桟田譲児とその家族

ミダ ワタル

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第一話

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 例えば、だ。
 同じ歳の子供が集まった狭い教室で、ニニンガシ、ニサンガロク……なんてやった後、ランドセルを背負って家に帰る。

 玄関から台所に置いてある菓子に辿り着くまでにおれは、母と、父と、愛人と、世話人に次々と迎えの言葉をかけられる。
「おかえり」、と。
 当然のように「ただいま」、とおれも応じる。
 全員に万遍なく、等しい親しみを持って。
 ちなみに愛人と世話人というのは男だ。
 つまりは母を中心に家の中に三人の男がいる。

 母は作家だった。
 それも出す本出す本が、スキャンダラスだ、反社会的だ、非道徳的だと世間で取り沙汰されるような。
 同級生の母親達は、本屋に並んだ母の本をちらりと横目に見れば眉を顰め、そ知らぬ顔をして通り過ぎる。
 けれどもどうだろう、案外、こっそり買って旦那も子供もいない昼下がりに手に汗握って読み、もしかすると少しばかりは下着も湿らせて、そうして家事の時間になればそっと家庭百科の裏なんかに隠して楽しんでるんじゃないだろうか。
 母はそういったものを書く作家だった。

 おれがまだ小学生の頃は純潔なんて言葉がまだかろうじて残っていた。女の子はお嫁にいくまでできれば処女で、なんて考えもそれほど珍しいものではなかった。初夜は字の如く初夜で、処女ではない女がそれを誤魔化すにはといった相談なんかがごくたまに雑誌に載ることもあり、そんなものくだらないと言って、堂々実践してみるようなのは不良と呼ばれた。
 キスすら立派に不純異性交遊の範疇とする教師もいたし、男女交際禁止という笑ってしまうような校則の存在する学校もあったし、映画館でデートも運が悪いとアウトだった。暗がりというのがいけないらしい。
 暗がり。
 想像逞しい思春期の発想か、でなければ変態的な思考だ。いや、嗜好か?
 娯楽作品のアクセントとしてのエロは有りでも、普通の生活や真面目な表現にエロは無用で、そういった表現が目立つものは一段低いものと見られがちだった。たとえ実際は違っても、表向きはそういう事にしておけといった暗黙の了解があった。

 そんな頃から、女版情痴小説なんて評はものともせず、奔放な女達の業を赤裸々に綴り、父親の他に二人の男を堂々と同じ家に住まわせていたのだから、いま思えば母親ながら天晴れな女だ。
 世間は“恋多き女”、“多情な女”、と母を評したがとんでもない。
 そんなものじゃない。
 そんな生半可な評価では困る。
 母は四人の男を、自分の内面のそれぞれ全部使って愛する女性だった。
 父に対しては妻あるいは深く結びついた相手として。
 愛人に対しては女として。
 世話人という名目で側にいる彼女を信奉する編集者には主として。
 そして息子のおれには母として。
 身内贔屓を除いた目で見ても美人で、世間では大変な悪女の扱いだったが、母はとても淑やかな女性だった。
 その人に向かっている間はその人のみで、全力だった。
 あっちに3割、こっちに4割といった小賢しい配分がない。
 獰猛で貪婪な、しなやかな獣の生気に満ち溢れていて、少女のように無邪気で無垢だった。
 だから一人を相手にし出すと、残る二人はしょげ返って子供の目にも全く情けない男達であった。酒を飲んだり煙草を吹かしたりして母が自分か皆のところに帰ってくるのをじっと待っていた。

 父は働く必要のない正真正銘の高等遊民で、主に大正期に栄えた家の、残り滓みたいな財産を食い潰しながら、哲学書など読み耽ってはなにか書き綴り、一応、世間で在野の研究者という扱いのようだった。たまに出版社から連絡を受けてなにかの相談や依頼に応じ、小遣い程度の報酬を貰ってそれをまた本に変えるといった有様だった。
 精悍な男の標本みたいな愛人は気鋭の画家で、油絵のような日本画を描く男だった。若いが良いパトロンの支援を受けている様子で金に困っているようなところはなかったが、大抵、上半身裸かよれたシャツ一枚羽織り、皺のついたズボンの裾を折り返した素足の姿でいた。酒が好きでいくらでも飲めた。
 丸眼鏡のとぼけた風采の世話人である編集者は、母とその作品に惚れこみ出版社から独立した男で、見た目によらず仕事においては一種英雄じみた逸話に事欠かない人物としてその筋では有名だった。時折、彼の目に留まろうと分厚い封筒が近所に借りている事務所に届き、それを持ち帰って中身の原稿を読んでいる時の眼光の鋭さに幼かった時のおれは大層怯え、本人、したたか傷ついたそうな。
 皆それぞれ活動している分野では一角の男達だったが、母の子であるおれに構われたがって宿題の邪魔をしてきたり、突然喧嘩ごっこだといって羽交い締め仕掛けてきたり、止せばいいのに母と誰か一人が睦んでいるのを見に行って項垂れた後に自棄だとかなんとか言い出してあてもなく外におれを連れ出したりと傍迷惑な大人以外の何者でもなかった。

 中学に上がる頃には、「鴨は燻製かローストにするのではどちらがより甘美か」などと意味不明な議論を突然ふかっけられもして、子供相手に大人気なく知識と頭を駆使してごたごた言うのに負けん気で応じていたら、もう一人も参加して気がつけば母達まで仲間入りして喧々諤々、夜を明かすこともあった。
 議論になれば大抵、父がその場を総取りした。

 ——桟田さんがそう言うんじゃあ……。

 他の二人の男の定型文句だった。

 ——桟田さんは巧妙に罠を張るから卑怯だ。

 これもまた定型文句だった。

 そんな時、父は実に人の悪い顔でにいっと口元を吊り上げる。
 理知的な人間にはあまり見えない彫の荒い無骨な造りの顔に、ちょっと皮肉な笑みを浮かべる父は惚れ惚れするような男振りを発揮し、母はそんな父をうっとりとした眼差しで見詰め、残る二人の男は敵わないと苦笑する。
 しかしそんな二人の男達も、男振りにおいてけして父に劣っていたわけではなかった。
 彼等は一人の女を巡って確かに対立する立場にあるはずだったが、嫉妬や憎しみを知性と教養で尊敬と友愛にすり替える術を知っている大人達だった。
 しかしそれを可能にしていたのは母の淑やかさと無邪気さだ。
 母はなにがあってもけろりとしていた。
 怒っても泣いても愚痴っても、どういうわけか底に暗さや意地の悪さがまったく感じられない人で、男達はそんな母に魅せられていた。
 おれが母を独占する時は、男達は三人皆、黙々と自分達の仕事をしていた。
 それがおれにとっての“普通”で“家庭”だった。
 それは完璧な円のように営まれる、愛と美と知で出来た芳醇な日々だった。

 嵐の夜は一番広い畳敷きの部屋に五人集まって寝た。
 父が蚊帳を吊り、画家と編集者が五人分の布団を敷き、母は小さかった頃のおれを膝に乗せ、おれが成長してからは彼女の背まで伸びた髪を梳かせて微笑みながら、男達が寝床を準備するのを見ていた。
 五人で寝る時おれと母は常に一対にされた。
 抜けがけ防止である。
 父は夫の特権で、片腕だけ母に回すことを許されていた。
 暗闇の寝床の中で、雨戸を叩く雨や風の音を聞きながらとりとめのない話をした。
 芝居好きな画家が急に皆に役を振り分けて、寝転がりながら台詞だけを合わせることもあった。
 『サロメ』や『ファウスト』や『道成寺』、そんな子供のおれでもなんとなく筋がわかるようなものなのだが、編集者がふざけて台詞を変えたり勝手に役をアレンジし、また皆それに悪乗りするので滅茶苦茶だった。

 あれは何だっただろう……おれに死人(しびと)の役が回ってきた。
 死んだ人間だから台詞がない。
 だから黙っていろというのだ。
 そうしたら母が、「あら死人だってなにか言いたい事があるでしょうよ」と言ったのでおれは「おお~ん、おお~ん」と呻いた。
 なんだそれはと愉快そうに苦笑した画家に「死人は訴えたいが言葉が出ないので呻くのだ」と答えれば、父が「それは興味深い」と言い、編集者が「やっぱり桟田さんと依子さんの息子だなあ」と真剣に褒め出したので気恥ずかしさに寝た振りをして、そのまま寝入ってしまった。
 母はくすくす笑っていた。母の名は依子といった。

 自分の家の様子が、他の家の様子と違う事は早くから自覚していた。
 まず他の家には、父親以外に母親と関係する“男”はいない。
 父親ですらろくろく家にいなかったりする。
 一家を養うため稼ぐ必要があるからだ。
 母親は流行作家の一員で稼いでいたが、父親は大正期に成り上がった資産家の一人息子で早くに両親を亡くし、両親から引き継いだ資産の配当だけで母親よりも稼いでいた。
 そして自分以外の男に突かれ、傅かれている事も込みで母を愛した。
 そういった姿を実際に視線で愛でている時すらあった。

 勿論、父も人間の男だ。
 煩悶して苦しみ、声を荒げた時期もあったそうだが最終的に母に屈服した。父にとって母はすべてで、それこそ太陽と表現しても過言ではなかった。
 だからなんの遠出だったか、気紛れを起こした母がハンドルを握り、画家と編集者を乗せた車が事故を起こし、三人いっぺんに死んだ時にたまたま同行せずに難を逃れた父はそれを幸運とせずにあっさりとこの世を捨てた。
 それも死んだ三人の通夜を出す前に。
 警察に父と二人で三人の検死が終わった遺体確認に行った翌朝、起きてこない父を起こしに部屋に入ったらもう冷たくなっていた。
 母があまりにもすべてだったためか、自分一人だけが除け者のように生き残るのが嫌だったのか。どうしていいのか解らなくて衝動だったのかもしれない。理由はなににせよ、他人がどう判断しようがこれは自殺ではなく事故だとおれは思った。
 父は、母と二人の男達と同じ事故にあったのだ。

 それは、おれが一駅隣町の由緒正しき私立の高等学校に合格した春休みの出来事で、届いたばかりの深い紺色の学生服を最初に着たのは、入学式ではなく両親と二人のどう呼べばいいのかよくわからない家族の葬式だった。
 葬式の朝、おれの制服姿を揶揄する筈だった者達は皆、四角い箱に収まって誰も一言も喋らなかった。
 普段からふざけた大人達だったから、これも悪ふざけの一環みたいに思えた。
 嵐の夜の芝居のように全員が死人の役をやっていた。
 なってないなとおれは思った、死人は口は利けないが話す事はあるから呻くのだ。だから代わりに一度だけ「おお~ん」と呻いてやった。
 四つの箱いっぱいに詰めた菊の香りと消毒液の匂いと微かな腐臭を嗅ぐ。
 一瞬、吐き気を催すほど鼻腔を強く刺激したそれらは甘い余韻を漂わせ、大人になっても忘れない嗅覚の記憶として刻まれた。
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