イシュタムの祝福

石瀬妃嘉里

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第七章

掴み損ねた希望                              (七回戦)

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※※※

 新たな目標を得て、私と海月ちゃんは【祝福の間】に足を踏み入れた。初めて入った時は狭いと感じていたこの部屋も、今や大分印象が変わった。
 ここ、こんなに広かっただろうか。室内の中央に寄せるように、ぽつんと設置された絞首台が、より寂しさに拍車をかけるような気がした。
 私達の入室に気付いたのだろう。気が付けば、数人の補佐達が、拘束する為に私達を絞首台へと促す。流石に三度目ともなると、最早ルーティン化していた。このままだと、拘束されないと落ち着かなくなってしまうかもしれない。

(まぁ、でも、……ここを出るまでの間だし。もう少し辛抱するか)

 そう思いながら、私は何となくポケットに手を突っ込んで、……愕然とした。
 ポケットに、穴が空いている。

(……は? ……嘘⁉)

 どれだけ中を探ってみても、右手は宙を掻くばかり、服に年期が入っていたのだろうか。触った感じだと、ポケットの繋ぎ目が、ほつれてしまっているようだった。
 当然そこに、ロケットがある筈もなく。

(ああああ! 落とした! もっと気を付けているべきだったのに私の馬鹿‼ どうする? でも、今から探すのはどう考えても無理だ。というか、ここでゲーム止めたりしたら絶対ぜッッッたい殺されるじゃん……‼)

 予想だにしなかった緊急事態を前に、パニックになりかけた私は、頭を抱えたくなる。ゲームの後に探すしかないのか。そもそも何処で落としたのか。途方もない労力を覚悟するしかない、と嘆いた時の事だった。

「ごきげんよう♪ お二方」

 突然、背後からあの忌々しい声音が聞こえた。ぞわり、と背筋が凍るような思いで振り替えると、そこには、ずっと会いたいと願っていた人物が立っていた。

「……ア、アカリ、様…………?」
「如何にも! ワタクシこそが、“ヤシュチェの木陰”の管理人、アカリでございます。お二方の健闘を称え、是非お会いしたいと思ったのです」

 動揺する海月ちゃんに対し、アカリはころころと鈴を転がすように笑った。けれど、私はそれどころではない。頭に一気に血が上った私は、気付けば衝動的に駆け出していた。
 次の瞬間、世界の様相が変わっていた。海月ちゃんの悲鳴が響き、突き飛ばした数人の補佐が、床に転がっている。
 私はといえば、アカリに掴みかかり、その細い首に手をかけている。どうやら私は、拘束しようとする補佐達を振り切って、感情のままにアカリに襲いかかってしまったようだ。うわ、やっちまったな、と今更ながら冷静に考えた。
 けれど、すぐにアカリを助ける為にか、補佐の一人が吹矢を取り出した。私を殺す気だ! 当たり前か。瞬時に補佐の意図に気付いた私は、アカリを突き飛ばすようにして床に叩き付けると、補佐の左の向こう脛に蹴りを入れた。
 途端、補佐は「ゔッ」と声を上げ、吹矢を取り落としてその場に座り込む。流石に、弁慶の泣き所を攻められたら一溜りもないだろう。そのチャンスを逃さず、私は吹矢を素早く拾い、アカリを探す。

(──いた!)

 私に突き飛ばされた際、腰を強かに打ったのか、アカリは患部を押さえながら起き上がろうとしていた。その周りはガラ空きで、今なら補佐達が駆け寄っても間に合いそうにない。まさに、千載一遇の大チャンスだ。
 私は、アカリの襟首を掴むと、首元に吹矢を突き付ける。その瞬間、私を取り押さえようとしていた補佐達がぴたりと動きを止めた。不審な行動をすれば、アカリの身が危険だと判断したのだろう。
 だが、私にはアカリを殺すつもりはまだない。まずは、妹の事を探る事が第一だからだ。

「アンタに、聞きたい事がある」

 私は、ぐり、と音が聞こえそうな程に、吹矢をアカリの首元に押し付けながら言う。さぁ、ここからが正念場だ。こいつには、洗い浚い全てを吐いて貰わなくてはならない。

「十年前に──」

 そこから先は言えなかった。突然、背後から誰かが、私に体当たりを食らわしたからだ。出鼻をくじくその行動にイラ付きつつ、後ろを向いて犯人を見た。ラミさんだ。

「邪魔‼」

 私は怒りに任せてラミさんを殴り付ける。すると、思いの外華奢だったのか、ラミさんはそのまま地面に倒れ込んだ。それでもラミさんは、妨害するつもりなのか、私の足を執拗に掴んで来る。
 何て、信仰の深い人なのだろう。それ程までにこの人は、アカリを、そしてイシュタムを崇拝しているのか。けれど、私にとっては邪魔でしかない。怒りで全身が煮え滾っている私は、足元にいるその人への憎しみが、増幅して行くのを感じた。

(邪魔するなら消えろ‼)

 私は、躊躇い無く、その補佐に向けて吹矢を吹く。瞬間、ラミさんがぴく、と痙攣し、その場に座り込む。その姿は、このゲームのルール説明の時、一人逆らって亡くなった、ゆかりん☆ちゃんを思い起こさせた。
 彼女の事を思い出し、一瞬胸がぎゅ、と苦しくなったが、ここで止まるわけには行かない。今、この時点で私は晴れて、人殺しの仲間入りしてしまったわけだが、不思議と穏やかな気持ちだった。ラミさんには本当に可哀想な事をしてしまったが、今の私には、既にアカリ以外にかまけている余裕はなかった。
 さて、とばかりに改めてアカリと対面しようとした時、身体を支え切れなくなったのか、ラミさんがどさり、と倒れる。思っていた以上に大きな音がした為、私はついそちらに目を向けた。すると。

「え」

 視線の先の光景が信じられず、私は喉を締められたような声を漏らす。横倒しになったラミさんの、被っていたフードがずれ、顔が顕になっていた。そこにあったのは、私と、瓜二つのそれだ。
 突然現れた、ドッペルゲンガーだと思いたかった。
 けれど、十年離れていたとしても忘れる事のない、その仕草が、その雰囲気が、そう思い込ませてはくれなかった。

「美、帆……?」

 久方ぶりに呼びかけた声は、ほとんど掠れて音にすらならなかった。それでもラミさん、いや、美帆は、ぐったりと床に寝転んだまま、青褪めた顔をこちらに向けた。

「………久しぶり、お姉、ちゃん」

 その一言で、私の世界がひび割れて行くのを感じた。
 美帆。佐倉美帆。
 十七年人生を共にし、十年離れ離れになった、私の双子の妹。私の、かけがえのない半身。そして、……この馬鹿げたゲームに参加した、目的。
 我武者羅になってポスターを貼って、道行く人達に聞き込みをして、通学路や良く行く店等を行き来して。藁にも縋る思いで、消えた妹の影を追い続けていた。
 その結果が、これだというのか。

「嘘だ」

 妹が生きていてくれた事は、喜ばしい筈なのに。喜ぶ事が出来ない。
 補佐をしている以上は、アカリに協力しているという事になる。つまり美帆は、アカリの活動を良しとしているのか。
 ……いや、そもそも、私は何をした?
 幾ら知らなかったとはいえ、私は、大事な妹を、毒のある吹矢で、傷付けた。……傷付けてしまったのだ!

「嘘だ! そんな! 私、美帆を……!!」

 激情に身を任せた結果、大切な事に目を向ける事が出来なかった。それ故に、自ら招いてしまった悲劇に、私は絶望する。
 取り返しの付かない事だった。もし、もしこの一撃が原因で、妹が死んだら、私は、私は。
 意図せず犯してしまった過ちを受け入れられず、私はその場にがくりと頽れ、啜り泣く。自分自身が憎くて仕方なかった。何故、何故、もう少し冷静に考える事が出来なかったのか。
 頭の中で、ありとあらゆる罵倒を、自分に浴びせかけていると、急に、周囲が暗くなった気がした。不審に思うと同時に、俯いたままの私の視界に、黒いローブの裾が入り込んで来る。

「シホ様、アナタはやはり、ラミさんのお姉様だったのですねェ」

 その言葉に、私は思わず顔を上げ、アカリを見た。
 判っていたのか。
 そう思いかけて、すぐに考えを改める。当然か。私達は一卵性の双子だ。美帆と面識があるのなら、顔を一目見れば、すぐに察する事が出来るだろうから。と、納得しかけてはっとする。
 アカリは、私が“誰”か気付いていたのだ。
 そして恐らく、私の思惑も見当が付いているに違いない。
 そりゃそうだ。自分が、補佐として引き入れた人間と同じ顔が来たら、余程アホでもない限り、双子を疑うだろう。そうなったら、身内がここに乗り込んで来た理由など、容易に想像出来るに違いない。
 綿密に立てた計画が、初めから破綻していた事がショックで、私は茫然とする。ならば最初から、私は泳がされていたのだろうか。
 始めから自殺目的でない事を知った上で、自殺志願者のフリをする私を。妹の情報を得ようと、必死になって藻掻く私を、陰で嘲笑っていたのだろうか。想像するだけでも不快で、私は再び、アカリへの怒りが燃え上がるのを感じた。
 その時、背後から酷く咳き込む声が聞こえた。振り向くと、美帆が胸を鷲掴みにしながら辛そうに顔を歪めている。

「美帆……!」

 私は、妹に駆け寄ろうとしたが、阻止された。何と、あの補佐ゴリラ(仮)がその無駄に逞しい腕で、私の両肩を掴んでいたのだ。
 ふざけるなこのゴリラが! 四回戦に続き、今回も私の邪魔をするつもりか。舐めるな。今度ばかりは私だって、大人しく拘束されるつもりはない!
 私は、一度右足を前に出すと、振り子の要領で後ろ蹴りを繰り出す。しかし、補佐ゴリラ(仮)は攻撃を受けてもびくともせず、何事もなかったように私を絞首台へと引き摺って行った。

「ちょっと待って! 離して! 美帆。美帆! 美帆ぉ!!」

 声が枯れそうな程に張り上げた私の叫びは、無情に響いて消える。また抵抗される事を恐れたのか、私は、全ゲーム中最も多数の補佐達によって、成すすべなく拘束されてしまった。こうなってしまったらもう、美帆に近付く事は出来ない。悔しさのあまり、私はぎり、と音が聞こえそうなほどに、唇を噛み締めた。
 美帆は、このまま放置されるのだろうか。
 そんな、考えたくもない想像が頭を過った時、不意にアカリが、美帆の側へと向かって行く。

「ラミさん、聞こえてますでしょうか?」

 美帆と視線を合わせるようにしゃがみ込み、口を開いたアカリの声は、これまでの口調とは打って変わって、穏やかだった。まるで、幼い子供に語りかけるように。
 その声が聞こえたのか、美帆はゆっくりと顔を上げ、真正面からアカリを見つめる。アカリはそれに頷くと、とんでもない事を言い出した。

「アナタは、この十年間、良く私に尽くして下さいました。ですから、最期はアナタの望む通りにしたいと考えております」

 そこまで言うと、アカリは一度言葉を切り、拘束された状態の私とクラゲちゃんを一瞥し、続けた。

「このまま、毒の蝕むままに命を終える事は出来ます。しかし、死因が首吊りでなければ、イシュタム様からの祝福は得られないのは事実です。ですが今なら、間に合います。幸い、次のゲームはこれから始まりますから」

 一瞬、アカリが何を言っているのか、判らなかった。けれど、じわじわと意味が頭に浸透して行く内に、私は、自分の中身全てが氷点下まで下がって行くのを感じた。
 死ねと言ったのだ。
 長年、自分に仕えていた補佐に。ずっと探し求めていた、私の大事な妹に。
 死ねと言ったのだ。こいつは。
 当然、応急処置の準備もしない。救急車を呼ぶ事もない。してくれるのは、死に方を選ばせる、ただそれだけだ。

「ふざけんな!!!」

 あまりに残酷な仕打ちに、私は激昂のままに吠える。
 妹が、これから殺されようとしている。例え、直接手を下されないとしても、死を強要するのは立派な殺人だ。私には、そうとしか思えない。

「人殺し! 私の妹に何させようとしてんのよ! そんなん、あって良いわけないだろ! 良い加減にしろ‼」

 許せない。
 許せない。
 そんな悲惨な事は言語道断だ。させるわけにはいかない。
 それなのに。それなのに今。
 私は拘束されて、身動き一つ取れないなんて。

「美帆! 美帆‼ 馬鹿な事は止めて!! お姉ちゃんと帰ろう! 一緒に暮らした家、まだあの頃のまま残ってるの!! だから……‼!」
「どう致しますかラミさん? どちらを選んだとしても、我々はアナタの意見を尊重しましょう。外野の意見に耳を傾ける必要はありません。決定権は、アナタにあるのですから」

 私は必死に、美帆に訴えるが、アカリは歯牙にもかけず、淡々と美帆に確認している。“外野”だなんて、失礼極まりない。私は、美帆の姉だ。美帆の身内である以上、あの子の行く末に口出しする権利がある筈だ。
 可能なら、アカリをボコボコにして、美帆の手を取って逃げ出したいが、それも出来ない。その事が、ただただ腹立たしい。

「聞くんじゃない! 美帆! 死ぬなんて馬鹿な事──」
「さぁ、お選びなさい。ラミさん」

 私の必死の叫びを遮るように、アカリが言い放つ。その一言は、声を張り上げているわけでもないのに、妙に良く室内に通った。不思議と、鳥肌が立つようだ。
 私とアカリ、それぞれに呼びかけられた美帆は、他の補佐に支えられながらゆっくりと立ち、ふらふらとアカリの元へと歩いて行く。
 やがて、伸ばした腕が届く程にアカリとの距離を詰めると、そのローブの裾をぎゅ、と掴み、言った。

「……参加、致します。私は、……楽園行きを、望みます」

 その、蚊の無くような声は、私の耳にも、はっきりと届いた。瞬間、胸を抉り取られたような痛みが走り、頭が真っ白になって行く。
 妹の決定に打ちひしがれる私とは対象的に、アカリは「よろしいのですね?」と一言確認した。美帆がそれに頷くと、満足そうに頷き返して、室内全体に聞かせるような声で命令した。

「皆様ァ。次のゲームはラミさんも参加致します。絞首台をもう一つ、お願い致しまァす!」
「ちょっと……」

 程無くして、ガラガラと腹に響くような音が近付いて来た。絞首台のご登場だ。私の左隣にぴたりと止まったそれに、美帆が拘束されて行く。
 私は罵倒を撒き散らしながら、何とか拘束から逃れようと暴れ続けたが徒労に終わり。やがて美帆が私とお揃いの状態になる頃には、ロープで擦り切れた私の首は熱い程に痛み、服のあちこちを血で赤く染めていた。

「それでは、準備はよろしいでしょうかァ⁉ これよりィ、儀式ゲームを再開致します! お題は、こちらになりまァす!」

 どれだけ足掻いても、どれだけ抗っても、運命は変えられないのか。
 妹を混じえたゲームが、今始まった。こうなってしまったらもう、クリアするまで駆け抜けるしかない。
 何があっても、私が絶対に守るのだ。美帆も、海月ちゃんも。
 かつて無いプレッシャーに押し潰されそうになる中、右側の画面が変わり、英単語の文字数を表したマスが映し出される。

 □□□□□□

 六文字か。長さとしては上々だが、簡単とは限らない。今日一日で、痛い程学習した。油断大敵。何せ今回は、誰も死なせるわけには行かないのだから。
 私は、自分の両側を見る。左側は、毒の回る身体を、苦しそうに支えている双子の妹。右側は、共に暮らしても構わないと思える程、妹のように思っている少女。二人共、緊張した面持ちで画面を見つめている。

「では、まずはシホ様ァ。どうぞお答え下さい!」

 指名された私は、気持ちを落ち着かせる為に、ふっ、と息を吐く。まずは、最初が肝心だ。一発目を当てて、そのまま流れに乗りたいと思う。まずは、お決まりの母音攻めだ。私は腹を括ると、叫ぶように答えた。

「“O”!」
《ブブーッ》

 その瞬間に、つんざくようなブザーが室内の空気を裂いた。いきなり答えを外した事に、胃がずしん、と重くなる。確率から考えれば仕方ないのだが、やはり、初動で当てられないのは辛い。
 けれど私は、気を取り直して前を向く。他の二人の答えを、聞き逃すのはよろしくないからだ。次は、美帆の番。どうか、当てられますように。そう祈りながら、私は目を瞑った。

「……“Q”」
《ブブーッ》

 息切れ混じりに口にされた答えは、ブザーに否定される。これも外れか。美帆は、立っているのも辛いのか、ふらつきながら絞首台に寄りかかる。見かねたらしいアカリが、補佐に指示して椅子を、それも頑丈そうな肘かけ椅子を持って来させ、座らせていた。
 やはり、あの状態でゲームなんて無茶だ。一刻も早く、このゲームを終わらせて、美帆を救出しなければ。やきもきする私の横で、海月ちゃんの番が回って来る。
 海月ちゃん、お願い。当ててくれ。再び、祈る思いで海月ちゃんに視線を向けた時、私は驚いた。
 彼女の雰囲気が、まるで別人の如く変わっていたからだ。
 自信無さげにおどおどしていた様子は鳴りを潜め、顔を上げ、正面を向いている。何かを決意したような、凛としたその横顔に、思わず見惚れてしまいそうだ。背筋をぴん、と伸ばし、姿勢を正したその姿は、少しばかり大人びて見えた。
 感嘆する私を余所に、海月ちゃんは、す、と息を吸うと、はっきりとした口調で答えた。

「“E”」
《ブブーッ》

 三度目のブザー。結果はつまり、外れだ。しかし、それを物ともしないような感情の静けさは、何処か美しい。そうか、生きると決めた人間は、こんなにも強くなれるのか。
 そうならば、私の決断は間違っていなかった。彼女と共に生きようと持ちかけ、手を差し伸べた。結果、海月ちゃんは戦おうとしてくれているのだ。今回のゲームで、真っ先に母音で攻めてくれたのが、その証拠だろう。
 なら、私はその想いに応えたい。海月ちゃんと、美帆と、三人でここを出る未来を描く為に。
 このゲームを、クリアするのだ!

「“A”!」
《ブブーッ》

 二周目の私の番。畳みかけるように答えた。
 しかし、またもや外してしまい、左側の画面上で“I”の横を、射線が走る。良くない流れだ。美帆の体力を考えると、なるべく早くケリを着けたいものなのだけど。
 次は、美帆の番だが、顔色が大分悪い。もう立ち上がるのも出来ないのか、美帆は椅子にしがみ付いたまま、絞り出すように答える。

「……“し、ぃ”」
《ブブーッ》

 あぁ! また、ブザーが鳴った! もう、良い加減にしてほしい!
 女神の名の二文字目である“X”が、画面に表示されるのを苦々しく想いながら、私は舌打ちする。全く開く様子を見せない空のマスにすら、殺意が湧きそうだ。
 しかし、感情に振り回されてはいけない。冷静さを欠いてしまったら最後、思わぬミスに足を掬われてしまうだろう。それだけは、絶対に、あってはならない。

(熱くなっては駄目だ。クールになれ。クールになれ!)

 そう自分に言い聞かせつつ、私は海月ちゃんの二周目を見守る。アカリに名指しされた彼女は、落ち着いた様子で口を開いた。

「“I”」
《ブブーッ》

 またしてもブザーが鳴り、画面では横線が追加された。これで三文字目突入か。しかしこの時点で、五つの母音の内、四つが出た。残った一つが引っかかれば、正答の取っかかりにはなるだろう。
 母音ローラー作戦は、次で終いだ。やって来た三周目。私は自信を持って、解答を口にした。

「“U”!」
《ブブーッ》
「え……?」

 一瞬、自分の耳がおかしくなったのかと思った。
 今、私が答えたのは、母音だ。五つの母音の内の、五つ目。四つが外れたこの状態、通常なら、ここで当たる筈だ。それなのに。

(外れた……? どうして……?)

 予想だにしない状況に、頭の回転が追い付かない。すぐに勢い良くアカリの方を見るが、ただ首を傾げて私を見返した。
 何かを企んでいる様子はない。誰かが、間違いを正す素振りもない。なら。……なら、これは、まさか。

(母音を持たない英単語、なの……?)

 突然、後方からトラックに突っ込まれたような気分だ。これまでとは全く違うタイプの出題に、私は混乱する。
 これは間違いなく、今回用意されているであろう問題の中で、最難の物だろう。英単語は、母音と子音で構成されている。そう、思い込んでいた私のような人間を叩きのめす為の、一種の兵器がこの問題だった。

(まずい。こんなの、手の付けようがない……!)

 母音という取っかかりのないこの状況で、答えとなるアルファベットを探るのは、容易ではない。しかも、今の誤答で“T”が出来た為、女神の名の完成まで、あと二文字。にも関わらず、現時点で開いているマスは、無い。
 まさに、絶体絶命だ。何とかして、一マスでも開ける努力をしないと、やられる。せめて、私の番が来る前に、美帆か海月ちゃんが正解を出してくれないだろうか。どうか。

「…………“B”」
《ブブーッ》
「えっと。“L”」
《ブブーッ》

 私の願いも虚しく、二人連続で不正解を叩き出した。ここまで来るともう、笑うしかなくなって来る。
 左のテレビ画面では、四文字目“A”が出来かけている一方で、右のテレビ画面に映るマスは、頑として開こうとしない。手の打ちようがなかった。
 どうする? ここで、諦めるのか? いや。
 何の為にここに来たと思っている。少なくとも、むざむざと死ぬ為ではないだろ。
 ここで諦めたら、全てを失う事になる。妹も、妹も同然な存在も、命も。
 二人を守ると決めたのは、お前だろ。なら、やる事は決まっている筈だ。判っているだろ。
 戦え。戦うんだ。佐倉志帆!

「“R”‼」

 回って来た、自分の番。望みを込め、吠えるように私は答えた。
 例え茨の道だとしても、その先に未来がある以上、可能性を捨ててはいけない。血反吐を吐く事になろうが、生きる事に意地汚くしがみついてやる!
 激情に突き動かされるように、ぶつけた。その、結果は──。

《ピンポーン》

 その音は耳を、心を震わせるように、私に届いた。
 あぁ。ようやっと、正解したのだ。
 湧き上がる感情のままに、涙が溢れそうになるが、何とか堪えた。ただただ、ギリギリで掴んだ、微かな希望を噛み締めた。

(そうだ。結果を確認しないと!)

 私は急いで顔を上げ、テレビを確認する。その画面では、ずっと開かずを貫いていたマスの一つに、アルファベットが収まっていた。

 R□□□□□

 開いたのは、先頭だった。通常なら、ここから英単語を推測するのは、比較的簡単だ。しかし、“母音のない”英単語という条件を持つ為、スペルの覚えやすいメジャーな英単語は、全て不正解と考えて良い筈だ。
 事実、私はこの二十七年生きて来て、こんな条件の英単語を知らなかった。恐らく、特殊な英単語なのだろう。問題は、どうやってこの問題をさばべきか、という事なのだが。

(悔しいけど、今は様子を見るしかない。何とか、この流れに乗って当てられれば良いけど……)

 ようやく正解しても、気持ちは晴れなかった。何せ、次もスムーズに当てられる保証は、何処にもないのだから。
 そんな中、回って来る美帆の番。今や、椅子に身体を預けっぱなしになる程に弱り切った妹は、何とか頭だけを上げると、掠れた声で答えた。

「……“V”」
《ブブーッ》

 ブザーが鳴るとすぐ、美帆は仕事は終えたとばかりに、再び椅子にもたれかかる。その顔は最早土気色で、私は、何もしてやれない事がもどかしかった。
 やばい。美帆にはもう、時間がない。早く、ゲームをクリアしないと間に合わない。早くしないと。早くしないと!
 テレビ画面に並ぶ“IXTA”の四文字を前に、私は頭がパニックになりかけた。しかし、焦ったところで、ゲーム進行が早まるわけではない。そんな事は判っている。判っているが、気持ちが納得するかは別だ。あぁ、現実も録画みたいに早送り出来れば良いのに!
 心が荒む程に、己の中から冷静さが溶け出して行くようだ。このままでは、まともな解答すら捻り出せそうにない。いけない。まずは、目の前の問題に集中しないと。そう自分を叱咤して、私は、次の海月ちゃんの番を見守った。

「“M”!」
《ピンポーン》

 その音が聞こえた時、私は思わず拍手しそうになるが、かろうじて押し止める。けれど、心は確かに踊っていた。何せ、二回目の正解だ。嬉しくもなるという物だ。
 と、はしゃいでいる場合ではない。我に返った私は、急いでテレビ画面を確認する。早く、得られたヒントから正解を導き出さなければ。そう意気込んだ私の目の前で、閉じられていたマスの一つが開いた。

 R□□□□M

うっそだろ……」

 落胆を固めに固めたような、頼りない声が私の口から漏れる。二マス開いた事に関しては大変素晴らしいとは思う。しかしまさか、両端が先に開いてしまうとは。これでは、推測しようがない。
 しかも、悲惨な事に、次は私の番だ。どれだけ無理ゲー状態だとしても、最低一マスは開かせないといけない。もう、やるしかないのだ。
 覚悟を決めて、私は答えを口にした。

「“F”!」
《ブブーッ》

 無情過ぎるその結果に、頭が弾けるかと思った。テレビ画面では、ついに女神の名の五文字目が書かれ始める。
 どうしようどうしようどうしよう。このままじゃ、誰かが死ぬ。何とか手を打たないといけない。でも、どうしたら良い? このままじゃまずいのは判り切っているのに。どうしたら良いのかもう、判らない……‼

「……“N”」
《ブブーッ》

 私の心情に拍車をかけるように、美帆が解答に失敗し、女神の名まで王手がかかってしまう。まさに、背水の陣。開いていないマスは、まだ四つも残っているというのに!

(せめて。せめてマスを開き続ければ、誰も死ぬ事はない。お願い、海月ちゃん。マスを開けて……!)

 何度目かも判らない祈りを、私は海月ちゃんに捧げる。ここまで来てしまったら、もう正解するしか生き残れない。外す事すなわち、死だ。どうか、海月ちゃんが正解しますように。
 私は、ちらりと右側を見やる。その先にあるのは、険しくも、強い眼差しでテレビ画面を睨む、少女の姿だ。彼女は、こく、と唾を飲み込むと目を閉じ、囁くように答えた。

「“Y”」
《ピンポーン》

 その音がした瞬間、私は泣きそうになる。良かった。良かった海月ちゃん。生き残ったんだ。
 ほっとした私の視線の先、首の皮一枚繫がった少女は、すぐに安心したように、は、と息を吐くと、上を仰ぎ見た。その意図を察した私は、彼女に倣う。早く、結果を知りたいのは、同じだったのだ。
 しかし。

 R□Y□□M

 マスが一つ開いたくらいでは、推測は簡単にはならなかった。寧ろ、余計に混乱するばかりだ。いや、アルファベットがオープンされているのだから、状況としては良くなってはいる筈だ。だが、全くと言って良い程、その手応えがないのだ。
 どうにもならない事には変わらない。しかし、ここで諦めてしまったら、試合どころか人生が終了してしまう。それは、非常にまずい。
 さぁ、ここが生きるか死ぬかの瀬戸際だ。何としてでも当てる! 思い出せ。英単語で、良く使われる文字配列は、“ETAOIN-SHRDLU”。この中でまだ出ていないのは……。

「“T”‼」
《ピンポーン》

 やった! 生き延びた‼
 正解を知った私は、己が賭けに勝った事を悟った。先程、頭に浮かべた文字配列の内、数から考えると、残りは四文字(T・S・H・D)だ。これ以外のアルファベットの可能性も無いわけではない為、ここから当たりを選べたのは、奇跡と言っても過言ではないだろう。
 私は即座に、テレビに映る文字を確認する。これで、開くべきアルファベットは、残り二文字。ここまでくればきっと、正解の英単語が推測出来る筈だ。
 そう、信じて注文した、テレビ画面。期待に膨らむ私の思いは、呆気無く砕かれる事となる。

 R□YT□M

 結果的に、何の手がかりも得られなかった。
 残っているマスに入るであろうアルファベットは、普通であれば、位置的に母音の可能性が高そうだな、と思った事だろう。しかし、母音全てが拒絶されている今、マスに入るのは、“子音”である事が決定付いていた。

(入れるのが子音である以上、ぱっと見た感じから英単語を推測出来ないのは、厳しいな。しかも、次の解答者は……)

「次は、ラミさんの番でございます。どうぞお答え下さぁい!」

 アカリの声が響くと、美帆は、訓練された犬のように、さっと顔を上げた。驚いた事に、その目は、何かを決意したような強い瞳をしている。先程までの虚ろな様子とは違う、あまりの変わり様に、私はやや動揺した。
 もしかして、妹は生きる事に意欲的になってくれたのだろうか。そうであってほしい、と姉心的には思う。何せ、ここで間違えてしまったらもう、後がないのだから。
 外すな。外すな。と願う私の左側で、運命の瞬間が訪れる。美帆は、一旦深呼吸をすると、ちらりとこちらを見ると、ふ、と控え目に笑いかけた。

「え……?」

 突然の事に驚いた私は、その心情を顔に貼付けたまま見返してしまった。けれど美帆は、それに満足したかのような表情を浮かべると、そのまま正面を向き直して言った。
 
「……“H”」
《ピンポーン》

 瞬間、私は自分の耳が信じられなかった。美帆が、正解した?
 見事、妹の死が回避出来た事実に、私は生まれて始めて、存在するかも判らない神に感謝した。
 偶然かもしれないけれど、結果的に当てられたのか。なら、また一つ文字が開く筈だ。それを元に考えれば、上手く海月ちゃんに繋げられる。その為には、私も最後の文字を推測しなければ!
 そう、意気込みながら、私はテレビ画面を確認しようとしたが、何故か、アカリの驚いたような声が聞こえた。

「オオッとォ! どうやら、当たってしまったようですねェ。今回の答えは“R-H-Y-T-H-M”……Rhythm(リズム)でございまァす!」

 再び、私は自分の耳を疑った。今の美帆の答えが、丁度残っていた二つのマスを一気に開いたのだ。それは、ゲームをクリアしたという事を意味していた。
 つまり、……私達三人は、生き残れたのだ。誰一人欠ける事無く。

「……や、やった。終わった。ゲーム、クリア出来た! やったよ美帆! 海月ちゃん!」

 私が思わずガッツポーズしながら右側を向くと、海月ちゃんが嬉しそうに笑いかけていた。良かった。この子が死なずに済んで。どうやら、この子との約束はきちんと果たせそうだ。

(……と。あまりうかうかしている場合じゃない。早く、美帆を救出しなきゃ!)

 ひとまず、海月ちゃんと生還した喜びを分かち合うが、まだ安心は出来ない。一刻も早く、美帆を病院に連れて行かないと。そう思った私は、自身の左隣に向けて、声をかける。

「ありがとう! 美帆のおかげで、私達生き残れたよ! 帰ろう。もう、こんな危ない所に固執する必要なんてないよ。ここで、ゲームを止めれば良いだけなんだからさ! ……ねぇ、美帆聞いてる?」

 そこまで言ってから私は、先程から、何のアクションも返さない美帆に焦れて、彼女を睨み付けた。のだが。
 何か、様子がおかしい。

「…………美帆?」

 私は改めて、妹を観察する。美帆はもう、顔すら上げていなかった。力無く俯いている姿は生気が感じられず、最早人形のようだった。果たして、私の声が聞こえているのか。それくらい怪しい状態に見えていて、嫌な予感がした。

「美帆」

 その、最悪な予想を否定したくて、私は更に妹に呼びかける。
 嘘だ。そんな筈はない。そんな事、ある筈がない。あってはいけない。もし、本当にそうなら、私は、私は何の為に、ここまで来たというのだ……‼

「美帆! 起きろ! こんなとこで寝るな!! 聞いてるの‼ お姉ちゃんをシカトするとか、良い度胸じゃないのッ!!!」

 私は、あらん限りの大声で、美帆に怒鳴り付ける。頼む、どうか反応してくれ、という想いを込めながら。だかそれでも、美帆はぴくりとも動かない。
 その状況を見るに見かねたのか、アカリと補佐の一人が美帆に近付き、てきぱきと何かを調べ始める。程無くして、その補佐はアカリに何かを話しかけると、酷く肩を落とした。
 アカリはというと、「アァ」と眉間の辺りを抑えながら頭を振り、悲しげにこちらへと向き直る。そして、訝しく思う私の側へとゆっくりと歩み寄り、言った。

「お亡くなりになったそうですよ、ラミさん」

 瞬間、私はアカリの首を締め上げていた。
 怒りも、悲しみも通り越して。真っ白になった頭は機能する事を止め、己の本能のままに、相手を抹殺するべく暴走しているのだ。さながら、獣のように。
 身体が、煮えたぎるように熱い。大して、掴んでいる相手の肌は冷たくて、それが余計に、私の感情のボルテージを上げて行くようだった。
 こんな、温かな血も感じられない奴だから、こんな残酷で非道な事が出来るのだ、と。
 幾ら自分で選んだとは言え、呑気にゲームなぞした所為で、妹は死んだ。それも、吹矢の毒が原因という、本人の意志に反した死因でだ。
 そもそもの原因は、私だ。それは揺るぎない罪である。けれど、すぐに病院に連れて行って、適切な処置が受けられていれば、妹は助かったかもしれないのに。
 それなのにこいつは、こいつらはそうしてくれなかった。それどころか、妹の最期の望みを叶える約束さえ、守りはしなかった。
 結果、美帆は望んだ筈の楽園行きの権利を失った。妹の尊厳を、蔑ろにしたのだ。そんな奴らに、生きている価値などない。

「返せ」

 私は両手に力を込める。アカリの首は、予想以上に細かった。これなら、締め殺す前に折れてしまうかもしれない。

「返せ」

 視界の端で、補佐達が右往左往している。こちらに駆け寄って来る者。何かを話し合っている者。美帆の拘束された台に、群がっている者。
 妹に近付くな、と思ったが、声には出さなかった。まずは、何よりも先に、こいつを、アカリを手にかける事が最優先だ!

「返せよこの人殺し! よくも妹をッ!!」

 何が祝福だ。何が救いだと言うのだ。
 死んでしまったら、何も判らなくなってしまうというのに。
 楽園へ導かれるなど所詮、変な宗教に被れた生者の考えた、下らない妄想に過ぎないのに。そんな馬鹿げた物に振り回されて、妹は死んだ。こんな理不尽、許されるわけがない。
 もし、許されるというのなら、私が、お前を殺してやる‼
 そういった罵倒を、ひたすらぶつけてもなお、アカリは顔色一つ変えなかった。ただ、感情の読めない“無”を顔に貼付けたまま、真正面から私を見据え、沈黙を貫いている。それが、ますます私の癇に障った。

「死ねッ‼‼‼」

 法律なんてどうでも良い。こいつさえ抹殺出来れば、それで良い。
 私は、アカリへの憎しみ全てを、両手に込める。
 次の瞬間。
 私の足が、宙を掻いた──。
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