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秋の最終章 玄霧

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涼平はオペの立会をしていた、患者につながれている麻酔機の音が一定間隔で機械的な音を立て稼働している、呼吸器外科の手術支援ロボットを使用する肺がんのオペであった、彼の会社で新商品の研究開発の末にようやく形になった特殊形状の吸引管である、この日オペの後半で試用するとのことで彼は昼過ぎにオペ室へ入室した、暫くして執刀のDrがポジションを変わる合間を見て一言挨拶をした、
「さっきもう使ってみたよ、あれでいいと思います…」
術衣を召されたまま助手のDrに任せてアシストに廻っていたのである、涼平は続ける、
「ありがとうございます、吸引ヘッドの形状等は何か細部に関するご意見等はございますか?」
暫し間が開いて、Drは術部を映してあるモニターを観ながらある個所を指さした、
「これみて…こういうところを吸引するときに、吸引孔があと数ミリ大きい方がいいかな」
彼はDrと綿密な打ち合わせを行う…
数分たった、
「今日はありがとうございます、立会はもういいですよ…」
涼平は礼を言いオペ室を後にした……
夕刻の陽光がサイドミラーへ燦燦と斜光している、既に夏の終わりを予感さえる冷涼な風が石狩湾の方からそよいできていた、彼はネイビーブルーの麻のジャケットを羽織る、眩しさでサングラスをかける、病院の駐車場を後にした…

スマホが鳴っているのに暫くして気が付いた、涼平はオーディオとつないでいた、
「もしもし、涼平ちゃん、俺だけど…」
表示を見なくてもその声で徹だとわかった、
「おぉお久…」
「今日、飲みに行かない?暇だったら…」
「いっつも暇だよ、そうだ、焼肉いかない?笑」
涼平は久しぶりに焼肉が無性に食べたくなったのだ、
「いいよ、でも今月金欠で………」
「そんなの気にするな、俺が奢るよ、ぱぁっと飲もうぜ」
「あざっす、涼平の兄貴」
剽軽な声に涼平は暫し微笑する、
「そう言えば…あの店、憶えてるか?前行った、シャトーブリアン食えるところ、ユッケもうまかった和牛専門の…」
なぜか徹の反応は速かった、
「あった棒よ、美味しい店は全部憶えてますう」
徹とその店の界隈で後程落ち合う約束をした、
暫くたち、車を自宅車庫へ停車した、そして簡単に荷物を置いて、再び外へ出る、流しのタクシーが数台通りかかったので手を挙げた…

その店は、JR線某駅の近くにある、あまり目だたないが穴場的スポットであった、店主は和牛牧場を経営していて謂わば直営の焼肉店である、そして店内は意外にとても静かであった、価格帯は高いが提供される肉質は極上である、程無くして徹と合流しそのまま入店した、カウンターの席に腰を落ち着け、前掛けととりあえず生を大ジョッキで頼んだ、ビールと共にお通しのナムルが出て来た、二人はジョッキをゆっくりと挙げた…
「乾杯」
男二人の焼肉宴会の始まりであった、徹は美味しそうにのどを潤した、
「涼平なんか雰囲気変わった?」
徹は何か涼平の変化を感じ取ったようであった、
涼平はジョッキをゆっくりと落ち着けて、そして語り始めた、
「彼女と最後の旅行に行くことにしたよ、今度、釧路へ………霧の町へ…」
徹は何か納得したようなしないような、少し解さないような表情を浮かべる、
「何か変わったね……涼平ちゃんは……」
涼平は一瞬微笑を浮かべた、何かが終わってそして何かが新しく始まった、涼平はそのような眼差しと表情を醸していたのである、徹に敢えて返答はしなかった、特に取り繕って説明する必要が全くないからである、さしが程よく入った上カルビがたれ付きで運ばれてきた、涼平はジョッキのビールを空けた、そして国稀の冷を二合でもらった、一升瓶を涼しいところへ置いていたのであろう、程よく冷えていて口当たりが非常に良い、何杯でも飲めてしまいそうだ、夏の札幌の楽しみの一つは冷涼な道東産の脂の乗ったニシンを骨切した後で糸づくり風にして生姜醤油でいただく、そして四合瓶に移してキンキンに冷蔵庫で冷やした国稀を切子のグラスにゆっくりと注ぐ、風鈴が心地よい夕刻の風を運んでいる、すっきりとしていながら酒米の旨味と香りを愉しめる、北国の夏であった……
「涼ちゃんもう酒のむの? 俺はハイボールにしようかな」
徹は店の角ハイボールを濃いめでたのんだ、ナムルをつつきながら、
「徹、最近なんか浮いた話ないの?」
酒をグッともう一口飲んで徹へ訊いた、
「実は、新しい彼女ができちゃったの…」
剽軽というか、またか、という表情を涼平は浮かべる…
「懲りないいい男だ、徹は… 笑」
二人は微笑する、いつの間にか、徹は肉番長になって肉やホルモンを焼き始めた、白い煙といい香りが立ち込める、ユッケとキムチ盛り合わせが来た、ここのキムチや調味料は韓国出身の女将さんが手作りしている、キムチはアミの塩漬けが効いていてとても本場の味を再現している、
暫くして酒もなくなり、そしてその時涼平はふと何かを思い出した、
「ご主人、前置いていったラフロイグ、まだあります?」
不愛想な表情で、だがサービス精神の旺盛なご主人である、
「飲んでないよ、たぶんあるよ…」
ご主人はカウンター奥の棚を探す、色々なキープ用の札のついた無数の瓶の中を入念にさがす、程なくして、
「あったよ、これでしょ? キープ代の代わりにもう少しで飲んじゃうところだったよ」
ご主人は笑う、
「ありがとうございます、一緒に空けちゃいましょう」
「頂きます…」
ご主人は勤務中関係なしで早速飲みたいようである、
「そんないい酒あったの? 早く言ってよ」
徹も早速乗ってきた、
「じゃあみんなで飲むか…」
至極スモーキーで強烈な個性、味の濃い肉料理と非常に相性が良い、シングルモルトの至高の一品……
男の焼肉酒宴はゆっくりと過ぎていった……

店を後にする頃、二人は酔っていた、千鳥足とまではいかないが、珍しく二人して酔っ払ったのであった、
「涼ちゃん、俺の家で飲みなおそうよ…」
涼平は徹の家に行くのは久しぶりであった、二人はタクシーを拾い河岸を変えた、運転手に行き先を伝えた、
「家に酒あるのか?」
「この前貯め買いしておいた、ビールが……ケース買いで…」
涼平は少年のように笑い出した、
「ケースって、立ち飲み屋でも始めるのか?」
「宅飲み限定でね…」
二人は笑い出す。

程無くして徹の家についた、整理整頓が行き届いていて殆ど物と言う物がない、基本的な家具家電以外に余計なものが全くない、剽軽な性格からして雑そうであるが、実は非常にシンプルである、仕事ができる理由が垣間見られるようであった、
「涼ちゃん、取り敢えず…ルービーでいい?」
冷涼な秋口の夜風の中を少し歩いたおかげで酔いが少し冷めていた……
「頂こう、さぁ飲みなおそう…」
意外にも冷蔵庫からアサヒの大瓶を二本出してきた、涼平はその滑稽な場面に呆気にとられた、
「大瓶って……大阪行って焼肉屋でもやったらいいよ」
二人は笑い出す、徹は颯爽とグラスを二つ持ってきて栓を抜いた、先ずは徹が涼平へ、そして涼平が徹へ、ゆっくりと注いだ、乾杯をして二人ともグラスを一気に空けた…
「うまい…ところで…涼平ちゃんいつ釧路へ行くの?」
涼平は手酌でビールを注いだ、
「今週かな…とにかく俺は先に行って待ってるつもりだ……」
徹は微笑して手酌で同じくグラスへ注いだ、
「ロマンティックな二人だけど…好きなのに別れるって…俺は意味不明だね、しかもあんないい女と…」
二人はまた一口ビールを含んだ…
涼平はグラスをテーブルの方へ静かに置いて、急に真面目な表情で語り始めた、
「それが…前にも言ったと思うけど、ずっと何年も一緒に居るのことが最善の選択だとは思えない……確かに俺のじいちゃんばあちゃんみたいに何年も仲良く連れ添うという実例も存在しているけど、時代背景も違うけれども、今俺らが生きてる時代に、テクノロジーのお蔭でよい意味でもわるい意味でも“終わりの無さ”をもたらしてくれた、何かしら終わりがないように思える、太平の世が続くことは非常に平和な事だけれども、その反面ドラマティックな事もあまりない、今日の酒が最高に美味しく、明日はもうこんな美味い酒が二度と飲めないだろう、という事もあまりない、明日という事が平然とやってきてまた平穏な営みが繰り返される、今が最高の状態でもうこれ以上良くもならないし、後は性の倦怠というのか、慣れ過ぎてしまってお互いの悪いところが目につき始める、そしてロマンティックな甘美は徐々に変質して醜悪を露呈し始める……」
徹は涼平のグラスへビールを注ぎ足して、煙草を一本ふかす、ビールで喉を潤した、
「涼平ちゃんは結婚したこともあるし…俺よりも経験は豊富だし、でも俺は『好きな人とはずっといたい』、と思うけどね……」
涼平は一瞬微笑をする、
「徹が間違っている、とか正しいとか、俺がどうっていう話じゃないよ、それはそれで構わないし、事実、皆自身のビジョンの中で生きているにすぎない、俺の中では明日よりも今こう酒を飲んで話をしてる、この瞬間自体の方が何よりも真実であって…生き方の違い、世界観と価値観の差異、どうだろう、お互いの甘美な想いをお互いの想い出の中で美しく永生させる、その唯一の手段が最高の時に別れることだと思った、彼女もそうだと思っている…」
徹は気を利かせたように、間を置くように冷蔵庫からもう二本瓶を持ってきた、
「うちはラストオーダーありませんからね、酒もセルフでお願い致しますよ 笑」
二人は笑い出す、徹は続けた、
「涼平、いつも哲学チック過ぎて偶に意味不明だけど、今日は珍しくわかりやすいよ、今が最高の状態なんだね、お二人は…」
「そういう事だ…」
徹は栓を開けた、
「あのやばい奴らに襲われたときは、本当にドラマティックだと思ったけどね..」
涼平は微笑する、
「友の助けもあり、非常にありがたく思っております…」
涼平は律義に畏まった、そして続ける、
「朝まで付き合えよ…」
二人は笑い出す、札幌も秋口の夜長は寒い、冷涼な夜風が少し空いた窓から入ってくる、
「徹、何かつまみ作るよ、あと酒はまだあるか?」
徹は冷蔵庫を開けて中を覗き込むように見る、
「隊長、食料が常に底をついて居ります、酒も配給制ですので…」
涼平は笑う、
「しょうがねえな、今から仕入れに行くぞ…笑」
札幌の夜はゆっくりと更けていった…

釧路行の特急あおぞら五号は八番乗り場から十一時五十分の発車になります、札幌駅の構内にアナウンスが流れている、人々が東西南北へ行き来している、掲示板を見あげる、釧路へ電車で行くのは久しぶりであった、いつもは車で移動なのでゆっくりと車窓を愉しむ余裕もない、帯広のなだらかな牧草地帯、そして山を抜けて右手に見える晴れ渡った北太平洋の大海原……そして霧の立ち込める釧路の町…
涼平は玲子へショートメッセージを入れる、
―今日、釧路へ行きます、今回は列車の旅です、あの場所で待ってる― 涼平
そして彼はスマホをバックにしまった、いざ列車の長旅である、普通であれば何か喪失感があり感傷的なイメージの傷心旅行のように思われがちであるが、彼はそうではなかった、なぜであろうか、新しい何かの出発であった。
晴れ渡る札幌の碧空、涼平は旅情に耽っていた。

道東に近づくに連れて車窓はなだらかな穀倉地帯から開けた北太平洋へと変わって行った、涼平は前半の区間を眠ってしまった、ふと目覚めると既に帯広駅を遠に過ぎていた、札幌駅の構内で買った飲み物を買い物袋から出した、少しぬるくなってしまった、サッポロのロング缶を開ける、寝起きの乾いた喉にビールの芳醇な味が沁みる。
長らくのご乗車誠にありがとうございます、定刻通りに間もなく釧路駅に到着いたします..
アナウンスが流れる、彼はもう一口ビールを愉しんだ…

霧の立ち込める釧路の街、あの時と同じホテルをとった、夕刻の風景、幽玄な霧が立ち込め隙間から夕陽がベールを成すように斜光している、一瞬夕陽が涼平の目を射抜いた、ホテルに荷物を置いた、あの時は同じフロア―の部屋だったろうか、間取りが逆になっていた、別の部屋であったろうか…窓の外を見渡した、霧が晴れてブルーの夜景が広がっていた、あの横町へ繰り出していった……

平日のあの横町、閑散としている、この次のコーナーがあの時の焼トン屋さんである、
営業しているのであろうか、玲子からの返信はない、店の横を通り過ぎる、本日は定休日の張り紙があった、まだその時が来てないのであろうか、そのような心境になっていた、暫く散歩を続けることにした、この日はホテルへ戻り早めに休むことにしたのであった。

釧路湿原は初めて訪れた、脚を木製のどこまでも続いている遊歩道へ踏み入れる、快晴の翌日、霧とは完全に無縁の晴れ渡る碧い空、涼平は独り一面に続く湿原を見渡す、その時スマホにメッセージが届いたのに気付いた、
― 釧路に着きました… 玲子
彼はゆっくりと文字を打つ、
― 今晩あの場所で会おう…あの焼トン屋で  涼平
返信が直ぐにあった、
― またハイボール飲みましょうね。玲子
メッセージを終えて、涼平は微笑する、それにしてもどこまでも晴れている…
霧の街には珍しくどこまでも澄んでいる……
「また来てしまったな、釧路……」
彼は感慨深くそう独り囁いた…

夕刻の釧路の市街地、霧が立ち込め始めていた、夕陽が朦朧としながら斜光している、光のベールを纏っている女性が独り佇んでいる、玲子は待っていた、人々が家路へ急ぐように往来している、少し明るめのリネンシャツにリボン付きのロングパンツ、上品さと女性の美しさを際立たせていた、深めのルージュが口元を艶やか演出している、
「よっ、お久しぶり」
涼平から声をかける、
「お久しぶりです……」
彼女は微笑する、前の玲子とは少し印象が違って見えた、彼女も何かが終わり、そして何かが新しく始まった、二人は手をつないで歩きだした、
「会いたかった……」
彼はそう一言言った、
「私も……」
彼女の表情や眼差しには既に翳りは一切なく、最後の、夏空のように晴れ渡っていた、久しぶりのデートと謂いましょうか、彼も少年にように、心が高揚していた、程無くして例の焼トン屋に着いた、引き戸をゆっくりと開ける、
「いらっしゃい…」
相変わらず不愛想な女将さんの声、だが瞬時にあの時の、という表情へ変わっていった、
二人はカウンター席の奥の方へ落ち着いた、
「お久しぶりね、何飲みます?」
涼平は女将さんと言葉を交わす、ジョッキでビールを二杯頼んだ、久しぶりの再会であった、乾杯をする、
「ビール美味しい…」
玲子は嬉しそうである、女将さんへ串焼きを数種類頼んだ、女将さんは敢えて根掘り葉掘り聞いてはこなかった、若い二人を静かに見守るような眼差しで備長炭を足していた、暫くして、
「この前、メッセージで言った、涼平がいなかったら…今の私はいなかったかも..」
ジョッキの中の琥珀色を見つめながら玲子は言った、
「自分の信念を貫こうとするだけだよ…取り敢えず飲みましょうか…」
二人は微笑する、涼平はジョッキを空けてハイボールを濃い目でもらった、ついでに、
「女将さん、トカップ飲みますか?」
女将さんは、さすがに何かを女の勘で察していたようで、一服しながら、
「今日は遠慮しときます、ありがとう…」
玲子は追加で鶏もも肉を頼んだ、ジョッキを空けて涼平と同じハイボールを濃い目で頂くことにした、
「やっと自由になれた、人生愉しまないとね…」
「そうね、涼平の言うとおり…」
店の外は再び霧が濃く立ち込め始めていた……

少し酔いの回った二人、白いシーツに上で身体が重なり合ってゆく、涼平は玲子を感じる、彼女も彼を感じている、最後の情事だとは想像にも及ばないくらい、二人は情念を燃やす、炎は火傷してしまいそうなくらいである、冷涼な気候なのに汗が止まらない、すべての瞬間はやはり一瞬でしかない、二人の脳裏で、明日にはもうこの甘美な瞬間はお互いの中で過去となって美しい想いとして永生し続ける……
だが、二人には悲しみなど微塵もない、涼平は玲子の手を優しく握る、そして彼女もそれに応えた、互いを見つめあい、そして微笑する、言葉など要らないのである、暫く眠りについた……
霧の中朦朧と照っている街灯の光が和かに部屋の片隅を照らしていた……

二人は薄っすらと目を覚ました、
「送るよ……」
涼平の申し出に彼女は軽く肯いた、彼は時計を見る、
間もなく日付が変わろうとしていた……

ひんやりとした外の空気、二人は手をつなぎながらゆっくりと歩く、街灯が霧の中で光のベールを煌々と演出している、平日の深夜であるので人通りはあまり見られない、程なくして幣舞橋に近づいてきていた、ドナウ川に架かるマルギット橋のように、少し中世の欧州を想わせるような幽玄な灯たち、そして霧の中朧気に佇んでいる銅像…何年も潮風を受け表面が蒼白く風化しているように見えるのである…
玲子は涼平の方を向いた、何かをずっと言いたかったように…
「涼平、もしあなたに出会っていなかったら、もしあの瞬間がなかったら…」
彼女は言葉を整理できていないようであった、
「何でも始まりがあり、そして必ず終わりが来る、ただそれだけのことだよ…」
事実、どれほどの男女が引き際を弁えず延々と変質するまでただ一緒に共に居ようと徒労に努めているのであろうか…それは一説には共に居る努力を行っていない、との批評も受けたことがあるが、前述の通り万物全ては無論、諸行無常なのである、保証も何もない、これが真理なのではないだろうか、涼平の玲子へ向けられる眼差しには、そのすべてが解釈されていた、仏の三千世界、曼陀羅の上の絢爛な世界、それがどの国のどの解釈でも…
全てはこんにちは、さよならの繰り返しなのである、生命の宿るものすべては己の使命のような客観を介さない非常に主観の中で、無限の座標上で無限のベクトルを呈しているようなものなのである、その数も速度も無限である、簡潔に言及してしまえば、それぞれの考えは違う、各々が果てしない夢を見続けている、ということではないだろうか…
今までの数多くの女性たちとの逢瀬は、実はただの始まりと終わりの繰り返しではなかった、彼はやっとそう実感した、生命の一部を与えられていたのである…
その時、彼女は何かを諦めたような表情を滲ませながら、
そして彼の手から離れていった…
二人の手はゆっくりと離れていった…
彼女は数歩ゆっくりと後退していく……
涼平を見つめたまま…
霧は次第に濃さを増してきていた…徐々に玲子の姿が霧に飲み込まれてゆく…
だが、涼平はその場を後にしようとはしなかった、
「また…逢えるかな…」
玲子の、あの時の、そして最後の…その言葉が脳裏に反復する、霧は絶えず濃く立ち込め続けている、何時間そこに立ち続けていたのであろうか、不思議なことにその間の記憶がない、まったく何も存在してなかったような感慨に襲われていた、気づくと霧が少し晴れ始めていて東の遥か彼方が明るくなり始めていた、その先には玲子の姿は既になかった、彼は不意に微笑しながらシガーケースを出した、甘い濃密な煙が、少々肌寒い潮風の中へ舞いあがり、そしてゆっくりと消えていった、ほんの数時間前まで彼女はそこに存在していたのである、そしてその数時間後に彼の中に美しい思い出として永生し始めたのであった……
これは一種の、生命の再生では……
涼平はそう直感したのであった…
海猫たちが暁の空を悠々と飛翔している、哀愁を誘う鳴声をあげながら、そして船の汽笛が何処からか聞こえてくる…また霧が濃く立ち込め始めた、壮麗な幣舞橋を、全てを、ベールのように覆ってゆく、そして海面さえも、実在したのか否か…
彼女のことが…
彼はこの霧がまるですべてを消し去ってしまう何かのように思えてきたのであった…
否、最初から何も…存在してさえもいなかったのではないだろうか…
すべては、霧の中へ消えてゆく……
涼平は何故か.......微笑を含んだ眼差しで、遥か沖の朝焼けを見つめていた........





        
 “すべては霧の中へ消えてゆく” 完   李智明 2020年5月7日
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