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不器用と拙さ(3)

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『ねぇ、どうして獣医になったの?』
『あ?』
『だって、人間の医者になるのと同じくらい難しくて苦労するんでしょ?』
『あー……まあ』
『それなのに、意外と安月給だしさ』
 
 うるせーな……。
 まったくなんでもずけずけと聞いてくる女だ……と思ったら、元嫁か……若いな。
 俺も若いな……ああ、こりゃ夢か。
 本当に、どうして獣医なんかになったんだか。
 少ない選択肢に、馬鹿みたいに難関な入学試験。おまけに6年制。3年からは勉強と臨床と研究室の雑務と卒論に明け暮れる。医学部には卒論はないってのに不公平な……まああっちはあっちで卒業試験が大変そうではあるが。
 でもって卒業の目処がついたと思ったらとどめのように国試がある。
 たしかに、人間の医者になるのと労力的に大差ないかもしれないが、社会的ステイタスと収入はあっちの方が断然上だ。こっちは普通のサラリーマンと変わらない下手すりゃそれより低いかもしれない。
 地方の公務員獣医師なんて基本は僻地勤務が多いし、結構な肉体労働で、人獣共通感染症のリスクもあるし。まあ、ただ。
 そのきっかけがあった頃は、田舎では、人間の医者ほど気安くかかれるような数じゃなかった。

『……ガキの頃、好きだった近所の女子の飼い犬が肝不全で死んだ』
『ふうん』
『あと親戚の爺さんがやってた養鶏場が全滅した』
『……』
『どっちも獣医が早めに診てたら防げたらしいって……なんとなく、そのまま成り行き。人間よりは動物相手にしていた方が良さそうに思えたし』
『そう』
『――あ、こいつ単純なアホだと思っただろ、いま』
『別に。子供の頃になになにになろうかなで本当になる人っているんだなーって思っただけ』

 こんな会話……したか? 全く覚えてねぇが。
 しかしなんだって今頃こんな二十代の頃の、この間のあれか。まあ、忘れた記憶も脳には現存してるらしいしな、そもそも夢だし。 
 この頃は、まだ現実の半分も見えていなかった。
 仕事だけじゃない、女とか、結婚とか、そういったことも――。
 日本有数の畜産県にも関わらず、家畜の面倒や検疫に携わる獣医が少ない。
 正直、俺は重宝された。
 若手の獣医で体力があって離島も厭わない。妻帯者ってだけで田舎でも受けがよかった、何故かはわからないがそういうものらしい。
 当時、老朽化が目立つようになってきた施設の廊下で、何度、家に電話したんだったか。
 最初は家に戻らないことが多いのに気が引けた。
 だがすぐ慣れて、それが当たり前のことになった。お互いに。
 遅くなる日、夕飯前に帰る日、帰れない日……それは事務連絡よりももっと機械的なただの情報伝達になるのにそれほど時間はかからなかった。向こうも向こうで市街地の地元企業の事務として結構忙しく働いていたし、それに関して俺はなにも思ったことはなかった。仕事が好きなことは別に悪いことじゃない。
 むしろ、互いに妙に早く帰れたり、休みのタイミングが合う方がなんとなく気詰まりだった。
 夫婦だったが、互いに自分の家に、他人が自分と同じように暮らしているといった気配にまったく馴染んでいなかった。大学時代に同棲していたその延長であるにも関わらず。
 そういった時に、車を出してフェリーに乗り、あの宿へ行った。
 あそこはそういった場所だったってのに、考えてみたらよく再婚先として選んだな、あいつ。
 抵抗なかったんだろうか。
 別に喧嘩もしてないが、楽しいお出かけってわけでもなかったのに。
 遠く、犬の鳴き声がする。
 心なしか足元が暑い――。

「ん……ぅ、寝ちまったか」
 診療室のデスクにいつの間にかつっぷしてしまっていたらしい。頭を起こして上津原かみつはらはデスクの上の、まだセットした時間を知らせていないタイマー付きデジタル時計を確認する。
 それほど時間は経っていない。十分程の居眠り。夢の中で夢だと思うなんて変な夢だと上津原は軽く頭を振った。
 クゥン、と掠れた鼻を鳴らす声が足元から聞こえて上津原が腰掛けていた事務椅子から床を見れば、年老いたレトリバーが大人しく座ってなにかを促すように彼を見上げている。
「あーはい、採血な……お待たせして申し訳ないですねぇ、万次郎氏」
 飼い主に似るというのか、なんというのか。
 治療のために預かってみれば、非常に気丈かつ几帳面で時間に正確な犬であった。
 ピッ……と鳴りかけたタイマーをすぐさま止めて椅子からおりて採血し、上津原はなにか物言いたげな表情に見える犬の背をしばらく撫でる。
「ああ、はい、ちゃんと帰って寝ますよ」
 上津原がそう目上の人間に対するように言えば、納得したように万次郎氏は床に伏せた。
「なんだってあんな夢みたんだか……」
 あの女とあの宿へ行ったからか?
 区切りというほどの大袈裟さでもなく、とはいえ喉に小骨が引っかかっているようなのにずっと避けているわけにもいかずで、偶然県庁で出くわした甘糟塔子あまかすとうこを伴って訪れた宿はもう自分が知っている宿ではなかった。
 温泉や料理は変わらずだったが、全館全面改築されていて遠い記憶と照合はむずかしかったし、なによりあの女がなにかと騒いだり挙動不審だったからそんなことを考える間もあまりなかった。結構楽しんでしまった気すらする。
 そういえば。
「ああいった、はしゃぐようなことはなかったな」
 まあ、はしゃぐというかいちいち新鮮な反応をしていたのは、あの女だけだったが。

『なにが嫁よ……彼女、作家の甘糟塔子じゃない。カドワカ読んでるわ。そっちこそ随分出世したじゃない。離島の牧場に通ってた役場勤めの獣医からすっかり都会の大学の先生になっちゃって』

「なに、元旦那の疑似恋愛対談記事なんか読んでんだよ。読むなよ……くっそ」
 カドワカにあの女に引き合わされてからというもの、どうも身辺慌ただしいくペースを乱されている。
 大体あの女、会って話してる時と原稿の時とが極端過ぎる。ギャップなんていうレベルじゃないぞ、なにか聞いてくる時のあの目といい。
 なにもかもを見透かすというよりは、表面に見えるものを成り立たせるものを取り出そうとするような……絶対的な相手の経験不足が幸いして押し負けた覚えはないが、松苗女史の腹芸なんかよりよっぽど厄介だと上津原は思う。
「根暗の三十路女のくせによ……ったく」
 まあこの頃少々改善したような気もするが、さすがに毎月、対談関係者に囲まれていたら慣れてもくるだろう。
 他誌の取材なんかは上手くやっているようであるし。
 そもそもカドワカ連中が、過保護過ぎるだけのような気もする。
「まあ早坂さんは仕方ないとして、松苗女史のがあれだな知ったこっちゃないが、さてと」
 足元に伏せている万次郎氏に声をかけ、上津原は彼を彼の寝床まで誘導してデスクの椅子に戻り、診療室に持ってきた自分のノートパソコンを立ち上げてメールをチェックし、顔をしかめた。
 早坂から、対談原稿が届いている。
 さっき会ったばかりの女とまたやりとりしなきゃなんねぇのかよ。
 軽く舌打ちし、家帰ってからだなと呟いて、採血したばかりの血液のサンプリングに取り掛かった。

 *****

『あっ、あの、前にも言いましたけど……電話にしたってもうちょっとまとめ……』
「あ?」
『い、いえ……もういいです』
 今日はやけに時計をよく見る。パソコンの隅に表示されている時間を見れば01:11だった、ゾロ目としては惜しい。しかしこんな時間にかけるのも我ながら非常識だとは思うが、即出て電話口から仕事をしている気の緩みのない気配を伝えてくる相手も相手だ。
「まとめろってんなら、いっそビデオ通話かなんかにするかって前から言ってんだろうが前から、別に音声のみでカメラ切ってても支障ないんだから」
『や、それは……なんていうかこうずっと繋ぎっぱなしで作業するのって気が散ってダメです……』
「じゃあしかたないだろう。2頁の二段目の小見出しの後のひと塊り、あんたここ手ェ入れるんだろ?」
『……ええ、と……あ、はい。たぶん』
「たぶん?!」
 曖昧なこと言うんじゃねぇよ、こっちが困るだろうがと言いかけた気配を嗅ぎ取ったのか、なにかこちらを制止しようといった声を甘糟塔子があげたので、仕方なく口を噤む。
『やっ……えっと、ちょっと待ってっ……えっと……』
「あー、いいよ例の如く適当に手ぇ入れてくれ。最近じゃあんたが全面直してから持ってきてもらいたいくらいだし」
『そっ、そんな……む、無責任なっ……困りますっ。そうでなくても上津原さんなに言ってるか……よく、わからない……し……』
「ほう。ずいぶんと忌憚のないご意見だな作家先生さんよお」
『で、電話でっっ、凄まないでっぇえ……っ』
 若干、水分を含んだ声になに泣いてんだと思ったが、焦って涙目で話すのはこの女の常なので、特に言及しなかった。
 上津原が指摘した箇所を、前後と合わせて目を通しているのか、あたふたと喚いていたのが急に静かになった塔子を待つ間、ふと、上津原の脳裏に気紛れな疑問が浮かんだ。
「なあ、あんたなんだって作家なんてやろうと思ったんだ?」
 若干入り込んでいたのだろう。
 受け答えのタイミングとしてはやや遅れた形で、「えっ」と聞き直す声がした。
「だから……」
『それより、どうして“夏の恋”って短いとか儚いみたいな感じに人は言うんだろ』
 塔子の言葉に、上津原はチッと電話の向こうには聞こえないように舌打ちした。
 やっぱり、もう入り込んでやがる。
 こうなるともう甘糟塔子は、会って話していた時の甘糟塔子ではない。
 少なくとも上津原にとってはそうだった、雑誌を買った人々が読んでいるのは、こうして文字に残すやりとりをもう一度電話口で繰り返すような恋愛小説家の甘糟塔子の言葉だ。
「日常を離れる機会が多いからじゃねぇの、夏休みとか、旅行とか」
『終わりが近い先に見えている……』
「そう」
 あんたの拙い恋愛もな。
 昼間に学部長室で耳にした会話を思い出しながら、上津原は塔子にそう思ったが言葉として口に出すことはしなかった。他人が口を出すことではない。当人達の問題だ。
『でもなんとなく、ずっと続いてしまうように錯覚することってないですか』
「その時はもう、非日常から、日常に移そうって算段してんだよ」
『あまりいい結果にはなりそうにありませんね』
「ま、そうかもな。――おい、イタコ女っ!!」
 半ば怒鳴りつけるように上津原が塔子を呼べは、途端に落ち着きのない雰囲気が電話口に戻ってきた。
『へっ?! ……え、あっ……い、イタ?』
「そういった感じで別に構わねえから、後、任せた」
『あ……え、ああ、はい』
「他、あんたが気になるとこがあるなら、とりあえず手えいれといてくれ。その方が助かる」
『でも……はい、わかりました』
 元の発言にできる限り手を加えず、しかし破綻なくまとめることにこだわるために上津原が任せようとすると難色を示す塔子だったが、一通りの認識合わせはしたからだろう珍しくすんなりと上津原の頼みを受け入れた。
「……そういや、あんたの質問でちゃんと答えてなかったのがあったな」
『え?』 
 
 どうして離婚したんですか? といった質問。

「たぶん錯覚してた。いつまでも続く非日常もあるんだろうって、そんなのは狂ってるだけだってのに」
『はあ……』
 一体なんのことだかわからないといった考えがそのまま流れてくるような塔子の相槌の声に上津原は口元だけ苦笑すると、さっさと寝ろと言って電話を切った。

    
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