峽の剣

Shikuu

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第四章 梟雄

第四章 梟雄(2)

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 大原から見上げる空間は峡よりも広いが、漆黒の夜空を背景にして両側に隆起する山嶺、さらにその遙か先で明滅する星々は峡の夜空を連想させる。
 離れ屋を出た清太達はその夜空を見上げながら、母屋へ向かう。
 於彩と於妙が、先日と同様、慣れた手付きで夕食の準備を進めている。よしのが料理を運びながら、清太に小さく一礼する。
 清太はきびきびと働く於妙を呼び止め、小声で尋ねる。
「よしのさんの記憶は少しでも戻りましたか。」
「いえ、まだ何も。でも、明るさを取り戻していますよ。」
 於妙は笑顔のまま続ける。
「よしのさんは働き者で、よく気が利きます。暫くは、家事を手伝って貰うつもりですが、落ち着けば寂光院に奉公させてもよいと思っています。」
 清太は、記憶と一緒に生きる場所も失ったよしのが、仮初めとは言え、安住の場所を得たことを心底喜んだ。
 よしのが清太の料理を運んできた。清太は彼女の心に残留しているはずの悲哀に触れないよう、優しく声を掛ける。
「大原の暮らしは如何ですか。」
 よしのが清太の膳部に山菜や小魚の載った皿を並べながら、この屋敷に来た時には見せたことのなかった明るい表情で、清太をまっすぐに見つめ返す。
「ここは洛中の喧騒から離れて、静かな山奥にひっそりと佇む桃源郷のような場所です。周囲を囲む美しい山々を眺めていると、心が落ち着きます。」
 よしのが話題を探して、少し間を置く。
「清太さんの故郷も山奥だとお聞きしましたが、大原のようなところでしょうか。」
「わたしの故郷は険しい山塊を幾つも越えた先にある秘境です。普段、余人が立ち入ることはありません。また、大原のように川や水田はなく、急峻な斜面を耕して雑穀を作り、深い森に分け入って獣を狩り、木の実を採って、糧を得ています。」
 よしのは、峡の大自然が想像していた以上に過酷であることを知り、真剣な表情になって、さらに尋ねる。
「冬は雪が積もるのですか。」
「この天井ほども雪が積もります。しかも、命に係わるような極寒です。」
 よしのは目線を上に傾け、縦横に組まれた大梁を見上げながら、峡の積雪を想像する。
「そんな雪の中を歩けるのですか。」
 よしのが素直に驚く。
「吹雪の時には、景色は全て白色です。とても歩くことはできません。」
 よしのと清太は短い時間ではあったが、会話を愉しんだ。
 翌朝、清太は、不安と淋しさが複雑に混ざり合ったよしのの視線を振り払うようにして、弥臓達とともに嘉平から借りた冑櫃を背負って、将兵の姿で摂津へと出立した。

 先日、峡から京へ上る途上に遠望した石山御坊が、今、清太の眼前に堅牢な雄姿で聳え立つ。風に秋の色彩を感じてもよい時期だが、摂津大坂は、残暑と、織田方・石山御坊方の双方が放射する熱い気炎に包まれている。
 石山御坊は、淀川水系の氾濫により上流から運ばれた砂礫が厚く堆積した扇状平野の中にあって、上町台地と呼ばれる隆起の北辺に位置する。御坊の足許では上町台地の隆起が斜面になって扇状平野に落ち込み、そこで淀川と大川という二つの河川が合流して、天然の外堀を形成する。
 上町大地の西麓を南北に走る堺街道を挟んで、古刹四天王寺が鎮座し、織田軍の天王寺砦が隣接する。
 活況を呈していた石山御坊の寺内町は、元亀元年(一五七〇)以降、断続的に繰り返される織田氏と石山御坊との衝突の中で防御の障害となる不要な建物が焼き払われて荒廃し、往時を見る影もない。
 清太達は陣借りを求める浪人とその郎党という体裁で天王寺砦の主将佐久間信盛の軍門を叩く。重治が、
―織田氏の将兵になれば、砦の中で働きやすかろう。
という配慮で認(したた)めた信盛宛の添え状を提示すると、清太達には、早速、粗末な小屋が宛がわれる。
 清太と弥臓は旅装を解くと、伝輔を伴い、松永陣屋の周辺を中心に天王寺砦の内部および周辺を歩き、主要な施設を確認しながら、武将や雑兵、足軽の会話を拾う。
「久秀の去就についてはかなり懐疑的です。」
 弥臓は周囲を憚りながら、清太に話し掛ける。
「久秀の来歴から考えれば、疑われて当然。久秀にその気がなくとも、「火のない所に煙は立たぬ。」と、周囲の声が大きくなれば、久秀は次第に追い込まれていくでしょう。」
 伝輔は重治が日頃から側に置いているだけに、思考に無駄がなく、頭脳の回転が速い。重治は伝輔を高く評価して、種々の使者や細作などにも用いているようである。今回、重治は、久秀の翻心に備え、
「伝輔は韋駄天。しかも、体術の心得もある。もしものときに役に立つ。」
と言って、清太に伝輔を預けた。確かに伝輔は長浜から大原への途次、山中を疾駆する清太と弥蔵に遅れることがなかった。清太の見立てでは、伝輔は齢(よわい)三十前後、痩身で贅肉がなく、噛み締めるような口調は、伝輔の奥底にある深慮を感じさせる。
 弥蔵が伝輔の見立てを補足する。
「そこが敵の付け入る隙になるでしょう。誤解であったとしても、自分が窮地に立っていることを認識した瞬間、久秀は敵の甘言に乗り、決起するかもしれません。」
 この日以降、清太と弥臓は、伝輔の協力を得ながら、松永陣屋を監視下に置いた。
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