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第四部 魔術院と精霊博士

126.まだなにも失ってはいない

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 前にロタールの屋敷に戻ったのは、王宮のお茶会の十日ほど前。庭のバラも花盛りの頃。
 もう二ヶ月程ぶりになるから、久しぶりではあるのだけれど。
 なんだかとても懐かしいように思えるのは、何日も眠っていたからだろうか。

 二階は邸宅と同じく使用人達の部屋や客間、ルイの私室や図書室がある。
 邸宅と違うのは、所々で、花瓶に生けた花が飾られていた。
 きっとリュシーだろう。わたしやルイがいない間もずっと飾ってくれていたに違いない。その花を作っている庭師はエンゾで二人は仲良しだ。
 いつも微笑ましい二人のやりとりを思い出して和みかけたけれど、前を歩く父様の焦茶色の髪を几帳面に整えた頭が目に入って、持ち直しかけた気分はまた少し重くなる。
 ややずんぐりした肩や背中に、なんとなくまだ怒りが燻っている気配を感じてひっそりと息を吐いた。

 それはそうと……。
 邸宅から屋敷に入った時、オドレイの目が赤く光って父様を睨んでいたように見えたのだけど。
 一体、わたしを呼びにくる前になにがあったのか。
 気になる、けど。
 とても聞けると思えない。
 でも……。

「あの、父様……」
「なんだ?」

 首だけ回してこちらを見た横顔の、淡褐色の父様の目がぎらりと光ったように見えて、いいえなんでもと慌てて首を横に振る。
 怖い……と、胸元で重ねた両手を握り込んで、三階へと階段を登っていく父様の後をついていたら、中程で諦めと呆れを含むような息を父様は吐いた。

「父様?」
「……以前から薄々思ってはいたが、公爵様は厄介だぞ」
「厄介?」
「とにかく……夫婦間のことはよく話し合いなさい」
「はあ、はい」
「おそらく彼の考えを変えるとしたら、出来るのはお前だけだなのだから」

 再びため息を吐いた父様の言葉に、首を傾げる。
 ルイはこうと決めたらそうする人だ。
 わたしだからって、そう簡単に考えを変えはしないと思う。

「ルイがわたしの言う事で変わると思えないけれど……」
「なら、どうしてここに来ている。モンフォールの……いや、いまはエンヌボン男爵か、彼や儂を煩わせてまでここに来たかったんだろう」
「それは……、でもそれとこれとは違いますっ」
「なにがどう違う? お前は公爵様のとった行動が承知出来ない」
「そうだけど……」
「……今度のことは儂も少々堪えている。マリアンヌの抱えていたものを、ひとつも知らないでいたのだから。よく考えれば思い当たることはあったのに」

 父様の言葉にあっと、小さく声がでた。
 そうだ。自分のことばかり考えていたけれど、父様にとっては最愛の妻の生前知ることはできなかった秘密でもある。
 
「だがきっと察して尋ねても打ち明けなかっただろう……秘密が大きすぎて。儂には本当にどうにもできないことで、彼女だけの世界でもあったに違いない。お前を案じて儂に託すことが精一杯だったろうし、お前の父親としてそれは果たしたつもりだ……」
「父様……」
「それより先はもう、儂の気持ちの上だけのことでしかない」

 三階の廊下に足を乗せ、マリーベル、と父様がわたしに呼びかける。
 はい、と返事をしてわたしは父様を見上げた。

「お前達は、儂と違ってそうではないだろう?」
「父様?」
「承知できない、それはそれでいい。彼の事情がどうでも間違いではない」
「父様……」
「だが正しいわけでもない……二人の事は二人で・・・考えなさい」 

 二人で……。

「あのっ、父様っ」

 主寝室の方向へ、先を歩く父様に近づいて上着の背の裾を掴む。

「……まったく、無事の知らせより先に夫婦喧嘩の仲裁を届けてくるとはなんだ」
「ごめんなさい」
「ま、フォート家の法務顧問だ。お前は公爵夫人なのだから好きに使えばいい」

 ポン、と。
 後ろから回されていた手で背中を軽く叩かれ、続けて頭ごとぐらぐら揺らすように手を置いて撫でられる。

「っ、父様っ」
「聞かない点ではお前も公爵様に負けず劣らずだからな……腹を立てているのなら中途半端にせず困らせてやるといい」
「ええっ、んんーそれはなんだか……」
「あのお貴族様は、たまには少々痛い目を見るくらいで丁度いい」

 お貴族様って、たまにはって……父様まで使用人達みたいな。
 そういえば、この家にきたばかりの頃、フェリシアンもそんなことを言っていたような。
 父様にちょっとそれはどうなのといった意見と一緒に伝えれば、ふむと娘を揶揄からかう父親から真面目な表情に戻って顎を掴んだ。

「まあ、あの人は流石にな……」

 主寝室の扉の前に立ち、父様は上着の襟を直して姿勢を正した。
 この向こうにルイがいる。
 そう思うとなんだか緊張してしまう……だって、明らかに彼はわたしと会うことを拒んでいるし、そんなことは初めてだ。 

「さて、釘は刺しておいたが」
「あ、あああっ……ちょっと、待ってっ……父様……っ」 

 まだ心の準備がっ……!

 扉を開け、ルイにどう話しかければと逡巡するわたしの腕を取って、部屋の中へずかずかと入っていく父様に内心叫ぶ。
 父様に腕を引かれて進む歩みは、ドレスの中で足がもつれてふらふらとおぼつかないものになった。淑やかな歩みとはほど遠い。なんだか情けない。
 もっと情けないことに、長椅子ソファの背もたれから彼の後ろ姿が見えて、頭の中がそれだけになって足が止まる。
 腕を引く父様の手がいつの間にか離れていることにも、しばらくしてから気が付いた。

「――閣下」

 向かい合わせた長椅子ソファの間に立って、まるで長年仕える家臣のような重く厳かな声を発した父様の顔を、少し離れた斜め後ろから見上げる。
 わたしの位置から、長椅子ソファに座るルイの、濃紺のローブの肩と横顔にかかる銀色の髪から少しのぞく顎先が見える。
 
「お待ちいただけたのは、大変結構」
「……」
 
 ルイの束ねていない銀髪が僅かに揺れてどきりとする。
 ほぼ同時に手首が引っ張られ、父様とルイとの間に突き出されて、目を白黒させて体勢を直したわたしと、父様に顔を傾けたルイの目線が合う。
 感情の見えない青みがかった灰色の瞳。
 そこに浮かぶ光が一瞬揺れたように見えたのは、窓から差す傾きかけた日の光の加減だろうか。

「私を強引に頷かせたのは、貴方でしょう」
「旧ロシュアンヌにいるはずが何故来たか答えましょう。娘がモンフォールの三男坊を使って、儂に知らせたからです。閣下らしくもない見落としでしたな」
「成程。人任せにして、すっかり頭から抜け落ちていた……次は気をつけましょう」
「どれだけ気をつけようと無駄でしょうな」

 突然やや荒っぽく父様に背を押されて、半歩、前のめりに大きく体勢が崩れる。
 床へ顔から転倒しかけて咄嗟に大きく伸ばした腕を、下から鷲掴んだ手の強い力に支えられた。

「……ル、ぃ」

 下に向かう勢いと押し上げる手の力がぶつかって、二の腕に走った鈍い痛みに反射的に顔を顰め、支えられている腕の下からルイの顔を覗いたけれど、彼はわたしではなく父様を見ていた。

「私の娘を侮ってもらっては困る――」

 やや声を張り上げるように父様はそう言って、わたし達に背を向けて半開きのままになっていた部屋の扉へ歩いていく。

「貴方はまだなにも、失ってはいないでしょう」

 父様、とわたしが呼びかけたのと、ルイにそう言って父様が部屋を出たのはほぼ同時だった。
 バタンと音を立てて扉が閉まる。
 急に静かになった室内で、ルイにまだ腕を支えられたままになっていたことに気がつく。足はもう床をしっかりと踏んでいるから倒れることはない。
 ルイも気がついたのだろう。
 わたしの腕を持ったまま長椅子ソファから立ち上がって、場所を入れ替えるようにわたしを座らせた。
 立ち上がって寝台近くの窓辺へ向かっていく、ルイの暗い絹地に銀色の髪が光る後ろ姿を、彼に掴まれていた箇所をさすりながら眺める。
 窓辺の立った彼の姿が、金色がかった夕暮れの光を正面から受けて影になる。
 
「……日暮れが早くなってきましたね」

 ぽつりと独り言のような呟きだったけれど、そうねと応じた。
 
「もう秋ですから」
「……随分と人を巻き込み騒ぎ立ててくれたものです。それで? 王宮からなにか知らせでも?」
「まだなにも届いていません」
「決まっているのだから、さっさと寄越せばいいものを」

 苛立ちが滲む言葉に、思った通り、もう取引なり調整なりついているのだと確信して、膝の上に重ねていた両手を握り込む。

「どう決まっているの?」
「貴族として正しい手続きをとっていないとして結婚自体は無効に。あなたはトゥール家の養女、王妃の義従妹である未婚の令嬢として王妃の側に」
「養女以外は、ほぼ元通りね」
「魔術院が横槍を入れてくる懸念は残っていますが……そこは私がロベール王直属の魔術顧問に就くことで牽制を入れる」
「王様との契約を公に?」
「そうです」

 まさか離婚でなく経歴上は無傷でルイと別れて、トゥール家の養女のまま王妃様の側にまたお仕えすることになるとは思ってもいなかった。けれど、ほぼわたしが想像したことと大差ない。

「王様に逆らえない噂を立てましたよね?」
「……ああ、ダルブレの元姫ですか。王宮との接触を封じても貴女の情報網は厄介ですね」
「ソフィー様のことを考えないはずないわ。自分で説明しなくても、ある程度わかるようにしたのでしょう!?」
「ええ、貴女は聡くてよく気が回る。ここまで固めておけば迂闊には動かない……それが、あろうことか旧ロシュアンヌに払った父親にモンフォール経由で知らせる暴挙に出るとはっ」

 光の中でルイの影が振り返って、その声を少しばかり荒げた。 
 肩をすくめて、わたしは知りませんと答える。

「だって、まだなにも届いていないもの」 
「は――!?」

 わたしの言葉に、ルイが絶句する。 
 そもそも、ルイが領地にいて離れていようと、わたしがフォート家に邸宅にいる時点で意味がない。いくらでも連絡なんて取れるだろうと言われたら、そうですねとしか言えないもの。
 わたしはテーブルの上へと目をやった。
 ワインの空き瓶が随分とある。

「お疲れとお酒で、頭が回っていないのでは? 本当にそうしたければトゥール家の養父様やそれこそ王宮や大聖堂にでも、わたしを預けておけばよかったんだわ!」
「それは……いつ起きるともわからない以上……」
「だからなに? 弱って死んだらそれこそ面倒はないじゃない。わたしは領主の妻です。厄介事の種になるくらいなら、切り捨ててくださっても文句はありません」
「ッ……!」

 顔がよく見えなくてもわかる。
 彼が魔術師だからなのか、離れていても圧迫されるような怒気を感じる。
 立って、影になっている彼を睨み付けながら近づいていく。
 ルイは動かなかった。
 影になっていた姿が徐々にはっきりして、その顔を仰ぎ見れば、見上げたことを後悔しそうになる恐ろしく冷ややかな表情で、なのにわたしを見下ろす目は傷ついたような光を浮かべていた。わたしの言葉が彼を切りつけたのは明らかだった。
 
 なによ。
 こんな言葉でそんな目をするのなら、わたしがどう思うかくらいわかりそうなものじゃない。
 ただの疲労どころじゃないひどい顔をしているし。
 大体、勝手に色々決めて、逃げるってどうなの。
 頑張ったらあなたに手が届く余地も残して……詰めが甘過ぎる。
 馬鹿じゃないの、本当に。

 色々、本当に色々。
 文句ならいくらでも、頭の中で途切れることなく浮かぶのだけれど。
 どれも言葉に出来ず、どんっと拳に握った右手を彼のローブに包まれた胸に叩きつける。

 どん、どん……と、無言のまま何度も。
 もう一方の手も握って交互に。
 叩きつける手に鈍い痛みが、持ち上げた腕が怠くなるくらい続けて。
 とどめのように両手をいっぺんに、ルイを押し倒す勢いで体の重みごとぶつければ、わたしの勢いに押されて彼は一、二歩後ずさった。
 背を窓枠にぶつけて、窓下の壁に寄りかかるようにずり落ちて床に腰を落とす。
 わたしも彼の胸に両拳と額を押し付けたまま膝を落としていた。
 テーブルにあんなに空いた瓶があるのに、酒精アルコールの匂いはほとんどしない。
 懐かしい彼の香りに、もう一度、彼の胸を両手で叩く。
 それでもルイは動かない。

「腕くらい……」

 ルイの胸元に顔を伏せ、伝わってくる彼の体温。
 じっと黙っているけれど、かといって引き剥がされることもない。
 そんなことに、どこかでほっとしている自分にも腹が立つ。
 
「腕くらい……回したらどうなの……」

 ぶつけて止めた拳を緩めて、ルイのローブの布地をぎゅと握り締める。
  
「本当に、離婚するからっ」
「……離婚もなにも……白紙になる話をしていたはずですが……?」
 
 少しばかり間を空けて。
 困惑と、なにかを堪えていて吐き出したようなため息に掠れた、途切れがちの言葉が降ってくる。頭の後ろに躊躇うような手つきで触れるルイの指も感じたけれど、顔を上げる気にはなれない。
 はあっと、わたしも息を吐く。
 まるで泣いた後のような熱を帯びていて、そのことに少し驚いた。

「そんなもの待たずによ……」

 ルイの腕が直接わたしに触れることなく、ゆるく囲われていることにも気がついていた。言葉を返しながら、額を軽く擦り付けるように身じろぎする。

「ロベール王と司祭長曰く、そう簡単にはいかないものだそうです」
「……どういうこと?」
「王が後ろ盾に、大聖堂が認めた。そう簡単に覆しては両者の威信に関わる」

 わたしが目を覚ましてから、実際わたしがどうなっているのかも含めて審議し進めることになっていて、しばらく公示期間も設けられる。
 どんなに早くても結婚が白紙になるのは、年明けになるとのことだった。

 どうりで。
 一向に王宮からのお達しが来ないはずだ。
 公示するということは、発表する前になにかしら知らせは届くだろうけど。
 社交期間も残りわずか。
 多くの貴族が一堂に介す集まりといったら、もう王様の誕生祭くらいしかない。

 前の年は、ルイがわたしに求婚した。
 あれから季節が一巡りしている。月日が過ぎるのはなんて早い。
 婚約期間も毎日付きまとってきたから、もう一年もこの人と一緒にいる。
 それがなんだか不思議で、一年なんて思えないほど短い時間に思えた。
 
「王の誕生祭で、私は貴女に求婚した。多くの者がその場に立ち会い、婚儀の時も野次馬が多くいた。それらがすべて無効と皆に知らしめる時間が必要だと……」

 まるでわたし達のことではない、誰かのことを説明して聞かせるような。
 淡々と静かに話すルイの口調だった。
 いつの間にかわたしを囲う腕は狭まり、彼の左腕の付け根に頭を預け直す。
 見上げるように目線だけを動かせれば、正面を向いたままでいる細い顎先、語る唇が動くのが見える。

「四大精霊の加護を持つ精霊博士。この国に深く息づく信仰も取り込むことが不可能ではなくなる……王国の脅威がそれに気がつかないはずがない、と一部の者は考える」

 彼が言葉を紡ぐ度に、頬にかかった銀色の髪の筋が小刻みに揺れて光を散らす。
 綺麗で、夜の闇を仄白く照らす月のようだ。
 わたしは目を伏せた。
 床に腰を下しているルイの足の間に膝立ちで、斜めに彼に寄りかかっているわたしの、ぐしゃぐしゃの皺になって素晴らしい刺繍も台無しになったドレスのスカートが見える。
 ドレスは、ルイが知らないうちに頼んでいて届いた内の一枚だ。
 いまのわたしは、こうして彼が与えた好意を台無しにしているのと同じに違いない。
  
「時間が経つ程に、私に近しい程に……貴女まで、王国の脅威になる必要はない。それなのに、あのようなことを……」
 
 弱って死んだら面倒はない。
 切り捨ててくれても文句はない。
 わたしの言葉について言っているのだろう。
 
「私が認めたくないだけで、実に正論。本当に……いつだって貴女は私が曖昧にさせておきたいことに対して容赦がない。ユニ領でも、邸宅でも、いまも……っ」 
 
 背骨が僅かに軋む痛みを訴えるほど強い力で抱き締められているけれど、わたしとしては反対に項垂れかかってきた彼の頭を肩越しに抱き寄せている気分だった。
 自分が関わることで、人生が狂わされていく者が出るのはいい加減にして欲しいと口の中で呟くように零れた言葉に、本当にお貴族様はこれだからと思う。
 
「そうね。いい加減にしてほしい。貴方が関わらなければ、今頃はモンフォールの当主様のところに呼び戻されていたかもしれない。オドレイは口にすることも憚られるようなことをし続け、シモンは取り返しのつかない罪を犯し、マルテは売られ、エンゾは狩られて、リュシーは生きてすらいないかもしれない」
「……そんなことはっ」
「なによ。詭弁だとか慰めにもならないとか頭の悪いこと、まさか仰いませんよね? わたしは事実そうかもしれなかったことを述べただけです」
「マ……」
「はっ、戦場で何人も死に追いやったのが貴方だけなら、大した英雄よ。お母様は貴方を疎んでいたわけではないって、ご自分で仰ってましたよね? 耄碌もうろくされるには少し早くありませんか」

 もうろく……と、ルイが小声で繰り返したのが聞こえたけれど、一つ口から文句の言葉が滑りだせば、なんだかもう止められなかった。 

「そもそも、フォートの“祝福”だってヴァンサン王の血筋だって、ご自分でフォート家がいいですって選んで生まれてきたとでも? それこそ伝承の神童かなにかのつもり?」

 止められない言葉をろくに息継ぎもせずに吐き出し続けて、胸が苦しい。
 一区切りついたところで、引き込むように喉を鳴らして息を吸い込む。

「マリーベル……」
 
 わたしの胴体を絞めていた腕が緩んで、ルイの頭を抱いているわたしの腕を外すように、彼がわたしの二の腕を掴んで身を僅かに引き離す。なにか辛そうに目を細め、青灰色の瞳を揺らしてわたしの顔を見ながら彼が頬に触れてきても止まらなかった。

「貴方なんて……っ、ちょっと地位と名誉とお金と力があって……美形で口が達者で胡散臭いだけの悪徳魔術師ってだけじゃない。そんな人に……ひとの、人生がどうこう、できるなんてっ……思わないでっ……っ」

 最後の方は、しゃくりあげてしまう声に、あまりまともな言葉になっていなかった。
 一息に言いたいことを言いたいだけ言ってやったから息が苦しい。
 
「誰が悪徳ですか……少なくとも、妻が泣いて平気でいられるほどではありませんよ」

 頬を掌や指で何度も撫でながらの呆れ声に、泣いてませんからっと否定する。
 心外だ。

「一息で文句言って、ちょっと苦しかっただけで……大体、傷ついていた貴方を抱き止めていたのはわたしなのに……どうして……わたしが慰められているみたいになっているの……っ」
「確かに……ジュリアン殿の言う通り。侮ってはです」
「なに……っ!?」

 突然、腰に腕を回されて強引に引き寄せられたと思ったら、ルイが立ち上がる。
 まるで木材か穀物袋のように彼の脇に抱えられる格好で、わたしの膝は床から離れた。
 
「ル……っ……」

 彼に抱えられ浮いていたのはほんの僅かな間で、すぐ頭から背中の半ばまでを平らで柔らかな場所が受け止める。
 寝台の上にものすごく中途半端に乗せられて、顔のすぐ左にルイが右肘を立てる。
 腰に巻きついている、もう一方の腕は相変わらずわたしを抱えていた。
 唯一、自由なのは足だけで、前屈みに被さってわたしを見下ろすルイの体に沿って、のけぞるような形でつま先で床に着地する。

「貴女に私のなにがわかる? 納得もしなければ、その言葉をすんなり受け入れられもしませんが……」
 
 凄むような声が、わたしを見詰める目が瞬きをする度に、肩から前に乱れ落ちる伸びた髪と一緒に言葉となって落ちてくる。
 頬に濡れた感触を残し、腫れぼったく乾いた目でわたしはそんな彼の鼻筋の通った顔の表情を眺めていた。
 無表情とも、怒っているとも、微笑んでいるとも言えない。
 ひどく曖昧で、それでいて形容し難い深い感情を浮べる表情だった。
 きっとこの表情を、わたしは生涯忘れることはない。
 その品よく締まった唇が動く。

「降参……いえ、降伏しますよ。やり過ごすつもりでいた貴女への、気持ちだけは……」
「ルイ?」
「私が貴女と出会い、貴女に構わなければ、貴女の母親が地の精霊を出し抜き期限を設けず施したものはきっと解けることはなかった。それもまたそうかもしれなかった事実です」

 わたしの頭に添えられていたルイの右手の指が、結い上げているのをほぐすように髪に触れる。見詰め合う彼の眼差しは、真っ直ぐにいまのわたしだけを見ている。

「……ルイは、どうしたいの?」

 わたしから黙って離れようとした彼に怒って、こうしてロタールの屋敷にやってきたのだから、わたしの側はわかり切っている。
 でもまだ、ルイがどうしたいのかきちんと聞いていない。

「側にいたい――貴女が私を不要としない限り」

 抱えられている腰が揺れて、巻きついている腕の力が強まり、ドレスとローブの生地が擦れ合う音をさせてルイとわたしの体が触れる。
 わたしの髪に触れていた手が、後頭部を持ち上げるように寝台とわたしの間に潜り込んでいた。

「クインテエーヌの紡ぎ糸ごと、あなたに心も渡しているのに?」
「離れて守るなどと考えていた自分が、最早有り得ない……」

 ルイの眼差しが近づき、その長い睫毛が伏せられるのに合わせて目を閉じる。
 重なる熱い唇と舌に吐息ごと言葉は奪われて、口元と同じように互いの上半身がぴたりと重なる。
 どちらもあまりに密着していて動けず、唯一自由になる左腕を寝具の皺を辿るように横に伸ばして、伸び切ったところで軽く指を曲げ、掛けられているリネンを指先で掴んだ。
 こんなに深く交わしているのに、もっと深くと求めてしまう口付けの終わりを、わたしもルイも考えてはいなかった。
 
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