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夏の三 陽光

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札幌の夏は晴れ渡る碧い空、そして乾いた空気、夏の陽光は容赦なく肌を刺す様に降り注いでいる、玲子は赤のクーペを独り走らせていた、彼女は一瞬サイドミラーを見た、陽光は燦然と車内へも降り注ぐ、透き通る夏空の下、彼女は歌を口ずさみながら車を走らせる、線路沿いの延々と続いていく道を颯爽と駆け抜けてゆく、道路沿いに遠く続いてゆく電信柱が夏の炎天下、陽炎で揺らめいていた。

あるお寺の庭園を望もうと車を停めた、札幌の郊外にある由緒ある寺院である、玲子はドアーを開けそしてゆっくりと降りる、ジーンズにTシャツとラフな装いで、サングラスをかけたまま庭園の方へ歩いていく、石灯籠がいくつも静寂の中に佇んでいる、長年の風雨に耐え忍んだと思われる風化した痕跡が多々みられる、苔が付き尖っていたであろう角は円みを帯びている、人間もまた歳月の経過とともに円くなっていくのであろうか、青々とした木々の木漏れ日の中、石灯籠たちはただそこにひっそり佇んでいる、夏の陽光が絶えず降り注いでいる、続けて少し歩くと庭園が見えて来た、大きな池があるなどの特別豪華なお庭ではないが、その簡素な造りが彼女は気に入っている、そして庭の背景はびっしりと竹の茂っている竹林となっている、北海道には竹は生えないと思われているが札幌はまだ北限ではないようである、深緑の竹の葉が時折吹き付ける風に涼し気な音を立ててそよいでいた、彼女は竹林の葉が囁く中をゆっくりと歩く、時折木漏れ日の中を見上げる、竹林に夏の陽光を遮られ庭園の大半は日陰になっている、その時住職らしい尼僧が寺院から庭の方へ歩いて来た、玲子はお辞儀をし挨拶をする…深い紺の僧衣を召されている年齢は六十過ぎくらいであるか、端正で非常に白く透き通っていらっしゃる、白の御高祖頭巾を召され非常に美麗なお姿である、
「夏の日は絶えず降り注いでおります、このお庭はとても静かでございます…」
尼僧は玲子の方をゆっくりと振り向きそう言った、
「偶にこうしてここへ静かさを求めて来ます、特に今日みたいな心がざわつく時には…」
「生きていれば逆に心の平穏とは得難しものです、それもそれぞれの心でしょうか…」
尼僧は深淵な意味あいで稍々説法の様な事を言う、玲子は尼僧と共に縁側の方へ歩いてゆく、
「茶菓子でも如何ですか…」 と仰った、
「今まで、ここで一度もお目にかかったことはなかったですが…こちらは長いのですか?」
蓮の花の小さな落雁が出て来た、お茶と共に頂く、
「もう二十数年になります…仏門の前ではまだ若輩ですが……」
「俗世界から離れるのもいいかもしれませんね……」
尼僧は玲子の目を一瞥した、
「心は常に寂に徹しております…」
玲子は思う、例え俗世界から隔離されても心は常に平穏でいられるのだろうか、と、
やはり、またここへきてしまったと玲子は思った、鳥たちのさえずりが聞こえる、その他には何もない……夏の陽光が燦燦と降り注いでいるだけである、心が洗われるような場所である、その時、
「では、ごゆっくりと……」
尼僧はそう挨拶し中へ入って行った、玲子も礼を言う、そしてスマホを出してメッセージを見た、涼平から数通来ているのを確認した、
― 来週、札幌に戻ります。 涼平
彼女は返信をする、
― 待ってます。  玲子
彼もスマホを見ているのか、直ぐに返信があった、
― 仕事休んで旅行でも行こう……  涼平
玲子は微笑する、また何かが始まる、そう思えることが嬉しいのであった、
― 楽しみ。 玲子
彼女はお茶をもう一口頂いた、落雁を一口食べながらお庭の静寂を愉しんでいた、夏の陽光は依然と降り注いでいた、それにしても静かであった。

夏の夜虫が静寂の中で鳴いている、それにしても静かな夜である、玲子はリビングのソファーで横になっていた、庭の石灯籠が外灯の光りを受けて朧気に佇んでいる、少し眠っていたのか、室内の灯はつけていなかった、薄暗い中彼女は瞼を少し開き周りを見た、田中は出張で不在である、その時スマホが急に振動し始めた、手に取って表示を見てみた、吉田 忍と出ていた、気怠い体を起こし受話を押して、もしもしと言う、
「眠たそうね、寝起き?」
玲子は不意に欠伸をした、
「えぇ」
「暇だったら、飲みに行かない?急で悪いんだけど……」
「いいけど、どこで会う?」
「なら、いつもの処は?」
「決まりね………」
いつもの短い通話であった、玲子は忽然と思った、寺院のあのお庭の静寂さを、夏の陽光が燦然と降り注いでいた、あの光景を……

白い煤煙が濃密な霧のように焼き場の窓から店外へ漂い、そして空へ舞い上がっている、玲子のワインレッドのヒールがコツコツと軽快な音を立てながらアスファルトの上を越えて店へと歩んでいく、店の戸をゆっくりと横へ引いた、今日は大繁盛である、いつものカウンターへ彼女は目をやる、忍は座って先にジョッキを持ってビールを愉しんでいた、隣の席に座った、
「お先に、頂いてますよ」
二人は微笑する、玲子もビールを頼んだ、とりあえず久しぶりの乾杯である、よく冷えて泡がクリーミーである、
「え、玲子、また何か綺麗になった?」
忍は玲子をまじまじと見た、玲子は何だか気恥ずかしくなり顔をそむけた、涼平との幾多もの逢瀬、寺院でのあの静寂に満ちたお庭での尼僧との出会い、釧路のあの日の夜霧、田中への挑戦、それらすべての経験や思いが何かをもたらしたのであろうか、そして女性は輝きを放ち始める………店内ではいつも遠い昔の音楽が心地よい音量でかかっている、今日は角松敏生のアルバムからbeach’s widow、その緩いサウンドと夏を思わせる軽やかな歌声、玲子と忍のシルエット……
「何かが玲子を変えたのね………」
玲子は頬杖をついて片方の手でジョッキを空けた、そしてハイボールをいつもの濃いめで頼んだ、
「忍は?今日呼んだのは、何か私に話したかったんじゃないの?」
忍は図星を突かれたのか、前を向きジョッキのビールを豪快に空けた、
「さすが玲子ね、オミトオシね、あるひとに出会っちゃった」
玲子は嬉しそうな眼差しで忍の方を見た、
「忍もさすがね………」
ご主人が注文していた焼き物を自ら持ってきた、
「きれいな女の子がいつも来てくれて嬉しいね、レバーはサービスだよ」
二人はご主人に礼を言う、強面だが冗談は通じる、いいご主人である、肉食女子会に花が咲く、玲子は敢えて根掘り葉掘り聞かなかった、忍が嬉しければそれで満足なのであった、店内は相変わらず白い煙で少し煙っていて朦朧としている、ほぼ満席で歓喜極まる熱気と話し声、玲子はわかっていた……すべては今あるこの瞬間なのであると、すべてはこの一瞬なのであると、過ぎ去る瞬間もその前後もすべては空なのである、遠い昔を思わせては消えてゆく、そして反復する何かへの思い、なぜ酒を飲むのか、玲子はある思いに耽る、涼平との時間はいつか終わりが来る……すべては必ず終わりが来る、それをわかっていながらそれをどこかで拒絶している自分がいることに玲子は気づいていた、結婚とか同棲とか法的な縛りを欲しているわけではないが女性特有のまるでオス蜘蛛を食べてしまうメス蜘蛛のような胸中、少し恐ろしいが性の本性が垣間見られてしまう自分に玲子は感づいてしまっていた、田中にサディスティックに侵されている時もそのような性的興奮はなかった、だが涼平に抱かれている自身を不意に想像するだけで濡れてしまうのであった、
「玲子、何ぼうっとしてるの、急に……」
酔ったのか、不意を突かれたように、手が当たりジョッキのハイボールをカウンターにこぼしてしまった、
「ごめん、酔っぱらっちゃったみたい………」
玲子は濡れていた……理由はわかっていた、涼平との逢瀬ももう長くはないのだと、まるで盛夏の蝉が終焉を悟って地面を這うかのように…思いは無限に続いてゆく……。

珍しく、玲子は海が見たくなった、炎天下の陽炎の中、陽光を一身に浴びていつものクーペを銭函の海辺へ走らせた、車を海の横に停めゆっくりと歩き出した、その綺麗な眼差しではるか沖に浮かぶブイに思いを馳せるように…涼平もここへ来たことがあるのだろうか、何げなく想像を膨らませる、冷涼な潮風が玲子の頬を撫でた、海面は夏の陽光を受け煌びやかにうねっている、波が岩礁へ打ち寄せては還していく、その繰り返しを彼女は見つめていた、これからどうなるのであろうか、予想もつかなければ考えたくもない、沖の方へ眼やると貨物船が数隻ゆっくりと遥か遠いところを航行していた、どこからどこへとも知らない、玲子は急にそんな生き方に憧れさえも覚えた、誰のモノでもなく何に属することもなく、どこへ留まることもなく、どこの港に帰属することもなく………
傍らにうちあげられていた大きな流木があるのが目に留まった、歩いて行き座りやすそうなところへ腰を掛けた、時折潮風が強く吹いて来た、黒のサングラスに陽光が反射する、それにしても静かである……    蒼い空に白いジェット機が飛んでいる、飛行機雲を奏でながら、玲子はいつまでも空を眺めていた。

涼平は帰りのフェリーに居た、夕刻の船室で独り読書と大阪の酒を愉しんでいた、行き航路とは打って変わり日本海上に発生した低気圧でかなり時化ていた、酒がこぼれないように一升瓶はバックの中へ入れていた、コップは蓋つきの水筒を代用していた、うねりが凄まじく船室が傾いてみえ視線上どのレベルが水平なのかがわからなくなってしまう、隣の列のまだ小学生くらいの女の子が船酔いであろうか、ずっとベッドで横になっている、船室の窓の外は飛沫であまりよく見えない、そこでアナウンスが流れた、
『この度は当フェリーへご乗船頂き誠にありがとうございます、新潟県沖を航行して居ります、悪天候のため高波による揺れがあと数時間続きます、出来るだけ船室で待機されるようにご協力お願い致します、尚小樽港へは明朝8時の到着を予定して居ります…』
「酒でも飲むか……」
涼平はそう囁き本を棚の上に置き、バックから一升瓶を出した、岸和田の酒 元朝 本醸造、旨口ベースで少し辛口、肴は無し、同じ窓際の列の対面のベッドである方が独りビールをロング缶で愉しんでいた、
「すいません、よかったら酒でも飲みませんか?」
突然で少しびっくりしたのか、
「いいんですか?」
年は涼平と同じくらいであろうか、髪は少しロン毛風で白いTシャツでミュージシャンの様な風貌であった、
「ここはバーもWi-Fiも無いし、暇なんですよ」
紙コップを棚から出して酒を注いであげた、話を聞くと大阪でアプリ開発の小さな会社をやっている、
「日本酒は好きですが、最近はあまり飲まないですね、地元が池田なので呉春っていういい酒もあるのですが……」
お互いちびちび飲みながら緩く話をつづけた、
「医療関係のメーカーさんなんですね、丁度開発してるのは健康管理アプリですよ、スポンサーは製薬会社が多いですが…」
先程よりも揺れが強くなってきた、アプリ開発の社長はまた自前のビールをもう一缶開けた、喉を潤したくなったのであろうか、
「ビールって糖たっぷりじゃないですか、そんなに飲んで」
彼は笑った、
「だから美味しいのですよ」
確かに、世の中に存在する美味しいものは殆どがこの類である、その時彼は買い物袋からイカ天を出してきた、酒を出したお礼であろうか、酒の肴を出してくれた、それから少し過ぎ日本酒を止めて缶のハイボールを近くの自販機に買いに行った、揺れはだいぶ収まってきていた、消灯時間を過ぎているので船内はしんとしている、席へ戻るとアプリの社長はビールを愉しんでいた、
「これからの日本の業態ってどうなるのでしょうね、淘汰される仕事って多いでしょうね、今開発してるアプリとかもどうなのだか…」
「医療系で無くなる仕事はあまり多くないと思うよ、実際オペが完全にロボット化されることは無いし、仮にそうなったとしても治療に使う器具も薬も治療を受ける人体へ使われる、しかも治療を受ける人自体が無くなることはない…」
涼平は考えていた、アプリ社長との会話に触発されていた、自身の会社を上場させ、よりコアーな商品開発をしたいのである、少し先の構想であるが着実な準備も必要である、彼はまたビールを開けた、
「外科系も面白そうですね、今度大阪来た時はうちの会社遊びに来てください」
涼平も新しい缶を開けた、缶のハイボールも偶にはいいものである、
「その健康管理アプリと医療機関のデータの連動、診療に必要な紹介状とか…今殆どがまだアナログ管理だけど、それをデジタルで一本管理できる機能とかプラスしたら面白いと思うよ」
彼は非常に興味津々な表情になった、
「確かに、診療って面倒なプロセス多いですよね、この前うちのおじいちゃんがちょっとした事で検査等を受けたんですが、時間がかかって大変でした…」
「それらを管理アプリ等で簡略化していく……面白いブルーオーシャンだと思いますよ」
二人はそれから酒を飲みながら延々と事業の話をした、歳が近くお互い自身の事業を発展させたいと願っているからである、AIによって人間の仕事が奪われるという解釈よりも無くなる仕事は確実に多くなってくるという方が的確であると涼平は思っている、これからは多くの人がより多くの時間を自分の為に使える時代が来る、涼平はアプリ社長の楽し気な顔を見た、古の頃の人達も同じ船室で、一緒に酒を持ち寄り酌み交わしながら事業や夢の話しに華を咲かせたのであろうか、厚い硬化ガラスの窓の外は相変わらず高波からの飛沫を受けていた。
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