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夏の恋(1)

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 学校は夏休みがあるからいいわねぇ、大学なんて二ヶ月くらい休みでしょう?
 などと。
 親類縁者のみならず親兄妹までもがいまだにそんなことを言ってくるが、それは学生であって……いやたとえ学生であってもいわゆる理系の研究室に属している限りそんなものは、ない。
 八月に入り、太陽光線は益々ご隆盛。中庭の蝉は命の限りの大合唱といった夏季休暇期間真っ盛りの本日も万城目まきめは糊のきいた白衣を身にまとい、朝布大学獣医学部内科学第三研究室へと続く廊下を歩いている。
 朝から研究室を軽く掃除し、やって来た上津原に――意外なことに彼は朝が早い――万城目自身の研究について軽くディスカッションして、研究室メンバーで当番制で世話している飼育動物と実験中の動物の様子を確認し、経費関連の書類を片付け、カドワカのご一行を迎えてお茶を出し、隣接する実験室の彼のデスクがある小部屋へ場所を移して博論真っ最中の院生の相談に応じた後、事務局へ出向いて諸用を済ませたその戻りであった。
 それでも慌ただしかったのは午前中だけで、午後は研究室のボスである上津原も万城目も学務もなければ学生指導もない。珍しく研究だけに勤しめそうだと機嫌良く万城目は研究室のドアノブに手をかけた。
「はい、これ先生宛です」
 窓際の上津原のデスクに万城目が茶封筒を差し出すと、咥え煙草でプリントアウトした論文に直しを入れていた手を止めて上津原かみつはらはちらりと封筒の角に目をやってから、軽く唸ってそれを手にとった。
「今月の『新星シンセイ』か」
 咥え煙草のまま言いながら、びりびりと縦に割るように封筒を破る横着な封の開け方で上津原は中身の冊子を取り出し、丸め気味になっていた背中を反らして椅子の背もたれに倒れこむとぱらぱらと冊子の頁を送りだす。
 途中、なにか気になる文字でもよぎったのか、二三度頁を送るのを止めはしたもののまともに読む様子もなくすぐまたぱらぱらを再開し、表紙から裏表紙まで送って、上津原は閉じた冊子を彼の正面に積まれた書類の上にペーパーウェイトのように乗せた。
「かなり前から毎月届きますけど、読んでますか?」
「暇つぶしにな」
 つぶすような暇があるのだろうかこの人に、と万城目は内心呟いた。
 地下鉄でたった二駅の近さの場所に住んでいながら帰宅が面倒で研究室に泊まり込む日々が続くのも、再三苦情を言われている教務課職員には申し訳ないが上津原の仕事は膨大なためわからないでもない。いくつか止めてもいいように万城目個人としては思う仕事もあるのだがそこに口出しするような立場でもなければ気もなかった。
「追ってる連載でもあるんですか?」
 献本の類は毎月届くものの、上津原が専門誌や学会誌以外で定期購読している雑誌は珍しい。
「んー? 別に、惰性だよ。付き合いで定期購読申し込んでそのまま放置ってだけだ。まーそろそろ止めるかな……それよかマキ、ソファにいる図体でかいのなんとかしろ」
「図体でかいのって」
 万城目がソファとテーブルのある来客応対スペースを振り返れば、いつも対談で甘糟塔子あまかすとうこが座る位置に一眼レフカメラを持った弓月ゆづきが甘糟塔子よりも圧倒的に押しつけがましい存在感で座っており、「チャオ」とふざけた挨拶付きで万城目に片手を挙げた。
「十分ほど前に早坂さんや甘糟塔子も出てったってのに居座ってんだよ」
「はあ」
 そうか、もう彼女は帰ったのかと思いながらソファに歩み寄った万城目がさりげなく壁にかかった時計の時間を見れば十一時四十七分。今日は九時半から対談だった。
「暇なんですか?」
「暇じゃないよぉ。戻って撮った写真チェックしなきゃいけないし。この対談なかなか綱渡りな納期だし」
「なら、何故いらっしゃるんですか」
 一眼レフカメラに付いているモニタで撮影画像を送りながら能天気な口調の弓月に、万城目は肩を落として眼鏡のフレームを指で押し上げた。どうやら上津原とはまた違った意味で傍若無人で扱い辛い性質の男であるらしい。
「人間観察のため?」
研究室ここですんなよ」
「中庭覗くには丁度いい位置ポジションだし。先生だって気になってるから窓辺のデスクに張り付いてんでしょ?」
「ハァア?! 俺は論文の直しがあんだよっ! あんたと違って甘糟塔子の動向なんざ興味ねぇっ」
 咥えていた煙草を灰皿に押し付けながら吠えるように怒鳴った上津原の言葉が、平生と違っているのに気がついて万城目は「おや」と眼鏡の中央を指で押し上げた。
 上津原は塔子のことをあの女だとか喪女だとか根暗女だとか、とにかくまともには呼ばないのが常であるのに。
 何故、フルネーム。
「先生、今日に限ってどうして甘糟さんを名前呼びで? 妙齢の女性に失礼極まりない小学生地味たアレな呼び方でなく」
 それがまっとうな人としてごく普通のことではあるし、妙な質問だと万城目自身わかってはいるが気になるから仕方がない。
「男ができたっぽいからな」
 ぼそりと吐き出された言葉に、「えっ?」と万城目は目を見開いた。
「中庭で十二時に待ち合わせ」
 追い打ちをかけるように弓月がのんびりとした口調で告げる。
「え、えェぇええっ!?」
 滅多に取り乱すことはないと自他共に認める万城目であったが、これぞ青天の霹靂《へきれき》とばかりに声を上げて呆然とする。そんな彼の反応を左手にプリントアウトした論文の紙を顔の前へ持ち上げ横目に見ていた上津原は、「どっちが失礼だよ、おい……」と呆れる。
「だって、甘糟さんですよ。先生」
 いまや恋愛ジャンルの小説家といえばベスト5には挙げられる甘糟塔子が、その実、恋愛経験はほとんどない、対人能力に若干問題のある、半ば妄想が過ぎるネガティブな自己認識の持ち主というのは、いまここにいる誰もが知るところだ。そんな彼女に。
「そこまで騒ぐことじゃないだろ。黙って普通にしてりゃ男好きする感じだし、現にお前も早坂さんもぼけっと眺めてるだろうが」
「や、それは綺麗ですし」
「レンズ通すといいんだよねぇ」
「ったく、どいつもこいつも」
 くだらんとばかりに、デスクに向き直って紙にペンを走らせ始めた上津原に、そりゃ夜の店の女性やらどこで知り合うの大企業に勤めていそうな才色兼備といった雰囲気の女性を時折引き連れている人は、美人なんて見慣れているでしょうけどと万城目は若干僻んだ気分になる。
 本当に。上津原のような尊大で傍若無人で仕事の合間を縫ってどこでなにをしているのかよくわからない、学生の間で女性連れでいた目撃情報が絶えない男と甘糟塔子のような女性が、恋愛について丁々発止なやりとりを交わすのが面白いなんて読者の間で捉えられる対談連載が成り立っているのか。不思議で仕方ない。
「でも中庭って、相手は学内の人間ですか?」
「俺は授業やら会議やらで出てたから知らねーけどよ。あの女、こないだここに携帯忘れて取りにきたんだろ? その帰りに中庭の植木に絡まった髪を外してもらったんだとよ」
「はあ」
 携帯電話を忘れたことなら知っている。
 帰宅後にそれに気がついた塔子から連絡を受けて室内を確認し、置き忘れらていたスマートフォンを見つけて保管したのも万城目なら、翌日取りにきた塔子に手渡したのも万城目だ。
 しかし、その後の彼女にそんな出来事が起きていたとは。
「ま、そん時はそれだけだったらしいが、今日ここ来るのに中庭つっきろうとして相手と再会したんだと」
「いやぁ、びっくりしたよぉ。トーコちゃん、急に血相変えてその人呼び止めながら近づいてってさ」
 その場に居合わせていたらしい弓月が愉快そうに上津原の説明を補足する。どうやら事の経緯を彼女から聞き出したのも、それを上津原に吹聴したのも彼のようだ。
「トーコちゃん、たぶんその時のことでだろうけどぺこぺこお礼しだして……そしたら相手がさ」
「じゃあってんで、ランチのお誘いだと」
 まったくもって興味無し。至極詰まらなそうな調子でそう言って、上津原は新しい煙草を咥えて火を付ける。
「なんですかそのベタな展開はっ!? 今時、少女漫画でもないですよそんなの」
「俺が知るかよ。まあなんだかんだで研究室ここに月イチ以上出入りし始めて半年近くだしな。目ぇつけられてたんじゃねーの?」 
 不倫じゃなきゃいいけどな。
 そこでようやく愉快そうな表情を見せた上津原に、知ってはいるが本当に人間性に問題有りだなこの人はと万城目は思う。そんな万城目の考えを読み取ったのか、話しながら論文に推敲を書き入れていた上津原は直した箇所を読み返す間を置いて、ふんと鼻を鳴らした。
「なんたって悪い奴にイタズラされた猫並に他人に警戒心丸出しのあの女が、部屋出てく時まんざらでもなさげだったからな。相手の男から押してきたんならまとまるんじゃねーの」
「上津原先生~。それなんかトーコちゃんが卑猥な目に合ったトラウマであんな感じになったみたいに聞こえるよ~」
 カメラをテーブルに置いた弓月が、ソファから立ち上がって窓辺に近づきながら上津原の言葉を混ぜっ返す。上津原は煙草の灰を灰皿に落とし、「そうか?」と柄の悪い笑い声を立てた。 
 この人達、最低だ。

 実を言えば、塔子のことを名前だけなら万城目はかなり以前から知っている。
 甘糟塔子をここ数年で出てきた若手作家と認識する者は多いが、作家としてデビューしたのはたぶん十年位前のはずだ。当時は少女向けレーベルの文庫で書いていた。万城目はその頃の作品を読んでいる。
 高校から大学三年生位まで、姉の影響で少女漫画と少女小説をオタクといっていいレベルで読んでいた。
 正直言って、レーベル作家としてはぱっとしなかった。
 一応、学園恋愛物といった部類のものだったが、推理小説好きの男女数名のグループがひょんなことから他人が抱える深い事情に首をつっこんで奔走したり、やる気のない演劇部がやがて大会の舞台を目指して熱いドラマを繰り広げたりといった作品で、ファンタジー系恋愛物メインなレーベル中で正直やや浮いていた。
 そのレーベルはいまも細々と続いてはいるものの、当時の看板作家の名は一人も見かけない。
 生き残っているのは甘糟塔子だけだ。それも一般文芸小説の作家として。 
「おい、マキ。失恋がショックなのはわかるが、いくらなんでもぼうっとし過ぎだ」
 上津原の声が耳を打って、万城目は我に返った。
「ああ、すみません。ですが仰っているような理由でぼんやりしていたのとは違います」
 眼鏡のフレームを押し上げながら万城目がそう言えば、いちいちきっちり反論してくんなよとぼやいて椅子の背にふんぞり返った上津原は弓月を見た。
「俺は、あんたがあの女なんとかすると思ってたんだがな」
「読みが外れた?」
「さあ、とんびに油揚げ攫われたってやつかもしれんし」
「どうかなあ。いい感じに調理してもらえるならむしろ僕としてはおいしいし」
「えっ?」
 いまなんて仰いました、弓月さん。
 そう思ったのは、なにも万城目だけではなかったらしい。
 沈黙が五秒ほど続いて、上津原がおもむろに煙を口元に運んで煙を吐いた。
「弓月さん……あんたいま、予想をいい感じにゲスく上回ったぞ」
「そう? でもトーコちゃん深く撮ったらさそうだし」
「どういう意味で言ってんだよ。バツ2にもなるわなそりゃ」
「まあトーコちゃんは抱いてなんとかなるタイプじゃなさそうだけどね……お、来ましたよ。上津原先生」
「なんで俺だよ。マキだろうが」
 根暗の三十路女に興味はねぇって言ってんだろう、と上津原は吐き捨てた。
 結局、根暗の三十路女か。甘糟さんをまともに呼ぶ気ないなこの人と万城目は呆れる。 
「覗きの趣味はありませんよ」
「覗きの趣味はなくても、あの女はタイプだろ? そもそもちょっと相手見るぐらいで覗きになるかよ」
「根拠のない決めつけは科学者にあるまじき発言です」
「ほぅ、ボスに向かってなんだその口の利き方は? 過ぎてしまった青い春を追い求めるお前の好みどストライクだろうがよ。いつだったかあの女と直に会えるってそわそわと病理診断のオーダー切り間違えたのどこの誰だ?」
 上津原の追求に万城目は表情を引きつらせる。
 もっとも普段から動きの乏しい万城目の表情筋は、頬とこめかみがわずかにひくり動いた程度、大した変化ではなかったけれど。
 しかしカメラマンの弓月は目敏めざとかった。
「やだよねぇ、ドSの上司って。部下のなにもかもをお見通しなのに普段素知らぬ顔して。ここぞって時にいじって屈辱と恐怖を与えるんだよねぇ。鬼畜だよねぇ」
「い、いえ、そこまででは……弓月さん」
「あんた性格悪いぞ」
「上津原先生に言われるまでもなく自覚していますよ」
 しれっと上津原の言葉を受け流して弓月は窓の外を見下ろした。
 なんだろう、この男の清々しい黒さ。
 万城目は一種感嘆の念を弓月に抱きつつ、本人は否定しているが人の仕事の選り好みの激しい人物と早坂から聞いた話を思い出した。
 早坂に弓月は、過去に打診された仕事を受けなかったのは単にスケジュールが合わなかっただけと説明したが、社に戻って早坂が興味半分に確認してみれば、彼に仕事を打診したことは何度かあったらが一度も引き受けなかったらしい。
「マキ?」
 にやにやしている上津原の無言の促しに、万城目はため息を吐いて弓月の隣に移動した。
 中庭に落ち合ったばかりらしい様子の男女が見えた。
「誰だよ?」
「さあ、教員のようではありますが」
「ぁん? 獣医学部じゃねーのか?」
「獣医学部の講義棟の方角から歩いてはきましたね。あちらだと科が違いますし、絡みもしない別科の教員のことはちょっと……」
「お前なぁっ。多いったって学部全体たかだか五十名弱だろうが。覚えとけよ。そういうので身の振り方左右されることもあるんだぞ」
 上司口調で言ってくれるが、身の振り方に関しては日頃から先陣切って一部の目上の方々から激しく嫌厭される言動を取っている上津原から言われてもまったく説得力がない。
「だったら、先生が見ればいいじゃないですか」
「面倒だ。特徴は?」
 万城目の意見をばっさり切り捨てて上津原がさらに促す。
 積極的に見ようとするほどの情熱もないが、相手の姿が見えるとなると興味があるらしい。
 自分は仕事の手を止めることなく、万城目とて片付けたい事務仕事があるというのに理不尽だ。
「……中肉中背。歳は弓月さんと同じくらいでしょうか」
 万城目にとって、甘糟塔子は上津原が言うような恋愛感情には至っていないものの憧憬の対象ではある。
 昔好きだった作品の作者、しかも自分好みの美人。
 月に一度の目の保養。傍若無人で野獣のような上津原の相手をする日々における癒し。茶飲み仲間程度に親しくなれればいいなといったささやかな夢と希望。
 その程度の好意だ。
 それでもやはり他の男性とぎこちなく肩を並べてはにかんでいる様子など……見ていてちっとも楽しくない。
 勝手だとは思うものの、男というのはそういうものだ。
 相手の男性は窓に斜めに立っているため、顔がよく見えない。
「遠目のぱっと見だけどイケメンの部類じゃない。優しげな感じの。たしかに同年代ぽいけどそこそこのポジションにいる人かなあの顔つきは、先生みたいな迫力には欠けるけどトーコちゃんと並んで見る分にはまあお似合い」
「さすがカメラマン……」
 歩き出した男性を眺めながら、弓月の的確な説明に万城目は感心した。
 甘糟塔子は今日は白いシャツ襟のワンピースを着ている。色白な彼女の姿は夏の陽射しに透き通るようで、お茶のペットボトルでも持たせれば、そのまま宣伝に使えそうな透明感だ。
「ちなみに服装は上品そうな紺のスーツです。ああ、外へ行きますよ……」
「薄い情報と泣き言はいらん。もうちょっと観察眼あると思ってたんだがな」
「人選ミスですね。近視の人間に遠方の人物描写させようとするのがそもそもの間違いです」
「そうかよ」
 ふうっと息を吐き出す音がして、薄く紫煙のもやが上津原のデスクから万城目が立つ場所にまで漂う。
 自分で促しておいて、弓月から相手の特徴を聞いたら途端に興味を失ったように上津原はデスクに左腕を立てて頬杖をつき俯いて論文の説明不足な箇所の補足かなにかだろう付箋を貼ってそこにメモを書きつけている。
「対談、手強くなってくるんじゃない?」
 窓枠を背にし、どこか挑発めいた口調で弓月が楽しそうに上津原へ話し掛けた。
「どうだかな」
 灰皿に吸いさしの煙草を預けて、さらさらとボールペンのペン先を用紙に滑らせる音を立てながら、気の無い返事だ。
「ホント、淡白だけど。上津原先生って案外、真面目?」
「本当もなにも俺は大真面目人間だ。あんたがやりそうな同時進行や気もない女と致すこともないしな」
「へえ、そうなんだ」
「少しは否定しろよ」
 首だけを回して弓月の顔を仰ぎ見て、顰め面して上津原は目を細める。
 淡々と、かなり呆れ返った思いでいると長年の師弟関係で万城目にはわかるが、目付きが悪く眼光鋭い上津原がそういった表情をすれば凄んでいるように相手に受け取られるのが常だ。しかし弓月はけろりとしていた。
 軽い調子で人好きする愛想の良さでいながら、妙に狡猾な腹黒さを感じさせ胆も据わっている。
 捉えどころのない男だ。
「しかし、いいんかね」
 頬杖を外し、椅子を軋ませて、唐突に万城目と弓月に体を向けた上津原の言葉に二人は同時に首を傾げる。
「獣医学部で三十半ばの優男。そこそこなポジションについてる奴って、該当者は一人だけどよ」
 椅子にふんぞり返って上津原は、プリントアウトした論文の紙の束を両手にその文字をもう一度頭から辿る様子を見せながら灰皿の煙草を再び手にして呟いた。
「俺が言うのもなんだが、クズだぞ」
「クズ……」
 万城目と弓月は顔を見合わせた。
「動物行動管理が専門の准教だよ。資金を引っ張ってくるのが上手いらしいが、下の奴からは毟り、上の奴にはへつらって共著を取る。まあ綺麗事だけでもないからやり方としてありっちゃありだけど」
「いやあ、それは」
 そういったボスの下は自分はごめんだと万城目は思う。
「でもって本はほとんど名義貸し、たまに学生と揉めてるっぽいが……たぶんコレだ」
 小指を軽く立てた上津原に、万城目は額を押さえてがくりとうなだれる。
「いいんかねっ……て」
 どう考えてもだめでしょうそれはっ!
「あ、甘糟さんに教えてあげたほうがよいのでは?」
 そろりと万城目が言えば、バサリと上津原はデスクに紙の束を投げ出した。
「学生ならともかく、三十路女にそんな必要あるか」
「や、でも……」
「クズでもわかんないしねえ。案外本気で誘ったかもしれないし」
「そーそー」
「弓月さんまで」
「心配ならお前が教えりゃいいだろ」
 煙草を口元に運びながらでもって奪っちまえと笑った上津原に、弓月が「おお、掠奪愛」とおどける。
 本当、最低な人達だ。
「はあ、なんでもいいですけど。甘糟さんが男性不信に陥って近寄らなくなってもしりませんよ」
「うーん、どうかなぁ……」
 なにか考え巡らすように弓月が天井へ目線を向けながら呟く。
「あの女がそんなタマか」
 忠告したつもりだったのに上津原はそう言って軽く目を伏せる。軽く微笑んだようにも見える表情を訝しんで万城目は眼鏡を持ち上げ瞬きした。
「あんな図太い色気ねぇ女はそうそういないぞ。腹減った、マキ。昼飯、山猫軒の回鍋肉定食」
「あ、はい。電話します」
「さて、僕も事務所戻るかな。空模様も怪しいし」
 窓枠にもたれていた弓月が背後を軽く振り仰いだのに、万城目もつられて窓の外を見れば遠く黒い雲が白い雲に混じり横たわって浮かんでいるのが見えた。
「……降ってきそうだな」  
 咥え煙草のくぐもった低い呟きが、万城目の耳に届いた。
 
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