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第二章 失って得たもの
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クリストフが結婚する。
なんとめでたいことだろう。クリストフのことだから、たとえ家同士の政治的な婚姻だとしても、花嫁を大切にして幸せな家庭を築くことだろう。次にクリストフに会った時には、目一杯お祝いをしよう。
そう思うのに、僕の心の有り様は晴れやかなものとは全く対極にあった。冷え切った心の奥底に、自分でも分からないもやもやとした黒い淀みが沈んでいく。
「相手はどこぞの高貴な御令嬢なんだろ?」
「いやそれがな、なんでも平民らしいぞ」
「なんだって? 名門のシュヴァリエ家が認める訳ねぇだろう」
「当然反対されたそうだが、クリストフは頑として曲げなかったらしくてな。とうとう実家が根負けしたんだとよ。相当惚れ込んでんだろうな」
「へぇ、相手の娘は当代随一の色男と名門家の妻の座を一度に手に入れて、まさに玉の輿だな。まるで御伽噺じゃねぇか。クリストフってのは顔だけじゃなくて人生まで王子様ってか」
「いかにも女達が好きそうな話だろ? 今巷じゃクリストフはすっかり女子どもの人気者さ」
「なるほどねぇ。あいつが城下町を警邏してっと娘共が色めき立ちやがって鬱陶しかったが、またうるさくなりそうだな。だから俺はあいつが嫌いなんだ。騎士のくせに悪目立ちしてよ」
「……モテねぇ男の僻みはダセェなぁ」
「あ? なんつったコラ?」
次第に口喧嘩が激しくなって胸倉を掴み合う二人の間に、別の客が入って宥めていた。僕はその様子を、止めもせずただぼんやりと眺めていた。
クリストフがそれほど激しい恋をしていたなんて、ちっとも知らなかった。確かにクリストフは頑固なところがあるが、自分の立場をよく弁えている人だ。誰よりもシュヴァリエという家名の重みを理解し、それに適う振る舞いを心がけている。そのクリストフが、家門の使命よりも己の恋情を通すなんて。
これほどの愛情を注がれる相手とは、一体どんな人なのだろう。クリストフからどんな言葉を囁かれ、どんな風に愛されているのだろう。
いいなぁ、羨ましいな。
僕の心にぽつりと浮かんだその感情はとても醜くて、自分のことながら信じられなかった。
僕は黒の忌人だ。本来なら、クリストフのような高貴な人と同じ場所にいることすら許されない穢れた人間だ。友人という立場を得られただけでも奇跡のようなものなのに、クリストフの想い人を羨み妬むなんて、僕は心根まで穢れてしまった。
こんな気持ちを抱いてはいけない。僕には人に誇れるような優れた部分は何もないけれど、少なくとも人の幸せを妬むような人間ではなかったはずだ。クリストフが恥と思うような友人にはなりたくない。
でも。
クリストフが次に僕の前に現れた時に、僕は心からの笑顔で祝福できるだろうか。人知れず想い続けた激しく一途な恋を成就させたクリストフに、「おめでとう、お幸せに」と言えるだろうか。簡単なはずのその言葉が、今の僕にはとても難しく思えた。
いっそのこと、幸せに浮かれたクリストフがこのままこの店と僕の存在を忘れてしまえばいいのに。そうすれば、幸福に微笑む彼の口から真実を告げられることもない。それに対して喉を引き絞って言祝ぎを紡ぐ必要も、貼り付けた偽物の笑顔を看破される恐怖に怯えることもしなくて済む。僕は、手は掛かるが善良な友人だったと、年を経てからふと思い出して貰える人間になるだろう。
けれど、そんなことは絶対にあり得ないのだ。
責任感が強く、騎士道に忠実なクリストフが、一度は任務として関わったこの店の存在を忘れ、そのままにしてしまうなどあるはずがない。そして僕のことも、過保護なくらいに心配して、全てが解決するまで微に入り細に入り気に掛けてくれるのだろう。クリストフとはそういう人だ。だからこそ彼を尊敬しているし、友人となれたことが僕は嬉しかったのだ。
さもしい嫉妬に身を灼かれ、臆病な心に支配され、起こり得ない想像でクリストフの人格を貶めてはそれに希望を見出すだなんて、僕はなんて卑劣で醜い人間なのだろう。自分の中に、こんな悪魔のような感情があるだなんて知らなかった。僕が忌人だからだろうか。いや、違う。全ては自分で培ってしまったものなのだ。
クリストフの愛する人を思い描くだけで、こんなにも卑しい思考に囚われてしまう自分が、僕は怖くなった。
息苦しさを感じて、自分の胸の辺りをぎゅっと掴むと、カウンターにもたれて息を吐いた。
「どうしたアンリ。また具合が悪いんじゃねぇのか?」
青い顔で俯く僕に、常連客がそう声を掛ける。首を横に振って、大丈夫、と答えようと息を吸い込んだ拍子に咳き込んだ。胸が熱い。息苦しい。身体の末端からは悪寒が立ち上る。
治ったと思ったあの加護溜まりの症状が、突然ぶり返したのだ。いや、思い返してみれば、昨日あたりから火照りを感じていたような気もする。気弱になった心に、体が引き摺られてしまったのだろうか。
僕は胸を摩りながら、今度こそ「大丈夫」と返事をした。
必死に繕ったその笑顔の裏で、僕の心は黒く塗り潰されていくようだった。
なんとめでたいことだろう。クリストフのことだから、たとえ家同士の政治的な婚姻だとしても、花嫁を大切にして幸せな家庭を築くことだろう。次にクリストフに会った時には、目一杯お祝いをしよう。
そう思うのに、僕の心の有り様は晴れやかなものとは全く対極にあった。冷え切った心の奥底に、自分でも分からないもやもやとした黒い淀みが沈んでいく。
「相手はどこぞの高貴な御令嬢なんだろ?」
「いやそれがな、なんでも平民らしいぞ」
「なんだって? 名門のシュヴァリエ家が認める訳ねぇだろう」
「当然反対されたそうだが、クリストフは頑として曲げなかったらしくてな。とうとう実家が根負けしたんだとよ。相当惚れ込んでんだろうな」
「へぇ、相手の娘は当代随一の色男と名門家の妻の座を一度に手に入れて、まさに玉の輿だな。まるで御伽噺じゃねぇか。クリストフってのは顔だけじゃなくて人生まで王子様ってか」
「いかにも女達が好きそうな話だろ? 今巷じゃクリストフはすっかり女子どもの人気者さ」
「なるほどねぇ。あいつが城下町を警邏してっと娘共が色めき立ちやがって鬱陶しかったが、またうるさくなりそうだな。だから俺はあいつが嫌いなんだ。騎士のくせに悪目立ちしてよ」
「……モテねぇ男の僻みはダセェなぁ」
「あ? なんつったコラ?」
次第に口喧嘩が激しくなって胸倉を掴み合う二人の間に、別の客が入って宥めていた。僕はその様子を、止めもせずただぼんやりと眺めていた。
クリストフがそれほど激しい恋をしていたなんて、ちっとも知らなかった。確かにクリストフは頑固なところがあるが、自分の立場をよく弁えている人だ。誰よりもシュヴァリエという家名の重みを理解し、それに適う振る舞いを心がけている。そのクリストフが、家門の使命よりも己の恋情を通すなんて。
これほどの愛情を注がれる相手とは、一体どんな人なのだろう。クリストフからどんな言葉を囁かれ、どんな風に愛されているのだろう。
いいなぁ、羨ましいな。
僕の心にぽつりと浮かんだその感情はとても醜くて、自分のことながら信じられなかった。
僕は黒の忌人だ。本来なら、クリストフのような高貴な人と同じ場所にいることすら許されない穢れた人間だ。友人という立場を得られただけでも奇跡のようなものなのに、クリストフの想い人を羨み妬むなんて、僕は心根まで穢れてしまった。
こんな気持ちを抱いてはいけない。僕には人に誇れるような優れた部分は何もないけれど、少なくとも人の幸せを妬むような人間ではなかったはずだ。クリストフが恥と思うような友人にはなりたくない。
でも。
クリストフが次に僕の前に現れた時に、僕は心からの笑顔で祝福できるだろうか。人知れず想い続けた激しく一途な恋を成就させたクリストフに、「おめでとう、お幸せに」と言えるだろうか。簡単なはずのその言葉が、今の僕にはとても難しく思えた。
いっそのこと、幸せに浮かれたクリストフがこのままこの店と僕の存在を忘れてしまえばいいのに。そうすれば、幸福に微笑む彼の口から真実を告げられることもない。それに対して喉を引き絞って言祝ぎを紡ぐ必要も、貼り付けた偽物の笑顔を看破される恐怖に怯えることもしなくて済む。僕は、手は掛かるが善良な友人だったと、年を経てからふと思い出して貰える人間になるだろう。
けれど、そんなことは絶対にあり得ないのだ。
責任感が強く、騎士道に忠実なクリストフが、一度は任務として関わったこの店の存在を忘れ、そのままにしてしまうなどあるはずがない。そして僕のことも、過保護なくらいに心配して、全てが解決するまで微に入り細に入り気に掛けてくれるのだろう。クリストフとはそういう人だ。だからこそ彼を尊敬しているし、友人となれたことが僕は嬉しかったのだ。
さもしい嫉妬に身を灼かれ、臆病な心に支配され、起こり得ない想像でクリストフの人格を貶めてはそれに希望を見出すだなんて、僕はなんて卑劣で醜い人間なのだろう。自分の中に、こんな悪魔のような感情があるだなんて知らなかった。僕が忌人だからだろうか。いや、違う。全ては自分で培ってしまったものなのだ。
クリストフの愛する人を思い描くだけで、こんなにも卑しい思考に囚われてしまう自分が、僕は怖くなった。
息苦しさを感じて、自分の胸の辺りをぎゅっと掴むと、カウンターにもたれて息を吐いた。
「どうしたアンリ。また具合が悪いんじゃねぇのか?」
青い顔で俯く僕に、常連客がそう声を掛ける。首を横に振って、大丈夫、と答えようと息を吸い込んだ拍子に咳き込んだ。胸が熱い。息苦しい。身体の末端からは悪寒が立ち上る。
治ったと思ったあの加護溜まりの症状が、突然ぶり返したのだ。いや、思い返してみれば、昨日あたりから火照りを感じていたような気もする。気弱になった心に、体が引き摺られてしまったのだろうか。
僕は胸を摩りながら、今度こそ「大丈夫」と返事をした。
必死に繕ったその笑顔の裏で、僕の心は黒く塗り潰されていくようだった。
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