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挿話

123.5 眠りの間に(2)

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 なにが起こっているのかよくわからないけど、絶対やばいと思う。
 王都にあるフォート家の邸宅。
 その三階の廊下から、主寝室の扉を少し離れて見つめてながらオレは思わず顔を顰めた。

「一体、なにが起きたんだ……」

 あの日――大聖堂へ昼前に出かけるまでフォート家は平和だった。
 前日、奥様が大聖堂の調査中に倒れるなんてこともあるにはあったけれど、翌朝にはすっかり回復されて元気になっていたし。
 どちらかといえば奥様を休ませた後、いつもの変人魔術師ぶりを発揮して無茶した旦那様のが問題だったくらいだ。でもって、ゆっくり寝かせておくようにオレ達に指示した奥様に大人気なく拗ねて、いつものいちゃついてんだかなんだかよくわからない夫婦喧嘩なんかしていて……。
 それなのに。

 午後、旦那様の私室に入って、そこに置いてあるものには触らないように軽く埃を風を使って集めて――奥様のおかげでオレはいまやすっかり、つむじ風の精霊とやらに与えられた小さく風を操る力を使った掃除の第一人者になっていると思う――ついでで締め切っている窓を少しばかり開いて換気もしたあと。
 旦那様の支度部屋でも整理するかと三階へ行きかけて、オレを叫ぶように呼ぶテレーズさんの声に、何事かと使用人用階段から声が聞こえた一階へ降りた。
 まだフォート家に来て間もないっていうのに、フェリシアンさんと堂々渡り合って邸宅を切り回しているテレーズさんが慌てるなんて余程のことだ。
 声がした方向へと彼女を探せば、玄関ロビーのところで開いた手紙のような紙をくしゃくしゃに握りしめておろおろと行ったり来たり歩いている、赤い髪を結い上げた姿を見つけていよいよただならぬ様子に声を掛ける。

『どうしたんですっ?』
『応接間を秋向けに調えていたら、突然、銀色に光る紙の鳥が飛び込んで床に落ちて……』
『紙の鳥って……まさか、“紙鳩”!?』
 
 旦那様の魔術の一つで、緊急通信用の魔術だ。
 フォート家の人間にしか見えないし受け取れない、めったに目にすることもない。
 オレだって一度しか見たことがない。
 
 領内の魔獣討伐に出て、一緒に行ったオドレイのねえさんが討伐中に竜の血の力が暴走する発作起こし、洒落にならない大怪我した時だけだ。
 姐さんは竜の血の力があるせいか、回復魔術との相性が最悪でほとんど効かない。
 小さな怪我なら普通の人より少し治りは早いが、その程度の回復力なので大怪我した時はやばい。
 だからフェリシアンさん経由で東部騎士団への救援要請の指示だった。
 馬車で五日はかかる離れた森の中、近くにある集落は小さな村だけ。
 大怪我した姐さん抱えてじゃ、旦那様だってどうしようもない。
 最強の魔術師っていっても万能じゃないんだなって、知った出来事でもあった。 
 つまりこれがフォート家に飛び込んでくるのは、旦那様でもやばい状況ということである。

『拾い上げたら折り畳んだ中に旦那様の字が……なんなんですか、これはっ』
『なにって、とりあえず滅茶苦茶やばいって知らせですよっ!』
『奥様がまたお倒れになったって……』
『見せてっ』

 紙の鳥がものすごい速さで壁や窓や部屋をすり抜けて飛び込んでくるのだ、初めて見た時はびっくりするし、そこに旦那様の走り書きなんてあったら気が動転したって仕方ない。
 それに、使者ではない時点で非常事態だとわからないテレーズさんじゃない。
 ほとんど引ったくる勢いで、テレーズさんから紙を取り上げて中身を読む。
 相当焦っていたのか、書き殴ったような字で指示だけが書かれていた。
  
 大聖堂で奥様が倒れたから直ちにオレに迎えにこさせること。
 ただし、普段通りの様子で。
 人を案内に向かわせるから、それに従い使用人らしく・・・・・・余計なことは一切喋らないこと。
 旦那様の支度部屋からローブを持ってくること。

『大聖堂からの使者でなく、こんな知らせ方をするなんて。大丈夫でしょうか』
『旦那様がいて、迎えにこいって書いてあるし、無事は無事なんでしょうけど……』

 最後の指示が、ものすごく嫌な予感がする。
 旦那様がまとう魔術師なローブは、ああ見えて特別仕様だ。
 洗濯や破れたりした時の替えで似たようなものを数枚持っていて、単に上等の絹地をたっぷり使った高級品ってだけじゃない。
 染料は旦那様が選別した魔術に適した染料を使っていて、少しずつ意匠を変えて刺してある縁を飾る刺繍は、旦那様が考えた魔術的な図案でそれだけでお守りのような効果があったりする。
 さらに納品された時に旦那様の手で他者からの攻撃をある程度無効化する魔術付与までされた、ほとんど魔術具といってもいい一品……その手入れには細かい注意を受け、他言無用とも命じられている。
 
 旦那様がぼろぼろんなってるってことか?
 大聖堂みたいなとこで、やばすぎないかそれ?
 大体、“紙鳩”で知らせてくるって、聖職者を敵にでも回したんかよ……いやでも、だったら悠長に普通に迎えに来いなんて指示はないよな?
 それに案内に人を向かわせるってことは、大聖堂側は通常通りってことか……。

『指示通り、迎えにいくしかないですね。戻るまで知らせるのはフェリシアンさんだけにしておいた方がいいかも。しっかりしてくださいよ。テレーズさんがそんなじゃマルテの奴が不安がりますから、落ち着いて』
『え、ええ……そうね。ごめんなさい、シモン』
『まーオレ、育ち悪くてやばそうなことなら慣れてるんで……姐さんほどじゃないけど』
『オドレイさんはロタールに行っているから。あなたがいて助かったわ』
『また? 最近多くないですか?』

 なんつーか、本当に嫌な予感しかしないんですけど。
 姐さん、最近こそこそ調査っぽいことしてる雰囲気だし。
 あの人が旦那様の側にいないで動くのって、大抵、危険案件だし。

 馬を大急ぎで走らせたいところをぐっと抑えて大聖堂へ行けば、旦那様の言う通りに下っ端ぽい聖職者の人が待ち構えていた。
 馬車にあるはずの替えのローブを持ってくるように仰っていましたと伝えられ、あーそういうことにしてんのか、いつもながら嘘にならない嘘の言い回しがうまいことでと思いながら持ってきたローブを抱えて、案内されるまま城みたいな建物の中の一室に通される。
 そこには、意識を失って寝台に横になっている奥様と――。
 以前の・・・、旦那様がいた。

『ローブを』
『……はい』

 説明もなにもなく命じられるまま旦那様にローブを手渡せば、横になっている奥様の体をローブに包んで、旦那様は奥様を横抱きに持ち上げる。

『帰ります。司祭長には挨拶済です』 
『かしこまりました』

 なにがあったのか、とても尋ねられるような様子じゃない。
 黙ってオレが案内されてきた順路を来た時とは逆向きに歩いて、旦那様は奥様と馬車に乗り込む。
 邸宅に戻って、ずっと玄関ホールで待っていたらしいテレーズさんにすら一言もなく、主寝室へ入った旦那様は日が暮れて閉門の鐘が鳴って半刻ほど過ぎるまで出てこなかった。
 テレーズさんが呼びにいっても、部屋に入らないようにと返ってくるだけ。せめて様子をと扉を開けようとしてもまったく動かなかったらしい。
 鍵をかけた感じとは違っていたとテレーズさんは言って、酷く心配そうな顔をした。
 夜が更けてようやく姿を見せた旦那様は、邸宅付きの使用人を一階のサロンに集めた。
 集めたといっても、テレーズさんとオレとマルテだけだけれど。
 ベルトラン様はモンフォールの分家として男爵位を得る手続きに入り、大聖堂に大金を渡しに行った日の翌日に、フォート家の臨時雇いの護衛騎士を解雇されている。 

『マリーベルはしばらく眠るでしょう。彼女が目を覚ますまで、誰も主寝室には近づかないように』
『え、でも……』

 奥様のお世話は……と言いかけてマルテは、彼女を見下ろした旦那様に気圧されてびくっと身を縮ませて黙った。別に旦那様が睨んだわけでも厳しい顔をしたわけでもない。表情だけなら、むしろ穏やかな主人といった様子だ。
 そうだ……元々、こういった人だったと、オレはなんとなくトゥルーズで旦那様に拾われた時のことを思い出す。
 旦那様の財布をスって、姐さんに追われて地面に組み伏せられたオレに静かにゆったりした足取りで近づいて、優雅な様子で淡々と話しかけてきたお貴族様。
 それに加えて、まるで死にそうに蒼白な顔色をしていて、奥様がよくいう眉間のあたりに明らかに疲労の影があった。恐ろしいくらい整った美貌だから、それで穏やかな表情をされても鬼気迫る妙な迫力がある。
 はっきりいって怖い。
 むしろマルテが反論しかけたのが不思議なくらいだ。マルテはしっかり者で意志も強い性格ではあるけれど、それほど気は強い方じゃない。

 とりあえず、旦那様は無事と見てよさそうだけど……。
 奥様も怪我をしている様子ではなかったし、ただ眠っているだけ。
 けど、これは無事っていえるのか?
 なにかが。
 そう、出かける前はたしかにこの家にあった、なにか、すごく大事なものが壊れかけているような気がする。
 
『あの、お聞きしても?』
『なんです、シモン』
『しばらく眠るって、どれくらいで目を覚ますのでしょうか』
『わかりません』

 え……っ、と声を漏らしたのはオレだけではなかった。
 オレの隣で、テレーズさんが両手で口元を押さえ、一体なにが……と呟く。
 それはこの場にいる、旦那様以外の誰もが思っていることだった。

『詳しいことはいまは言えません。より正確には、彼女が目覚めるまでなにが起きたかわからない。ですから外に漏らさぬよう』

 いや、外に漏らさぬようって……。

『無理でしょう、そんなの!』

 奥様は公爵夫人だ。社交もあれば、王宮から王妃陛下の用や偉い女官の相談事なども舞い込んでくる。

『どうしても人に答えねばならないなら、療養しているとだけ言えばいい。王宮や貴族との付き合いなら私が止める。明日明後日にも起きるかもしれないし、ひと月やふた月……何年もこのままかもしれない』
『なっ!?』
『主寝室には、彼女が衰弱せず眠っていられるよう護りをかけています。近づくことは禁じる。誰も、何人たりとも彼女の眠りを妨げることは許さない――話は以上、今夜はもう下がって結構』
『いや、でも……旦……』

 どうしてこんな事になったのかも言わず、一方的に話を切り上げて、旦那様は困惑したオレの言葉もまるで聞こえていない様子でサロンから去っていった。
 翌朝、姐さんがロタールから戻ってきた。
 彼女がいない間のことを伝えようとしたら、知っていますと無表情に言われた。
 もともと表情に乏しい人だけれど固い顔で、姐さんも動揺しているのだと思った。
 ロタールの屋敷にも、旦那様から同じ話があったらしい。
 ただ、オレ達に知らされている以上のことを、姐さんは知らされているような気がした。
 旦那様に命じられた姐さんが口を割ることは絶対にない。たとえ騎士団の奴らに捕まって尋問されたって黙っているだろう。姐さんは元共和国の傭兵で、少女の頃から拷問みたいな酷い目に何度も遭って生き延びてきた人だ。
 姐さんが知ってるってことは、たぶんフェリシアンさんや奥様の実父であるジュリアン様もきっと知らされているに違いない。
 オレはまだ、フォート家の使用人としてそこまでには至っていないということだ。
 もっともテレーズさんだって知らされていないから、旦那様がなにか用心してだろうくらいはわかっている。
 
「くっ……そっ……!」

 あの日から、フォート家はまるで火が消えたような寂しさだ。
 静かで、淡々と一日が過ぎていく。  
 いま思えば、いつも呆れながら二人を見ていたあの時間が懐かしい。
 そんなゆるゆると愉快な時間は、奥様がフォート家に嫁いでくるまでなかったものだったと思い出す。
 きっと、オレだけじゃない。
 その頃を知る使用人なら全員、もしかすると、その頃はまだトゥルーズの街にいたテレーズさんやマルテだってそうかもしれない。
 奥様と結婚する前の旦那様は、物腰し柔らかな領主様ではあったけれど、間違いなく近寄り難いお貴族様だった。
 旦那様は、時折、姐さんを連れて外に出かけ、邸宅にいる間はほぼ主寝室に入って奥様の側にいる。
 食事は私室に運ぶように指示されていた。時折降りて、食事をとってなにかしてはいるらしい。
 
「シモン」
 
 不意に背後から聞こえた声に振り返れば、姐さんが隙のない身のこなしで姿勢良く立っていた。
 
「姐……オドレイさん」
「主寝室に近づかないよう、旦那様は仰っていたはずですが?」
「相変わらず、旦那様に馬鹿忠実ですよね……旦那様の支度部屋に用があって通りかかっただけですよ。通りかかったら気になるでしょ」

 へらりと両手をあげて首の後ろに組んで、姐さんに近づく。
 どうしても気になる。
 
「いま、どーなってんですかあの部屋」
「……」

 旦那様はロタールの屋敷へ行って留守だ。
 ちらりと黙っている姐さんの作り物じみた、旦那様並みに綺麗な横顔を盗み見る。
 顎先の長さに切り揃えられた真っ直ぐな黒髪が、さらりと音を立てるように褐色の滑らかな頬を隠す。その髪を、耳の後ろへと掛けてよける指先の静かな動作や、長い睫毛を伏せた眼差しに一瞬目を奪われかけて、視線の先が主寝室の扉にあるのにオレは思わず軽く笑んでしまった。

 愛想はないけど、やっぱり姐さんだって気になってるじゃないか。
 
「姐さんの“眼”なら、どんな様子かちょこーっと見えたりしません?」
「シモン……」

 ため息をついてオレをたしなめた姐さんだったが、その横顔も視線も少しも動いてはいない。
 変わったよなあと思う。
 以前の姐さんなら問答無用でオレを引きずって、階下へ連れていっただろうに。

「気になってんでしょ」
「旦那様の言いつけです」
「はいはい。近づくな、奥様が眠っているのを邪魔するな……でしたよね?」

 ぴくりと姐さんが目を僅かに見開く。 
 黒い瞳の輪郭にうっすらとした赤が滲んでいるのを見て、オレは内心ほくそ笑む。
 オレはいまも昔も小狡い性根は変わらない。
 見るな、とは言われていない。堅く閉じた扉しか見えねーし。
 けど“竜の目”は、半端なく遠いところまで見通せたり、透かしみたりも出来るらしい。
 
「シモン」
「わかりましたよ。仕事もあるし下に行きますって」
「馬の手入れを、手伝ってください」

 主寝室の中は、まるで幾重にも掛けて垂らした薄絹の森の中らしい。
 その一枚一枚が旦那様の魔術によって作られた薄膜で、それらをすべて退けた奥、奥様が眠る寝台の周りは蜘蛛の糸のごとく細い銀色の無数の糸がぐるりと紗幕のように取り囲んでいるそうな。

「てか、しっかり視てるじゃないですか」
「あなたがあのような不埒なことを言うから、ほんの一刹那だけ見てしまっただけです」
「不埒って……」

 馬の背をブラシで撫でながら大袈裟なとオレが呆れれば、姐さんは真顔でオレの顔を見ながらため息を吐いて水桶を取り替えた。冗談でも言い間違えでもなく本気で言ってる。

「昔……あれと似た力の光を戦場で見たことがあります」
「へ?」
「争いの騒ぎと、血の匂いと、私の“竜の血の力”に引き寄せられて暴れ狂った竜数体を一瞬で骨も残さず消し去りました」
「まじかっ!?」

 ――誰も、何人たりとも彼女の眠りを妨げることは許さない。

「竜をってことは精霊も……ですよねえ」
「おそらくは。近づくなと仰ったのは危険だからでしょう」
「奥様絡むと本当容赦ないっすね」
「シモン」
「だってその通りでしょう!?」 
「そうではなく……あなた何故、言葉遣いを直さないのですか。きちんと話すことは出来るでしょう」

 正直。
 姐さんのその質問は、仰け反って馬小屋の床に尻餅つきそうなくらい驚いた。
 どうしていまそんなといったのもあるけれど、自分は“人ではないなにか”と言って、実際、旦那様がそう命じさえすれば、一緒に馬の世話をしているオレのことも一瞬で始末しかねない姐さんであることをオレは知ってる。
 それくらい、姐さんの情緒とか、自分や他人への関心とか認識といったものはぶっ壊れている。
 奥様が来てからかなり人間ぽくなったとはいえ、基本的に姐さんは見た目と中身がものすごくちぐはぐだ。
 たまに言葉の意味がなにもわかっていない幼女かってくらいずれたこと言う時もあるし、どこか機械仕掛けの自動人形みたく旦那様に従う。そんな姐さんが、オレに向ける言葉とは到底思えない。

「どうしました?」
「や、その……なんでいま、そんなこと?」
「奥様に一度、あなたの態度を容認している理由を尋ねたことが」
「はあ?」
「使用人として目に余りましたので。私が咎めてもあなたは懲りないでしょう」

 やっ、荒くれ傭兵式の鉄拳制裁は結構懲りますけど……と言いかけて飲み込んだ。
 姐さんのことだ、そうですかと真に受けてそう思い込みかねない。

「それで……奥様なんて言ってたんです?」
「なにも。にっこり微笑まれて、お茶に誘われました」
「……」
「シモン?」
「ま、なんつーかオレが働いてるのは、労役刑の期間限定ですからね」
「刑期を終えても望めば、旦那様は雇い続けると思いますが?」
「そうでしょうけど……だからってトゥルーズの貧民街で育ったことを忘れて、公爵家の従僕でございって顔すんのはちょっと。居心地悪いんですよ」

 精霊が勝手に与えた“祝福”のせいで、生まれてすぐに親に捨てられ、ずっと“呪われている”と言われていた。
 風を薄い刃みたいにして、人の服を切って財布を掠め取り日銭を稼ぐか、喧嘩の際のこけおどしか。
 そんなことにしか使えないと思っていたオレの力を、手が届かない場所の埃を払うのに丁度よくて便利じゃないと気が抜けそうなこと言って、重宝がってくれたのは奥様だ。
 その後も、他に応用できそうなことはないかと、オレより真剣に考えてくれたり。
 普通、育ちのいいお嬢様なら、貧民街の小悪党ってだけで怖がったり追い出そうとしてもおかしくない。
 オレを拾った旦那様と結婚するだけあって、奥様はものすごく変わっている。
 馬の手入れに手を動かし、しゃっとしゃっとブラシの音を聞きながらそんなことを考えていたら、私はあなたの比ではありませんと、屈んで飼葉を餌入れに追加しながら姐さんがぽつりと呟いた。

「でも奥様は知らないんですよね、昔のこと」
「気にはなってはいらっしゃる様子でしたが、お伝えしようとしたら断られました。旦那様の護衛でいるのはきっと過去もあってのことだろうと。いまの私の働きぶりで十分だと仰って」
「……懐広すぎっていうか、奥様って変わってますよね」
「さあ、わかりませんが……旦那様には奥様がよいと思います」

 ぶるっと、鼻を鳴らした馬に、どうどうっと宥めながら首元を撫でてやる。
 立ち上がった姐さんに、同感だとオレは答えた。

「あの方がいらっしゃらないと、また困った旦那様になるような気がします」

 二十半ばくらいの歳に見える姐さんだけれど、魚の精霊の血を引く先祖返りなフェリシアンさんと同じく若く見えるだけで本当は三十三だ。
 旦那様とは数歳しか違わず、フォート家の使用人として付き合いは二十年になる。
 姐さんなりになにか思うところもあるのだろう。

「まーほら、オレらは“フォート家の使用人として堂々と仕える”だけですよ」

 どこか遠い目をしている姐さんに、毛並みを整えて艶々した馬の背を撫でながらオレはそう言った。

 それだけだ。
 眠っている奥様にも、明らかに様子がおかしい旦那様にも、使用人のオレ達が出来ることはそれしかない。

「でしょ?」
「ええ」

 オレ達や旦那様のあらゆることに気を回す、奥様が目を覚ましいつも通りだと思ってもらえるように。
 刑期が明けても、奥様にならちょっとくらい仕えてもいいかなと思っているオレとしては、それくらいは出来る使用人でありたかった。
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