42 / 42
第十八章 剣山
第十八章 剣山
しおりを挟む
清太が吉野川の河畔をゆっくりと東進する。前日までの雨で川は増水しているが、峡を出立した日に比べれば水嵩は少ない。あの日、初めて俗世へと旅立つ清太とともに吉野川を下った弥蔵、亥介、そして、総馬はこの世にいない。それを思うと、清太の胸中に寂寥が広がる。
清太の視界が本流吉野川と支流貞光川の合流点を捉える。
「あそこで南に進路を取って、支流に沿って上ります。」
清太は大きな流れの乱れを指差しながら、背後を振り返る。
「剣のお山はいずこでしょうか。」
清太の背後を歩くよしのが左手に視線を移し、錦秋の盛りを越えた山々を眩しそうに眺めながら、弾むような口調で尋ねる。
「剣山はあの山並を越えたさらに向こう側です。まだここからは見えません。」
清太が微笑みながら答える。よしのはこれから人生の大半を過ごすであろう峡の美しく、厳しい自然を想像しながら、左手に雄大に広がる遠い山並を透き通った瞳で見つめる。
「峡まではあとどのくらいかな。」
よしのと並んで歩く平次郎が尋ねる。
「ここからはこれまでとは比べものにならぬ険路です。よしのさんのことを考えて、二泊をかけようと思います。」
「それが宜しいでしょう。わたしも霊場剣山の険路は噂に聞いたことがある。」
清太が再びよしのに視線を移す。
「よしのさんは峡に入れば、一人で下界に戻ることはできないでしょう。それでも宜しいですか。」
清太がよしのの意思を確かめる。
「わたしは清太さんについて参ります。」
清太は、よしのの揺るぎない決意を確認して、微笑み返す。
「わたしもしばらく峡に滞在して、毀誉褒貶のない場所で兵法を極めてみたい。」
「部丞達も拒むことはないでしょう。それに、平次郎殿が峡にいれば、乙護法は御劔に手を出せませぬ。」
信貴山城から脱出したあと、清太は改めて、平次郎が乙護法を駆逐できた理由を、尋ねた。
平次郎は、
―闇の世界で乙護法という呼称をもって知られる術者であれば、薬と術を使ってどんな人間もほぼ思い通りに操ることができるだろう。しかしながら、妖術や幻術は万能ではない。よほどの術者でもまれに術の効かぬ相手が存在すると言う。これは術や兵法の巧拙如何ではなく、術者とその相手との相性のようなもの。乙護法にとって術が効かない相手が、偶然にもわたしだったということだろう。しかし、清太殿が地溝の割れ目に墜ちる寸前で生還できたのは、わたしが乙護法を斬ったからだけではなく、清太殿の生きることに対する強い想いが妖術に勝(まさ)ったからだ。
と説明した。
「わたしも含めて峡衆に兵法を教授していただければ、なお一層、助かります。」
清太が平次郎に懇願する。
「兄上が一緒に居て下されば、わたくしも心強い。」
よしのはぎこちない口調で「兄上」という言葉を使う。
「よしのさんは、このままよしのさんとしてこれからの人生を清太殿と一緒に歩いていくのが、一番の幸せでしょう。記憶が戻れば、辛い過去を思い出すかもしれない。わたしは清太さんとの縁で峡に行くだけで、よしのさんはわたしのことを気にすることはない。」
平次郎は兄らしい慈愛に満ちた口調でよしのを諭しつつ、敢えて「加枝」とは呼ばなかった。
三人は吉野川と貞光川の合流点に達する。
「ここからは次第に険路になります。一度、休憩しましょう。」
清太は手頃な転石によしのを腰掛けさせ、湧き水を汲んだ竹筒を手渡したあと、弥蔵の形見の小太刀を腰に差したまま、最寄りの岩壁に自分の杖を置き、さらに、御劔を収めた布袋を背中から下ろして、その横に立て掛けた。
三人は吉野川の河畔を外れ、貞光川の渓谷に沿って奇岩奇石を踏みながら、一歩一歩進んでいく。頭上を見上げると、晩秋の紅葉に彩られた山陵の裂け目から透き通るような碧い空が覗く。
「綺麗…。」
よしのが空を仰いで、呟く。
狭隘な碧い空から降り注ぐ柔らかな陽光が、三人が歩く清流の渓谷を、温かく満たしていた。
完
清太の視界が本流吉野川と支流貞光川の合流点を捉える。
「あそこで南に進路を取って、支流に沿って上ります。」
清太は大きな流れの乱れを指差しながら、背後を振り返る。
「剣のお山はいずこでしょうか。」
清太の背後を歩くよしのが左手に視線を移し、錦秋の盛りを越えた山々を眩しそうに眺めながら、弾むような口調で尋ねる。
「剣山はあの山並を越えたさらに向こう側です。まだここからは見えません。」
清太が微笑みながら答える。よしのはこれから人生の大半を過ごすであろう峡の美しく、厳しい自然を想像しながら、左手に雄大に広がる遠い山並を透き通った瞳で見つめる。
「峡まではあとどのくらいかな。」
よしのと並んで歩く平次郎が尋ねる。
「ここからはこれまでとは比べものにならぬ険路です。よしのさんのことを考えて、二泊をかけようと思います。」
「それが宜しいでしょう。わたしも霊場剣山の険路は噂に聞いたことがある。」
清太が再びよしのに視線を移す。
「よしのさんは峡に入れば、一人で下界に戻ることはできないでしょう。それでも宜しいですか。」
清太がよしのの意思を確かめる。
「わたしは清太さんについて参ります。」
清太は、よしのの揺るぎない決意を確認して、微笑み返す。
「わたしもしばらく峡に滞在して、毀誉褒貶のない場所で兵法を極めてみたい。」
「部丞達も拒むことはないでしょう。それに、平次郎殿が峡にいれば、乙護法は御劔に手を出せませぬ。」
信貴山城から脱出したあと、清太は改めて、平次郎が乙護法を駆逐できた理由を、尋ねた。
平次郎は、
―闇の世界で乙護法という呼称をもって知られる術者であれば、薬と術を使ってどんな人間もほぼ思い通りに操ることができるだろう。しかしながら、妖術や幻術は万能ではない。よほどの術者でもまれに術の効かぬ相手が存在すると言う。これは術や兵法の巧拙如何ではなく、術者とその相手との相性のようなもの。乙護法にとって術が効かない相手が、偶然にもわたしだったということだろう。しかし、清太殿が地溝の割れ目に墜ちる寸前で生還できたのは、わたしが乙護法を斬ったからだけではなく、清太殿の生きることに対する強い想いが妖術に勝(まさ)ったからだ。
と説明した。
「わたしも含めて峡衆に兵法を教授していただければ、なお一層、助かります。」
清太が平次郎に懇願する。
「兄上が一緒に居て下されば、わたくしも心強い。」
よしのはぎこちない口調で「兄上」という言葉を使う。
「よしのさんは、このままよしのさんとしてこれからの人生を清太殿と一緒に歩いていくのが、一番の幸せでしょう。記憶が戻れば、辛い過去を思い出すかもしれない。わたしは清太さんとの縁で峡に行くだけで、よしのさんはわたしのことを気にすることはない。」
平次郎は兄らしい慈愛に満ちた口調でよしのを諭しつつ、敢えて「加枝」とは呼ばなかった。
三人は吉野川と貞光川の合流点に達する。
「ここからは次第に険路になります。一度、休憩しましょう。」
清太は手頃な転石によしのを腰掛けさせ、湧き水を汲んだ竹筒を手渡したあと、弥蔵の形見の小太刀を腰に差したまま、最寄りの岩壁に自分の杖を置き、さらに、御劔を収めた布袋を背中から下ろして、その横に立て掛けた。
三人は吉野川の河畔を外れ、貞光川の渓谷に沿って奇岩奇石を踏みながら、一歩一歩進んでいく。頭上を見上げると、晩秋の紅葉に彩られた山陵の裂け目から透き通るような碧い空が覗く。
「綺麗…。」
よしのが空を仰いで、呟く。
狭隘な碧い空から降り注ぐ柔らかな陽光が、三人が歩く清流の渓谷を、温かく満たしていた。
完
0
お気に入りに追加
2
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
大陰史記〜出雲国譲りの真相〜
桜小径
歴史・時代
古事記、日本書紀、各国風土記などに遺された神話と魏志倭人伝などの中国史書の記述をもとに邪馬台国、古代出雲、古代倭(ヤマト)の国譲りを描く。予定。序章からお読みくださいませ
よあけまえのキミへ
三咲ゆま
歴史・時代
時は幕末。二月前に父を亡くした少女、天野美湖(あまのみこ)は、ある日川辺で一枚の写真を拾った。
落とし主を探すべく奔走するうちに、拾い物が次々と縁をつなぎ、彼女の前にはやがて導かれるように六人の志士が集う。
広がる人脈に胸を弾ませていた美湖だったが、そんな日常は、やがてゆるやかに崩れ始めるのだった。
京の町を揺るがす不穏な連続放火事件を軸に、幕末に生きる人々の日常と非日常を描いた物語。
神速艦隊
ypaaaaaaa
歴史・時代
「我々海軍は一度創成期の考えに立ち返るべきである」
八八艦隊計画が構想されていた大正3年に時の内閣総理大臣であった山本権兵衛のこの発言は海軍全体に激震を走らせた。これは八八艦隊を実質的に否定するものだったからだ。だが山本は海軍の重鎮でもあり八八艦隊計画はあえなく立ち消えとなった。そして山本の言葉通り海軍創成期に立ち返り改めて海軍が構想したのは高速性、速射性を兼ねそろえる高速戦艦並びに大型巡洋艦を1年にそれぞれ1隻づつ建造するという物だった。こうして日本海軍は高速艦隊への道をたどることになる…
いつも通りこうなったらいいなという妄想を書き綴ったものです!楽しんで頂ければ幸いです!
白拍子、江戸の鍛冶屋と戯れる
橋本洋一
歴史・時代
「私のために――刀を打ってもらえませんか?」
時は元禄。江戸の町に突如現れた白拍子の少女、まつり。彼女は鍛冶屋の興江に刀を打ってもらおうとする。しかし興江は刀を打たない理由があった。一方、江戸の町を恐怖のどん底に陥れている人斬りがまつりと興江に関わるようになって――
いせものがたり~桜隠し朝の永久~
狭山ひびき@バカふり160万部突破
歴史・時代
あの人が来る――。恬子(やすこ)は小野の雪深い地で、中将が来るのを待っていた。中将と恬子が出会ったのは、彼女が伊勢の斎宮だったとき。そのときから、彼の存在はかわらず恬子の心にある。しかし、この恋はかなえてはいけないもの――。互いに好き合いながら、恬子は彼の手を取れないでいた……。
※平安時代が舞台の恋物語です。
水野勝成 居候報恩記
尾方佐羽
歴史・時代
⭐タイトルを替えました。
⭐『福山ご城下開端の記』もよろしくお願いします。
⭐福山城さま令和の大普請、完成おめでとうございます。
⭐2020年1月21日、5月4日に福山市の『福山城築城400年』Facebookでご紹介いただきました。https://m.facebook.com/fukuyama400/
備後福山藩初代藩主、水野勝成が若い頃放浪を重ねたあと、備中(現在の岡山県)の片隅で居候をすることになるお話です。一番鑓しかしたくない、天下無双の暴れ者が、備中の片隅で居候した末に見つけたものは何だったのでしょうか。
→本編は完結、関連の話題を適宜更新。
平安山岳冒険譚――平将門の死闘(時代小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品)
牛馬走
歴史・時代
(時代小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品) とある権力者が死に瀕し、富士の山に眠っているという不死の薬を求める。巡り巡って、薬の探索の役目が主人の藤原忠平を通して将門へと下される。そんな彼のもとに朝廷は、朝廷との共存の道を選んだ山の民の一派から人材を派遣する。冬山に挑む将門たち。麓で狼に襲われ、さらに山を登っていると吹雪が行く手を阻む――
【完結】二つに一つ。 ~豊臣家最後の姫君
おーぷにんぐ☆あうと
歴史・時代
大阪夏の陣で生き延びた豊臣秀頼の遺児、天秀尼(奈阿姫)の半生を描きます。
彼女は何を想い、どう生きて、何を成したのか。
入寺からすぐに出家せずに在家で仏門に帰依したという設定で、その間、寺に駆け込んでくる人々との人間ドラマや奈阿姫の成長を描きたいと思っています。
ですので、その間は、ほぼフィクションになると思います。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
本作品は、カクヨムさまにも掲載しています。
※2023.9.21 編集しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる