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第三部 王都の社交

100.小さな演奏会

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 本当、ヴェルレーヌがいてよかった。
 彼女の特別講義を思い出しながら、鍵盤に指を置いて息を吐く。

『マリーベル様は間違いなく、王妃派の弱点として攻められるはずです』
『弱点?』

 ヴェルレーヌによる特別講義は、器楽と舞踏と礼儀作法に、ルイと王宮の関わり、そして――。

『元平民ということで貴族の嗜みで貶めようとしてくるはずです。マリーベル様だけでなく、マリーベル様に目をかけている王妃陛下に恥をかかせるために』
『そんなっ! わたしの貴族の嗜みなんて付け焼き刃なのにっ』
『簡単に取り乱さないでくださいまし。こういったのは最初にがつんとやっておけば、大したことにはなりません』

 元平民と侮っているからこそ、なおさら。
 そう言って。
 ヴェルレーヌは実にルイの魔王の笑みを思わせる、微笑みを浮かべた。
 
『肝心なことはただ一つ。相手の思惑に乗らず、相手の思惑通りの手段で乗り切ることです』
『どういうこと?』
『つまり相手の考える筋書きや規定ルールに付き合う必要はないということです』

 そう――ただの演奏の巧拙でいったら、ポーリーヌ嬢の後では分が悪い。
 けれど、わざわざそれに付き合ってあげる必要はない。

「夏を司る乙女、夏の女神アウテーローザに仕えし、火の精霊ヴォルカーネの加護の輝きに満ちる王宮の庭園に敬意と感謝を――!」

 わたしは深く息を吸い、なるべく厳かな調子を心がけつつ口上の声を張る。

「美しく茂る緑は実りを約束するもの、地の精霊グノーンを讃えて……」

 それにわたしは魔術師の妻で、冬生まれですから。
 どうか、地の精霊の御加護を。
 これで意地の悪い方々の意地の悪さが収まって、王妃様もルイの評判も守られますように。

 鍵盤に乗せた指を動かす。
 正直、演奏に自信はないし、あんな口上恥ずかしい限りだけれど、こういったことは思い切りと芝居っ気が大事だ。
 ルイに渡された課題曲。
 地の精霊を讃える曲に乗せて、丸暗記の歌詞を歌う。

 王族や貴族にしかなれない高位な文官、好事家ならわかるはずと、ヴェルレーヌの書いた歌詞は聖堂の経典を記すのに使われる言語に直したもの。
 ルイが魔術で口にする古い言葉は、流石のヴェルレーヌも難しく、似て異なるものであるらしい。

「まさかそんな……」

 弾き始めのどよめきの中で聞こえてきたのは、フォワ公爵夫人とポーリーヌ嬢のどちらだろう。
 
 “おい、これは……”
 “流石にフォート家に入るだけはあるということか”
 
 丸暗記なのですけどね。

 “歌いながら弾くのって難しいのですよね……”
 “わたくしは出来ません”
 “わたくしも、子供の頃から器楽は苦手で”
  
 そういえば……器楽って必須教養ではあるものの皆が皆得意なわけではないのよね。
 最初にがつんって、もしかして、これってやり過ぎなのではないのヴェルレーヌ?

「――まったく、王妃の側で揉め事と聞いてロベール王と来てみれば」

 人のざわめきとクラヴィサンの音色の中で、どうしてその声だけはっきり聞こえたのかはわからない。
 人の言葉や音に惑わされないよう閉じ気味だった目を開いて、舞台から声の方向へと視線だけを向ければ銀色の艶を見せる髪を束ねた彼の姿があった。
 
「――ルイ」
 
 人だかりが割れて、王様とルイが舞台の前まで近づいてくる。
 王様はわたしに続けろと手で示し、王妃様の側へ寄ると、そのすぐ近くでわたしに詰め寄ったフォワ公爵夫人率いる女公派の女性達と、ポーリーヌ様とそのお友達のご令嬢の集まりに気がついて、“王妃の側で揉め事”について察したらしく、ははっと笑い声を立てた。

「これは文句言えんな」
「陛下……」
「相変わらず人をすぐに睨む、ダルブレの……」
「睨んでなどおりません」
「貴方、二日続けていらしたの珍しいこと」
「妻がいますからね。しかし、こんな隠し芸をいつ仕込んだのだか」
「隠し芸って、ルイ……マリーベルは」
「ええ。ご婦人方の諍いにまったく興味はありませんが、王妃……」

 彼女の夫として多少助力しましょう。

「助力?」
「んぅ?」
「地の精霊は“冬”の女神に仕えし精霊――」

 きらりとなにか光るものが目に映った。
 小さな、粒のような光がきらきらと演奏するわたしや広場に集まっていた人々の上に降ってくる。
 不意に粒の一つが頬に落ちる、冷たい。

「まあ、氷の粒!」
「地の精霊が仕えし、冬の女神ケイモーヌの象徴は“雪”ですものね。気障なこと」
「なんとでも、冠無き女王」

 夏の、緑輝く庭に祝福の光のようにきらきらと降ってくる“雪”。
 これはもう、完全に人の注意は演奏の巧拙ではなくなる。
 なんとか一曲、大きな躓きもなく弾き切って王妃様の側に戻る頃には、ルイの降らせた“雪”も、公妃派の方々やポーリーヌ嬢達の姿も消えていた。

「まったく、人に演奏を強いておきながらいなくなるなんて無礼な人達っ」
「ソフィー様、構いませんから。むしろ面倒がないではないですか」
「マリーベル様は甘過ぎますっ!」

 わたしの代わりに、かんかんに怒っているソフィー様を宥めてから、王様の姿にいけないと慌てて淑女の礼を取る。
 この場は内輪の集まりではない、公の場だ。

「陛下、大変、聞き苦しい拙い演奏を――」
「たしかに、巧みとまではいかんな」

 そりゃそうだ。
 王様こそ、クラヴィサンの名手。
 楽師長様が叶うなら共演したいと、零す人なのだから。
 時折、ご家族で室内楽を楽しまれる時に侍女として控えていたけれど、五十迎えてなお雄々しく精悍な武官からも支持の高いその容貌とは逆に、とても繊細で素敵な演奏をされる人だったりする。

「……なに、ロベール王に心持ちうっとりしているのですか?」
「両陛下と王女殿下や王子殿下の方々の演奏を思い出して……素敵なのですよ」
「知っていますよ上手いことは。つい最近、散々付き合わされもしましたし」
「なんですって」

 ぼやくようなルイの呟きに反応して、カトリーヌ様の帽子の羽飾りががくんと大きく揺れる。
 
「マリーベル様っ」
「はいっ」
「貴女、先ほどこの方のことなんて仰っていて?」
「え、あの……ルイのことですか」
「あのまるで女王気取りなレオノールに言い返した時に」

 女王気取りって……たしかにカトリーヌ様は女王様な出自ではあるから、気取りではないけれど。

「ええと、ルイのヴィオーレが素敵って話でしょうか?」
「それよ。あれは本当なの?」
「ええ、なんて言うのでしょう。天に真っ直ぐ届くような澄んだ音色なのですよ」
「……“公爵様”ではないの」

 もしやその公爵様は、本の公爵様……。
 薄々そうではないかしらと思ってはいたけれど、ルイをすっかり公爵様に重ねて楽しむことを一部の貴族女性に定着させたのはあなたですね……カトリーヌ様。

「ほう、“天に真っ直ぐ届くような澄んだ音色”」
「っ、マリーベル……ほめてくださるのは嬉しいですが、いまここでは」
「え、どうして?」

 ルイが公の場というのに明からさまに顔を顰めたのに首を傾げれば、そこまでこの我が妃の元侍女に言わせるかと、聞こえた王様の言葉になんとなくルイが顔を顰めるだけの面倒の気配を感じた。

「しかも我が妃の前で……ルイよ」
「ロベール王、大人気ないことを」
「はっ、先に嫉妬心を見せたのはそちらだろう」

 嫉妬心……?

「公の場で陛下たる者が大人気ないわ、あなた」
「いや、これは我が威信に関わるぞエレオノール。なにしろ日頃から対等を崩さぬフォート家の公爵だからな」

 そう呆れを滲ませた微笑みを浮かべている王妃様に言って、王様は何故かわたしを見て愉快そうに口元をつり上げる。

 一体、なに?

 それにわざわざ対等を崩さないなんて、こんな場で言わなくても……王様の言葉を聞いた周囲にいた貴族がなにかひそひそ言い合っている。王国の脅威としてのルイのことに違いない。
 それなのに、王様はまだわたしにやにやと目を細めた笑みを見せている。

「……ロベール王」
「いちいち仲睦まじさを人に見せつける、貴殿等夫婦の余興のお返しにたまには家臣に聞かせてやるのもいいだろう」

 あ、なるほど。

「ご自分だけで勝手にどうぞ、私は――」

 言いかけて。
 マリーベル……と、王様の考えがわかって期待を込めた眼差しでルイを見詰めるわたしに気がついて、彼は肩を落とした。

「陛下のお誘いを断るものでもないと思うの」
「単に、王妃に自分のが上手いと示したいだけですよ……この王は」
「でも、あなたのヴィオーレは素敵だもの」
「……ロベール王の戯れに加担する気ですか」
「加担もなにも、屋敷の庭であんな素敵な音色を響かせたのをここでも聴けるなら、聴きたいだけです」

 ここで、王様と息の合った演奏をする様子を見せて、その音色を聞かせれば。
 ルイが、ただ王家に対して尊大に、人付き合い悪く孤高を貫く油断ならない魔術師であるといった印象を緩める人も出てくるはず。

「元侍女ながら、我が妃の評判をああして守り切ったのには報いてやらんとな、ルイよ」
「ロベール王、妻をいいように使うというのなら……」
「ぶつくさ言わずに、来い」
 
 ――我が友。

 一足先に舞台へ。
 よく通る声でルイを促し、宮廷楽師に楽器を借りるぞとヴィオーレを持ってこさせる王様に、仕方がないとルイは折れた。
 
「あの人、ルイに甘いのよね……」

 王妃様がぽつりと小さく呟いたのに、そのようですねとわたしは心の中で応える。

 たった三曲で終わってしまったけれど。
 思いがけず行われた、国王陛下と偉大なる魔術師による小さな演奏会は、広場で起きたくだらない諍いの記憶など人々の頭からすっかり消し去って。

 その後、しばらく語られる王宮のお茶会での出来事として広場を大いに盛り上げた。
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