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春の二 息吹
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二人は一つの布団の中で休んでいる、外は数時間前の荒天とは打って変わって星たちがひそやかに輝く静かな夜空が広がっていた、玲子は涼平のがっちりとした胸板の上、手を優しく添え寄りかかるようにして、涼平は仰向けになって彼女を片腕で抱くようにして休んでいる、まだ情事の時の熱が背中に汗ばんで残っている、女性特有の良い香りがする、喉が渇いたので枕元に据えてあったコップに水差しから水を注ぐ、
「起きた?」
玲子はゆっくりと目を開けた、
「うん、ぐっすり寝てたわ………」
彼女にも水を一杯注いであげた、そして彼は枕元に置いてあったケースからシガーを一本出しゆっくりとふかし始めた、行灯の和かな光が二人をささやかに照らしている、
「実はね、俺は今までこんな気持ちになることはなかった……玲子、好きだよ……」
彼は何かもっと伝えたいことがあるようであったのだが、言葉がうまく見つからない、普段他の女性を相手にしている時は容易く表現できるのであるが……
彼女はニコッと優しい眼差しで枕に横向けになったまま彼を見つめていた、彼はシガーの灰を軽く傍らの灰皿へ落とした、
「好きよ…涼平……」
甘い香りが宙へ舞ってゆく……
「あの時…置手紙を見た朝、もう二度と会えないのかと思った……あなたの真意も知りたかった…同じ札幌の空の下、どこかで日常という日々を淡々と送っているあなたをずっと想っていた、あの夜の事は真実だったのかな…ってね……まるで広い広い太平洋から針を一本探すかのような途方もない想いに駆られるばかりだった……」
涼平は彼女を見つめながら真剣な眼差しをしていた、
「あの人と一緒になってから…私はずっと妻という役を演じていただけなのかもしれない……そんな時あなたと出会った…」
二人は互いの胸の内を初めて語り合う、
「運命なのか、それとの偶然なのか……人間という大海原の中で必然にして、あなたに出会ったのか……」
外は風が強く起こり始めた、窓が強風を受けカタカタときしむ、
「嬉しかったのよ、あの時私に話しかけてなかったら、たぶん今はなかったわ…」
「案外、女性の方が肉食かもね…」
涼平は少し茶々をいれてふざける、彼女も微笑する、
「旦那とは別れたいと思わないの?」
玲子は暫し沈黙する、
「あの人は酷い人よ……もちろん耐えられないわ……」
彼女の表情は瞬時に翳りをみせる、
「真面に女を愛せない人なのよ、いつも私にサディスト的なことをやってくるの、恐ろしいわ……」
彼は一瞬、彼女がサディスティックな行為を受けている情景を想像する、酷く艶めかしい気分になるのであった、
「私の実家は旅館をやっていて、親も考え方が厳格で伝統的なの、女は早く良いところへ嫁ぐのが女の一番の幸せ、という感じで、でもあなたに出会って…私…本当にそうなのかなって迷い始めたの…」
「前の妻とまだ一緒にいた頃、生活という無論、現実はあるけれども、もちろん恋愛結婚で一緒になった、だが男と女がはたしてずっと一つ屋根の下で生活する必要があるのだろうか、って、当然、時が経てばセックスの回数も減る、刺激もなくなり、冷めてしまう…そうなってしまえばただの同居人になる、もちろん努力も必要だけど、寂しいから一緒に居るとか、家事の担い手が必要だからとか、子供の為だとか、世間体だとか、ほとんどがそのような誰が決めたかもわからない既成概念に束縛されているよ、それから外れてしまうと生きていけないかのような恐怖から精神的安定を得るために、そのような日常に自分を依存させ埋没させることしかしない、妻や子供、他の家族だってそれぞれが精神的に独立した個々であって、最終的には各々の目的や精神層の方向に則ってしかアクションを起さない、結局だれもだれのものでもないと思うよ、だれかの意志でなくて、自分の強い意志で自分の望む日々を送っていくだけだよ、しかも今俺たちが生きてるこの時代にはもうそのような形式や制度が合わないと思うよ、ただまだほとんどの世間一般の人達はこのような、俺たちの様な関係性は不純なもので、そして背徳的で、あたかも法律を犯した様に、事実明治から昭和にかけて昔の日本では姦通罪というものがあった…だが、そこで事勿れ主義の連中に見て見ぬふりをされ続けるのが、その主人公の男女に真実の愛が存在したかどうかという核心で、確実に男と女の生きてる悦びがあったと俺は思うよ、距離が美を生むという中国の諺があるけど、どのような人間関係であれ普段は一緒に居なくても、その時間的、距離的空間の中で互いの事をふと想う、寧ろその方がとても幸せだと思う……ごめん長々と……」
玲子は涼平の持論に対して満更意見があるようでもなかった、
「何か解るわ……釧路で初めて会ったあの夜も、抱いてほしかったの、あの人もあんな趣味だし、ずっと真面な生活がなかったし、でも涼平でよかった……私も私の意志で生きていくようにしないとね……」
彼はシガーを灰皿の口の所へゆっくりと置いた、
「玲子はだれのものでもない、俺もだれのものでもない…ただそこに男と女の熱情があるだけ……」
「ねえ、キスして…」
深夜丑三つ時の旅館の屋内は漠然とした静寂に包まれていた、涼平は玲子の方へ戻り布団の中へ入る、抱き合いながらそしてゆっくりと彼女へ深くキスをする、月の光が部屋の中へ微かに斜光してきた、二人を朧気に和かに照らしていた。
朝の海岸沿い、靄が立ち込めている、その幻想的な風景の中、朝陽が何かを演出するようにゆっくりと昇っていた…
洗面を済ませ、二人は部屋で朝食をとる、愛想の良い女将が他の女中と一緒に朝餉の膳を運んできた、湯気が立ち込める道産米の艶やかな銀シャリ、こんがり色よく焼き上げたニシンの開き、磯の濃厚な香りが際立つ北寄の御味噌汁、地産の野菜サラダ、手作りの納豆、元気な生卵、花麹が香り立つ切込み、そしてイカの塩辛と香の物……搾りたてのオレンジジュース、配膳を終え女中たちが退出する、その時あの女将が不意に涼平をまた一瞥する、彼は女将へ軽くウインクをした、
「では、ごゆっくり…………」
女将は何やら少しうれしそうな表情で頭を下げ、そそくさと部屋を後にした、
二人はニコニコと嬉しそうに朝餉を愉しんだ。
涼平は玲子を駅まで送ることにした、車をローターリーの脇に着けハザードランプを着ける、カチャカチャカチャ、と音がする…そして彼女は改札口の中へ入り、最後に彼の方を振り向き軽く手を振った、彼も微笑を浮かべ手を振る、駅のアナウンスが哀愁を帯び旅情を静かに見送っていた……
苫小牧での業務を終わらせ、車を札幌へ走らせた、颯爽と紺碧の北太平洋へ別れを告げた、お馴染みのオーディオでボサノバのmeditecao瞑想という曲をかける、アコースティックギターの軽快な音色とエレキの甘美な響き、ベースがその重低音で旋律にアクセントをくわえている、最後にピアノと女性のボーカルが曲全体に色を添えている、涼平はラテンアメリカの音楽に特に精通しているわけではないが、その旋律が何とも興味を引くのである、とりわけその悲しそうなリズムが何か哀愁を誘い、この世の中の諸行無常を彼らの方法で十二分に奏でながら表現しているように脳裏に響くのである…………
その時、スマホと連動しているオーディオの画面が着信の画面に切り替わる、徹からであった、パネル上の受話のボタンをタッチした、
「もしもし……」
雲の合間から降り注ぐ陽光が一瞬サイドミラーに反射した、
「涼平、聞こえる? 今晩暇?…」
「おぉ、何か用?」
「久しぶりにあのバーに行かないか?」
「いいけど、何時くらいに?」
「八時くらいでどう?」
札幌45kmの標識を過ぎる、
「いいよ、じゃあバーで会おう……」
徹からの誘いは何かがある、すすきのにあるそのバーは涼平と徹の謂わば大人の隠れ家的な場所であった、白髪の美しいマスターが独りで切り盛りしている、揃えてある酒はどれもシングルモルトの一級品である、シガーの品揃えもこだわりが深く温度と湿度管理も充実している。
涼平は車を車庫へ置き、一度玄関へ上がり荷物を置く、この日はブラックのジャケットに白のポケットチーフ、白のシャツにペイズリー柄の紺のネクタイ、グレーのニットベスト、チェックのズボン、そして明るめの革靴、フォーマルよりのコーディネートであった、洗面台の鏡を前にネクタイを直し、髪をセットしなおす、そのきりっとした風貌にとても合っている。
玲子へショートメッセージを送る、
― 家着きましたか? 昨日はありがとう。 涼平
灯を消し、部屋を後にした。
街頭の雪と氷はだいぶ溶けてなくなっていた、車のヘッドライトと街灯、建物が煌々と明るい、行き交う人たちも極寒の真冬に比べていくらかは軽装になり始めていた、無論まだコートは手放せないようである、涼平は片手でコートの襟を立てながら足早にそのバーへ急ぐ、突き当りの角を曲がり大通りから少し入り組んだ路地へ抜ける、そして見えてきたのがBar Constellation 、店の名前がネオンで光っている、その名前は日本語で高貴な紳士淑女の集まる場所、彼はこの名前が好きである、少し重たい門を推すとカウンター席だけの店内が目の前に展開する、そのウッディーなカウンターは少し黒檀のように艶やかに光り、檜の材料も取り入れ温かみも演出してある、その薄暗く丁度良い雰囲気を醸し出している和かなランプたち、そしてカウンターの向かいに並ぶ七色のグラデーションを成している各種ボトルたち、涼平はこのラグジュアリーな情景が甚く気に入っている、そしてカウンターの真ん中でキューバの上物シガーをふかすマスター、べっこうの柄物フレームの眼鏡をかけ、その美しい白髪を長めに頭の後ろの方へ束ねている、黒の蝶ネクタイを締めカクテルのシェイカーを振る手の小指にはゴールドのピンキーリングがはめてあるのが垣間見える、
「おぉ涼平ちゃん、いらっしゃい」
軽くマスターと挨拶をし、席に着く、少し早かったのであろうか、徹はまだ来ていない、
「マスター、お久……」
涼平は早速注文する、
「シングルモルトの何か面白いのをダブルでロックと、……ドミニカのコッテリ系のヤツを…」
マスターは解ってますよ、と表情で涼平へ言わんばかりに相づちを打ち、そそくさと後ろのセレクションから腕を伸ばしボトルをとり、切子のような綺麗なグラスにまん丸のアイスをカランといれ、その上からマスター流のダブルでどぼどぼと惜しみもなくシングルモルトを注ぐ、そしてコースターを一枚涼平の前に添えて丁寧にゆっくりとグラスを置いた、
「マスター、何か飲みます?」
「頂きます、涼平ちゃん悪いね……」
「てかぁ、元々飲む気満々でしょ?……」
マスターと涼平は向き合って笑う、丁度その時、入口の方から冷たい風が入ってきた、徹が来た、ある女性を同伴していた、スレンダーなライン、ロングの黒髪に目鼻立ちのはっきりした少しハーフのような風貌をしている、ロングの白いコートを着ていてその華やかさが際立っている、
「よぉ、先に着いてたんだね…」
「ほんのさっきだよ、酒も今来たばかりだ……」
徹は彼女のコートを壁のハンガーへかけてやる、そして涼平、徹、彼女と並んでカウンターへ座る、
「徹ちゃん、何飲むの?」
マスターが威勢よく聞いて来た、
「そうだなぁ、涼平と同じやつください、美奈は何を飲む?」
彼女は少し考えるように、
「じゃハイボールで……」
マスターは準備にかかる、
「紹介するよ、彼女の美奈だ」
「斉藤涼平です、徹とはこの通り仲良しこよしで……」
美奈は笑い出す、
「涼平さんはいっつも俺に冷たいですからねぇ」
徹は少しおちゃらけながら言う、マスターが飲み物をコースターと一緒に据えて全員のが揃った、マスターはお気に入りのドライマティーニのベルモット控えめでジン濃い目を自身のグラスに作っていた、もちろんお洒落な塩漬けオリーブも一粒忘れずに………
みんな揃ったところで乾杯をする、マスターは涼平の注文したシガーを専用の大きな溝が付いた灰皿と太い大きなマッチと一緒に彼のグラスの横に据えた、徹たちに一言断り、ギロチンでくわえる側を少し切り、人差し指と中指の間で軽く挟みそして炎でゆっくりとふかす、濃厚なバターのようなタールが口に広がる、バニラのようなふくよかな甘い香りとベリーようなフルーティな後味が同時に五感を刺激する、濃厚な煙がその薄暗い中へ揚がり消えてゆく………
暫く雑談が続いた、
「涼平、その後あの人とはどうなんだよ?」
徹はペースが少し早いので酔ってきたみたいだ、
「昨日、苫小牧で会ったよ……」
マスターは独りマティーニを一口呷りお気に入りのシガーをゆっくり楽しんでいる、
「会えたんだね……なら、よかったな……」
徹は少し安心したように煙草を一本出しそしてふかした。
マスターが落ち着いたジャズを流し始めた、涼平のグラスの氷が程よく溶けカランっと鳴る、何かが新しく始まる息吹を涼平は心の中で感じていた、それは玲子との関係がより一層深くなっていく序章でもあったのか、独りグラスの中の琥珀色のウイスキーの光を見つめていた。
「起きた?」
玲子はゆっくりと目を開けた、
「うん、ぐっすり寝てたわ………」
彼女にも水を一杯注いであげた、そして彼は枕元に置いてあったケースからシガーを一本出しゆっくりとふかし始めた、行灯の和かな光が二人をささやかに照らしている、
「実はね、俺は今までこんな気持ちになることはなかった……玲子、好きだよ……」
彼は何かもっと伝えたいことがあるようであったのだが、言葉がうまく見つからない、普段他の女性を相手にしている時は容易く表現できるのであるが……
彼女はニコッと優しい眼差しで枕に横向けになったまま彼を見つめていた、彼はシガーの灰を軽く傍らの灰皿へ落とした、
「好きよ…涼平……」
甘い香りが宙へ舞ってゆく……
「あの時…置手紙を見た朝、もう二度と会えないのかと思った……あなたの真意も知りたかった…同じ札幌の空の下、どこかで日常という日々を淡々と送っているあなたをずっと想っていた、あの夜の事は真実だったのかな…ってね……まるで広い広い太平洋から針を一本探すかのような途方もない想いに駆られるばかりだった……」
涼平は彼女を見つめながら真剣な眼差しをしていた、
「あの人と一緒になってから…私はずっと妻という役を演じていただけなのかもしれない……そんな時あなたと出会った…」
二人は互いの胸の内を初めて語り合う、
「運命なのか、それとの偶然なのか……人間という大海原の中で必然にして、あなたに出会ったのか……」
外は風が強く起こり始めた、窓が強風を受けカタカタときしむ、
「嬉しかったのよ、あの時私に話しかけてなかったら、たぶん今はなかったわ…」
「案外、女性の方が肉食かもね…」
涼平は少し茶々をいれてふざける、彼女も微笑する、
「旦那とは別れたいと思わないの?」
玲子は暫し沈黙する、
「あの人は酷い人よ……もちろん耐えられないわ……」
彼女の表情は瞬時に翳りをみせる、
「真面に女を愛せない人なのよ、いつも私にサディスト的なことをやってくるの、恐ろしいわ……」
彼は一瞬、彼女がサディスティックな行為を受けている情景を想像する、酷く艶めかしい気分になるのであった、
「私の実家は旅館をやっていて、親も考え方が厳格で伝統的なの、女は早く良いところへ嫁ぐのが女の一番の幸せ、という感じで、でもあなたに出会って…私…本当にそうなのかなって迷い始めたの…」
「前の妻とまだ一緒にいた頃、生活という無論、現実はあるけれども、もちろん恋愛結婚で一緒になった、だが男と女がはたしてずっと一つ屋根の下で生活する必要があるのだろうか、って、当然、時が経てばセックスの回数も減る、刺激もなくなり、冷めてしまう…そうなってしまえばただの同居人になる、もちろん努力も必要だけど、寂しいから一緒に居るとか、家事の担い手が必要だからとか、子供の為だとか、世間体だとか、ほとんどがそのような誰が決めたかもわからない既成概念に束縛されているよ、それから外れてしまうと生きていけないかのような恐怖から精神的安定を得るために、そのような日常に自分を依存させ埋没させることしかしない、妻や子供、他の家族だってそれぞれが精神的に独立した個々であって、最終的には各々の目的や精神層の方向に則ってしかアクションを起さない、結局だれもだれのものでもないと思うよ、だれかの意志でなくて、自分の強い意志で自分の望む日々を送っていくだけだよ、しかも今俺たちが生きてるこの時代にはもうそのような形式や制度が合わないと思うよ、ただまだほとんどの世間一般の人達はこのような、俺たちの様な関係性は不純なもので、そして背徳的で、あたかも法律を犯した様に、事実明治から昭和にかけて昔の日本では姦通罪というものがあった…だが、そこで事勿れ主義の連中に見て見ぬふりをされ続けるのが、その主人公の男女に真実の愛が存在したかどうかという核心で、確実に男と女の生きてる悦びがあったと俺は思うよ、距離が美を生むという中国の諺があるけど、どのような人間関係であれ普段は一緒に居なくても、その時間的、距離的空間の中で互いの事をふと想う、寧ろその方がとても幸せだと思う……ごめん長々と……」
玲子は涼平の持論に対して満更意見があるようでもなかった、
「何か解るわ……釧路で初めて会ったあの夜も、抱いてほしかったの、あの人もあんな趣味だし、ずっと真面な生活がなかったし、でも涼平でよかった……私も私の意志で生きていくようにしないとね……」
彼はシガーを灰皿の口の所へゆっくりと置いた、
「玲子はだれのものでもない、俺もだれのものでもない…ただそこに男と女の熱情があるだけ……」
「ねえ、キスして…」
深夜丑三つ時の旅館の屋内は漠然とした静寂に包まれていた、涼平は玲子の方へ戻り布団の中へ入る、抱き合いながらそしてゆっくりと彼女へ深くキスをする、月の光が部屋の中へ微かに斜光してきた、二人を朧気に和かに照らしていた。
朝の海岸沿い、靄が立ち込めている、その幻想的な風景の中、朝陽が何かを演出するようにゆっくりと昇っていた…
洗面を済ませ、二人は部屋で朝食をとる、愛想の良い女将が他の女中と一緒に朝餉の膳を運んできた、湯気が立ち込める道産米の艶やかな銀シャリ、こんがり色よく焼き上げたニシンの開き、磯の濃厚な香りが際立つ北寄の御味噌汁、地産の野菜サラダ、手作りの納豆、元気な生卵、花麹が香り立つ切込み、そしてイカの塩辛と香の物……搾りたてのオレンジジュース、配膳を終え女中たちが退出する、その時あの女将が不意に涼平をまた一瞥する、彼は女将へ軽くウインクをした、
「では、ごゆっくり…………」
女将は何やら少しうれしそうな表情で頭を下げ、そそくさと部屋を後にした、
二人はニコニコと嬉しそうに朝餉を愉しんだ。
涼平は玲子を駅まで送ることにした、車をローターリーの脇に着けハザードランプを着ける、カチャカチャカチャ、と音がする…そして彼女は改札口の中へ入り、最後に彼の方を振り向き軽く手を振った、彼も微笑を浮かべ手を振る、駅のアナウンスが哀愁を帯び旅情を静かに見送っていた……
苫小牧での業務を終わらせ、車を札幌へ走らせた、颯爽と紺碧の北太平洋へ別れを告げた、お馴染みのオーディオでボサノバのmeditecao瞑想という曲をかける、アコースティックギターの軽快な音色とエレキの甘美な響き、ベースがその重低音で旋律にアクセントをくわえている、最後にピアノと女性のボーカルが曲全体に色を添えている、涼平はラテンアメリカの音楽に特に精通しているわけではないが、その旋律が何とも興味を引くのである、とりわけその悲しそうなリズムが何か哀愁を誘い、この世の中の諸行無常を彼らの方法で十二分に奏でながら表現しているように脳裏に響くのである…………
その時、スマホと連動しているオーディオの画面が着信の画面に切り替わる、徹からであった、パネル上の受話のボタンをタッチした、
「もしもし……」
雲の合間から降り注ぐ陽光が一瞬サイドミラーに反射した、
「涼平、聞こえる? 今晩暇?…」
「おぉ、何か用?」
「久しぶりにあのバーに行かないか?」
「いいけど、何時くらいに?」
「八時くらいでどう?」
札幌45kmの標識を過ぎる、
「いいよ、じゃあバーで会おう……」
徹からの誘いは何かがある、すすきのにあるそのバーは涼平と徹の謂わば大人の隠れ家的な場所であった、白髪の美しいマスターが独りで切り盛りしている、揃えてある酒はどれもシングルモルトの一級品である、シガーの品揃えもこだわりが深く温度と湿度管理も充実している。
涼平は車を車庫へ置き、一度玄関へ上がり荷物を置く、この日はブラックのジャケットに白のポケットチーフ、白のシャツにペイズリー柄の紺のネクタイ、グレーのニットベスト、チェックのズボン、そして明るめの革靴、フォーマルよりのコーディネートであった、洗面台の鏡を前にネクタイを直し、髪をセットしなおす、そのきりっとした風貌にとても合っている。
玲子へショートメッセージを送る、
― 家着きましたか? 昨日はありがとう。 涼平
灯を消し、部屋を後にした。
街頭の雪と氷はだいぶ溶けてなくなっていた、車のヘッドライトと街灯、建物が煌々と明るい、行き交う人たちも極寒の真冬に比べていくらかは軽装になり始めていた、無論まだコートは手放せないようである、涼平は片手でコートの襟を立てながら足早にそのバーへ急ぐ、突き当りの角を曲がり大通りから少し入り組んだ路地へ抜ける、そして見えてきたのがBar Constellation 、店の名前がネオンで光っている、その名前は日本語で高貴な紳士淑女の集まる場所、彼はこの名前が好きである、少し重たい門を推すとカウンター席だけの店内が目の前に展開する、そのウッディーなカウンターは少し黒檀のように艶やかに光り、檜の材料も取り入れ温かみも演出してある、その薄暗く丁度良い雰囲気を醸し出している和かなランプたち、そしてカウンターの向かいに並ぶ七色のグラデーションを成している各種ボトルたち、涼平はこのラグジュアリーな情景が甚く気に入っている、そしてカウンターの真ん中でキューバの上物シガーをふかすマスター、べっこうの柄物フレームの眼鏡をかけ、その美しい白髪を長めに頭の後ろの方へ束ねている、黒の蝶ネクタイを締めカクテルのシェイカーを振る手の小指にはゴールドのピンキーリングがはめてあるのが垣間見える、
「おぉ涼平ちゃん、いらっしゃい」
軽くマスターと挨拶をし、席に着く、少し早かったのであろうか、徹はまだ来ていない、
「マスター、お久……」
涼平は早速注文する、
「シングルモルトの何か面白いのをダブルでロックと、……ドミニカのコッテリ系のヤツを…」
マスターは解ってますよ、と表情で涼平へ言わんばかりに相づちを打ち、そそくさと後ろのセレクションから腕を伸ばしボトルをとり、切子のような綺麗なグラスにまん丸のアイスをカランといれ、その上からマスター流のダブルでどぼどぼと惜しみもなくシングルモルトを注ぐ、そしてコースターを一枚涼平の前に添えて丁寧にゆっくりとグラスを置いた、
「マスター、何か飲みます?」
「頂きます、涼平ちゃん悪いね……」
「てかぁ、元々飲む気満々でしょ?……」
マスターと涼平は向き合って笑う、丁度その時、入口の方から冷たい風が入ってきた、徹が来た、ある女性を同伴していた、スレンダーなライン、ロングの黒髪に目鼻立ちのはっきりした少しハーフのような風貌をしている、ロングの白いコートを着ていてその華やかさが際立っている、
「よぉ、先に着いてたんだね…」
「ほんのさっきだよ、酒も今来たばかりだ……」
徹は彼女のコートを壁のハンガーへかけてやる、そして涼平、徹、彼女と並んでカウンターへ座る、
「徹ちゃん、何飲むの?」
マスターが威勢よく聞いて来た、
「そうだなぁ、涼平と同じやつください、美奈は何を飲む?」
彼女は少し考えるように、
「じゃハイボールで……」
マスターは準備にかかる、
「紹介するよ、彼女の美奈だ」
「斉藤涼平です、徹とはこの通り仲良しこよしで……」
美奈は笑い出す、
「涼平さんはいっつも俺に冷たいですからねぇ」
徹は少しおちゃらけながら言う、マスターが飲み物をコースターと一緒に据えて全員のが揃った、マスターはお気に入りのドライマティーニのベルモット控えめでジン濃い目を自身のグラスに作っていた、もちろんお洒落な塩漬けオリーブも一粒忘れずに………
みんな揃ったところで乾杯をする、マスターは涼平の注文したシガーを専用の大きな溝が付いた灰皿と太い大きなマッチと一緒に彼のグラスの横に据えた、徹たちに一言断り、ギロチンでくわえる側を少し切り、人差し指と中指の間で軽く挟みそして炎でゆっくりとふかす、濃厚なバターのようなタールが口に広がる、バニラのようなふくよかな甘い香りとベリーようなフルーティな後味が同時に五感を刺激する、濃厚な煙がその薄暗い中へ揚がり消えてゆく………
暫く雑談が続いた、
「涼平、その後あの人とはどうなんだよ?」
徹はペースが少し早いので酔ってきたみたいだ、
「昨日、苫小牧で会ったよ……」
マスターは独りマティーニを一口呷りお気に入りのシガーをゆっくり楽しんでいる、
「会えたんだね……なら、よかったな……」
徹は少し安心したように煙草を一本出しそしてふかした。
マスターが落ち着いたジャズを流し始めた、涼平のグラスの氷が程よく溶けカランっと鳴る、何かが新しく始まる息吹を涼平は心の中で感じていた、それは玲子との関係がより一層深くなっていく序章でもあったのか、独りグラスの中の琥珀色のウイスキーの光を見つめていた。
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