イシュタムの祝福

石瀬妃嘉里

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第二章

静かなる誓い

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※※※

「悪趣味かよ……」

 食事の後の、束の間の自由時間。皆と別れた私は、妹の手がかりを探すべく動いていた。
 しかし、探すといっても何処を? と、早々壁にぶつかってしまったので、取り敢えずラウンジに行ってみる事にした。実は、入浴後何となく見ていた額縁の中身が、気になっていたのだ。
 そして、目的の物と対峙した私が思わず漏らしたのが、冒頭の言葉である。
 いや本当に、何だこれ?
 一番大きな額縁に飾られていたそれは、【楽園行き達成者】というものだった。どうやら、ここで集団自殺を成功させると、亡くなった人の名前を大々的に公表するらしい。どうなんだそれ。
 私は、その掲示物をじっくりと見やる。とんでもないプロの書道家が、金の墨汁で書いたように見えるそれが記すは、七名の人名。全てハンドルネームの為か、時々ポップで可愛らしい感じの名前があるが、字体が台無しにしていた。
 良く目を凝らすと、右下の方に日付が書かれており、ここにある名前が、去年のパーティ参加者の物だという事が判った。それより前の参加者名簿は、書庫にあるらしい。
 妹の失踪は十年前だから、過去の名簿に名前が載っている可能性が高い。ならば、私が向かうべきは。

「書庫か……」

 恐らく、それが最も真相に近いルートだろう。そうと決まれば善は急げ。私は通りかかった補佐の一人を捕まえると、何か娯楽は無いのかと聞いてみた。すると、書庫は勿論、ゲームセンターやカジノやボーリング場その他諸々、あらゆる娯楽施設を紹介された。想像以上に充実していて、思わず舌を巻いた。
 気を取り直して、私は書庫の場所を聞くと、案内してくれるという事なので、甘える事にする。顔はフードの所為で良く見えないが、お声から溢れるダンディズムに耳が死にかけた。この人、さてはナイスミドルだな?
 と、危うくイケヴォに流されそうになったが、ふと思う。もしかして、補佐なら前のゲームの事とか覚えていないか? 或いは、当時補佐をしていたヴェテランの情報とかも得られるかも。
 私は、移動するついでに、補佐に声をかけてみる。

「それにしても、沢山の施設があるんですねぇ、ここ。お風呂も食事も最高だし! 元々そういう施設だったんですか?」
「ええ。この場所は元はリゾートホテルでして。経営難で閉めたところを巫女様が買い取り、ここまで大きくしたのでございます」

 巫女様、というのはアカリの事だろうか。……え? 何、神の使いって事なのか? 元々胡散臭かったこの場所が、更に拍車をかけて胡散臭くなってしまった。ここ、宗教団体だったの……?

「……へぇぇ~。凄いですねぇ~…………」

 それだけ何とか絞り出して、この話は終わりにする事にした。触らぬ神に祟りなし。下手に首を突っ込むべきではない。
 しかし、曲がりなりにも褒めた事が良かったのだろう。ナイスミドル(仮)は、上機嫌で話し続けた。

「その通りです! 巫女様は素晴らしいお方でございます。現世に絶望した迷い子達に手を差し伸べる、正しく天の使い! あの方の手足としてサポートする事が、我々補佐の喜びなのでございます。シホ様もいずれ、あの方の偉大さがお判りになる事でしょう」
「あ、はい」
「さぁ、着きましたよ。……どうぞ」

 話し続けていた内、いつの間にか辿り着いていた扉の前。ずっしりと重そうなそれを補佐がゆっくりと引いた。
 その瞬間、目の前に広がるのは。

「わぁ……!」

 それを目の当たりにした途端、私は思わず感嘆の声を上げていた。それもその筈。扉を開けた先には、本、本、本。何処を見回しても本という光景が広がっていたのだ。
 まさに圧巻、という状況に私が固まっていると、補佐は丁寧に補足してくれる。

「こちらの書庫には、あらゆるジャンルの本を取り揃えております。小説は勿論、漫画も最新刊まで置いていますので、飽きる事なく楽しめる事でしょう。どうぞ、心置きなくお楽しみ下さい」
「ありがとうございます!」

 私が本心から礼を言うと、案内してくれた彼は深々とお辞儀をして爽やかに去って行った。滅茶苦茶ナイスミドルだった。

「よぉっし! ゲームまではまだまだ時間あるし、ちゃっちゃと調べますか、っとぉ」

 私は早速、本棚に挑む事にした。しかし、流石“あらゆるジャンルの本を取り揃えて”いるだけあって、棚の数がエグい。まずは、何処に何の本があるのかを把握する必要があった。
 幸い、棚にはジャンルを示すラベルが貼り付けられてはいるが、如何せん、数が膨大だ。宛らジャングルのようで、迷子になりそうになる。

(……棚の一覧みたいなのないかな。図書館とかにあるやつ)

 半ば心折れそうになりながら、何とか見つけた棚一覧を元に進んだ結果、ようやく目的の棚に辿り着く。ふと、壁時計を確認すると、一時間近く彷徨っていたようだ。

(…………気を取り直して探すか)

 少し時間を無駄にしてしまった事にヘコみつつ、資料に手を付ける。それにしても、かなりの量だ。棚には、事務仕事ではお馴染みの、分厚い青いファイルが十冊以上も収まっていた。
 どれだけの人名が書かれているかは判らないが、それでも私が何とか手で掴めるレベルの分厚さから、かなりの人数分はあるだろう事が予測出来てぞっとした。
 しかし、妹の為だ。怯んでいる場合ではない。両頬を叩いて気合を入れると、私はファイルの表記から、十年前の年数の物を探り当て、表紙を開く。さぁ、ここからが戦いだ。
 調査は、難航した。というのも、人名が一ページごとにぎっしり書かれている上に、それが全てハンドルネーム。故に、本人特定が確定出来ないのだ。
 それでも、私は頁を捲る事を止めない。何故なら、この場所に妹が来ている事は間違いない以上、このファイルの何処かに必ず、あの子が記されている筈なのだから。
 ファイルの半分程の量を確認し終えたところで、少し休憩を挟む。流石に、目が悲鳴を上げている。疲労も相まってか、一気に倦怠感が押し寄せて来た。
 この時点で、“ミホ”というハンドルネームは二つ。他に、妹の嗜好から付けられそうな名前を五つ程見つけた。しかし、確実にこれは妹だと確定出来る要素はない。……だんだん不毛に思えて来た。
 しかし、他に有力な情報がみつからない以上は、このファイルだけが唯一の手がかりだ。とことん、調べるしかない。今の私は、藁にもすがるような思いなのだ。
 心が駄々っ子のように泣き叫びそうになるのを叱咤し、私は再びファイル調査に取りかかる。正直、気が狂いそうだ。けれど、妹の為というただそれだけを拠り所に、私は必死になって、妹の欠片を探す。そうしてやっと、残り三分の一というところまで来た時だ。

「わぁ~お‼ 何ここ凄ぉい! 天国じゃん‼」

 突然聞こえたテンションの高い声にびくりとした。私以外の誰かが、書庫を訪れたのだ。声から察するに、ゆかりん✩ちゃんだろうか。
 咄嗟に、見ていたファイルを勢い良く閉じて、元の場所へ戻す。パッと見た限りでは、つい先程まで誰かが閲覧していた風には見えない筈だ。そして、目的がバレないよう、直ぐ様名簿のある棚を離れた。直後、見計らったかのようなタイミングで、ゆかりん✩ちゃんが現れた。

「あれ? シホさん。いないと思ったら、コッチに来てたんですね!」
「あら、ゆかりん✩ちゃんじゃない。どうしたの?」
「さっきまで、建物の中ブラブラしてたんですけど、やっぱ暇で。丁度通りがかった補佐の人に、何か暇潰し出来るとこありますかー? って聞いたら案内されたんです」
「あー。皆考える事は一緒だね。私がここに来た経緯も、大体そう」
「わぁ、やっぱり」

 ゆかりん✩ちゃんと談笑しながら、私は内心がっかりしていた。これだけ人が集まってしまった以上、残りを調べる事は難しいだろう。何とか時間を見繕うしかない。
 そんな私の憂いなど知る筈もないゆかりん✩ちゃん達は、なかなかお目にかかる事の出来ない本に囲まれて楽しそうだ。その姿が微笑ましくて、私は「まぁ、良いか」と思えた。ひとまず、気持ちを切り替える事にしよう。
 知識の森と化した数多の本棚を、見回りながら歩く。途中、城ヶ崎さんが真剣な顔で難しいタイトルの本を読んでいた。こちらに気付いていない様子だったので、静かに会釈してすぐに去った。
 更に奥へ進むと、室内の雰囲気が変わった。棚のラベルを見るに、ここは漫画コーナーらしい。
 一室の中央にはポップなデザインのテーブルやソファが設置されており、そこにはクラゲちゃんやヨシカゲ君、ユーイチさんが楽しそうに談笑している。話の感じから察するに、漫画談義のようだ。挨拶もそこそこに、私達も混ざる事にした。一言で言えば、最高だった。
 お互いのオススメや推し、最近の流行りなどを一通り語り合い、全員の心がぐっ、と近付いた頃、不意にゆかりん✩ちゃんが口を開いた。

「……何か、不思議。今まで、顔も知らないままやり取りしてた人達と、こんなに盛り上がれるなんて」
「そうですね。俺も、久しぶりに心から笑えた気がします。今日、実際に会ってみたら、皆さん、凄く素敵な人達ばかりで。楽しいです」

 ヨシカゲ君がはにかみながら言うと、今度はユーイチさんがおずおずと口を開く。

「僕も……楽しいです。人付き合いが苦手で、ネット越しに話す方が楽なタイプなのに、今回は何故か、こうして直接顔を突き合わせて話せるのが、心地良いんです。少し不安だったんですけど、……良かった」
「あ、あたしも!」

 そう、声を上げたのは、クラゲちゃん。彼女はもじもじしつつも、一所懸命言葉を紡ごうと話し始める。

「……あたしも、不安でした。あたしコミュ障だし、参加者は皆年上だから凄く気まずくてッ。どうなるんだろうって思ってました。……でも、皆さん優しくて、嬉しかった、んです。あたしの周りは、……息が、しにくかったから」

 そう言って、啜り泣き始めたクラゲちゃんの背中を、私は擦ってやる。彼女はきっと、ずっと独りで闘って来たのだ。他の皆も、労うように頷いている。

「大丈夫だよ。クラゲちゃんは、頑張ってる。ここにいる皆、判ってるよ」
「そうだよォ。それに、もうそんなの、気にならなくなるじゃん。だってアタシら、これから死ねるし」

 ゆかりん✩ちゃんがそう言った瞬間、私は急激に熱気が冷めて行くのを感じた。対照的に、ヨシカゲ君とユーイチさんが、優しく笑いかけながら慰めの言葉をかける。

「そうだよ。俺達、今日の楽しい気持ちのまま、楽園へ行けるんだ。もう、現世の理不尽に耐える事ないんだよ」
「辛かったよね。でも、やっと楽になれるんだ。ずっと悩みを語り合って来た人達と一緒に。だから、……安心して良いんだよ」
「そうそう! ここには、クラゲちゃんの事をちゃぁんと理解しているお兄さん、お姉さんがいるんだから。心配とか、無用だよ‼ ですよね、シホさん!」

 突然、話を振られてドキッとした。本音を言えばNOだ。けれど、今の私にはこう返すしかなかった。

「……そうだよ。だって、私達が一緒じゃない」
「ほら! 皆こう言ってるよ。だから、大丈夫だよクラゲちゃん‼ 皆で、楽園へ逝こうよ!!」

 私が期待通りの言葉を吐くと、ゆかりん✩が更に明るく奮い立たせる。すると、クラゲちゃんは泣くのを止め、安心したような控え目な笑顔を向けた。

「……そうか。そう、ですよね。これからあたし、楽園へ行けるんですよね‼ もう何も、怖くなくなるんだ……! 凄く、心が軽くなりました! ありがとうございます、皆さん!!」

 そうだよ。もう、安心して良いんだよ。
 良かったね。
 良かったね。
 ゆかりん✩ちゃんもヨシカゲ君もユーイチさんもクラゲちゃんも笑顔で、共に楽園へ行ける事に希望を抱いている。温かくて優しい、幸せな光景だ。けれど私は独り、氷の如く固くなった心を抱えて、その幸福な空間を見つめていた。
 そう。彼らは自分の置かれた状況から逃げる為に、ここにいる。幾ら楽しい時を過ごしたとしても、その事実は変わる事はない。それでも、彼らは笑っている。最期の時が来るまで、精一杯生きているのだ。
 その時、私はふと思う。妹も、こんな風だったのかと。
 下らない、クソみたいな現実を憎み、逃れる事を願い、この歪な希望に縋りながら、楽園へ行ける事を夢見て、そして。
 想像したら、腸が煮えくり返る思いだった。本当にそうならどうして、どうして限界が来る前に、相談してくれない! 私では、力になれなかったのだろうか。最悪の決断をする前に、せめて一言……‼

「キャー!! シホさん血‼ 大丈夫ですか⁉」
「え? ……ギャア⁉」

 ゆかりん✩ちゃんに指摘され、手元に目をやると、右掌に爪が食い込んでいた。どうやら、心の乱れが表に出てしまったらしい。しかも、傷に気が付いた途端に、徐々に痛みが主張し始めて来る。何てこったい。

「はは、……ちょっと切れちゃったかな。……これ、何とかして来るよ」

 私は、そう言い残して書庫を後にする。今は何も、考えたくなかった。ズキズキと、脈打つ痛みの所為にして考えるのを止め、ひとまず近くの化粧室へと身を滑り込ませる。瞬間、人気を感じ取ったライトがパッと点灯した。
 掃除の行き届いた洗面台に手を付き、顔を上げると、冴えない女の青白い顔が鏡に映る。生涯見た、どんな女のそれより不細工だった。

(……駄目だな。判っていたつもりなのに)

 楽しそうに死を語る彼らに、妹の姿が重なるようだ。あの子の事を思い出す度に、冷静でいられなくなる。これでは駄目だ。私は、死ぬ為にここに来たわけではないのに。
 落ち着け。落ち着け。目的を忘れるな。この程度で折れるような覚悟で、十年間進み続けたわけじゃないだろ。
 私は洗面台の自動式の水道に手を向け、水を出す。そのまま勢い良く顔を洗うと、幾分冷静さが戻って来た。

(……少し、休もう)

 ぐっしょりと濡れた顔も髪もそのままに、私は目を閉じ、訪れた闇に暫し身を委ねた。



 化粧室を出た後、応急処置としてワンピースの裾を千切って、手に巻いた。それでもやはり、きちんとした手当は必要だ。
 私は、医務室を探しつつ、さらなる手がかりを求めて探索を続けた。しかし、やはりというべきか、書庫で得られる以上の情報は得られず、私は途方に暮れるしかなかった。
 時間をもて余し、建物の中をふらふら歩く。ゲーム開始まで、まだまだ余裕があった。それにしても、幾ら最期の現世を楽しむ為とはいえ、少し長過ぎじゃないだろうか。
 まぁ、私からすれば好都合ではあるが。せめてこの、限られた時間を利用して、妹に関する情報を掴まなければ。

(でも、現時点で有益な情報が出て来ないんだよな……)

 気持ちと実績の反比例する状況に、私は頭を抱える。これでは駄目だ。少し、気分転換をした方が良いかもしれない。そう思いつつ歩いた先、行き当たった大きな窓を覗き込み、ギョッとした。
 その向こう側は、海だった。しかも、かなり荒れているのか波打っていた。恐らく、この建物事態が結構な崖の上に建っているのだろう。何となく、以前写真で見た東尋坊を思い起こさせた。

(そういえばココ、前はリゾートホテルだったって聞いたな)

 数時間前のダンディ補佐の言葉を思い出しながら、私は暫し窓の風景を眺める。どうやら、私の印象は外れていなかったらしい。
 付近に生える、木の靡き具合からも判るほど強い海風と、ごつごつとした足場の悪そうな岩場。そして、先程見た荒海。まさに、絵に描いたような崖っぷちだ。うっかり外に出たら、そのまま海に転がり落ちてしまいそうだ。

(これ、途中で嫌になったら逃げられないよな)

 ふと、そんな事が頭に浮かんだ。だって、幾ら心から死にたいと思っていても、いざその時になったら怖じ気づく、なんて事は良く聞く話だ。そもそも“ヤシュチェの木陰”側が、参加者の誰かが帰りたくなるという想定を配慮しているのだろうか。下手したら、この建物の存在を秘匿するために、強制的に自殺を強要して来るかもしれない。
 どのみち確定している事は、例え運良く真実が掴めたとしても、私には帰宅手段を何とかするというミッションが追加されたという事実だった。突然降って湧いた難題に、私は絶望する。

(……いやいや、諦めるな。まだ時間はあるし。今のうちに打開策考えれば! ……何とか!)

  と自分を奮い立たせた時、ふと右側から誰かが近付く気配がした。UTAちゃんとアイコさんだ。二人がこちらに気付いた様子なので、私は挨拶しつつ混ざりに行く。
 日当たりの良い窓の側、絶景を前に美女三人が語らう。しかし、その話題はもっぱら、今まさに開催を待つ楽園行きのゲームの事だ。

「ゲームって、何するんでしょうね。わたし、ずっと楽しみで。ここに来るまでは不安だったんですけど、皆さんとっても良い人達だったので、安心して。この人達と一緒に死ねるなら、怖くないなって」

 UTAちゃんは本当に楽しみにしているのか、恋する少女のように頬を染めている。彼女からしたら、ずっと病気の苦しみから、やっと解放されるのだから、ある意味当然なのかもしれない。

「私は、まだ少し不安だわ。死ぬ事自体というより、残して来た家族、……特に息子の事が、どうしても気になってしまって。……もっとも、あの人達は、ただの家出としか考えていないかもしれないけれど」

 対して、アイコさんはまだ、現世を去る事に踏ん切りをつけられない様子だ。確か、彼女の息子さんは、丁度クラゲちゃんと同じくらいの年頃だったと聞いた気がする。
 心優しい彼女だからこそ、一度置いて行くと決めた家族の事を、完全に切り捨てる事が出来ないのだろう。
 そんな彼女達に同調するように、私は、思ってもいない偽りの想いを口にする。

「私は、……半々ですね。楽園に行けるのは楽しみですけど、ちょっと心配もあるんですよね。出来れば、あまり苦しまずに逝きたいなって」
「あ、それはありますよね。シホさんでも、そう思うんですね。良かった。わたしだけじゃなくて」

 UTAちゃんが、安心したように言うのを微笑ましく思いかけて、……看破出来ない事に気付いた。私はすかさず、ツッコミを入れる。

「いやいや。UTAちゃんは私を何だと思ってるの。私とて、人並みの恐怖心くらい持ち合わせてますって」
「す、すみません。シホさんって何か、鋼メンタルなイメージがあるので」
「……褒められてる、のかな?」

 何だか腑に落ちないな、と首を傾げていると、その仕草が面白かったのか、アイコさんがクスクスと控え目に笑う。はたから見たら、緊張感のない平和な光景だろう。何ともおかしな事だ。こうしている間にも、死への時間は刻一刻と迫っているというのに。

 その時、ズキリと手が痛みを訴える。いけない。傷をそのままにしていた事を忘れていた。私は二人と別れると、近くにいた補佐から医務室の場所を聞く。先程、【祝福の間】から出る時に先導してくれた人だ。その人はこくりと頷くと、私の手を掴んで医務室まで連れて行ってくれた。無口だが優しい人のようだ。
 処置が済み、医務室を出ると、急に喉の渇きを覚えた。ひとまず、ドリンクバー目当てにラウンジへ向かう。オレンジジュースを手に、ソファに座った後、これからの事を考える事にした。
 けれど、いざ頭を働かせようとしても、私は何処かぼんやりとしていた。今のうちに、手がかり捜索の次の一手を考えるつもりだったのに。これでは何も思い付かない。
 ふと、目の前を通った二人組の補佐に気付いた時、何となく「あぁ」と思った。
 私はおそらく、未だこの場所にいる事の現地味が薄いのだ。
 己の淡白な人生と交わる筈の無い非日常の果てに、ついさっきまでお喋りしていた相手は、あと数時間程で消える事が決まっている。それも、自らの選択によって。
 彼らとはずっと、ネット越しのやり取りをして来た、顔も知らぬ仲間だった。それが今日出会って、関わって、初めて本当の“仲間”になれた気がした。だからこそ彼らには、……生きてほしいと改めて思う。
 しかし、当の本人達が自殺に前向きだ。それはもう、うっすら狂気を感じるほどに前向きだ。そんな彼らに、真っ向から考え直すように訴えたとしても、ほぼ間違いなく聞き入れる事はないだろう。
 彼らの気持ちを、蔑ろにしたいわけじゃない。ただ、遺された人達の想いを判ってほしいのだ。
 突然、前触れなく姿を消したと知った時の焦燥を。警察の捜索中、何も出来ないもどかしさを。そして、……身元不明遺体のニュースを聞く度、息が止まる程の不安に胸を掻き毟る日々を。
 ぽた、とオレンジジュースに何かが落ちる。続いて感じた目元の湿りに、それが涙だと気付いた。反射的に、周囲を見回す。何となく、誰にも見られたくなかった。
 何だか、ここに来てから情緒不安定になっている気がする。しかし、それでは駄目だ。何せ、メインのゲームはまだ、始まってもいないのだ。今この状態では、すぐに心折れてしまうだろう。平常心、平常心。

(そもそも、こんな施設があるのもいけないんじゃないかな……)

 そう。全てはここ、“ヤシュチェの木陰”のような場所に非がある。アカリのような馬鹿が、集団自殺を促すからこそ、同調者が集まり、死を選ぶのだ。楽園行きなどという甘言で人を誑かすなんて、とんでもない! 何せ、巫女と呼ばれるような奴だ。きっと、自分が選ばれた人間だと思っているのだろう。
 許せない、と思った。こんな、人の命を杜撰に扱うような奴らの所為で、今日も何処かで誰かが自分の命を断つ。そんな事、あってはいけないのだ。これはもう、私達姉妹だけの問題じゃない。そう考えた途端、元来、人よりも強い正義感に火が付いた。

(絶対、尻尾を掴んでやる。美帆の為だけじゃない。この場所を、アカリの罪を、世間に晒してやる‼)

 自殺幇助は犯罪。罪には、罰だ。この狂った場所の存在を伝える為にも、必ず生き残らなければならない。
 新たな気持ちを胸に、私は立ち上がる。誰も幸せになる事のない、悲しい連鎖を終わらせる為に。
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