桟田譲児とその家族

ミダ ワタル

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第五話

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『――少なくとも、三人の男が必要だった。

 その肉体と天性の愉悦を持って女を悦ばせる男と、互いにその手腕を認められる男と、なによりも心で結びつき物心両面充足し合える男と。
 強欲な獣、あるいは蟷螂のような女だと思う。
 けれども何故それを求める事がいけないことなのだろうか。
 私の情欲、私の欲望、私の寂しさその空虚さ、私の心のすべて……一人の男に背負わせるにはあまりにも酷なものだ。

 ――(中略)――

 夫が蚊帳を吊り、二人の居候の男達が寝床を調えるのを膝に乗せた息子の頭を撫でながら安らかな気持ちで眺めていた。
 あまりの安らかさに時折涙ぐみそうになる。彼等は私を脅かさない。
 そのために奇妙な友情を築き、欲望ではなく慈悲の輪の中心に私をいれてくれた。
 彼等は私を穏やかに包み、愚かな執着のために流転を重ねてきた私にもうむやみに求めたりしなくていいのだと、美しく営まれる日々の中で繰り返し静かに伝えてくれる。
 勿論、まだ幼いこのも。自分達が譲れるものはこの児にすべて譲ろうと夫と名付けた児――』


********


「苛烈な女性だなって」
「誰が?」
「桟田依子の本、読んでいると」
「ああ」

 どんなことが書いてあるのか、知らなかった。
 いつまでたってもおれは母の本を読む気がしなかった。
 高校生で頼子に出会った時に情痴小説と言ったのは当時の大人達がそう呼んでいたのをそのまま引用しただけで、中身についても週刊誌などが書き立てる内容から推察しただけだった。

「好きだなお前、あの本」
「大枚はたいて買った宝物ですから」

 半ば本気混じりにおどけた頼子に、おれは苦笑した。
 宝、か。

 その日は、台風が来ていた。
 マンションの二重サッシの向こうで風が呻り、雨はガラスを叩き破ろうとする勢いでぶつかっては滝のような音を立てていた。
 それをリビングのソファの上で、頼子を抱きかかえ薄い夏用の布団に包まって眺めていた。
 二人共、寝巻きはきちんと着ていた。
 さすがに毎晩抱くことはしていなかった。
 抱きかかえた頼子を時折抱き締めはしていたけれど。

「読んでいると、ものすごく不器用で愛おしい感じ」
「どの話?」
「登場人物ではなくて、作者」
「おれ達の親世代じゃ、すごい悪女って騒がれてた作家らしいぞ」
「うーん、あの一冊しか知らないけど悪女ってイメージないなあ……痛い」
「ああ、すまん」

 暢気そうに呟いていた頼子が途中で顔をしかめた。
 細い体に回していた腕に知らず力が入っていた。
 桟田依子の息子であるという事を、おれは頼子に話していなかった。
 役所の手続きの一切合切を自分が引き受け、本当の両親は早くに亡くし養父母に育てられたが財産分与絡みで縁を切り天涯孤独のようなものと、頼子にも頼子の両親にも伝えていた。 
 名前をみればわかりそうなものだったが、案外気がつかないものだ。
 それにもう誰も、そんな一時の流行作家のことなんて忘れていた。
 文壇のようなところでも、次から次へと新星やらなんやら出てくる。

「譲児とちょっと似てるかも」
「なんだそりゃ?」
「ものすごく淋しがりっていうか、怖がりっていうか」
「頼子……」

 頼子の言葉にたまらなくなって首筋に鼻先を押し付けて誘ったが、頼子は首を横に振った。

「駄目。明日から教育実習生の受け入れだから……」
「台風で学校休みなんじゃないか?」

 大学を卒業し、三年が過ぎていた。
 頼子は都内の私学で国語科の教師をしていた。
 教師は高校の時から頼子がなると決めていた職業だった。
 いつの間にかもう学生を指導する側になっていたのか、早いものだ。
 おれは修士論文を終えても、まだ大学に居座ってなんとなく父のやっていたことをなぞっていた。

「そういうところ。台風だと一人じゃ眠れないくせに、台風見たがるとか。私をずっと囲ってるくせに上の空なとことか」
「囲うって……頼子?」

 すっと、おれの頬に頼子の細い手が触れた。

「私がいなくなったら寂しい?」
「当たり前だ」

 おれの腹に背をつけたままそんな事をいう頼子を、さっきよりも強く抱き締めた。
 頼子は痛いと言わなかった。
 目を閉じた気配がした。

「子供がいたら寂しくないのかな?」
「なんの話だ」

 ふふっと頼子が吹き出した。
 結婚して五年経ってもおれ達の間に子供はなかった。

「初めて会った時、あんなに男の子に腹が立ったことなかったなあ、あんなにどきどきしたことも」
「だからなんの話だ。というかおれ、なにかしたか?」
「桟田依子が好きなのか? って、だったらおれと付き合ってみるかって口説いたの、忘れた?」
「ああ」

 それは覚えている。忘れるわけがない。
 名前を聞き、その時初めてまともに見た頼子の表情に無自覚な淫靡さを見てそう囁いた。

「同じ姓と名前の組み合わせだから、上手くいけば“サンダヨリコ”になれるかもしれないって……本当になっちゃた」

 くすくすと頼子が楽しげな笑い声を立てる。
 嵐の音がやけに耳について頼子の笑い声と混じりあった。
 リビングは明るく、数年暮らしているなかで自然と増えていった細々とした置物やら写真やら郵便物の束やら、救急箱や文具や雑多な道具類やダイニングの椅子にかけてある衣類などが醸し出す生活感を照らしていたが、それらがまるでなにかのセットか舞台の小道具のように空々しく見えた。

 子供の頃、近所の少女に不意に誘われたままごと遊びの役になりきるのに思いの外夢中になって、ふと我に返った時のようだった。
 おれは、正体不明な気の焦りを覚えていた。

「桟田君」

 おれを名前で呼ぶ前、まったくの他人を呼ぶ調子で頼子がおれを呼んだ。
 牛革のソファにつけた背がひやりと冷たくなった。

「私の事、本当に好き?」
「当たり前だ。なあ、頼子……」

 抱きたいんだ、と言う前に、抱き締めたおれの腕の中で無理矢理動いた頼子がおれと向き合い、おれの顔の位置まで伸び上がって触れるだけのキスをした。

「ずっと怖くて聞けなかった……おやすみ、譲児」

 裸で抱き合っている時よりも甘い声でおれの名を呼んで、頼子はごそごそとおれの体の上で身じろぎし胸元にへばりつくように落ち着くとすぐに寝入ってしまった。

 翌日、出勤した頼子はそのまま帰ってこなかった。
 勤めていた学校には、前日に辞表を提出していた。
 呆然自失のおれの元に、頼子の匂いと気配が染み付いた彼女の持ち物とあの本が残った。
 頼子の実家に電話することは出来なかった。
 なにかが決定的になるような気がした。
 一ヶ月程、放心し、いなくなる前夜の頼子の話を何百回と反芻して、恐る恐る母の本を手に取って読んだ。
 壊れたおもちゃみたいに笑いが止まらなくなった。
 ネジを巻けばぴょこぴょこ跳ねるカエルのおもちゃのような反復動作でダン、ダン、ダン、とフローリングの床に両掌を振り下ろしながら笑って笑って、腹が捩れて、気がついたら床に這うようにうずくまって嗚咽していた。
 頼子は知っていた、最初っから、おれが桟田依子の息子だと。
 おれは……頼子を通してあの美しい日々を夢見ようとあの日囁いたというのに、そのために頼子を利用する気でいたというのに。
 涙や鼻水が流れ込んで塩辛い味のする口の中で、はは、はっと息をしてまた笑い転げ、しまいにはダイニングテーブルの脚の角に頭をぶつけた。

「頼子ぉ……」 

 これ以上ないほど情けない男の声を聞いた。
 次の日、おれは地元に帰った。
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