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第二章 失って得たもの

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「一体どうなってんだ、この宿は!」

 怒鳴り声のする方を振り返って見れば、パン屋よりも更に奥まった場所にある安宿の前に人が集まっていた。筋骨隆々とした体躯の男性が、宿屋の亭主だろう男性を数人で取り囲んで喚き散らしていたのだ。

「話が違うじゃねぇか!」
「俺らは十日の滞在の約束で前金も渡してたよな? それが、酒はねぇ、飯もねぇ、挙句に金も返せねぇだと!? ふざけてんのか!」

 ドン、と肩を小突かれると亭主はたたらを踏み、益々頭を深く下げた。

「すみません! うちの下働きの坊主がお客さんの前金を持ち逃げしちまったみたいで……。十日の滞在とは私も聞いてなくて……」
「知らねぇよ! 俺らは確かに払ったんだ。今すぐ飯と酒を用意しろ!」
「は、はい……ただ今この宿には私しか従業員がいないもんで、少しお待ち頂いて……」
「うるせぇ! それはてめぇの都合だろうが。俺達にゃ関係ねぇ。今すぐと言ったら今すぐだ!」

 言い捨てて大きな男性達は亭主を置いてさっさと宿の中に入って行った。
 この宿は立地からか荒くれ者の冒険者達に愛用されているようで、夜になると酔客による大騒ぎの声が辺り一帯に響き渡る。一度仕事探しで帰りが遅くなってこの宿の前を通りかかった時に、酔っ払った客にしつこく絡まれて怖い思いをしたので、以来あまり近づかないようにしていた。
 
 顔面蒼白になった亭主は走ってパン屋へ向かったが、そこが既に閉まっていると気付くと大声を上げて頭を抱えていた。そして立ち尽くしている僕の方を振り返った。僕が抱えた大きなパンをじっと見ている。

「おい、そこの! そのパンを譲ってくれ!」
「すみません……僕昨日から何も食べてなくて。これがないと……」
「替わりにうちのスープを好きなだけ食わせてやるから! パンの代金も払う! 今だけ少し融通してくれ!」

 断ろうと思ったのだが、亭主は困りきった顔で目に涙さえ浮かべて僕の腕にしがみついている。この時間に近所でパンを手に入れるのは難しいだろう。僕がこのパンを譲らなかったら、きっとこの人は先程の男達に痛めつけられるはずだ。あんな頑強な人達に殴られたりしたら、きっと大怪我になる。
 僕は迷ってしまった。それに、亭主の言うスープという言葉に誘惑されてしまったのもある。しばらくパンとチーズしか食べていない。温かいスープを想像して、お腹が小さく鳴ってしまった。

 頼む、と繰り返す亭主に僕がこくりと頷くと、抱えていたパンを奪うように取り上げられた。亭主が礼も言わずに走って宿屋へ戻る。
 僕はあまりの変わり身の早さに呆気に取られてしまったが、このままパンだけ取られてなるものかと亭主の後について行った。

「おいあんた、ぼさっと見てるなら少しは手伝ったりして気を利かせたらどうだ!」

 パンの代金を貰うまではと亭主にくっついて調理場まで押しかけると、忙しく立ち回る亭主に怒鳴られてしまった。横暴な客達に散々どやされて、苛立ちが募っていたのだろう。
 僕が手伝う義理はないと思ったが、パンの質が悪いと怒られ、酒が少ないと脅され、食事はまだかと恫喝されている姿を見て可哀想にも思ってしまった。
 どうせ僕は家に帰ってもすることがないのだし、人の役に立つのならと調理場の竈でぐらぐらと湯が沸いている鍋の前に立った。前世では小さな頃から家事を担っていたから、料理は得意な方だった。スープ用の具材だろう野菜と塩漬け肉がまな板に用意されていたので、適当に切って鍋に入れる。亭主に味付けを聞こうと思ったが、どこかに酒を調達に行ってしまったらしく見当たらない。客席からはまだかと呼ばわる声が止まないし、近くにあった香辛料や調味料で自分好みに味付けをした。
 味の確認のために亭主の帰りを待っていると、酒が回り我慢も利かなくなったらしい客が調理場まで怒鳴り込んできた。

「パンと酒だけしかねぇのか、ここは!」
「なんだ、スープがあるじゃねぇか。寄越せ!」

 そう言って手を差し出されたので、慌てて手近にあった器に盛る。荒々しく奪われて、その場で器に直接口をつけ喉を鳴らした客は、

「お、安っぽいがなかなかだな」

 と言っておかわりを山盛りに所望して席に戻って行った。それからはある程度腹も膨れて満足したのか、怒号は収まり機嫌の良い声が聞こえてくる。
 その頃になって、やっと亭主が帰ってきた。落ち着いた酒場の様子を見てほっと胸を撫で下ろすと、僕の作った鍋を覗き込み、一口味見をしてふぅむと唸る。

「あんた、その様子じゃ仕事もないんだろ。うちで働く気は?」
「えっ、いいんですか!」

 僕は思わず身を乗り出してしまった。やはり人には親切にしておくべきだ。まさかこんな所で職を得られるとは思わなかった。

「しかしその陰気くさい格好は何とかならんかね」
「……えっと……顔に酷い火傷があって。周りの人を不快にさせるので……」

 仕事を探している時はいつもこう嘘を吐いていた。また不採用だろうかと冷や汗をかきながら相手の顔色を窺っていたが、値踏みするようにじろじろと目を眇めて僕を見て、亭主は言った。

「そんな見た目じゃ給金も下がるが、いいな?」

 僕は大喜びで頷いた。
 やった。初めて職を得られた! それも誰にも頼らず自分の力で!
 
「それじゃ早速あのお客さん達のベッドを用意してくれ。シーツは二階の倉庫にあるから」

 やる気に溢れていた僕は、すぐに言われた仕事に取り掛かった。久々の肉体労働で体が悲鳴を上げていたが、それを気力で補って走り回った。
 結局深夜まで働かされて家に帰り着いた僕は、約束だったスープもパンの代金も受け取っていないことに気付いたが、それよりも職を得られた喜びで充実感に満たされていた。ベッドに横たわると疲労ですぐに瞼が下りてくる。いつもは明日のパンの心配をしながら不安な心を持て余し眠りにつくのだが、この日は久しぶりに良い夢を見られそうだと心地よい睡魔に身を委ねたのだった。
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