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番外編
椅子の話
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※本編の「意外な一面(3)」&「人生の伴侶(3)」より、上津原が 椅子を買い替えた話。
*******
成り行きで入った、いや、押し込まれた甘糟塔子の仕事部屋はなかなか壮観だった。十畳程の部屋には大きめのデスクと背もたれや座面の角度などを細かく調整できるやけに高価そうな黒い椅子以外に家具らしい家具はなく、スチール製の書架が部屋の大部分を支配していた。
クローゼットなどの収納スペースも含めて空間という空間に本や映像媒体などが詰まった書架は並べて組まれていて、おまけに所構わず無数のメモや雑誌や新聞の切り抜き、映画や芝居の半券などがクリップにまとめて挟まれぶら下がっている。
仕事部屋というよりはまるで資料庫のなかに作業場所を設けているといった様相だった。
デスクの前の壁面だけがかろうじてこの部屋の壁紙を見せていて、それすらメモと付箋と資料類と書き込みで埋まった強化ガラス製のホワイトボードに覆われている。
資料のジャンルは様々。一貫性もなく、所有者の好みは読み取り難い。多少でも人の話題に上ったものや一定の評価を受けた作品類は片っ端からチェックするらしくしかも全体の割合で見ればむしろそれらは少ない。
大学の研究室と大差ない、それより酷い、大地震でも来たらまず避難は不可能。
キッチンと一続きなリビングダイニングがやけにモデルルームじみていて生活感に乏しいのも、デスクの上のノートパソコンの画面にスリープ設定をかけていないのも、必要があまりないからだ。
「一日数時間どころじゃねーな。普段、どんだけこもってんだか」
デスクのすぐ左脇にあるバルコニーへ出る窓を僅かに開き、呆れた思いで煙草を一本吸った。
本来は、他人など入れない部屋なんだろう。
ここはあの女の領域だ——。
「恋愛小説が職業……、ね」
ここで、見ず知らずの他人が娯楽に消費する、架空にしては妙に生々しい、どこかの誰かの人生が綴られている。
想定外の成り行きとはいえ、当の本人に押し込まれたとはいえ、そんな場所になんだっている羽目になったんだかと、揶揄い半分に甘糟塔子の家に押し入った自分を少々持て余した。
部屋のドアの向こうから俺がここにいるのを隠したいらしい甘糟塔子が挙動不審にあたふたしている気配と、彼女が作家になる前から面倒を見ているらしい松苗とかいうカドワカの担当編集者である女がしきりに彼女を心配しているらしき声が漏れ聞こえてくる。
俺がカドワカの文芸誌に動物エッセイを連載しているのを担当している編集者の早坂が、なんでも新人の頃に世話になったやり手のベテラン編集者らしく、甘糟塔子の作品を映画化に導き、彼女と俺の恋愛対談なんてふざけた企画を考えた張本人らしい。
しかし……早坂の話で、てっきり甘糟塔子が担当編集者にべったりなのかと思っていたらまるで逆のようだ。
まあ、この部屋で吐き出されるもんがあれじゃな。
才能に惚れ込んでむしろべったりは敏腕編集女史の側ってわけか。どいつもこいつも。
おそらく指との摩擦のためだろう、デスクの上に、開き放しのノートパソコンのキーボードは磨り減って一部の文字が消えかかっている。
「まるで感性のバケモンだ、知ったようなことを……喪女のくせに」
煙を吐き出し、窓の隙間に手だけを差し出して知らぬ間に伸びた灰を軽く落として携帯灰皿にひねり潰し、甘糟塔子の椅子を引いて腰かける。
「おっ……」
背もたれが適度な弾力を持って、上半身を受け止めた。試しに寄りかかってみれば体の重みで丁度よくしなり軽く背筋のストレッチが出来る。
座面も見た目よりずっといい。
固すぎ柔らかすぎず、見るからに馬鹿高そうな椅子だけあって。
「くそっ……いいなこの椅子」
十何時間と――たぶんそういったレベルだ――引きこもって仕事をしているだけはある。それに生活にはあまり構わなくても、仕事に必要なものや重要なところには惜しまないその金銭感覚は大いに共感できるものがある。
こいつほどいいやつでなくても近いやつ買うか? などとつい考えしまう。
凝る体質ではないが、申請書やら論文やら原稿やらと長時間デスクワークしているとそれなりに肩腰背中に結構くる。
リクライニングを何度も繰り返し、これは必要経費だと俺は決め込んだ。
*****
「なんですか先生、この荷物は……」
甘糟塔子の家に押し入ったその二日後、講義から研究室に戻ったら届けられていた大人一人が余裕で収まる大きさの段ボール箱に、あからさまな不審の目を向けて尋ねてきた助教の万城目に、おお届いたかと俺は答えた。
「届いたかじゃないですよ。新しい機材の搬入なんて聞いていません」
「機材じゃねえ、椅子だよ椅子」
「は?」
いいから開梱手伝えと二重梱包された段ボールのガムテープをべりべりと剥がして、梱包材に固定された椅子と説明書の類を取り出し、後の始末は万城目に頼んで、俺はマニュアル片手に調整作業にしばし勤んだ。
段ボールを解体しながら、不満と不服を込めた粘着質に睨みつけてくる万城目の視線には気がついていたが構うものか。
「おお、調整するとさらにいいな」
甘糟塔子の家を出たその足で家具屋に寄って、いくつか試したが、結局、あの女と同じメーカーの別モデルを買ってしまった。
「まさか二十万もすると思わんかったが、やっぱこれは買う価値あったな」
「に、じゅうまんっっ?! なに考えてるんですかっ、そんなの事務方に突っぱねられますよ!」
「自費で買ったもんに事務方もなんもねえよ。実際には値切り倒してそんな出してねぇし」
あの女はどうしたんだか、店員相手に交渉なんてするイメージはどうしたって浮かばないし、出来るとも思えない。
「……なんだって急にそんな買い物」
まだぼやいている万城目をうるせぇなと俺はあしらった。
「お前は小煩い嫁か。たまたま有り得ないくらい長時間デスクワークしてる奴が使ってる椅子に座る機会があってよ」
「あー気に入っちゃった訳ですね。先生何気に衝動買い多いですから。あのカタログまんま買いの車もだし」
あれは衝動買いじゃない、前の車が車検切れるタイミングでちょっとした臨時収入があって選ぶの面倒くさかったからだと反論したら、それを衝動買いって世間では言うんですよと諭された。
「普通、面倒くさいからって何百万円もする車をカタログ指差して人は即決なんてしないんです」
「あーわかったわかった」
本当こういった妙なところで小煩いさいなこいつは。
以前使っていた椅子は隣室に運び、新しい椅子をその後に据えてうむと俺は頷いた。
後日。
あまり愉快ではない学生対応の後、対談仕事にやってきた甘糟塔子は椅子に気がつき、自分も似たようなものを使っているといった微妙な表情を見せた。
お前のせいで大枚はたいて買い替えたんだろうがと言いたくなったが、言えば別の無関係な奴が面倒くさくなりそうなのと、明らかに身体への負荷が軽減されたこともあって、それは黙っておいた。
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成り行きで入った、いや、押し込まれた甘糟塔子の仕事部屋はなかなか壮観だった。十畳程の部屋には大きめのデスクと背もたれや座面の角度などを細かく調整できるやけに高価そうな黒い椅子以外に家具らしい家具はなく、スチール製の書架が部屋の大部分を支配していた。
クローゼットなどの収納スペースも含めて空間という空間に本や映像媒体などが詰まった書架は並べて組まれていて、おまけに所構わず無数のメモや雑誌や新聞の切り抜き、映画や芝居の半券などがクリップにまとめて挟まれぶら下がっている。
仕事部屋というよりはまるで資料庫のなかに作業場所を設けているといった様相だった。
デスクの前の壁面だけがかろうじてこの部屋の壁紙を見せていて、それすらメモと付箋と資料類と書き込みで埋まった強化ガラス製のホワイトボードに覆われている。
資料のジャンルは様々。一貫性もなく、所有者の好みは読み取り難い。多少でも人の話題に上ったものや一定の評価を受けた作品類は片っ端からチェックするらしくしかも全体の割合で見ればむしろそれらは少ない。
大学の研究室と大差ない、それより酷い、大地震でも来たらまず避難は不可能。
キッチンと一続きなリビングダイニングがやけにモデルルームじみていて生活感に乏しいのも、デスクの上のノートパソコンの画面にスリープ設定をかけていないのも、必要があまりないからだ。
「一日数時間どころじゃねーな。普段、どんだけこもってんだか」
デスクのすぐ左脇にあるバルコニーへ出る窓を僅かに開き、呆れた思いで煙草を一本吸った。
本来は、他人など入れない部屋なんだろう。
ここはあの女の領域だ——。
「恋愛小説が職業……、ね」
ここで、見ず知らずの他人が娯楽に消費する、架空にしては妙に生々しい、どこかの誰かの人生が綴られている。
想定外の成り行きとはいえ、当の本人に押し込まれたとはいえ、そんな場所になんだっている羽目になったんだかと、揶揄い半分に甘糟塔子の家に押し入った自分を少々持て余した。
部屋のドアの向こうから俺がここにいるのを隠したいらしい甘糟塔子が挙動不審にあたふたしている気配と、彼女が作家になる前から面倒を見ているらしい松苗とかいうカドワカの担当編集者である女がしきりに彼女を心配しているらしき声が漏れ聞こえてくる。
俺がカドワカの文芸誌に動物エッセイを連載しているのを担当している編集者の早坂が、なんでも新人の頃に世話になったやり手のベテラン編集者らしく、甘糟塔子の作品を映画化に導き、彼女と俺の恋愛対談なんてふざけた企画を考えた張本人らしい。
しかし……早坂の話で、てっきり甘糟塔子が担当編集者にべったりなのかと思っていたらまるで逆のようだ。
まあ、この部屋で吐き出されるもんがあれじゃな。
才能に惚れ込んでむしろべったりは敏腕編集女史の側ってわけか。どいつもこいつも。
おそらく指との摩擦のためだろう、デスクの上に、開き放しのノートパソコンのキーボードは磨り減って一部の文字が消えかかっている。
「まるで感性のバケモンだ、知ったようなことを……喪女のくせに」
煙を吐き出し、窓の隙間に手だけを差し出して知らぬ間に伸びた灰を軽く落として携帯灰皿にひねり潰し、甘糟塔子の椅子を引いて腰かける。
「おっ……」
背もたれが適度な弾力を持って、上半身を受け止めた。試しに寄りかかってみれば体の重みで丁度よくしなり軽く背筋のストレッチが出来る。
座面も見た目よりずっといい。
固すぎ柔らかすぎず、見るからに馬鹿高そうな椅子だけあって。
「くそっ……いいなこの椅子」
十何時間と――たぶんそういったレベルだ――引きこもって仕事をしているだけはある。それに生活にはあまり構わなくても、仕事に必要なものや重要なところには惜しまないその金銭感覚は大いに共感できるものがある。
こいつほどいいやつでなくても近いやつ買うか? などとつい考えしまう。
凝る体質ではないが、申請書やら論文やら原稿やらと長時間デスクワークしているとそれなりに肩腰背中に結構くる。
リクライニングを何度も繰り返し、これは必要経費だと俺は決め込んだ。
*****
「なんですか先生、この荷物は……」
甘糟塔子の家に押し入ったその二日後、講義から研究室に戻ったら届けられていた大人一人が余裕で収まる大きさの段ボール箱に、あからさまな不審の目を向けて尋ねてきた助教の万城目に、おお届いたかと俺は答えた。
「届いたかじゃないですよ。新しい機材の搬入なんて聞いていません」
「機材じゃねえ、椅子だよ椅子」
「は?」
いいから開梱手伝えと二重梱包された段ボールのガムテープをべりべりと剥がして、梱包材に固定された椅子と説明書の類を取り出し、後の始末は万城目に頼んで、俺はマニュアル片手に調整作業にしばし勤んだ。
段ボールを解体しながら、不満と不服を込めた粘着質に睨みつけてくる万城目の視線には気がついていたが構うものか。
「おお、調整するとさらにいいな」
甘糟塔子の家を出たその足で家具屋に寄って、いくつか試したが、結局、あの女と同じメーカーの別モデルを買ってしまった。
「まさか二十万もすると思わんかったが、やっぱこれは買う価値あったな」
「に、じゅうまんっっ?! なに考えてるんですかっ、そんなの事務方に突っぱねられますよ!」
「自費で買ったもんに事務方もなんもねえよ。実際には値切り倒してそんな出してねぇし」
あの女はどうしたんだか、店員相手に交渉なんてするイメージはどうしたって浮かばないし、出来るとも思えない。
「……なんだって急にそんな買い物」
まだぼやいている万城目をうるせぇなと俺はあしらった。
「お前は小煩い嫁か。たまたま有り得ないくらい長時間デスクワークしてる奴が使ってる椅子に座る機会があってよ」
「あー気に入っちゃった訳ですね。先生何気に衝動買い多いですから。あのカタログまんま買いの車もだし」
あれは衝動買いじゃない、前の車が車検切れるタイミングでちょっとした臨時収入があって選ぶの面倒くさかったからだと反論したら、それを衝動買いって世間では言うんですよと諭された。
「普通、面倒くさいからって何百万円もする車をカタログ指差して人は即決なんてしないんです」
「あーわかったわかった」
本当こういった妙なところで小煩いさいなこいつは。
以前使っていた椅子は隣室に運び、新しい椅子をその後に据えてうむと俺は頷いた。
後日。
あまり愉快ではない学生対応の後、対談仕事にやってきた甘糟塔子は椅子に気がつき、自分も似たようなものを使っているといった微妙な表情を見せた。
お前のせいで大枚はたいて買い替えたんだろうがと言いたくなったが、言えば別の無関係な奴が面倒くさくなりそうなのと、明らかに身体への負荷が軽減されたこともあって、それは黙っておいた。
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