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春の五 春雪

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玲子は独り外の雪を眺めて居た、もう春も終わりに近いのに、最後の雪でもあるかのようであった、いつものチェアーに腰を掛けてコーヒーを愉しんでいた、和からかな湯気がゆっくりと立ち昇り、外の再現した白銀世界を優しく包み込んでいた、その時玲子のスマホが軽やかに振動した、そしてその美しい手にとった、
―明日、札幌に帰ります、俺も会いたいです…  涼平
メッセージを確認し彼女は微笑する、思えば彼女と彼を引き合わせたのは何なのであったのだろうか、すべては必然中の偶然の様に、人生の大きな座標である空間と時間で接点をなす、それが逢瀬というものであろうか、いや運命というものなのか、ベージュのカーディガンを羽織りながら彼女はただひらひらと舞い落ちる雪に目をやった、彼の故郷ではもう雪は降っていない、春の草花が息吹く季節であろう、その時玄関のドアーが開いた、田中が帰ってきた…リビングの方へゆっくり向かってくる足音が聞こえる、
「いたのか?」
田中は素っ気ない表情と言葉で聞く、
「おかえりなさい……」
彼女の脳裏に自然と無意識に緊張が走り始める、田中はダイニングテーブルの隣の棚に置いてあるウイスキーのボトルをとる、シングルモルトの上級品である、冷蔵庫からロックアイスを手で握るようにとり、棚の上からグラスを一つとる、片手にグラス、もう一方にボトルを持ち徐々に玲子の方へ歩み寄った、庭に面するテーブルにゆっくりとグラスを置きウイスキーを注いだ、手中でゆっくりと揺らしながら口を開いた、
「今度の人事異動で、東京本部へ栄転になる内定が出たよ……」
少し声を低めて重厚な口調で言う、
「……………」
彼女はコーヒーの湯気を見つめながら沈黙を保つ…
「またあの男の事を考えているのか?」
「……いいえ…」
田中は一口ウイスキーを含む、
「まぁいい…その内火遊びも終わる………」
玲子にある覚悟が急激に噴出してきた、田中の方を少し鋭い目つきで振り向く、
「あなた…別れてください……」
田中は案外変に落ち着いていた…急に大声で笑いだした、だが眼鏡の奥の目は冷酷なままであった…
「無論だめだ、俺と別れてあいつといっしょになるのか?お前が独りになって何ができる…この社会的地位も、財力、権力も、影響力も、全部俺が与えた様なものだ…お前の実家に結納金いくら払ったと思っているんだ……さもなければお前の実家も倒産していたよ…いいか?この世は金と権力がモノを言う…手段なんか選んでいてはだめなのだよ、一時の情に流されるようではだめだな…」
田中は吐き捨てるように言う、まるで彼女は田中の複雑に絡み合った金権の網の中で身動きが自由に取れない獲物のようであった、だが彼女の考えは彼の読みとは違っていた、
「私は、ただ私に戻りたいのよ……」
玲子の目に涙が滲む、何か得体のしれない獰猛で、女性が内に秘めていた烈なる本性が垣間見られそうであった、
「私は誰のモノでもないわ…あの人と一緒になりたいとか考えてない、私は私らしく生きてゆくだけです……」
何か玲子の偽りのない本心が一気に噴出した、田中はグラスを持ったまま陰湿な微笑を浮かべ、ゆっくりと二階へ消えていった、
「勝手にしろ…」
最後に玲子へそう吐き捨てた、
正直、恐怖心も相当にあったが勇気を出して口にしてみた、別に涼平からの思想を倣ったわけではないが、彼女も本質的に彼の考えには賛同している、だれもだれのモノでも、所有物でもないのである、このような旦那をもった玲子の様な女性の境遇は些かタチが悪いように思われる、八方ふさがりに近い状況でもある、筆者も思うのが、この世は紙一重の様な所であるのか、一見順風満帆のように覗えるひとが実際、異性に、家庭に、経済的にと多重な問題を抱えて居ながらやせ我慢を強いられていて、本当に欲している欲求を満足できていない、しかもその実体をさらけ出す勇気もない、周囲の嘲笑等を危惧しているのであろうが、実に不思議なように見える、事実上焼灼してしまいそうな肉体的、精神的不満に悶々と耐えているのである、玲子の様な女盛りの三十代の女性には耐え難い苦痛であろう、自身の性が心行くまで満足を得られなければ、果てしない涸渇の脅威に瀕することになる、だがそんな時彼女の女を呼覚ましてくれたのが涼平であった、虚ろな日々から解放された瞬間でもあった、あの夜の釧路で、あの店で、もし偶然に隣り合わせて座っていなければ、もし話をしていなければ、このような美しい瞬間は存在しなかったのである……

その時である、玲子のスマホが振動する、着信表示には吉田忍と出ていた、玲子の旧友からであった、受話のボタンを押す、もしもし、と言う、
「玲子、久しぶり、元気?」
久しく連絡を取っていなかった親友からの声で少し安心したのか、
「元気よ、どうしたの?…急な電話だったから……」
玲子の塞がった気持ちが稍々声に出た、
「別になんてことはないけど、久しぶりに飲みにいかないかな、と思ってさ」
丁度、外に出たい気分であった、
「いいわよ、どこで飲む?」
忍は少し考える、暫し沈黙が続く、
「ならいつもの、あの焼き鳥屋さん、どう?笑」
二人は自ずと乗る気になってきた、
「なら決まりね、早めの五時半で……」
あっさりと決めてしまい、通話を終える、吉田忍は玲子の高校時代の同級生である、今は前の旦那とも別れ、アラサー独り身で自由気ままに広告代理店に勤めている、その豪放磊落で男勝りな性格も、玲子の静の中に大胆さを秘めたそれとなぜか馬が合ったのである、あの頃はいつも忍と一緒にいた、学業はそこそこに、放課後は男子生徒と数人でカラオケに行ったりとよく遊びに行ったものであった、ある時は忍がある他校の男子を逆ナンして晩御飯を奢らしたりと悪もよくやった、今想えば懐かしさが込み上げてくるが、もう二人とも三十代である、遥か遠い昔の日々に思えるのであった。

玲子は邸宅の近くでタクシーを拾い、ワンメーターの距離を行く、ワインレッドのあまり高くないヒールに、紺のローライズのジーンズ、ニットのセーターにベージュのカシミヤコート、襟を気持ち立てている、そのシンプルなコーディネートが彼女は好きである、暫くして車は路地裏のある道の脇へ着けられた、市内の繁華街から少し住宅地寄りのこの界隈にその店はある、備長炭使用店と書かれた少々色褪せた木の板しかついていない、外に面した換気扇から肉を焼く白い煙が辺りに立ち昇る、ハイヒールがアスファルトにカッカッカッと、心地よい音をたてている、雪が止み厚い雲の合間から夕陽が天地へ光のカーテンを成している、その幻のような光景を歩きながら見る、木の引き戸をゆっくりとスライドさせる、カウンターには既に忍が座っていた、早速先にジョッキでハイボールを一杯やっていた、玲子の方へ挨拶がてら手をあげる、
「お先に」
玲子はコートを所定位置に掛け、いつものカウンターの端に近い席に忍と隣り合わせで腰をかける、とりあえずハイボールを頼んだ、しかも濃い目で、昔はビールであったが蒸留酒のべたつかない口当たりと、ジャパニーズウイスキー独特の重くない爽やかさが気に入っている、偶にはワインも日本酒もいいがやはり少し重たく感じていた、
「わたしは先に適当に頼んだけど、玲子は何にするの?」
「じゃあ、サラダとお任せにしようかな…」
ご主人があいよ、とわかっているように合図をして焼き場へ戻る、飲み物が揃ったところで軽く乾杯をする、カウンター席しかない小さな狭い店内でささやかな女子会の始まりである、二人は久しぶりの乾杯を済ませ一口飲む、
「何から話す?仕事、それとも男…」
忍の相変わらずの切れ味のよいトークに玲子は微笑する、
「仕事は相変わらずかな……玲子は?」
「私は普通よ、特になんていう事もないわよ…」
忍はそのきりっとした横目で玲子を見る、
「そういえば、なんかきれいになった?色気が増した?っていうの」
玲子はえっ、と忍の方を向く、
「まさか男?」
図星をつかれジョッキを持ち一口飲む、
「まぁいいわ、玲子が幸せならね…」
詮索を中断し忍も不意に微笑しながらジョッキを傾ける、
「そうよ、忍の言う通りよ…」
玲子はあっさりと答える、
「いいわね、あたしは最近さっぱりよ……」
ご主人がいいタイミングで焼き物を持ってきた、カウンターの上にゆっくりと置いた、忍は手に取り玲子の前に置いてあげた、玲子は鶏むね肉をとり一口味わう、鶏のジューシーさが備長炭の香りをまとい口いっぱいに広がる、
「あの人とは別れたいわ……」
「で、そのひとと一緒になりたいの?」
忍は切り出す、
「いいえ……私はわたしに戻るだけよ…」
忍は少し考えるような表情をする、
「確かにね…わたしも前の旦那と別れて、なんだか独りで気楽よ…」
玲子の表情には寧ろ何か清々しさがあった、二人は暫し昔話に花を咲かせる、ご主人は相変わらず燃え盛る黄金色の備長炭を相手にそそくさと肉を焼いている、忍はハイボールをお代わりする、
「どんなひとなの?」
好奇心をそそられたのか、単刀直入に玲子へ聞いて来た、二人とも酔いが少し回ってきた、
玲子は片手をジョッキに添えて、その中の琥珀色に透き通る氷の屈折を見つめながら言う、
「まっすぐな…ひとよ……」
忍は玲子の稍々うっとりとした表情をその横顔に見た、そして何か安心したように微笑しながらジョッキを持ち一口飲む、友の素敵な出会いに心で乾杯をした、忍は話を続けた、
「とにかく、いいひとみたいで安心したわ、実際そんなひとに出会えるチャンスなんてなかなかないわよ、わたしの方は……」
忍は少し玲子を羨ましがるように言う、その眼差しはどこか優しさに満ちていた、店内には相変わらず白い煙が悶々と立ち込める、玲子は酔いが回ってきたのか、弾みでメルローのワインをご主人にボトルで頼んだ、
「えぇ、ボトル頼んだの?」
「忍…今日は飲もうね、久しぶりの女子会よ」
玲子の反応に忍も徐々に気分が高揚してきた、二人はハイボールを空けて、忍が率先して少し深めで大きなワイングラスにどぼどぼと豪快に注ぐ、少し行儀が悪いが、はしゃぐ時ははしゃぐ、普段大人の女性はこのように二人の高校生へ戻るのであった。
ご主人は焼き場から二人を見ながら旨そうに煙草をふかしていた。

翌日、玲子は独り自身の身の回りの物を整理していた、結婚当初の写真類、クローゼットの中の服、着物などを数個の引越し用の大きなダンボール箱に振り分けながら丁寧につめていく、一つは実家に送り返す用、一つはこの家に置いていく用、最後の一つはその時の為に置いておく用… その時不意に一枚の写真立てに入った写真が彼女の目に留まった、結婚を控えた時の着付けの様子を撮った一枚であった、まだあどけなさがのこる玲子の表情、彼女の母親に着付けを手伝ってもらっている、春の和かな陽光が畳に反射しその明るい色の大振袖を華やかに演出していた、その色彩が玲子の美しさを一層引き立てていた、その二度と還ることのない時の流れに感慨の想いを馳せながら、ゆっくりとその写真を実家に送り返す箱へ納めた、彼女の中でなにか決心が着いたのであろう、その表情はどこか北海道の夏の朝の様に澄んでいた、その時玲子の部屋の少し開いたいたドアーから視線が入る、田中が虚ろなそして冷淡に、片づけをしている玲子をただ見ていた。

涼平は延々とどこまでも続く日本海側を右手に札幌へ車をとばしていた、夕刻の日本海は深い碧と得体のしれない暗黒をまとって国道と岩礁の境目に高い飛沫をあげながら寄せては還していた、所々夕陽を受けて海面が煌々と輝いている、彼は独り想いに耽っていた、ケースからシガーを一本とりゆっくりとふかし始める、ドリンクホルダーのホットコーヒーを一口愉しむ、全部ではないが稚内での案件も決まり任務完了であった、沖の方で貨物船や漁船が点々と光っている、西に面しているその海岸線に映える、ただ何気なく過ぎゆく毎日に彼は漠然とした想いを抱え、そしてまた過ぎてゆく、自身の事業の繁栄も大事であるが、何よりも一人の男としての性も大事である、生き続ける理由を問う人は大勢いるが、彼は無論そんなものを問う必要は根本的にないと思っている、ただ日々自身の生と性を謳歌させるだけなのである、オペ室での出来事は、すでに彼にすべてを教えているのである、人はいつまで生きられるのか誰もわからないのである。

涼平の運転する車はやっと自宅の敷地内へ入った、ゆっくりと車庫の方へ進める、その時ヘッドライトに一人の女性のシルエットが映し出された、玲子であった、彼の胸に歓喜が沸き上がり、サイドギアーをしてドアーを開けたまま車を降りた、そしてそのまま立ったまま微笑しながら彼女を見つめていた、彼女も両手でバックを持ったまま彼を優しく見つめていた。
春の最後の雪がひらめき始めていた。
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