを告げれば、クリストフは僕を胸に強く抱き締めた。
「勿論だ! 愛しているよ、君の全てを」
叫ぶように言ったクリストフの声と共鳴して、頬に当たる胸が震えている。情熱的で優しい温もりに包まれて、僕は安堵と喜び、そして常に付き纏う僅かばかりの恐れも感じていた。
愛は美しく、怖い。けれど、だからこそ愛しい。
クリストフの言う通りだ。
この恐怖に打ち勝つことが、人を愛するということなのかもしれない。
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