129 / 180
第四部 魔術院と精霊博士
129.公爵夫人であるうちに
しおりを挟む
夜明け前に目が覚めた。
元々、農地を治めている小領地の領主の娘だったから、まだ暗いうちから起きることはそれほど珍しいことじゃない。王宮にいた頃も、下働きの人たちの気配で目を覚ましてしまって早起きねと呆れられた。
すっかり朝が遅くなったのは、フォート家に嫁いでから。
貴族の朝は、彼らのために立ち働く人々と比べればずっとゆっくりだ。
夜宴などもあるけれど、主人が早起きではそれよりもっと早く起きないといけない使用人達が気の毒といったこともある。
特にここ最近は。
ルイに構われて夜が遅く、その分だけ起きる時間も遅くなっていて……。
それに、朝ゆっくりどころではなく半月程も眠りっぱなしでもあったし。
いくらなんでも、ちょっと怠惰が過ぎるのじゃないかしらと思ってもいたところで――。
身動ぎしかけて、すぐ隣に眠るルイのことに思い出す。
そっと、ゆっくり、静かに。
彼のいる方向へと寝返りを打った。
酷く疲労している時を除いて、ルイは人の気配に敏感で眠りも浅めだ。
わたしが目を覚ませば、大抵起きる。
どちらかといえば宵っ張りなのに、朝もそれなりに強い。
いまはよく眠っているけれど。
暗さに目が慣れてきて、鼻先が触れそうになほど近く、顔半分を見せて横臥で眠るルイの頬からシーツに落ちる銀色の髪を眺める。その一筋に指先で触れてみても彼は起きなかった。
昨晩は、普通に眠っている。
日中魔術研究に勤しんでいたわけでもないのに珍しいと思いながら、ルイの様子を伺いつつ寝具をあまり動かさないようにわたしは上半身を起こした。
「本当に綺麗よね……」
四十手前の男の人なのにと、ルイを見下ろしほとんど口の中で呟く。
若い頃ってどんな感じだったのかしら、とりあえずものすごい美少年や美青年だったに違いない。とても直視できる気がしないけれど、少しだけ見てみたかった気もする。
昔は髪を長くしていたこともあったらしい。
「……」
もしかして、どんな御令嬢より美女だったりしたのでは?
最強の魔術師でなくても、彼のいる所々でなにかしら波乱を起こしそうな気が……。
そんなとりとめのないことをぼんやりと考えつつ、彼が横たわっている反対側からそっと寝台を抜け出そうとしてすぐ、思いがけない力強さで手首を掴まれて驚いた。
見下ろせば、開いていた目と目が合う。
「……どちらへ?」
「あ、起こしちゃった?」
横向きに寝そべったまま、じっとわたしを見つめるルイの青みがかった灰色の目が、わたしの間の抜けた声にわずかに細まり、視線と手首を掴む手の力が緩んだ。
「……早起きですね」
言葉と共に低く吐き出されたため息は、たぶん寝ていたのを起こされたためじゃない。
ここ数日――。
ちょっと驚いてしまうほど、ルイの執着心を身をもって知った……いえ、薄々そうかなと思うことはあったのだけれど。でもまさかそんなこととなんとなく自分の中で打ち消していたところ、その通りだと言わんばかりに容赦無く叩きつけられてしまっては。
勝手なことに、自分はわたしから離れようとしたくせにわたしが彼から離れるのは堪えるらしい。
わたしがルイを言葉で切りつけちゃったからかもしれないけれど……。
自分が弱って死んだら面倒はない。
厄介事の種になるくらいなら切り捨ててくれても文句はない、なんて――。
「起こしちゃった?」
「いえ、自然に目が覚めて……」
再び彼に尋ねる声は、自然と柔らかなものになる。
頭に血が上っていたとはいえ、精霊の祝福が元で家族関係で哀しい思いをして、人と深く関わることも避けてきた人に、きつい言葉を怒り任せにぶつけてしまったのかもしれない。
そんなわたしの胸の内を読み取ったように、ルイは彼の頭のそばについているわたしの手の甲をそっと撫でた。指に指を軽く絡めて弄ぶ。
「ルイ……」
「まだ夜も明けていないというのに、よく眠った気分です」
たまらない気持ちになって彼の名前を口にすれば、彼の暢気な調子の言葉になんだか今度は反対にこちらの気が抜けてしまう。
「目が覚めたから、起きて窓の外を見ようかなって」
「外を? まだ暗いですが……?」
「夜の暗さが少しずつ青くなっていくでしょう。朝が来る前の空の色って結構好きで」
「……なら、外に出ますか?」
「え?」
「貴女と屋敷を抜け出し、夜明け前の散歩というのもたまにはいいでしょう」
まるでなにか悪戯でも思いついたような表情を見せたルイに、わたしは二度瞬きをした。
*****
「寂寞とした場所ですが、見晴らしはいい。夜が明けていくのを眺めるにはいい場所です」
屋敷の庭を歩くのかと思ったら、馬に乗せられて、小高い丘の上へと連れられた。
たしかに。
とても見晴らしがいい。
稜線を描き鬱蒼と広がる森の青黒い影と、わずかに白み始めた紺碧の空の色。
青く沈む色の濃淡が天と地を分けている。
きっと夜明けの光が差せば、遠くの空まで国境近くの森と丘陵一帯と一緒に見渡せて、素晴らしい景色に違いない。
「誰にも邪魔されず思索に耽りたい時などに来ていて……」
「一人で?」
「ええ、かろうじて屋敷の敷地の範囲内ですから」
屋敷の敷地の範囲ということは護りがかかっているはずだ。
整えられた庭園から野に出てしばらく駆けた気がするけれど、本当にフォート家の屋敷の範囲は広い。
ルイは座るのに丁度良さそうな平らな細長い岩の表面を、まだ明けない空の色に似た濃紺色のローブの袖で軽く払ってわたしを座らせ、自分も隣に座った。
「まだオドレイも雇い入れていなかった若い頃は、勝手に姿を消されては困るとフェリシアンに小言をもらったものです」
たしかオドレイは未成年の内からフォート家にいたはずだ。わたしとそう変わらないくらい若く見えるオドレイだけど、それは竜の血の力の影響で彼女はルイとは五つ違い。
「……ただ屋敷の庭にいただけ、とかなんとか言っていたのでしょう」
「よくわかりましたね」
まだ少年といっていいくらいの頃のルイは、一人ここでなにを考えていたのだろう。
小高い丘といっても半ば山のようなもので、途中から馬を降りて登り、辿り着いたその頂きは風で削られた岩の塊しかない。
寂寞とした場所とルイが言う通りに、なんだか殺風景で寂しい場所だった。
少し気になったけれど、隣で苦笑するルイの横顔を見て尋ねるのは控えた。
時折、風が強く吹く。
思わずマントの左右を掻き寄せたわたしを見て、ルイが彼の片腕を背後から回してわたしを軽く引き寄せる。触れ合った肩や回された腕から彼の体温がじんわりと伝わってくる。
マントはルイのもので、屋敷を出る時、ルイに暖かくしたほうがいいと普段着ドレスの上に被せられた。
「一人で来る時も馬で?」
「そうですが、何故そんなことを」
「だって飛べるのですよね?」
互いに簡単に身支度をして、玄関からではなく手近な窓から屋敷を抜け出しここにいる。
主寝室は屋敷の三階。
わたしを横抱きに、ルイはなんの躊躇いもなくひらりと窓から飛び降りた。
どうして窓からっと慌てたけれど、一向に地面に落ちる衝撃もないのに窓から飛び降りた時に閉じた目を開ければ、彼に抱えられて浮いていた。
ルイは涼しい顔をしてゆっくりと着地し、わたしを地面に下ろした。
「軽くその場にただ浮くのと、移動も伴う飛ぶではまったく違います」
「ふうん」
彼の口ぶりから察するに、どうやら飛ぶことはただ空中に浮くより高度な魔術のようだ。
こっそり一人になりたいために屋敷を抜け出すのなら、飛んで移動したほうが便利で楽そうに思えたけれど、高度な魔術は代償となる魔力も多く必要とする。
ルイ曰く疲れるから、馬なのだろう。
「……ここで」
「わあ!」
目の前に広がる夜明けの色の素晴らしさに心奪われ、わたしは感嘆の声をあげた。
ルイと話しているうちにも刻々と変化していった空は、藍色から薄紫へ移り変わり、青黒い森の影は白い朝靄に青く滲んで木々の枝葉の形を取り始める。
ユニ領の農地から山の向こうを見上げるのでもなく、王都と違い視界を遮るものはなにもない。
果てなく広がるような天地の境に朝焼けの茜色が立ち昇ってから、金色の朝日がきらきらと眩しい光でわたし達を照らすまでさほど時間はかからなかった。
「……綺麗」
両手を口元で合わせて呟く。
青い影の森は濃く深い緑色へ、淡く橙から薄紅に染まった朝靄がたなびいている。
瞬きするたびに移り変わっていく夜明けの景色。
「ええ……綺麗だ……」
自然と零れたような呟きの声がこめかみに降ってきて、わたしは目の前に広がる景色から、すぐ隣で同じ光に照らされているルイの顔を上目に見上げる。
すぐに目が合った。
肩より下に伸びた銀色の髪が光を散らし、少し眩しそうに細めた眼差しがいつになく柔らかいものに見えて少し驚く。
「あ、えっと。さっきなにか言いかけてなかった? ここでって」
「ここで……いえ、なんでもないことです」
目を細めたまま、口元を閉じたルイは心なしか微笑んでいるように見える。
そう、とわたしは彼に相槌を打って、再び国境近くの森と丘陵一帯を見下ろす。
「広いですね。やっぱり」
「東部の六割ですからね。ここから見えるのもごく一部と思うと多少うんざりします」
「でも、ちゃんと守ってる」
「マリーベル」
「屋敷の皆も、秋も冬も緑のままな森も、村や街も好きよ」
明けていく景色を見ていて気がついた。
王都から帰ろう考えて思い浮かぶのはロタールの屋敷だ。
冬の景色も、雪化粧されたロタールの緑の森が広がる景色が浮かぶ。
季節の祝いも聖堂ではなく、フォート家の祠で、聖職者の真似事をするルイが見せる魔術が混ざったような祝福の祈りが降らせる光だ。
ずっと側にいて欲しい人は……いつの間にかすっかり、そうなっている。
気がつけば、ルイに寄りかかって彼の胸に顔を埋めていた。
「まだ全然なにも、これからなのに……」
「必ず、何度でも迎えに。精霊や祝福も必ずどこかに解決の糸口があるはず」
ルイの静かな言葉に、あっ、とわたしは彼に伝えるのを忘れていたことを思い出し、彼の胸に伏せていた顔を上げる。
「ルイ」
「ん?」
「精霊といえば……指輪」
「指輪?」
「蔓バラ姫が言っていたの、結婚指輪を証にした婚姻の誓約に命運の女神の“祝福”がかかっているって」
「まさか……別格の女神ですよ」
ルイは互いの指輪を見比べるように、指輪を嵌めている左手で、やはりわたしの左手を取って持ち上げる。
「私にはなにもわかりませんが」
「わたしもわからないけれど……でも精霊も、嘘は吐けないはずよね?」
「そう、ですね……あの守護精霊はなんて?」
「ただの誓約にクインテエーヌの紡ぎ糸なんて代償、いくら女神でも流石に取り過ぎって思うからって。どういった“祝福”かはわかりません」
「成程。あなたが私にクインテエーヌの紡ぎ糸を捧げ、それを元に婚姻の誓いの証として私が結婚指輪を掲げましたからね。誓約の代償として多すぎるとされた可能性はたしかにある」
ですが、と首をひねるように傾けてルイは眉間に皺を寄せた。
「どうしたの?」
「指輪に“祝福”などと言われてもよくわかりませんね。命運の女神は時や運命、世界そのものを司るとされている女神です」
「結婚が守られる……とか?」
「だったら王宮でその調整をしている時に、なにかしらの力が働いて白紙になんて戻す算段などできないはずです」
「ですか」
一縷の望みと期待をかけてのわたしの言葉は、ルイにあっさり退けられた。
「そもそも貴女がなにもわからないなら、私にはお手上げです」
「ソフィー様の扇はうっすら光って見えたのだけど」
「ここで悩んでいても仕方がありません。そろそろ戻りましょうか」
ルイの言葉に頷いて、差し出された彼の手の支えに立ち上がる。
そのまま手を握られ、二人並んで馬を繋いだところまで丘を降りる。
「そういえば。“防御壁の魔術”ってどんなものなの?」
「その名の通りに防御の壁です。古い時代のものなのでそれほど大したものではないですが、矢や鉄の弾や、火薬をつかった攻撃をある程度受け止めるような」
「十分大したものだと思いますけど……」
「完全ではありません。まあでも相手側としては見えない城壁にでも阻まれているように感じるでしょうね。害意を持つ者の侵入も防ぎますから」
この魔術でいいところは十箇所に区切って繋げているところだという。
どこか一箇所が破られてもその箇所を含む一区切り分だけで、あとは無事らしい。
「そしてどこかが残っていれば、魔術自体は生きているので補修で済む」
必要とする魔力の効率が悪いのが大きな欠点で、実質フォート家の盟約の魔力でなければ維持は難しい。
「それから、防御壁があるから大丈夫といった油断が生じる点ですかね。見えないということは破れても見えないわけで……魔術師ならわかりますが」
「やっぱり万能ではないものね」
「当たり前でしょう。所詮は人が生み出したただの技法です」
再び馬に乗せられ、手綱を握るルイに後ろから抱えるように支えられて屋敷に戻りながら、すっかり秋の装いですねと囁かれた。
普段着ドレスは黄色く色づく秋の葉色で、ルイのマントは服の色に会わせたような黄緑がかった褐色のマントだった。
「でも、ロタールの森は秋も冬も緑のままで紅葉しませんから、あまりそういった色には思えないのでは?」
「どうでしょうね。蔦の葉や背の低い木など多少色づくものもありますよ」
そんなとりとめのない話をしながら屋敷に戻り、馬を厩舎に戻して庭園に出れば、もう庭師のエンゾがバラの木の世話をしていた。
「おはよう、エンゾ。朝早くから剪定?」
「奥様っ!? 旦那様まで! どうしたんです、まだ夜明けたばかりですよ」
飛び上がるほど驚いたエンゾの反応にわたしも驚いたけれど、よく考えたら当然だった。
侍女のリュシーだってたぶんまだ眠っている時間だもの、わたしとルイがぶらぶらとやってきたら何事かと思うだろう。
「ああ……ええと、早く目が覚めてしまって散歩に?」
「二人だけで暗いうちからなにしてるんですか……危ないでしょう」
「屋敷の範囲内です。問題ありません」
なるほど、フェリシアン相手にもこういった調子だったわけね。
想像通りなルイの返答にわたしも若干呆れつつ、エンゾが世話をしていた花壇へ目を向ける。
まだ若い木だ、芽や蕾が新たに出てきそうな箇所もあまり見当たらない。
「もしかして、リュシーの?」
「はい。思うようにいかなかったものですけど」
森の使いの狼犬。
その先祖返りで獣人なエンゾの、お尻から出ているしっぽがしゅんと項垂れるように内側に軽く丸まった。エンゾは、リュシーの茜色から鉄錆色に揺らめく髪や瞳の色と同じ色のバラを作ることを目指している。
リュシーは精霊の取り替え子だ。
精霊の世界に攫われて、またすぐ人間の世界に放り出された。精霊の世界にいた時間はリュシーを人間とも精霊ともつかない存在に変容させてしまった。髪と瞳の揺らめく色はそのためで、彼女は屋敷の外では五年と保たない。
だからエンゾはリュシーのために、彼女の好きな綺麗なものやいい香りのするものを増やしてあげたい一心で、彼女の色を写した彼女のためのバラを作ろうとしている。
ルイやフェリシアンから聞いた話では、品種改良というだけなら、もう結構な数を作っているらしい。
美しい庭をフォート家の庭師として作っているエンゾだけれど、年中、なにかしらいい香りを漂わせる花が絶えないのは、たぶんリュシーのためだろう。
「ねえ、エンゾ」
「はい、奥様」
「リュシーのことどう考えてるの?」
通りがかりの立ち話しとはいえ、ルイが一緒にいて、エンゾが一人で他の使用人達の姿もない機会はありそうでなかなかない。
少し以前から気にかかっていたことを尋ねてみれば、わたしとルイを交互に見て、エンゾは小さく息を吐くと腰に巻いている袋に持っていた鋏をしまった。
「二人して同じようなことをお聞きになるんですね……」
「え?」
「少し前に、私も尋ねたのですよ。もし使用人だからなどと気にしているのならと思ったので」
わたしが彼を仰ぎ見たからだろう。
ルイは彼もまたエンゾにリュシーについて尋ねていたことを明かした。
「聞いていません」
「言っていませんからね。考えあぐねているような様子でしたから」
「だからって、リュシーのことでもあるのですよ」
「政略結婚でもない、はっきり意思決定されてもいない話をしても仕方がないでしょう」
「あのっ、俺のことで喧嘩なさらないでください……っ」
余計なこと言った……と、困惑の表情を浮かべているエンゾに、そうねごめんなさいとわたしは謝った。
「いえ」
「ルイも伝えたみたいだけれど、同じ屋敷の使用人だからなんて考えなくていいのよ」
同じ屋敷の使用人同士の恋愛を禁止している家はよくある。
けれどフォート家は、なにぶん訳ありな人が多いし、使用人に望むことは一つだけだ。
――フォート家の者として堂々と仕えること。
それだけ。
だから、十歳離れた兄妹のようであり、ほぼ同じ時期にフォート家に雇い入れられた同僚で、友人で、恋人同士でもあるエンゾとリュシーが一緒になることは問題ない。
「ええ」
「……リュシーが成人するの、待っていたのでしょう?」
「まあそうなんですが」
それはたぶんリュシーも同じだ。
ただいざその時を迎えて、二人ともなんとなく戸惑っているようにも見えた。
一度、王都の邸宅に二人が来た時も、手の空いた時間一緒にいてそんな時の二人はどこからどう見ても恋する二人だった。
エンゾを見るリュシーの表情は大人びていて、ただ元気で彼を大好きなだけの小さな女の子ではなくなっている。
まだ春の祝いを終えたばかりの頃はそうでもなかったけれど、結婚できる歳になったことがこれほど作用するなんて。
「ねえ、エンゾ」
「はい」
「もし、なにか思い切るための理由が必要なら……わたくしは理由にならない?」
「マリーベル……」
わたしはルイに微笑んだ。
わたしの今後のことについては、すでに皆に伝わっている。
「フォート家の、あなた達の公爵夫人であるうちに」
わたしが二人のことを見守れる時間は残り少ない。
ルイとのことが白紙に戻ってしまったら、わたしはフォート家と対外的に無関係な人間になる。
わたしは王妃様の義従妹としてお側に付く予定で、きっと王家の意向で、フォート家どころかロタールにだって近づくことは当面できなくなるだろう。
「奥様が奥様じゃなくなったら、きっとリュシーは俺どころじゃなくなります」
「それって、心配じゃない?」
「そうですね」
その日の午後、ルイとわたしは王都の邸宅に戻った。
王の誕生祭が三日後に迫っていて色々と準備があったからだ。
翌日の夕方、リュシーが邸宅にやってきて少しはにかんだ表情で報告を受け、その場にいたマルテと一緒にひとしきりお祝いを言った。
「それで、そのぉ……できたら季節のお祝いするお庭で式ができたらいいなって」
「祠で? じゃあ聖職者の方に来てもらわないと……」
「旦那様はだめですか?」
「え、でもルイは……」
「絶対そこらの小聖堂や聖職者に祈ってもらうより強力だってエンゾが。だって季節のお祝いあんなぱあああって光が降るんですよ」
「あのね、でもそれって……」
聖職者の祈りの言葉が魔術的な反応起こしてああなるだけで、普通のお祈りと変わらないみたいなのだけど。
「秋の祝いのついででいいですからぁ、お願いしますっ! 奥様から旦那様に!」
「ついでって……」
「旦那様と奥様のお祝いがいいんです」
「お祝いはするから……」
結局、リュシーに押されてルイに話せば、まあそうなるだろうと思っていたのでいいですよと思いの外あっさりと承諾した。
「私は所詮真似事ですが、貴女がお祝いの歌の一つでも歌えば、大聖堂とはいわないまでも近いものにはなるでしょう」
「は?」
「王宮の森の実り豊からしいですから。こうなれば是非ともどうなるか見てみたいですね、リュシーとエンゾも喜ぶでしょう。聖典から良い曲を選んであげますよ」
そしてわたしは本格的に古語の勉強をすることになった。
しかしこれが、後に役立つことになる。
王の誕生祭。
ルイとわたしの結婚が白紙となり、年明けには王宮預かりの処遇となることが発表されるはずだったその場で、わたしは魔術院に行くことを選択した。
ルイを一方的に敵視して、禁術に手を出し身を滅ぼした。
ジョフロワ・ド・ルーテルの取り巻きだった者達が牛耳る、疑惑が燻るその場所へ――。
元々、農地を治めている小領地の領主の娘だったから、まだ暗いうちから起きることはそれほど珍しいことじゃない。王宮にいた頃も、下働きの人たちの気配で目を覚ましてしまって早起きねと呆れられた。
すっかり朝が遅くなったのは、フォート家に嫁いでから。
貴族の朝は、彼らのために立ち働く人々と比べればずっとゆっくりだ。
夜宴などもあるけれど、主人が早起きではそれよりもっと早く起きないといけない使用人達が気の毒といったこともある。
特にここ最近は。
ルイに構われて夜が遅く、その分だけ起きる時間も遅くなっていて……。
それに、朝ゆっくりどころではなく半月程も眠りっぱなしでもあったし。
いくらなんでも、ちょっと怠惰が過ぎるのじゃないかしらと思ってもいたところで――。
身動ぎしかけて、すぐ隣に眠るルイのことに思い出す。
そっと、ゆっくり、静かに。
彼のいる方向へと寝返りを打った。
酷く疲労している時を除いて、ルイは人の気配に敏感で眠りも浅めだ。
わたしが目を覚ませば、大抵起きる。
どちらかといえば宵っ張りなのに、朝もそれなりに強い。
いまはよく眠っているけれど。
暗さに目が慣れてきて、鼻先が触れそうになほど近く、顔半分を見せて横臥で眠るルイの頬からシーツに落ちる銀色の髪を眺める。その一筋に指先で触れてみても彼は起きなかった。
昨晩は、普通に眠っている。
日中魔術研究に勤しんでいたわけでもないのに珍しいと思いながら、ルイの様子を伺いつつ寝具をあまり動かさないようにわたしは上半身を起こした。
「本当に綺麗よね……」
四十手前の男の人なのにと、ルイを見下ろしほとんど口の中で呟く。
若い頃ってどんな感じだったのかしら、とりあえずものすごい美少年や美青年だったに違いない。とても直視できる気がしないけれど、少しだけ見てみたかった気もする。
昔は髪を長くしていたこともあったらしい。
「……」
もしかして、どんな御令嬢より美女だったりしたのでは?
最強の魔術師でなくても、彼のいる所々でなにかしら波乱を起こしそうな気が……。
そんなとりとめのないことをぼんやりと考えつつ、彼が横たわっている反対側からそっと寝台を抜け出そうとしてすぐ、思いがけない力強さで手首を掴まれて驚いた。
見下ろせば、開いていた目と目が合う。
「……どちらへ?」
「あ、起こしちゃった?」
横向きに寝そべったまま、じっとわたしを見つめるルイの青みがかった灰色の目が、わたしの間の抜けた声にわずかに細まり、視線と手首を掴む手の力が緩んだ。
「……早起きですね」
言葉と共に低く吐き出されたため息は、たぶん寝ていたのを起こされたためじゃない。
ここ数日――。
ちょっと驚いてしまうほど、ルイの執着心を身をもって知った……いえ、薄々そうかなと思うことはあったのだけれど。でもまさかそんなこととなんとなく自分の中で打ち消していたところ、その通りだと言わんばかりに容赦無く叩きつけられてしまっては。
勝手なことに、自分はわたしから離れようとしたくせにわたしが彼から離れるのは堪えるらしい。
わたしがルイを言葉で切りつけちゃったからかもしれないけれど……。
自分が弱って死んだら面倒はない。
厄介事の種になるくらいなら切り捨ててくれても文句はない、なんて――。
「起こしちゃった?」
「いえ、自然に目が覚めて……」
再び彼に尋ねる声は、自然と柔らかなものになる。
頭に血が上っていたとはいえ、精霊の祝福が元で家族関係で哀しい思いをして、人と深く関わることも避けてきた人に、きつい言葉を怒り任せにぶつけてしまったのかもしれない。
そんなわたしの胸の内を読み取ったように、ルイは彼の頭のそばについているわたしの手の甲をそっと撫でた。指に指を軽く絡めて弄ぶ。
「ルイ……」
「まだ夜も明けていないというのに、よく眠った気分です」
たまらない気持ちになって彼の名前を口にすれば、彼の暢気な調子の言葉になんだか今度は反対にこちらの気が抜けてしまう。
「目が覚めたから、起きて窓の外を見ようかなって」
「外を? まだ暗いですが……?」
「夜の暗さが少しずつ青くなっていくでしょう。朝が来る前の空の色って結構好きで」
「……なら、外に出ますか?」
「え?」
「貴女と屋敷を抜け出し、夜明け前の散歩というのもたまにはいいでしょう」
まるでなにか悪戯でも思いついたような表情を見せたルイに、わたしは二度瞬きをした。
*****
「寂寞とした場所ですが、見晴らしはいい。夜が明けていくのを眺めるにはいい場所です」
屋敷の庭を歩くのかと思ったら、馬に乗せられて、小高い丘の上へと連れられた。
たしかに。
とても見晴らしがいい。
稜線を描き鬱蒼と広がる森の青黒い影と、わずかに白み始めた紺碧の空の色。
青く沈む色の濃淡が天と地を分けている。
きっと夜明けの光が差せば、遠くの空まで国境近くの森と丘陵一帯と一緒に見渡せて、素晴らしい景色に違いない。
「誰にも邪魔されず思索に耽りたい時などに来ていて……」
「一人で?」
「ええ、かろうじて屋敷の敷地の範囲内ですから」
屋敷の敷地の範囲ということは護りがかかっているはずだ。
整えられた庭園から野に出てしばらく駆けた気がするけれど、本当にフォート家の屋敷の範囲は広い。
ルイは座るのに丁度良さそうな平らな細長い岩の表面を、まだ明けない空の色に似た濃紺色のローブの袖で軽く払ってわたしを座らせ、自分も隣に座った。
「まだオドレイも雇い入れていなかった若い頃は、勝手に姿を消されては困るとフェリシアンに小言をもらったものです」
たしかオドレイは未成年の内からフォート家にいたはずだ。わたしとそう変わらないくらい若く見えるオドレイだけど、それは竜の血の力の影響で彼女はルイとは五つ違い。
「……ただ屋敷の庭にいただけ、とかなんとか言っていたのでしょう」
「よくわかりましたね」
まだ少年といっていいくらいの頃のルイは、一人ここでなにを考えていたのだろう。
小高い丘といっても半ば山のようなもので、途中から馬を降りて登り、辿り着いたその頂きは風で削られた岩の塊しかない。
寂寞とした場所とルイが言う通りに、なんだか殺風景で寂しい場所だった。
少し気になったけれど、隣で苦笑するルイの横顔を見て尋ねるのは控えた。
時折、風が強く吹く。
思わずマントの左右を掻き寄せたわたしを見て、ルイが彼の片腕を背後から回してわたしを軽く引き寄せる。触れ合った肩や回された腕から彼の体温がじんわりと伝わってくる。
マントはルイのもので、屋敷を出る時、ルイに暖かくしたほうがいいと普段着ドレスの上に被せられた。
「一人で来る時も馬で?」
「そうですが、何故そんなことを」
「だって飛べるのですよね?」
互いに簡単に身支度をして、玄関からではなく手近な窓から屋敷を抜け出しここにいる。
主寝室は屋敷の三階。
わたしを横抱きに、ルイはなんの躊躇いもなくひらりと窓から飛び降りた。
どうして窓からっと慌てたけれど、一向に地面に落ちる衝撃もないのに窓から飛び降りた時に閉じた目を開ければ、彼に抱えられて浮いていた。
ルイは涼しい顔をしてゆっくりと着地し、わたしを地面に下ろした。
「軽くその場にただ浮くのと、移動も伴う飛ぶではまったく違います」
「ふうん」
彼の口ぶりから察するに、どうやら飛ぶことはただ空中に浮くより高度な魔術のようだ。
こっそり一人になりたいために屋敷を抜け出すのなら、飛んで移動したほうが便利で楽そうに思えたけれど、高度な魔術は代償となる魔力も多く必要とする。
ルイ曰く疲れるから、馬なのだろう。
「……ここで」
「わあ!」
目の前に広がる夜明けの色の素晴らしさに心奪われ、わたしは感嘆の声をあげた。
ルイと話しているうちにも刻々と変化していった空は、藍色から薄紫へ移り変わり、青黒い森の影は白い朝靄に青く滲んで木々の枝葉の形を取り始める。
ユニ領の農地から山の向こうを見上げるのでもなく、王都と違い視界を遮るものはなにもない。
果てなく広がるような天地の境に朝焼けの茜色が立ち昇ってから、金色の朝日がきらきらと眩しい光でわたし達を照らすまでさほど時間はかからなかった。
「……綺麗」
両手を口元で合わせて呟く。
青い影の森は濃く深い緑色へ、淡く橙から薄紅に染まった朝靄がたなびいている。
瞬きするたびに移り変わっていく夜明けの景色。
「ええ……綺麗だ……」
自然と零れたような呟きの声がこめかみに降ってきて、わたしは目の前に広がる景色から、すぐ隣で同じ光に照らされているルイの顔を上目に見上げる。
すぐに目が合った。
肩より下に伸びた銀色の髪が光を散らし、少し眩しそうに細めた眼差しがいつになく柔らかいものに見えて少し驚く。
「あ、えっと。さっきなにか言いかけてなかった? ここでって」
「ここで……いえ、なんでもないことです」
目を細めたまま、口元を閉じたルイは心なしか微笑んでいるように見える。
そう、とわたしは彼に相槌を打って、再び国境近くの森と丘陵一帯を見下ろす。
「広いですね。やっぱり」
「東部の六割ですからね。ここから見えるのもごく一部と思うと多少うんざりします」
「でも、ちゃんと守ってる」
「マリーベル」
「屋敷の皆も、秋も冬も緑のままな森も、村や街も好きよ」
明けていく景色を見ていて気がついた。
王都から帰ろう考えて思い浮かぶのはロタールの屋敷だ。
冬の景色も、雪化粧されたロタールの緑の森が広がる景色が浮かぶ。
季節の祝いも聖堂ではなく、フォート家の祠で、聖職者の真似事をするルイが見せる魔術が混ざったような祝福の祈りが降らせる光だ。
ずっと側にいて欲しい人は……いつの間にかすっかり、そうなっている。
気がつけば、ルイに寄りかかって彼の胸に顔を埋めていた。
「まだ全然なにも、これからなのに……」
「必ず、何度でも迎えに。精霊や祝福も必ずどこかに解決の糸口があるはず」
ルイの静かな言葉に、あっ、とわたしは彼に伝えるのを忘れていたことを思い出し、彼の胸に伏せていた顔を上げる。
「ルイ」
「ん?」
「精霊といえば……指輪」
「指輪?」
「蔓バラ姫が言っていたの、結婚指輪を証にした婚姻の誓約に命運の女神の“祝福”がかかっているって」
「まさか……別格の女神ですよ」
ルイは互いの指輪を見比べるように、指輪を嵌めている左手で、やはりわたしの左手を取って持ち上げる。
「私にはなにもわかりませんが」
「わたしもわからないけれど……でも精霊も、嘘は吐けないはずよね?」
「そう、ですね……あの守護精霊はなんて?」
「ただの誓約にクインテエーヌの紡ぎ糸なんて代償、いくら女神でも流石に取り過ぎって思うからって。どういった“祝福”かはわかりません」
「成程。あなたが私にクインテエーヌの紡ぎ糸を捧げ、それを元に婚姻の誓いの証として私が結婚指輪を掲げましたからね。誓約の代償として多すぎるとされた可能性はたしかにある」
ですが、と首をひねるように傾けてルイは眉間に皺を寄せた。
「どうしたの?」
「指輪に“祝福”などと言われてもよくわかりませんね。命運の女神は時や運命、世界そのものを司るとされている女神です」
「結婚が守られる……とか?」
「だったら王宮でその調整をしている時に、なにかしらの力が働いて白紙になんて戻す算段などできないはずです」
「ですか」
一縷の望みと期待をかけてのわたしの言葉は、ルイにあっさり退けられた。
「そもそも貴女がなにもわからないなら、私にはお手上げです」
「ソフィー様の扇はうっすら光って見えたのだけど」
「ここで悩んでいても仕方がありません。そろそろ戻りましょうか」
ルイの言葉に頷いて、差し出された彼の手の支えに立ち上がる。
そのまま手を握られ、二人並んで馬を繋いだところまで丘を降りる。
「そういえば。“防御壁の魔術”ってどんなものなの?」
「その名の通りに防御の壁です。古い時代のものなのでそれほど大したものではないですが、矢や鉄の弾や、火薬をつかった攻撃をある程度受け止めるような」
「十分大したものだと思いますけど……」
「完全ではありません。まあでも相手側としては見えない城壁にでも阻まれているように感じるでしょうね。害意を持つ者の侵入も防ぎますから」
この魔術でいいところは十箇所に区切って繋げているところだという。
どこか一箇所が破られてもその箇所を含む一区切り分だけで、あとは無事らしい。
「そしてどこかが残っていれば、魔術自体は生きているので補修で済む」
必要とする魔力の効率が悪いのが大きな欠点で、実質フォート家の盟約の魔力でなければ維持は難しい。
「それから、防御壁があるから大丈夫といった油断が生じる点ですかね。見えないということは破れても見えないわけで……魔術師ならわかりますが」
「やっぱり万能ではないものね」
「当たり前でしょう。所詮は人が生み出したただの技法です」
再び馬に乗せられ、手綱を握るルイに後ろから抱えるように支えられて屋敷に戻りながら、すっかり秋の装いですねと囁かれた。
普段着ドレスは黄色く色づく秋の葉色で、ルイのマントは服の色に会わせたような黄緑がかった褐色のマントだった。
「でも、ロタールの森は秋も冬も緑のままで紅葉しませんから、あまりそういった色には思えないのでは?」
「どうでしょうね。蔦の葉や背の低い木など多少色づくものもありますよ」
そんなとりとめのない話をしながら屋敷に戻り、馬を厩舎に戻して庭園に出れば、もう庭師のエンゾがバラの木の世話をしていた。
「おはよう、エンゾ。朝早くから剪定?」
「奥様っ!? 旦那様まで! どうしたんです、まだ夜明けたばかりですよ」
飛び上がるほど驚いたエンゾの反応にわたしも驚いたけれど、よく考えたら当然だった。
侍女のリュシーだってたぶんまだ眠っている時間だもの、わたしとルイがぶらぶらとやってきたら何事かと思うだろう。
「ああ……ええと、早く目が覚めてしまって散歩に?」
「二人だけで暗いうちからなにしてるんですか……危ないでしょう」
「屋敷の範囲内です。問題ありません」
なるほど、フェリシアン相手にもこういった調子だったわけね。
想像通りなルイの返答にわたしも若干呆れつつ、エンゾが世話をしていた花壇へ目を向ける。
まだ若い木だ、芽や蕾が新たに出てきそうな箇所もあまり見当たらない。
「もしかして、リュシーの?」
「はい。思うようにいかなかったものですけど」
森の使いの狼犬。
その先祖返りで獣人なエンゾの、お尻から出ているしっぽがしゅんと項垂れるように内側に軽く丸まった。エンゾは、リュシーの茜色から鉄錆色に揺らめく髪や瞳の色と同じ色のバラを作ることを目指している。
リュシーは精霊の取り替え子だ。
精霊の世界に攫われて、またすぐ人間の世界に放り出された。精霊の世界にいた時間はリュシーを人間とも精霊ともつかない存在に変容させてしまった。髪と瞳の揺らめく色はそのためで、彼女は屋敷の外では五年と保たない。
だからエンゾはリュシーのために、彼女の好きな綺麗なものやいい香りのするものを増やしてあげたい一心で、彼女の色を写した彼女のためのバラを作ろうとしている。
ルイやフェリシアンから聞いた話では、品種改良というだけなら、もう結構な数を作っているらしい。
美しい庭をフォート家の庭師として作っているエンゾだけれど、年中、なにかしらいい香りを漂わせる花が絶えないのは、たぶんリュシーのためだろう。
「ねえ、エンゾ」
「はい、奥様」
「リュシーのことどう考えてるの?」
通りがかりの立ち話しとはいえ、ルイが一緒にいて、エンゾが一人で他の使用人達の姿もない機会はありそうでなかなかない。
少し以前から気にかかっていたことを尋ねてみれば、わたしとルイを交互に見て、エンゾは小さく息を吐くと腰に巻いている袋に持っていた鋏をしまった。
「二人して同じようなことをお聞きになるんですね……」
「え?」
「少し前に、私も尋ねたのですよ。もし使用人だからなどと気にしているのならと思ったので」
わたしが彼を仰ぎ見たからだろう。
ルイは彼もまたエンゾにリュシーについて尋ねていたことを明かした。
「聞いていません」
「言っていませんからね。考えあぐねているような様子でしたから」
「だからって、リュシーのことでもあるのですよ」
「政略結婚でもない、はっきり意思決定されてもいない話をしても仕方がないでしょう」
「あのっ、俺のことで喧嘩なさらないでください……っ」
余計なこと言った……と、困惑の表情を浮かべているエンゾに、そうねごめんなさいとわたしは謝った。
「いえ」
「ルイも伝えたみたいだけれど、同じ屋敷の使用人だからなんて考えなくていいのよ」
同じ屋敷の使用人同士の恋愛を禁止している家はよくある。
けれどフォート家は、なにぶん訳ありな人が多いし、使用人に望むことは一つだけだ。
――フォート家の者として堂々と仕えること。
それだけ。
だから、十歳離れた兄妹のようであり、ほぼ同じ時期にフォート家に雇い入れられた同僚で、友人で、恋人同士でもあるエンゾとリュシーが一緒になることは問題ない。
「ええ」
「……リュシーが成人するの、待っていたのでしょう?」
「まあそうなんですが」
それはたぶんリュシーも同じだ。
ただいざその時を迎えて、二人ともなんとなく戸惑っているようにも見えた。
一度、王都の邸宅に二人が来た時も、手の空いた時間一緒にいてそんな時の二人はどこからどう見ても恋する二人だった。
エンゾを見るリュシーの表情は大人びていて、ただ元気で彼を大好きなだけの小さな女の子ではなくなっている。
まだ春の祝いを終えたばかりの頃はそうでもなかったけれど、結婚できる歳になったことがこれほど作用するなんて。
「ねえ、エンゾ」
「はい」
「もし、なにか思い切るための理由が必要なら……わたくしは理由にならない?」
「マリーベル……」
わたしはルイに微笑んだ。
わたしの今後のことについては、すでに皆に伝わっている。
「フォート家の、あなた達の公爵夫人であるうちに」
わたしが二人のことを見守れる時間は残り少ない。
ルイとのことが白紙に戻ってしまったら、わたしはフォート家と対外的に無関係な人間になる。
わたしは王妃様の義従妹としてお側に付く予定で、きっと王家の意向で、フォート家どころかロタールにだって近づくことは当面できなくなるだろう。
「奥様が奥様じゃなくなったら、きっとリュシーは俺どころじゃなくなります」
「それって、心配じゃない?」
「そうですね」
その日の午後、ルイとわたしは王都の邸宅に戻った。
王の誕生祭が三日後に迫っていて色々と準備があったからだ。
翌日の夕方、リュシーが邸宅にやってきて少しはにかんだ表情で報告を受け、その場にいたマルテと一緒にひとしきりお祝いを言った。
「それで、そのぉ……できたら季節のお祝いするお庭で式ができたらいいなって」
「祠で? じゃあ聖職者の方に来てもらわないと……」
「旦那様はだめですか?」
「え、でもルイは……」
「絶対そこらの小聖堂や聖職者に祈ってもらうより強力だってエンゾが。だって季節のお祝いあんなぱあああって光が降るんですよ」
「あのね、でもそれって……」
聖職者の祈りの言葉が魔術的な反応起こしてああなるだけで、普通のお祈りと変わらないみたいなのだけど。
「秋の祝いのついででいいですからぁ、お願いしますっ! 奥様から旦那様に!」
「ついでって……」
「旦那様と奥様のお祝いがいいんです」
「お祝いはするから……」
結局、リュシーに押されてルイに話せば、まあそうなるだろうと思っていたのでいいですよと思いの外あっさりと承諾した。
「私は所詮真似事ですが、貴女がお祝いの歌の一つでも歌えば、大聖堂とはいわないまでも近いものにはなるでしょう」
「は?」
「王宮の森の実り豊からしいですから。こうなれば是非ともどうなるか見てみたいですね、リュシーとエンゾも喜ぶでしょう。聖典から良い曲を選んであげますよ」
そしてわたしは本格的に古語の勉強をすることになった。
しかしこれが、後に役立つことになる。
王の誕生祭。
ルイとわたしの結婚が白紙となり、年明けには王宮預かりの処遇となることが発表されるはずだったその場で、わたしは魔術院に行くことを選択した。
ルイを一方的に敵視して、禁術に手を出し身を滅ぼした。
ジョフロワ・ド・ルーテルの取り巻きだった者達が牛耳る、疑惑が燻るその場所へ――。
0
お気に入りに追加
1,579
あなたにおすすめの小説
【完結】婚約破棄されたので、引き継ぎをいたしましょうか?
碧桜 汐香
恋愛
第一王子に婚約破棄された公爵令嬢は、事前に引き継ぎの準備を進めていた。
まっすぐ領地に帰るために、その場で引き継ぎを始めることに。
様々な調査結果を暴露され、婚約破棄に関わった人たちは阿鼻叫喚へ。
第二王子?いりませんわ。
第一王子?もっといりませんわ。
第一王子を慕っていたのに婚約破棄された少女を演じる、彼女の本音は?
彼女の存在意義とは?
別サイト様にも掲載しております
【本編完結】若き公爵の子を授かった夫人は、愛する夫のために逃げ出した。 一方公爵様は、妻死亡説が流れようとも諦めません!
はづも
恋愛
本編完結済み。番外編がたまに投稿されたりされなかったりします。
伯爵家に生まれたカレン・アーネストは、20歳のとき、幼馴染でもある若き公爵、ジョンズワート・デュライトの妻となった。
しかし、ジョンズワートはカレンを愛しているわけではない。
当時12歳だったカレンの額に傷を負わせた彼は、その責任を取るためにカレンと結婚したのである。
……本当に好きな人を、諦めてまで。
幼い頃からずっと好きだった彼のために、早く身を引かなければ。
そう思っていたのに、初夜の一度でカレンは懐妊。
このままでは、ジョンズワートが一生自分に縛られてしまう。
夫を想うが故に、カレンは妊娠したことを隠して姿を消した。
愛する人を縛りたくないヒロインと、死亡説が流れても好きな人を諦めることができないヒーローの、両片想い・幼馴染・すれ違い・ハッピーエンドなお話です。
婚約破棄とか言って早々に私の荷物をまとめて実家に送りつけているけど、その中にあなたが明日国王に謁見する時に必要な書類も混じっているのですが
マリー
恋愛
寝食を忘れるほど研究にのめり込む婚約者に惹かれてかいがいしく食事の準備や仕事の手伝いをしていたのに、ある日帰ったら「母親みたいに世話を焼いてくるお前にはうんざりだ!荷物をまとめておいてやったから明日の朝一番で出て行け!」ですって?
まあ、癇癪を起こすのはいいですけれど(よくはない)あなたがまとめてうちの実家に郵送したっていうその荷物の中、送っちゃいけないもの入ってましたよ?
※またも小説の練習で書いてみました。よろしくお願いします。
※すみません、婚約破棄タグを使っていましたが、書いてるうちに内容にそぐわないことに気づいたのでちょっと変えました。果たして婚約破棄するのかしないのか?を楽しんでいただく話になりそうです。正当派の婚約破棄ものにはならないと思います。期待して読んでくださった方申し訳ございません。
私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです
こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。
まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。
幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。
「子供が欲しいの」
「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」
それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
【完結】白い結婚成立まであと1カ月……なのに、急に家に帰ってきた旦那様の溺愛が止まりません!?
氷雨そら
恋愛
3年間放置された妻、カティリアは白い結婚を宣言し、この結婚を無効にしようと決意していた。
しかし白い結婚が認められる3年を目前にして戦地から帰ってきた夫は彼女を溺愛しはじめて……。
夫は妻が大好き。勘違いすれ違いからの溺愛物語。
小説家なろうにも投稿中
一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!
当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。
しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。
彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。
このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。
しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。
好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。
※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*)
※他のサイトにも重複投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる