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「いや、そのようなことはしなくて良い。もう良いんだ」
 己はもちろん、この屋敷にいる者はだれ一人として、その身体を捧げよなどとは言わない。だから、したくないことを無理にする必要はないのだと、弥生は繰り返し無表情の彼に告げた。そっと乱れてしまった襟を直してやる。
「ゆきや、と言ったな? 字は何と書くのだ?」
 音はわかるが、漢字も知りたいと言う弥生に、ゆきやは何のことかわからず、コテンと首を傾げる。その幼子のようなしぐさに、もしやと思い弥生は文机に向かって己の名を紙に書きゆきやに見せた。
「私は春風 弥生。この字で〝はるかぜ やよい〟だ。ゆきやにはこのような字は無いのか?」
 ジッと紙を見つめながら、ゆきやはフルフルと首を横に振った。その様子に、さてどうしようかと悩む。
 もともと両親は平仮名でつけたのか、それともゆきやが知らないだけか。それはわからないが、新しい生をいきるというのも、良いかもしれない。
「ならば私がそなたに漢字をあげよう」
 弥生は新しい紙に力強く筆を滑らせる。そしてそれをゆきやに見せた。
「〝雪也〟というのはどうだ?」
 雪也、とゆきやは小さく呟く。弥生がひとつ頷けば、ほんの少しだけ雪也の口元が綻んだ。どうやら気に入ったらしい。
「では雪也、今日はもうゆっくりと休むが良い。明日から、私が色々教えてあげよう」
 あなたが生きる世界は、とても広くて美しい。それらをひとつ、ひとつ、教えてあげよう。その顔に、笑顔が戻るように。
 弥生の言葉に、雪也はコクンとひとつ、頷いた。
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