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第二章 失って得たもの

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 今何時だろうか。夜更けにふと目が覚めて、自室にぐるりと視線を巡らせる。今夜は満月のようで、月光が部屋の中を明るく照らしていた。美しい銀の光を反射する一面の埃に辟易としながら、僕はベッドから身を起こした。
 耳を澄ましても賑やかな声は聞こえてこない。酒場も散会しているのだろう。随分酔っ払っている客もいたが、皆ちゃんと宿の自室に帰れただろうか。

 僕はまた酒場で体調を崩し、客達に自室へと追いやられていた。本当に情けない話だ。
 再び体が熱を帯びていることに気付いたあの日からみるみる体調は悪化して、五日と経たず僕はまた仕事も満足にできないようになっていた。
 不調の原因は加護溜まりだと分かっているのだから、自慰をすれば解決する話だ。僕も何度も試みたのだが、いざことに及ぼうとすると、こちらをひたと見据えるクリストフの燃えるような赤い瞳が脳裏を過った。その記憶が、熱く触れる舌の感触や、耳の奥に響くよく通る声、僕の手に添えられた硬い指先などを次々に思い起こさせる。あの夜からもう二週間が過ぎ、その間クリストフとは一度も会えていないというのに、鮮明なままの記憶が僕を苦しめる。
 今頃クリストフは、花嫁と幸せそうに結婚式の準備をしているのだろうか。
 そんなことを考えてしまい、僕の心の卑しい影がまたざわざわと騒ぎ出すので、とても自慰など続けられなかった。無心を努めて陰茎に触れてみても、以前のように芯を持つことはなかったし、響くような刺激も得られず、翌日に症状が緩和することも一切なかった。あの腹の奥から湧き上がるような感覚こそが、加護溜まりを解消するのだろうと僕は理解した。
 宿の亭主に迷惑を掛け、客達に心配を掛け、申し訳ない気持ちでいっぱいだけれど、唯一の緩和法である自慰すらできない僕には、この加護溜まりをどうすることもできない。

 いっそまだ動ける内に、ここを辞めて出て行こうかとすら思ってしまう。
 忌人で病人の僕がここを辞めてしまったら、もう二度と仕事に就くことはできないだろう。生き抜くことさえ困難に違いない。冷静な頭では分かっているのに、僕はここから逃げ出したくて堪らなかった。クリストフがいつやって来るかと怯えて待つのに疲れてしまった。卑怯な僕は、妬みに染まった醜い心をクリストフに咎められるのが怖くて、受けた数々の恩をそのままに逃げようとしているのだ。

 日が開けば開くほど、僕の嫉妬心は収まるどころか増大していった。
 クリストフが僕に結婚の報告をするその日が来るのが怖かった。この世の春とばかりに微笑んで花嫁について話す彼に、彼女が羨ましいと口走ってしまいそうな自分が怖かった。
 僕の体調が一度軽快した後再び悪化したと聞かされたクリストフが、心配そうに顔色を曇らせ、友人としての善意から自慰をまた手伝おうと言い出しでもしたら、僕は悲しくて苦しくてどうにかなってしまう。

 恐ろしい想像に、体の末端の悪寒が背筋まで駆け上がった。体調のせいか鬱々とした考えばかりで占められた頭を振って、僕はベッドから下りた。
 水でも飲んで気持ちを落ち着かせようと自室のドアを開けると、廊下の奥に並んで歩く人影があった。長身のローブの人が、隣の人を肩に担いで部屋に運んでいる。僕は、ひゅっと息を呑んだ。
 クリストフだ。酔い潰れた客を運んでくれている。
 そう気付いた僕は、開いた扉を音を立てずに閉めて、またベッドに潜り込んだ。心臓を冷たく拍動させながら、毛布を頭まで被ってぎゅっと目を閉じた。ドアをノックされても寝た振りをしよう。そうすればクリストフはきっと帰ってくれるはずだ。それが何の解決にもならないことは分かっていたが、目の前の恐怖からただ逃げ出したくて、僕は子どものように毛布の中で丸まった。

 客の部屋のドアが閉まる音がして、廊下を踏みしめる軋んだ音が近づく。果たして僕の自室のドアは優しくノックされた。僕は身を強張らせて息を潜めていたが、願い通りに遠ざかる足音は聞こえず、しばらくの間の後に「失礼するよ」と声がしてドアは静かに開けられたのだ。忍ばせた足音がベッドの脇まで近付く。そして毛布越しに僕の肩を叩いた。懐かしく優しい声音と共に。
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