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第三部 王都の社交

87.ルーテルの地

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「ロタールの最北部と北部の間、ルーテルと呼ばれる地が……」

 ぐったりと横臥でいた気怠く重い体の背後からルイに腕を前に回され、首の後ろを隠す髪に鼻先を埋めるようにして低く囁かれた言葉に、んっ……と返事にもならない鼻から抜けるような声だけで応じて、半ばうつらうつらしていた意識をわたしは彼に向ける。

「眠いですか?」
「……少し」

 答えれば、首筋から肩へ辿るように二、三箇所キスを落とされて軽く引き寄せられる。
 絹の寝具の中で互いに一糸纏わぬ姿でいて、余韻の尾はほとんど消えて薄れているとはいえあまり動きたくはない。
 正直、ルイの腕の心地良さだけ享受して、このまま眠ってしまいたい……そんなことを思っているうちにふつりと意識は途切れ、次に意識が浮上した時は暗いはずの視界に光を感じた。

「ん……」
「……起きたのですか」

 サイドテーブルのあたりから明るい光に照らされている。
 朝……じゃない。
 ランプの光か……と思いながら目を擦って瞬きし、少し身を起こしかけてなにも身につけていないことにまだぼんやりしている頭で気がつき、掛布を自分の身に引き寄せるようにその中に潜りごそごそ身じろぎしていたら、窓の方向から静かな声に話しかけられる。

 ぱたりとなにか乾いた音が聞こえ、頭から首元に寝る前に羽織っていた絹織のストールを被せられたそれを寝具の中に引き入れて肩に回し、胸元を隠すよう左右を合わせ、うつ伏せに寝具から少し這い出たら、すぐ側から苦笑するルイの声が降ってきた。

「……いま……どれくらい?」
「時計でいえば、ちょうど針が真上を過ぎた頃ですね」

 邸宅から屋敷に移動したのが日暮れた頃で、日が長くなっているから、夜食やお茶を取ったのはたぶん普段の夕食の時間を少し過ぎた頃。
 その後、身支度して少し話して、その後……眠っていたのは半刻くらいかしらと、眠気をまだ少し引きずる頭で考える。体に寝具の絹がさらさらして心地いい。たぶん眠ってしまった後にルイが魔術で清めてくれたのだろう。 

 うつ伏せから光の方向へと顔を上げれば、サイドテーブルに固形燃料の結晶を光らせたランプを置いて、ルイはシャツを羽織った上半身を起こして寛いでいる。
 衣ずれの音がし、脱がされた肌着シュミーズを差し出されて、受け取って身につけ、襟元から肩にかけたストールを抜き取りながら身を起こし、彼と同じように寝台の端に枕を重ねたそこへ背をあずける。

「よく眠っていたので、朝までそのままだと思っていました」

 後ろから伸びてきたルイの手に右頬を包まれ、今度は彼が動いた衣ずれの音に目を伏せて、重なってきた唇を受け止め、表面を何度か軽く食まれながらなんだか切なくなってくる。覚えていないけれどなにかの夢を見ていた余韻に、まだ少し現実の手応えがない。
 ルイは離れ、彼の胸に頬を寄せて懐けば、まだ少し寝ぼけていますねと彼は言った。

「……起きていたの?」
「ええまあ。眠っている貴女を眺めたり、父の遺した手稿を読んだりして」

 さっきぱたりと聞こえた音は、革表紙にまとめて綴じた手稿を閉じた音かと少しずつはっきりとしてくる意識の中で思う。

「ヴェルレーヌになにか頼みますか?」

 尋ねられて首を横に振って、ルイの腕が緩く回されてひと心地ついた気分で息を吐く。
 こんなこと、こういったことの後でもあまりないのだけど。

「恐い夢でも?」
「そうかも。なんだか胸がざわざわと落ち着かない感じに目が覚めて……」
「珍しいですね」
「……一日色々あったからかしら。それにルイがあんな条件ロベール王に持ちかけるから」
「その文句なら散々聞きましたよ。色っぽい事をしていて色気のないことこの上なく……怒るのか乱れるのかどちらかにしていただきたいのですが」
「そっ……そんなの、正気に戻ってから言わないで……っ」
「最中、正気じゃないと?」
「そういうことじゃなくて……っ」

 ルイに自分から擦り寄って彼の腕の中にいるだけに、なんだか分が悪い。
 熱くなった頬から気を逸らし、彼の胸を拳で一叩きする。
 思い切り力を込めたところで、見かけによらず鍛えて頑健なルイはびくともしない。

「……そういえば、眠ってしまう直前になにか言っていたような」

 ふと、ロタールがどうといったルイの言葉を聞いたことを思い出して、彼から少し身を離して彼の顔を見上げる。
 半ば向き合っているような形でルイの腕の中にいるため、彼の顎先がわたしの目の高さに至近距離で迫り、たまたまそこに額があったからといった感じに唇で軽く触れられ、なんとなくわたしは額に自分の手を持っていって触れられた箇所を指で撫でる。

「ロタールと、北部がどうとか……」

「ん? ああ……ルーテルのことですか。最中貴女ずっとぐずってましたから話そうとしたら眠ってしまってまったく勝手な」

 ぶつくさぼやきながら、下ろしている髪を撫でるように梳くルイの指に少しばかり心地よさを覚えながら、ルーテルといった聞き覚えがあるようなないような単語に首を傾げる。
 
「ルーテル?」
「ロタールの最北部と北部の間にある国境沿の地。ヴェルレーヌのリモンヌ家が叙爵と共に賜り治めていた小領地です。元は侯爵領だったのですけどね」
「ヴェエルレーヌの……元侯爵領……?」
「大半山脈に隔てられバランほど要所ではないものの、一応、共和国に接している所なので。夏とはいえ夜は涼しい、薄着だけでは風邪を引きますよ」

 きちんとストールも肩にかけて羽織るよう注意して、わたしを元の場所へとやんわりと押しやって、ルイは床に脱ぎ落としたままになっていたらしいガウンを拾い上げ、それを纏いながら寝台を降りた。
 どうしたんだろうと思っていたら、水差しと硝子杯を持って彼は戻ってきてサイドテーブルにそれを置くと、水を入れた硝子杯をわたしに手渡し、寝台の縁に腰を下ろす。

「……ありがとう」

 飲めば、結構喉が渇いていて、むしろそうでなければおかしい事にも気がついて、再び頬が熱を帯びる。ルイは澄ました様子でいるけれど絶対わかっている。
 
「こ、侯爵領がどうして……豪商とはいえ叙爵されての男爵家に?」

 お金で買ったならまだわかるけれど、リモンヌ家は王から領地を賜っている。
 おそらくその侯爵家は国境の地を代々護り王家の信頼を得ていたはずだ、そんないくら莫大な資金を王家に提供したといっても、それ以上の直接の武勲も功績ない元商家の男爵家に与えるなんて普通は有り得ない。

「治めていた侯爵家が戦争中に断絶し、他に任せられそうな家もなく放置も出来なかったからです……その辺りのいざこざに私もまったく無関係ではないので、当初はロタールへといった話もあり一時的に管理もしましたが」

 まだ未成年で東部の約六割を有するルイに対する様々な横槍もあり、ルーテルは結局一度王家の直轄地となった後、リモンヌ家叙爵の際に、あの地を一種の経済特区とする提案を行ったヴェルレーヌのお祖父様に与えられたそうな。

「経済特区?」
「丁度、国境ぎりぎりの砦の町があって、そこでは共和国と王国の商人は自由に取引を行える。国の関係と経済交流は別物なところがありますからね……」

 政治や軍事のことはさておき、休戦状態が二十年以上続いていることもあるほか、色々と要因もあり大きな問題は起きておらず、自治も強くてリモンヌ家の後を引き継ぐ形となった現在の伯爵家もさほど扱いに困ってはいないだろうということだった。

「お金を産む町ですしね」
「はあ」
「リモンヌ家は、そこそこ上位の貴族の間では有名です。資金の融通だけでなく領地運営相談のようなことも請け負い、助けられた家も多い。大した財も力もない下級貴族の間では商人上がりと蔑まれたり、妬まれたりしていましたが」
「ああそれで……本当にくだらないわ。そういうの」

 いじめの対象に目を付けられやすいわけだ。
 令嬢同士ではまずは同等格同士の付き合いからだろうし、どこかの派閥にといってもかつて金銭的な世話になっていたなどと娘に話す上級貴族の父親は少ないだろう。

「日中外に出られない体質は貴族の妻として屋敷に過ごすに大した問題ではない。むしろ家に囲っておける。リモンヌ家の財と伝手は魅力的です。おまけに見た目は儚げですから、彼女に惹かれる若者は多かったでしょう」
「想像だけでも、気の毒だわ……」

 気丈で機転も効くから上手くかわしていたようだけれど、さぞ煩わしいことが多かったに違いない。おまけに無実の罪で魔物として処刑されそうになるなんて。
 それは死んだ事になってもいいから、平穏に暮らせるようにと望むのも無理はない。

「だからルイは彼女に協力を?」
「それもありますが、そもそものところでまるで無関係とも言えないためです。あの地は多少気がかりではあり、しかし関わりたいとまでは思わない。例の吸血誘拐事件の要請は本気で迷惑でした」

 おそらく私は断らないと事情を知る王が裏から手を回したに違いない……と、低く呟いたルイに、あのとわたしは声をかけた。

「先程から、まったく無関係でもと言ってるそれ……なんなの?」
「別に、私が直接なにかしたわけでもないのですが……」

 何故か不貞腐れたように言って、ルイは私を振り返ると嘆息して肩を落とした。
 
「侯爵家を断絶状態に陥らせた、遠因ではあるようなので」
「っ!?」

 私がフォート家の家督を継ぐのを王家に認めてもらう為に、魔術院に入った話を覚えていますかとルイに確認されて頷く。

「当時の魔術院に、私と同じ歳の……ルーテルの侯爵家嫡男がいたのですよ」

 いまに至るまでは長く込み入った話になると確認されて、目が覚めたので構いませんと答えればルイは思い出すのも面倒だといった様子で、それでも語り始めた。
 十二で両親を亡くした彼がフォート家を背負うために入った、魔術院での出来事を。
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