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第四部 魔術院と精霊博士

124.目覚めと別れ

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 目の前の、ベッドに横たわり浅い呼吸を繰り返す女の人はとても苦しそうだった。
 栗色の髪の筋がかかったやつれた顔。燭台に数本立てた蝋燭の橙色の火に照らされていても、その白い肌は青黒く沈み、唇の色も紫がかっている。
 熱に浮かされた緑色の瞳の目が、わたしを見て細まった。

「……マリーベル」

 ベッドの側に立っている、まだ幼ないわたしの小さな手に、力なく伸ばされた手の指が触れて艶を失った手が重なる。

「大好きよ……」

 ぼんやりとわたしはその声を聞いていた。
 わたしも大好きな母様。わかってはいるのだけれど、なんだか知らない女の人を見ているようで心がついていかない。

「……お父様の、言うことをよくきいて……元気で……いいこでね……」

 苦しそうな浅い呼吸に途切れ途切れで、一言一言ゆっくりと吐き出される弱々しく掠れた声……もっときれいな声だったと思うけれど。思い出せない。

「ああ……ジュリアン、お願い……」
「マリアンヌ」
「……お願い……この子を……」
「わかっている。だが、しっかりしなさい。まだ、まだ……早いっ……」

 ぼんやり立っているわたしの隣で、父様が膝を床について、わたしに触れていない母様の手を取り、自分の口元に引き寄せて懇願するように呟く。
 こんなに辛そうな父様、初めて見る。
 だから空いている手で父様の頬にわたしが触れると、父様ははっとしたようにわたしを見て、母様を見た。しばらく二人は見つめ合って、父様は深く息を吐くと再びわたしを見た。

「マリーベル。君の母様におやすみの挨拶をしなさい」
「……かあさま?」

 わたしが不思議そうに母様を見て言ったからだろう。
 父様がひどく痛まし気に顔を歪めた。
 たぶん、母親が瀕死なのをわかっていない幼い娘を思ってだろう。けれどその時のわたしは、もう母様のことが母様としてよくわからなくなっていた。
 とても大好きなきれいでやさしい母様、そのことはわたしの中に残ってはいたけれど。

「おやすみなさい、かあさま」

 どうして大好きなのか。
 この弱った人は母様だけれど母様はどんな人だったのか。
 わたしの中からすっかり抜け落ちてしまっていた。
 だからわたしの挨拶に、わたしと父様に微笑むように目を細めたきり。
 もう二度と目を開けなくなった母様を、わたしはただただぼんやりとオルガが子供部屋へ抱き上げて連れて行くまで見つめていた。
 
 しばらくして、わたしが母様のことをほとんど覚えていないことに気がついた父様は、母様が亡くなるその時に側にいたことがよくなかったのだろうとして、ユニ家でわたしに母様の話をする人はほとんどいなくなってしまった。
 そうしてわたしは、なにかちょっとしたことで思い出したほんのわずかなこと以外、母様との思い出から月日が経つごとにどんどん遠ざかっていく。

 母様とわたしの二人きり、“他にはなにもいない”ほんのわずかな思い出だけ。
 大人になって、ユニ領から王都に出て。
 王宮でルイと出会い、魔術や精霊と関わるようになるまで――。

 そう、全部思い出した。
 母様とわたしの思い出。
 お庭や窓辺や台所で楽しそうに遊ぶ、悪戯好きの小精霊達。
 そして。
 ジャンお爺さんのところで目を閉じれば現れる、長い淡い金色の髪がとても美しい地の精霊……その関係を母様から引き継ぐ言葉に頷いて、“加護”を受けてしまったこと。
 その力がわたしを通って流れていく感覚。

 静かな暗闇の中で、うっすらと目を開ける。
 まるで湖の底から見た水面みたい。
 少し上の方で、ゆらゆらと淡い銀色の光が揺れているのが見える。
 ふと左手が一人でに持ち上がった。
 薬指に嵌めている指輪に細い細い銀色の糸が一本だけ絡まって、ゆらゆらとゆれる銀色の光の水面にむかって伸びているのに気がついて、わたしはそのまま手を伸ばす。

 暗闇なのに、本当に水の中にいるみたい。
 わたしの動きに大小の銀色の泡が、光の水面へ向かって上っていく。
 ぽこぽこと上っていく泡といっしょに、わたしの体もゆっくりと浮上していった。


*****


「――マリーベル」

 青く沈む夜の暗さと淡い光。
 最初に目に映ったのは、わたしを見下ろす青みがかった灰色の眼差しと、白皙端麗な顔にかかって翳りを落としながら仄白く浮かぶ銀髪だった。

「ル……」

 彼の名前を言い終わるより先に、衣摺れの音が耳を塞ぐ。吐息が頬をかすめ、息が詰まる強さで引き寄せられてわたしは、彼の腕に縋り付いた。

「ルイ……っ……」

 彼の名を繰り返す口元が嗚咽に歪み、頬が熱く濡れていく。
 しゃくりあげて泣くのが止められない。
 どれくらい時間が経っているのがさっぱりわからなかったけれど、伝わってくる体温も、ローブの絹の手触りと微かにくゆるような香りも、ただただ懐かしい。
 まだ夢の中で不確かなものを抱きしめているようで、彼の腕を掴む手が、体が震えてしまう。
 ルイはなにも言わず、わたしが落ち着くのを待っていた。

「も……大丈夫……」

 しばらくしてルイの腕をそっと押して彼からわずかに身を離す。
 ようやく彼以外の周囲が視界に入り、そのあまりに現実離れした様子にほっと人心地つきかけたはずが再び不安に揺らいだ。
 目を覚ました場所は主寝室の寝台だと思うけれど、部屋の様子があまりに違っていて、現実のものと思えなかった。
 寝台を取り囲むきらきらと微かな光を散らしている紗幕のような銀色の糸、室内は白い薄絹が斜めに無数に掛かり、まるで布の森のようだ。

「ああ」

 驚きと、夢から覚めたと思ったけれどやっぱりまだ……と、戸惑いにわたしが目を見開いたのを見て、ルイは感情の読み取れない声で応じて、わたしの背の支えを左腕だけに預け直す。
 彼が空いた右手を軽く持ち上げ、指を鳴らせば、まるで透明な炎がゆらめくようにすべてが消えた。薄明かりの暗い青に沈む部屋の様子は見慣れたもので、わたしは息を吐く。
 しんと静かで真夜中のようだけど真っ暗ではない。月の明るい夜らしい。
  
「半月程眠っていました」
「それより、さっきの……」
「いつ起きるかも不明でしたから」

 わたしが眠っている間、衰弱しないための措置で大したものではないと言って、ルイは僅かに眉根を寄せて微笑むように目を細める。
 巨匠が彫った像のように整ったその表情が、なんだか一瞬ひどく辛そうに見えたのはわたしの目の錯覚だろうか。
 少しやつれた?
 わたしがどれほどの間眠っていたかよりも、間近に見るルイの顔が気になる。
 薄暗いからはっきりわからないけれど、たぶん顔色もあまり良くないような気がする。

「……本当に?」
「ええ。貴女はこんな時まで」
「ルイ」

 彼の頬に手を伸ばしたけれど触れる前に、ルイに寝台に横になるよう戻された。
 両腕を寝具の中へ、掛け布を整えてルイはわたしの側に斜めに腰掛ける。
  
「私はこのまま眠っていたらと、浅ましいことも考えたというのに」
「ルイ?」
「もう二、三日休むといいでしょう」

 わたしの視界を彼の手が優しく覆い隠す。
 ふわりと感じた温かみに、眠りを誘う魔術だとわかった。

「ル……」
「身体は大丈夫でも、精神こころは疲れているはずです」
「待っ……て……」
「貴女の心は貴女のものです。なにも変わりはしない……それで十分です」
「……る……、ぃ……」

 ――おやすみ。マリーベル。
 
 お願い待って、と言うことはできなかった。
 ルイの言う通り、記憶の夢に疲れ切っていて、穏やかに癒す眠りに意識を委ねた。
 深く、優しい、まるで繭の中に守られているような眠り――。

 次に目を覚ました時。
 わたしの予感通り、ルイは王都から姿を消していた。
 わたしが眠っている間に、なにもかもを決めて。

 精霊博士の資質は、いまや王国では失われつつある希少なものだ。
 精霊と交流し、彼らと取引をしてその力を借ることができる。
 魔力を代償に精霊の力を半ば強制的に利用する技法の魔術とは対極的な力。
 ただでさえ、その資質を持つ者は王家の管理下におかれるというのに。

 精霊の“加護”を得た者は、取引すら無用となる。
 四大精霊の一つ、地の精霊の“加護持ち”となったわたしが、王国の脅威と一部で懸念されている魔術師であるルイと一緒にいることは、到底、許容されることではなかった。


******


『人間達は面倒ね、なにかこそこそと“姫様”との結婚を白紙にする話を“ヴァンサンの子”としていたわ。そんなもの契約に関係ないのに』

 目が覚めたわたしを覗き込んでいたのは、ルイではなく蔓バラ姫だった。
 起きてすぐ、瞳のない目でじっと覗き込まれているのは心臓に悪い。思わずわあっと淑女らしからぬ叫び声をあげて、側につくことをルイに許されたマルテを驚かせてしまった。

 ルイに眠らされてから三日が過ぎていて、あの記憶の眠りから目覚めるまで、ルイは彼以外の誰も主寝室に近づけないようにしていたらしい。
 ぼろぼろ泣きながらわたしを気遣い、眠っている間の邸宅がどんなだったか教えてくれたマルテを宥めて、湯浴みと着替えをし、ごく薄い雑穀粥を作ってもらって食べた。
 ようやく落ち着いたところで、主寝室の窓辺で不満そうに待っていた蔓バラ姫の相手をしている。色々と気になることはあるけれど、精霊を怒らせるわけにもいかないから仕方ない。

 フォート家の守護精霊である蔓バラ姫のことはマルテも知っているけれど、彼女は蔓バラ姫を見ることも感知することもできない。
 お茶を淹れながら、本当に精霊とお話しができるのですねとマルテは呟いた。
 わたしの指示で、浴室の片付けにいまはこの場を離れている。

 一度目を覚まし、すぐまたルイに眠らされていた間。
 彼は、わたしが精霊博士の資質をもっていることを皆に伝えたらしい。
 またそのことで、王宮からいずれ正式に沙汰があり、それまでは謹慎同様に対応するよう指示してもいるようだった。
 
『それで? 姫様はどうするの?』
「どうもこうも……」

 まだ、きちんと起き上がったばかりで、マルテと蔓バラ姫から断片的に彼女達が見聞きした話を聞いただけ。
 ルイが一体どこまでどう対処しているのか正確な状況がよくわからない。
 それにルイ自身の考えも。 
 ふわふわと紅いドレスの裾を揺らめかせ、空中にしゃがんだ両膝に頬杖をついて浮かんでいる蔓バラ姫を見上げて、わたしは主寝室のテーブルにお茶のカップを置いた。
 
「それより、どうしてあなたがいたの?」
『まっ! 姫様が眠ったって聞いたからに決まっているじゃないの!』
「聞いたって?」
『グノーン様よ。だって私は姫様と縁があるものっ』

 どうしてそこで、胸元を開いた手で叩くようにして得意気になるだか……まあとにかく彼女は、わたしが眠ったことを知って様子を見に来ようとしたらしい。

『なのに! なんなのっ!』 

 蔓バラ姫の腹立ちを表すように、結わずに下ろしている彼女の金色の髪が、天井に向かってぶわりと逆立つように流れる。

『あの! “精霊だろうが近づいたら絶対滅ぼす!”みたいなのは!』

 薄暗がりでも顔色が悪そうに見えたのは気のせいではなかった。
 半月もの間、わたしが衰弱しないよう主寝室全体を癒しの回復魔術で満たし、そんな護りを張り巡らせていたら疲弊して当然だ。
 マルテに聞けば、王宮とロタール領に出る以外、ルイはほとんど主寝室にこもっていて、食事は彼の私室に運ばせていた。時折、私室に入ってなにかしていたらしい。
 おそらくろくに休んでいなかった、とマルテの言葉に嘆息するほかなかった。 
 そうさせたのは、わたしなのだから。

『本当っ、“ヴァンサンの子”って執念深さがおかしいのよ。嫁は大変よね』
「……グノーンは? 見かけないけれど」
『あら、いくら姫様が“加護”を受けているからって、四大精霊が人間の前にそうそう姿を見せるはずないじゃない』

 すくっと宙に立ち上がって腕組みし、高飛車にそう見下ろした蔓バラ姫に、精霊のその人懐っこさと威丈高なところは、一体どこで切り替わるのかがさっぱりだと思う。

「ジャンお爺さんは、いつも近くにいたけれど?」
『それは人に紛れるお姿だもの』

 人間社会に紛れ込む姿ならいいのだろうか。
 よくわからないけれど、たしかに取り戻した記憶の中で母様の側にグノーンがいるところを見たことはない。わたしがあの美しい地の精霊の姿を見たのは、その化身であるジャンお爺さんのそばで目を閉じた時だけだ。

「精霊としての姿は見せないってこと?」
『女神にお仕えし、理を司るお役目があるの。人間に構っている暇なんてないわ』

 母娘おやこ揃って、構われているのだけど……。

「まあいいわ。心配してくれたのよね、ありがとう」
『なっ……いくら姫様だからって、“ヴァンサンの子の嫁”が調子に乗るのじゃないわっ! ちょっとどうなるかしらって思っただけよ。小さき者の時間を封じるなんて、儚い者の癖に!』

 あくまで精霊と比べての話だけれど、人間の時間は短い。
 その短い時間を紡いでいく、最初の土台になる部分の幼い時間を歪めてそれを無理矢理解き放つことは、結構危険なことであるらしい。

「……どういうこと?」
『ずっとそうだと思っていたことが知らない時間と共に覆されるんだからおかしくなっちゃうことだってあるし、変な糸を絡めたせいで元の糸ごとぐちゃぐちゃになることだって』

 ふわふわと浮かびながら、蔓バラ姫が恐ろしいことを口にする。

『それに人間ってすぐなにもかも忘れたり、都合の良いようにあったことを塗り替えてしまったりするじゃない? どうなるかなんてわからないわ』
「でもそれはグノーンだって困るのじゃ……」
『あら、どうして? どうなったって姫様が“愛し子”であることに変わりないわ』

 瞳のない暁色を湛える目でわたしを見て、本当に不思議そうに首を傾げる蔓バラ姫の無邪気な調子の言葉に背筋が寒くなる。
 地の精霊にとって、その“加護”を受けた精霊博士でさえあればいいのだ。
 そう、精霊は根本的に人間とは違う。
 わたしやルイが大事だと考えていることを、彼らも大事だと思ってくれているとは限らない。

 ――閉じられていたすべてが収まるまで眠るといい……。
 
 眠りに落ちる前に聞いた、グノーンの言葉は言葉通り。
 母様によって封じられていたすべてが戻りさえすればいいといった意味だった。

『私達と楽しく過ごすだけの姫様というのもいいけれど……でも“ヴァンサンの子の嫁”じゃない姫様はちょっと寂しい気がするもの』

 わたしからすれば、憤りたくなるほど勝手に聞こえる。
 蔓バラ姫の言葉を聞きながらわたしは、目まぐるしい、濁流のような記憶に飲み込まれては作り替えられそうになる意識の中、ルイがわたしを捕まえてくれていたことにほっとしたことを思い出す。
 
『だって、他の子達にはない、私との繋がりを忘れてしまうってことでしょう。そうね、“ヴァンサンの子”にしてはなかなかよくやったわ。時の女神に紡ぎ糸を捧げて姫様を縛りつけておくなんて』
「え……?」
『その指輪。婚姻の誓約に時の女神の“祝福”がかかっているもの。そりゃそうよね、ただの誓約にそんな代償、いくら女神でも流石に取り過ぎって思うもの』

 この指輪に……?
 
 左手の薬指に嵌っている金の結婚指輪を目の高さまで持ち上げて、しげしげとわたしは眺める。たしかにわたしの目の前で、ルイはこの指輪を二度目の求婚の誓いの証としたけれど。

「ルイは、祝福がかかっているなんて一言も……」
『知らないんじゃない?』
「まさか、そんな……」
『だってあの人、こちら側の気配はさっぱりだもの。魔術の補助でかろうじて。守護精霊として長年縁を持つ私のことだって、姫様と同じ扱いにわざわざしてあげなきゃ、はっきり見えもしないのよ』

 そういえば、そうだ。
 精霊絡みは感知しにくいって、ルイの口から何度か聞いた覚えがある。
 精霊の“祝福”も、シモンのように明らかに人にはない力ならともかく、そうでなければ気が付くのは難しいようなことも。
 精霊がそうなら神々についてもそうなのかも。
 いまのわたしの目で見ても、なにも変わったところのないただの指輪にしかみえないもの。

『その指輪で契約したってくらいじゃないかしら。あの子が姫様の中に仕込んだ“加護の術”みたいなものが現れるわけでもなし』

 蔓バラ姫の言う通り、ルイにはわからないものかもしれない。
 ルイは他の追従を許さない魔術師だけれど、万能じゃない。

『でも勘は鋭いから……あの子』

 両手をひらひらと軽く振って肩をすくめた蔓バラ姫は床に降りて、私の正面の椅子に優雅な所作で腰掛けると、テーブルの上にお茶と一緒に用意されていた一口大の焼菓子を摘んだ。

『眠っている姫様の手に触れていたもの。それにしても本当に呆れるったら、水の癒しでこの部屋を満たすのはともかく、あれはないわよ』

 お皿の上の小さな焼菓子が次々となくなっていく。
 どうやらお気に召したらしい。
 話の対価を要求されたらこの焼菓子にしようと頭の片隅で考えながら、この部屋に張り巡らされた護りでわたしに近づけなかったことについて、またぷりぷり文句を言い出した蔓バラ姫を眺め、冷めかけたお茶を飲み干した。

『さて……結局、姫様は姫様のままのようだしもう行くわ。王都こっちは人間達が騒がしくてあまり居心地よくないもの』
 
 お皿の上の焼菓子がなくなって、ふわりとまた蔓バラ姫は浮かんだ。
 
「蔓バラ姫」
『なあに』
「ありがとう。ルイのことも心配していたのよね?」
『別に、守護精霊だものっ』

 ふんっと、そっぽを向くと同時に蔓バラ姫は姿を消した。
 きっと精霊の世界と人間の世界の間にある、精霊達の使う道へと入ってしまったのだろう。

 わたしはマルテを呼んで、シモンに来てもらうよう頼んだ。
 起き上がるにしても部屋で休むよう、たぶんルイの指示でそう勧めたマルテの言葉に従って過ごしていて、わたしがそうしていることは階下に伝わっている。
 いつまでたってもルイが姿を見せないのはおかしい。

「もう大丈夫とは旦那様から聞いてはいますが、本当に大丈夫なんですか?」

 眠っている間のことをわたしが労えば、尋ねてきたシモンに、ええと答える。
 
「大丈夫よ。ルイは? 王宮へ行っているの?」

 なるべくなんでもないようにルイのことを尋ねる。
 嫌な予感がしていた。
 わたしに呼ばれてやってきたシモンの様子も、どこかぎこちなさがある。
 
「いいえ……」
「ならどこへ? ロタール?」
「ええ、まあ」
「だったら、わたくしもいまからあちらへ参ります。ルイと話したいこともあるし……“扉”を開けてくれるかしら」
「……」

 俯いて黙ってしまったシモンに、なにかおかしいと流石に気がついた。
 こういった時は過保護なルイのことだ。
 ルイが留守にしている間、わたしが部屋や屋敷から出ないようにと言われているのかと思った。
 けれどわたしが想像したよりも、状況はもっと深刻だった。

「無理です……申し訳ありません」
「ルイに言われてるのね」
「いえ、そうじゃなく……」
「シモン?」 
「その、奥様のことむちゃくちゃ大事な旦那様なんで、流石に思うところがあるのじゃないかとオレも思うんです」

 どういうこと、とわたしは眉を顰める。
 シモンの言葉は、単にわたしを大人しくさせておくといった感じではない。
 
「ルイはどうしたの?」
「旦那様は昨晩、ロタールの屋敷に。オドレイさんも……それで……」
「それで?」
邸宅こっち側から“扉”が開かないように、オレも使用できなくなりました」
「え……?」
「旦那様から、王宮の沙汰があればできる限りのことはするから、奥様はすべてが片付くまで邸宅でゆっくり静養するよう……っ、奥様!」

 気がついたら。
 立ち上がって部屋を飛び出し、ドレスの裾をたくし上げるように持ち上げて廊下は早足に、階段は駆け下りて、ロタールの屋敷につながる“扉”へと向かっていた。
 “扉”はわたしでは開けられない。
 邸宅で開けられるのは、ルイとオドレイとシモンだけ。
 わたし一人で行っても仕方がないし、まして壁に取り付けられている“扉”を開けようとドアに手をかけても無駄なこともわかっている。

 わかっているけど……。

「奥様!」
「奥様……っ」

 追いかけてきたシモンとマルテが口々にわたしを呼び掛けながら、まったく動かない扉を開けようとしているわたしの腕を両側から押さえるように止める。

「離して! でなければ開けて!」
「本当に、無理なんですっ!」
「だったら、あなた達は!? どうするの!?」

 間も無く社交の季節は終わる。
 彼らは邸宅に残されて、ルイはロタールから行き来するのだろうか。
 なんとなく、そんな感じには思えなかった。

「……わかりません。けどたぶん王家の指示通りしたあと、戻される気がします」
「シモン……」

 答えたシモンを気遣い、マルテが彼に寄り添う。
 わたしは気を落ち着かせようと、大きく息を吸って吐き出した。
 シモンやマルテに当たっても彼らが辛いだけだ。

「ごめんなさい……」
「いえ、目が覚めて旦那様いなくてこんなの……当然ですよ……っ」

 若干憤り気味のシモンの言葉に、ルイとわたしの間のことで彼らが気を揉むことではないのに、巻き込んでしまっていると申し訳なくなった。
 シモンがこんなにしょげた様子でいるのも初めて見た。
 それにさっきはルイを庇うようなことを言っていたから、彼が気遣うほど気がかりな様子でいたのだろう。
 ふと。
 目が覚めて、ルイの様子が心配に思えたわたしが彼の頬に触れようとして、それを避けるみたいに寝台に戻されたことを思い出す。
 母様の綴じ紐が解けた時、グノーンはルイにこう言った。

『人の綴じ糸に干渉できる“人の子の王”にして、全てを含む我らの力で揺さぶれる“ヴァンサンの子”』

 ルイは、過去にフォート家の“祝福”によって、自分の存在が家族やかつてのフォート家を壊し、魔術院ではジョフロワを破滅させ、戦場で多くの人々を狂わせたと思っている節がある。
 フォート家と関わりのある、地の精霊グノーンにあんなことを言われたら、彼のせいでわたしがこうなったときっと考える。

「奥様……?」

 急に黙り込んで扉を凝視するわたしを心配してだろう。
 マルテの伺いに、わたしはゆるりと首を横に振った。

 とにかくルイと会って話したい……話さないと、そう思うけれど。
 きっと……ルイはわたしと会うつもりでいない。
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