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挿話
97.5 ヴェルレーヌの特別授業・前編
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「……暇だわ」
邸宅のサロンから見える庭を眺めながらわたしは呟いた。
王都にいると思えないくらい、とても静かだ。
もっとも、暇で静かなのはわたしだけなのだけれど。
いま、ルイも使用人達も、父様はじめユニ家もとても忙しい。
父様の叙爵と、同時にロシュアンヌ領を賜ることになった知らせが正式に届き、父様はユニ領と王都を行ったり来たり。
“扉”があるからやれることだなと言いながら、ばたばたと慌ただしく動いている。
ユニ家では、執事のファビアンがロシュアンヌ領について、フェリシアンに協力してもらって下調べなどしているし、領内の説明にドルー家のお祖母様までがお出になっているから、元ドルー家の使用人だったオルガもお祖母様の細々した用事で忙しいようだ。
おまけに。
王家預りとは表向き。
現在、騎士団本部に身柄を拘束されているロシュアンヌ家嫡男アルベール様について、父様がユニ領の後継者になってもらうべく養子にすると決めたことで、王家と王宮の調整にルイが協力することになった。
父様に頼まれた、“反則的な根回し”のため、ルイは王宮にある彼の部屋にしばらく泊まりがけでその特権や立場を最大限に利用して事に当たっている。
フォート家の使用人達は、あと五日後に迫る王宮主催のお茶会の支度の準備に、ルイの補助で忙しい。
オドレイは王宮のルイについているし、いつもならわたしの側で控えているはずのマルテも、護衛騎士となったはずの坊っちゃまも、わたしのいるいまこの場にはいない。
マルテはロタールの屋敷からエンゾと共にやってきたリュシーと、お茶会でのわたしの装いのことで、ああでもないこうでもないと屋敷と邸宅にある衣装や装身具を検討し、衣装部屋で針仕事などしている。
坊っちゃまは、軍部から伝令があって昨日からいない。
なんでも王宮主催のお茶会での警備の手が足りないらしく、警備計画の説明や他との連携もあるからと、やはり王宮に詰めている。
「ようやくあるべき姿って奴ではないんですか?」
「暇過ぎるわ」
マルテと坊っちゃまの代わりでついてくれている、シモンの言葉にそう返せば、だからそういったのが本来の公爵夫人でしょうと肩をすくめられる。
シモンはかつてトゥルーズでスリであった頃に犯した罪を贖うため、フォート家で労役刑に服している扱いなので、王宮絡みの用事は頼めないから邸宅内を切り回しているテレーズを手伝っている。
オドレイとマルテが抜けているような邸宅で、わたしの側で控えている暇はないはずだからいいわよと言えば……家の中とはいえ女主人を一人放置なんて絶対有り得ないと、テレーズと一緒になって叱られてしまった。
自分のことは自分で出来るから、こんな時くらいいいのに。
「まじで、たまにはのんびりしてて下さいって」
「もう十分してる」
「半日、本読んだだけじゃないっすかっ!」
「なにか手伝うわ、掃除だけでも大変でしょ」
「公爵夫人に掃除なんてさせられませんよ……」
どうしてもと仰るなら、王宮からなにかしら頼まれてるのじゃなかったですか?
そうシモンが嘆息しながら言う。
とにかく家の中の仕事は、わたしにはさせない構えらしい。
わたしは家を守る奥方なのに。
「相談事の手紙は全て返答したし、女官長からの頼まれたことの段取りも整えたから、王宮のお茶会まで特にする事はないの」
「相変わらず、やばい仕事の早さっすね……」
「王宮勤めでは普通ですよ」
「本当ですかぁ? それ」
あからさまな疑問の声を上げたシモンに、なあにと答える。
ちょっぴり失礼だ。
「どうも……奥様というかユニ家の基準がおかしい気がするんですよね」
「おかしいって?」
「領主業とフォート家の法務顧問掛け持ちってだけでもなのに、法科院の仕事までお立場上受けている、ジュリアン様を見てると」
「父様がお忙しいのはいつものことだもの」
「いやだからですね……いえ、もういいです。むしろ俺のためにお菓子でも食べててくださいよ」
なんて。
もはや女主人に対する言葉ではないことを言うシモンに、目の前に用意されている午後のお茶の一揃えを眺めて肩をすくめる。
お茶会の準備できっと忙しい王妃様の手助けに、わたしも王宮へ行きたいところだけれど。
父様とルイがばたばたと立ち回っている時に、なにかと騒動と噂が絶えないとされているわたしが出向くのは、無用の面倒が生じそうで躊躇われる。
「それかお友達でも招いては? 王宮茶会でどうするかとかそういった相談しないんですか?」
「んん……それは……」
ソフィー様も元王族で大臣の妻と王宮には関わりの深い方だから、色々とご用がありそうだ。
わたしの頼み事も引き受けて下さったから、きっとお忙しいに違いない。
カトリーヌ様は、先日いらした時に、熱く語ってらした流行小説の装丁仲間の集まりやお付き合いがあるらしいこと言っていたし。
ああ、わたし……。
お二人が難しいとなると、お友達やお付き合いしてる方がまったくいないわ。
これって貴族夫人としてどうなの?
「よくないわよね……絶対よくない」
「奥様?」
王妃派夫人として、このままでは役立たずになってしまう。
折角仲良くなったお二人までも、いずれ呆れて離れてしまうかも。
「……これはお茶会でなんとかしないと」
「なに考えてます……奥様?」
「なにって、社交のことよ。シモン、カードとペンを」
だからですね、ちょっとくらいじっとしていませんか……と、ぼやきながらも言う通りに紙とペンを持ってきてくれたシモンにお礼を言って、カードへ用件を書き付け、わたしはそれをシモンに渡してフェリシアンへ届けるよう頼んだ。
「なにする気か、お聞きしても?」
「お茶会で失敗しないように、ヴェルレーヌに奥方教育のおさらいをお願いするだけです」
「……ってことは、ロタールのお屋敷へ?」
「ええ、どうせこちらでする事もないもの。ルイもしばらく王宮だし」
「数日王宮詰めで、帰宅して奥様いなかったら、恐ろしく不機嫌になると思いますよ」
「まさか」
でも、確かに黙って邸宅を離れるのもよくないわね。
そう考え直して、あとでテレーズにお使いに行ってもらうこともシモンに頼む。
「王宮の衛兵に言付ければ、ルイに伝わるでしょう」
「はあ……そういう問題じゃないと思いますけどね」
「なあに?」
「いえ、かしこまりました。奥様」
なんだか取ってつけたようなシモンの返事だったけれど、頼んだ事はしてくれるだろうから気にしないことにした。
閉門の鐘が鳴って、長い夏の日も沈む頃。
夕食の席に着く前に、ロタールの屋敷からフェリシアンがやってきて、ヴェルレーヌからの教材ですと紙の束を渡された。
「教材?」
「奥様のご要望通り、明日の夕方から始めます。つきましてはそちらを覚えてらしてください」
「えっ……?」
渡された紙の束を見れば、びっしりと貴族の情報が数枚に渡って書かれている。
「ジュリアン様が叙爵されるため、以前にお伝えしたことが役に立たないかもしれないと。そちらを押さえておけば、お茶会での社交にまず困らないそうです」
「えっと……」
「以前、旦那様がお渡しになった課題曲はいかがですか?」
「練習は、続けています」
「私は音楽は明るくありませんが、ヴァルレーヌが申すには、本来は歌もあるものだとか。一番最後の紙にその歌詞が」
「はあ……って、これっ」
手にした紙を送って、最後の一枚を確認すれば。
明らかに知らない言葉で書かれた歌詞が、読み方付きで記されている。
「あの、フェリシアン」
「はい、マリーベル様」
温厚な微笑み顔に、なにか押しの強さを感じる。
お茶会で困るようなことになりたくなければ、これも覚えてきてくださいってことですよね。
相変わらず、ヴェルレーヌの教育は容赦がない。
けれど、朝夕逆転生活を送っているヴェルレーヌに、わたしの要望が伝えられたのは夕方のはず。夜になるまでの短い間で、わたしのためにこれを急ぎ用意してくれたってことでもある。
「いえ……わかりました。急ぎ教材を用意してくれたヴェルレーヌにお礼を伝えてください」
「かしこまりました」
フェリシアンが屋敷に戻っていった後、わたしは届けられた教材を前に両拳を握ってよしっと気合いを入れる。
暇じゃなくなったみたいですね、といったシモンの声は無視した。
*****
翌日、わたしは午前中はリュシーやマルテと過ごし、王都の造園師に管理してもらっている邸宅の庭を見て勉強しているらしいエンゾと薬草の世話の話を少しして、テレーズに後を頼んで昼食後にロタールの屋敷に落ち着いた。
真っ先に向かったのは図書室。
ヴェルレーヌの歌詞は読み方が振ってあるだけで、意味がわからない。
とりあえず丸暗記はしたものの、なにを歌っているのかさっぱりだから調べようと思った。
他家の貴族のことを覚えるのは侍女の頃から仕事で慣れている。
いまは始まりの夜会で、大抵の人の顔と名前は一致させているから、こちらは比較的どうにかだけれど、器楽ばかりは……。
「どうして、歌おうとするとてんで弾けなくなっちゃうのかしら……」
ルイから課題曲を貰ったのは王都に立つ前だ。
邸宅に落ち着いてからはヴェルレーヌの教えを守って、なるべく日に一度はわずかな時間でも邸宅にあるクラヴィサンに触れるようにしていたから、たった二曲でも自分では結構弾けるようになったと思っていたのだけど。
弾きながら歌うって、こんなに難しいの!?
ただ弾くだけなら躓かずに弾ける曲が、歌おうとした途端、歌と、指と、頭で思い浮かべている音と、実際になっている音が、てんでばらばらになってしまって混乱してしまう。
これは、歌詞の言葉の意味がわからないこともあるのかもしれない。
そんな理由で来た図書室だけれど。
「……考えてみたら、手掛かりがないわ」
曲名はわからない。
歌詞の言葉自体もわからない。
それがなんの言語かもわからない。
「古い言葉だとは思うのだけど……」
歌詞の紙を両手で開いて、ヴェルレーヌの振ってくれた音で読んでみる。
「――ᛁᛂᛔᛂᚿᛋᛂàᛐᚮᛁ……あれ? ここって」
最近、似た響きを聞いたようなと思った時、カタンと窓枠が風に震えた音がして、ふわりと空気がそよいで手元の紙を揺れて朗読も中断、わたしは諦めて息を吐く。
「読んでもわからないものは、わからないわね」
夕方、ヴェルレーヌに聞こう。
二、三日はこちらにいるつもりでいるし、いまはまったく弾けないわけではないのだから、王都に出る前みたいにまた集中してやればなんとかできるはずだと、わたしはクラヴィサンの練習に音楽室へと足を向けた。
歌おうとしては弾けなくなり、歌はなしで二度ほど弾いてみて、また歌おうとして弾けなくなって……なんだかむきになって取り組んでいるうちに、すっかり時間が過ぎてしまったらしい。
「相変わらず、マリーベル様は練習熱心でございますね」
淑やかな声に、ヴェルレーヌゥううっ、とわたしは姿を現した彼女に泣きついた。
「どうなさいました?」
「歌おうとするとまったく弾けなくなってしまって……っ、あとなんの歌で曲なのこれっ!」
「言葉遣いが乱れております」
「……うっ」
ヴェルレーヌこそ、相変わらず課題が容赦ないし、厳しい。
「それにしても、なんの曲か知らないままお弾きになっていたのですか?」
「ええ」
わたしの言葉にちょっと驚いた顔を見せて、尋ねてきたヴェルレーヌに頷けば、課題だとお渡ししておいてまさかそんなこと……と、彼女はぼやいた。
「困った方でございますね。ご自分は知っているからといって……たしかにごくありふれた曲なのですけれど」
「そうなの?」
「ええ。地の精霊の讃える曲です。魔術師らしいというか、マリーべル様一途な公爵様らしい執着心の垣間見える選曲だと思っておりましたので、てっきりそのつもりかと」
「どういうこと?」
地の精霊は、叡智を司る精霊と魔術師達の間で特別視されているのは知っているけれど。
それ以外にもなにか?
「地の精霊は両性具有。ですが元は男女別々の精霊といったお話もあるのです。とても仲睦まじい精霊夫婦でしたが、片一方だけ、先に滅びの時がやってきてしまった――」
諦め切れなかったもう一方は、死の地へ向かおうとする相手を離さず、自らの身の内に取り込んで閉じ込めてしまう。
「そして、ついには切り離せない一体となってしまったのです。バラン東部の小集落で祀られている石板にある伝承だとか。あまり知られていないお話しではありますけれど、生と死を司ると言われているのはそんなところからなのかもしれませんね」
それはそれとして、両性具有というのが和合を連想させるのか、婚約や結婚、なにか契約を結んだお祝いでよく演奏されるといった、ヴェエルレーヌの説明だった。
「ヴェルレーヌは博識ですね。器楽も達者だし」
「生まれた時から、一日中、部屋に閉じこもって生活しておりましたもの。普通のご令嬢より少しばかり親しんでいる時間が長いというだけで、読書も器楽もただの趣味で楽しみです」
にっこりと淑女の微笑みでヴェルレーヌは謙遜したけれど、とても少しばかり親しんでいる時間が長いだけとは思えない。
そもそもルイが、わたしの教育係として一任したくらいだから余程だ。
そういえば、器楽もヴェエルレーヌを基準に考えてはおかしいようなこと言っていたもの。
流石にもう、わたしもヴェルレーヌをただの元男爵令嬢とは思っていない。
普通の御令嬢にしても、単なる教養を超えて守備範囲が広すぎる……。
なんて言ったらいいのかしら?
趣味人……いえ、好事家?
「ところで、歌詞を覚えてきてくださいとしか、お伝えしていなかったはずですが」
「歌詞は覚えました。弾きながら歌うを練習してみようと思ったのですが」
「それで、いきなり合わせてみたわけですね。無理なのは当たり前です」
「え?」
「まずは目を瞑ってでも演奏出来るくらい、指が覚えて弾けるところからですね。次に鼻歌を乗せながら演奏。歌はその後です」
め、目を瞑ってでも演奏出来るくらい!?
「大丈夫です。真面目で集中力がおありですもの。マリーベル様なら五日もあればきっと余裕ですよ」
やはりにっこりと淑女の笑みでそう言ったヴェルレーヌに、思わず頬を引き攣らせてしまう。
けれども、お茶会で起こり得ることをあれこれと考えてくれたヴェルレーヌは流石で、結果としてはとても助かった。
ヴェルレーヌ恐ろしい人……と、内心ちょっとだけ思ってしまったけれど。
とにかくその後、屋敷にいる間の日中、わたしはほぼ音楽室にこもりきりになった。
邸宅のサロンから見える庭を眺めながらわたしは呟いた。
王都にいると思えないくらい、とても静かだ。
もっとも、暇で静かなのはわたしだけなのだけれど。
いま、ルイも使用人達も、父様はじめユニ家もとても忙しい。
父様の叙爵と、同時にロシュアンヌ領を賜ることになった知らせが正式に届き、父様はユニ領と王都を行ったり来たり。
“扉”があるからやれることだなと言いながら、ばたばたと慌ただしく動いている。
ユニ家では、執事のファビアンがロシュアンヌ領について、フェリシアンに協力してもらって下調べなどしているし、領内の説明にドルー家のお祖母様までがお出になっているから、元ドルー家の使用人だったオルガもお祖母様の細々した用事で忙しいようだ。
おまけに。
王家預りとは表向き。
現在、騎士団本部に身柄を拘束されているロシュアンヌ家嫡男アルベール様について、父様がユニ領の後継者になってもらうべく養子にすると決めたことで、王家と王宮の調整にルイが協力することになった。
父様に頼まれた、“反則的な根回し”のため、ルイは王宮にある彼の部屋にしばらく泊まりがけでその特権や立場を最大限に利用して事に当たっている。
フォート家の使用人達は、あと五日後に迫る王宮主催のお茶会の支度の準備に、ルイの補助で忙しい。
オドレイは王宮のルイについているし、いつもならわたしの側で控えているはずのマルテも、護衛騎士となったはずの坊っちゃまも、わたしのいるいまこの場にはいない。
マルテはロタールの屋敷からエンゾと共にやってきたリュシーと、お茶会でのわたしの装いのことで、ああでもないこうでもないと屋敷と邸宅にある衣装や装身具を検討し、衣装部屋で針仕事などしている。
坊っちゃまは、軍部から伝令があって昨日からいない。
なんでも王宮主催のお茶会での警備の手が足りないらしく、警備計画の説明や他との連携もあるからと、やはり王宮に詰めている。
「ようやくあるべき姿って奴ではないんですか?」
「暇過ぎるわ」
マルテと坊っちゃまの代わりでついてくれている、シモンの言葉にそう返せば、だからそういったのが本来の公爵夫人でしょうと肩をすくめられる。
シモンはかつてトゥルーズでスリであった頃に犯した罪を贖うため、フォート家で労役刑に服している扱いなので、王宮絡みの用事は頼めないから邸宅内を切り回しているテレーズを手伝っている。
オドレイとマルテが抜けているような邸宅で、わたしの側で控えている暇はないはずだからいいわよと言えば……家の中とはいえ女主人を一人放置なんて絶対有り得ないと、テレーズと一緒になって叱られてしまった。
自分のことは自分で出来るから、こんな時くらいいいのに。
「まじで、たまにはのんびりしてて下さいって」
「もう十分してる」
「半日、本読んだだけじゃないっすかっ!」
「なにか手伝うわ、掃除だけでも大変でしょ」
「公爵夫人に掃除なんてさせられませんよ……」
どうしてもと仰るなら、王宮からなにかしら頼まれてるのじゃなかったですか?
そうシモンが嘆息しながら言う。
とにかく家の中の仕事は、わたしにはさせない構えらしい。
わたしは家を守る奥方なのに。
「相談事の手紙は全て返答したし、女官長からの頼まれたことの段取りも整えたから、王宮のお茶会まで特にする事はないの」
「相変わらず、やばい仕事の早さっすね……」
「王宮勤めでは普通ですよ」
「本当ですかぁ? それ」
あからさまな疑問の声を上げたシモンに、なあにと答える。
ちょっぴり失礼だ。
「どうも……奥様というかユニ家の基準がおかしい気がするんですよね」
「おかしいって?」
「領主業とフォート家の法務顧問掛け持ちってだけでもなのに、法科院の仕事までお立場上受けている、ジュリアン様を見てると」
「父様がお忙しいのはいつものことだもの」
「いやだからですね……いえ、もういいです。むしろ俺のためにお菓子でも食べててくださいよ」
なんて。
もはや女主人に対する言葉ではないことを言うシモンに、目の前に用意されている午後のお茶の一揃えを眺めて肩をすくめる。
お茶会の準備できっと忙しい王妃様の手助けに、わたしも王宮へ行きたいところだけれど。
父様とルイがばたばたと立ち回っている時に、なにかと騒動と噂が絶えないとされているわたしが出向くのは、無用の面倒が生じそうで躊躇われる。
「それかお友達でも招いては? 王宮茶会でどうするかとかそういった相談しないんですか?」
「んん……それは……」
ソフィー様も元王族で大臣の妻と王宮には関わりの深い方だから、色々とご用がありそうだ。
わたしの頼み事も引き受けて下さったから、きっとお忙しいに違いない。
カトリーヌ様は、先日いらした時に、熱く語ってらした流行小説の装丁仲間の集まりやお付き合いがあるらしいこと言っていたし。
ああ、わたし……。
お二人が難しいとなると、お友達やお付き合いしてる方がまったくいないわ。
これって貴族夫人としてどうなの?
「よくないわよね……絶対よくない」
「奥様?」
王妃派夫人として、このままでは役立たずになってしまう。
折角仲良くなったお二人までも、いずれ呆れて離れてしまうかも。
「……これはお茶会でなんとかしないと」
「なに考えてます……奥様?」
「なにって、社交のことよ。シモン、カードとペンを」
だからですね、ちょっとくらいじっとしていませんか……と、ぼやきながらも言う通りに紙とペンを持ってきてくれたシモンにお礼を言って、カードへ用件を書き付け、わたしはそれをシモンに渡してフェリシアンへ届けるよう頼んだ。
「なにする気か、お聞きしても?」
「お茶会で失敗しないように、ヴェルレーヌに奥方教育のおさらいをお願いするだけです」
「……ってことは、ロタールのお屋敷へ?」
「ええ、どうせこちらでする事もないもの。ルイもしばらく王宮だし」
「数日王宮詰めで、帰宅して奥様いなかったら、恐ろしく不機嫌になると思いますよ」
「まさか」
でも、確かに黙って邸宅を離れるのもよくないわね。
そう考え直して、あとでテレーズにお使いに行ってもらうこともシモンに頼む。
「王宮の衛兵に言付ければ、ルイに伝わるでしょう」
「はあ……そういう問題じゃないと思いますけどね」
「なあに?」
「いえ、かしこまりました。奥様」
なんだか取ってつけたようなシモンの返事だったけれど、頼んだ事はしてくれるだろうから気にしないことにした。
閉門の鐘が鳴って、長い夏の日も沈む頃。
夕食の席に着く前に、ロタールの屋敷からフェリシアンがやってきて、ヴェルレーヌからの教材ですと紙の束を渡された。
「教材?」
「奥様のご要望通り、明日の夕方から始めます。つきましてはそちらを覚えてらしてください」
「えっ……?」
渡された紙の束を見れば、びっしりと貴族の情報が数枚に渡って書かれている。
「ジュリアン様が叙爵されるため、以前にお伝えしたことが役に立たないかもしれないと。そちらを押さえておけば、お茶会での社交にまず困らないそうです」
「えっと……」
「以前、旦那様がお渡しになった課題曲はいかがですか?」
「練習は、続けています」
「私は音楽は明るくありませんが、ヴァルレーヌが申すには、本来は歌もあるものだとか。一番最後の紙にその歌詞が」
「はあ……って、これっ」
手にした紙を送って、最後の一枚を確認すれば。
明らかに知らない言葉で書かれた歌詞が、読み方付きで記されている。
「あの、フェリシアン」
「はい、マリーベル様」
温厚な微笑み顔に、なにか押しの強さを感じる。
お茶会で困るようなことになりたくなければ、これも覚えてきてくださいってことですよね。
相変わらず、ヴェルレーヌの教育は容赦がない。
けれど、朝夕逆転生活を送っているヴェルレーヌに、わたしの要望が伝えられたのは夕方のはず。夜になるまでの短い間で、わたしのためにこれを急ぎ用意してくれたってことでもある。
「いえ……わかりました。急ぎ教材を用意してくれたヴェルレーヌにお礼を伝えてください」
「かしこまりました」
フェリシアンが屋敷に戻っていった後、わたしは届けられた教材を前に両拳を握ってよしっと気合いを入れる。
暇じゃなくなったみたいですね、といったシモンの声は無視した。
*****
翌日、わたしは午前中はリュシーやマルテと過ごし、王都の造園師に管理してもらっている邸宅の庭を見て勉強しているらしいエンゾと薬草の世話の話を少しして、テレーズに後を頼んで昼食後にロタールの屋敷に落ち着いた。
真っ先に向かったのは図書室。
ヴェルレーヌの歌詞は読み方が振ってあるだけで、意味がわからない。
とりあえず丸暗記はしたものの、なにを歌っているのかさっぱりだから調べようと思った。
他家の貴族のことを覚えるのは侍女の頃から仕事で慣れている。
いまは始まりの夜会で、大抵の人の顔と名前は一致させているから、こちらは比較的どうにかだけれど、器楽ばかりは……。
「どうして、歌おうとするとてんで弾けなくなっちゃうのかしら……」
ルイから課題曲を貰ったのは王都に立つ前だ。
邸宅に落ち着いてからはヴェルレーヌの教えを守って、なるべく日に一度はわずかな時間でも邸宅にあるクラヴィサンに触れるようにしていたから、たった二曲でも自分では結構弾けるようになったと思っていたのだけど。
弾きながら歌うって、こんなに難しいの!?
ただ弾くだけなら躓かずに弾ける曲が、歌おうとした途端、歌と、指と、頭で思い浮かべている音と、実際になっている音が、てんでばらばらになってしまって混乱してしまう。
これは、歌詞の言葉の意味がわからないこともあるのかもしれない。
そんな理由で来た図書室だけれど。
「……考えてみたら、手掛かりがないわ」
曲名はわからない。
歌詞の言葉自体もわからない。
それがなんの言語かもわからない。
「古い言葉だとは思うのだけど……」
歌詞の紙を両手で開いて、ヴェルレーヌの振ってくれた音で読んでみる。
「――ᛁᛂᛔᛂᚿᛋᛂàᛐᚮᛁ……あれ? ここって」
最近、似た響きを聞いたようなと思った時、カタンと窓枠が風に震えた音がして、ふわりと空気がそよいで手元の紙を揺れて朗読も中断、わたしは諦めて息を吐く。
「読んでもわからないものは、わからないわね」
夕方、ヴェルレーヌに聞こう。
二、三日はこちらにいるつもりでいるし、いまはまったく弾けないわけではないのだから、王都に出る前みたいにまた集中してやればなんとかできるはずだと、わたしはクラヴィサンの練習に音楽室へと足を向けた。
歌おうとしては弾けなくなり、歌はなしで二度ほど弾いてみて、また歌おうとして弾けなくなって……なんだかむきになって取り組んでいるうちに、すっかり時間が過ぎてしまったらしい。
「相変わらず、マリーベル様は練習熱心でございますね」
淑やかな声に、ヴェルレーヌゥううっ、とわたしは姿を現した彼女に泣きついた。
「どうなさいました?」
「歌おうとするとまったく弾けなくなってしまって……っ、あとなんの歌で曲なのこれっ!」
「言葉遣いが乱れております」
「……うっ」
ヴェルレーヌこそ、相変わらず課題が容赦ないし、厳しい。
「それにしても、なんの曲か知らないままお弾きになっていたのですか?」
「ええ」
わたしの言葉にちょっと驚いた顔を見せて、尋ねてきたヴェルレーヌに頷けば、課題だとお渡ししておいてまさかそんなこと……と、彼女はぼやいた。
「困った方でございますね。ご自分は知っているからといって……たしかにごくありふれた曲なのですけれど」
「そうなの?」
「ええ。地の精霊の讃える曲です。魔術師らしいというか、マリーべル様一途な公爵様らしい執着心の垣間見える選曲だと思っておりましたので、てっきりそのつもりかと」
「どういうこと?」
地の精霊は、叡智を司る精霊と魔術師達の間で特別視されているのは知っているけれど。
それ以外にもなにか?
「地の精霊は両性具有。ですが元は男女別々の精霊といったお話もあるのです。とても仲睦まじい精霊夫婦でしたが、片一方だけ、先に滅びの時がやってきてしまった――」
諦め切れなかったもう一方は、死の地へ向かおうとする相手を離さず、自らの身の内に取り込んで閉じ込めてしまう。
「そして、ついには切り離せない一体となってしまったのです。バラン東部の小集落で祀られている石板にある伝承だとか。あまり知られていないお話しではありますけれど、生と死を司ると言われているのはそんなところからなのかもしれませんね」
それはそれとして、両性具有というのが和合を連想させるのか、婚約や結婚、なにか契約を結んだお祝いでよく演奏されるといった、ヴェエルレーヌの説明だった。
「ヴェルレーヌは博識ですね。器楽も達者だし」
「生まれた時から、一日中、部屋に閉じこもって生活しておりましたもの。普通のご令嬢より少しばかり親しんでいる時間が長いというだけで、読書も器楽もただの趣味で楽しみです」
にっこりと淑女の微笑みでヴェルレーヌは謙遜したけれど、とても少しばかり親しんでいる時間が長いだけとは思えない。
そもそもルイが、わたしの教育係として一任したくらいだから余程だ。
そういえば、器楽もヴェエルレーヌを基準に考えてはおかしいようなこと言っていたもの。
流石にもう、わたしもヴェルレーヌをただの元男爵令嬢とは思っていない。
普通の御令嬢にしても、単なる教養を超えて守備範囲が広すぎる……。
なんて言ったらいいのかしら?
趣味人……いえ、好事家?
「ところで、歌詞を覚えてきてくださいとしか、お伝えしていなかったはずですが」
「歌詞は覚えました。弾きながら歌うを練習してみようと思ったのですが」
「それで、いきなり合わせてみたわけですね。無理なのは当たり前です」
「え?」
「まずは目を瞑ってでも演奏出来るくらい、指が覚えて弾けるところからですね。次に鼻歌を乗せながら演奏。歌はその後です」
め、目を瞑ってでも演奏出来るくらい!?
「大丈夫です。真面目で集中力がおありですもの。マリーベル様なら五日もあればきっと余裕ですよ」
やはりにっこりと淑女の笑みでそう言ったヴェルレーヌに、思わず頬を引き攣らせてしまう。
けれども、お茶会で起こり得ることをあれこれと考えてくれたヴェルレーヌは流石で、結果としてはとても助かった。
ヴェルレーヌ恐ろしい人……と、内心ちょっとだけ思ってしまったけれど。
とにかくその後、屋敷にいる間の日中、わたしはほぼ音楽室にこもりきりになった。
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※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
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