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第三部 王都の社交
70.三つの贖い
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寝台で、紐付きの一枚革に挟んだ古びた厚みのある冊子のようなものを片手に、その頁をめくっているルイに近づけば、気がついた彼に腕を軽く引かれた。
ルイによって、前のめりに寝台に引っ張り込まれた形になってそのまま、彼が寝具の中で脚を伸ばして座っているその奥、わたしがいつも寝ている位置へもぞもぞと膝立ちに移動して、彼の隣に並んで座り、寝具の中へ脚を入れたわたしは彼の手元を見下ろす。
羊皮紙を束ねて糸で綴じられた冊子は、手書きでびっしりと細かな文字や様々な図形や文様が几帳面に記されていた。
「手稿?」
「ええ、まあ」
就寝前に長椅子か寝台に寛いで本を読んでいることの多いルイは、いつもなら読んでいる本についてあれこれと教えてくれるのだけれど、それ以上はなにも言わずに開いていたそれを閉じると、封印するように革の紐を巻きつけてサイドテーブルへと置いた。
「マリーべル」
髪の一筋をすくうように手に取って撫で下ろされて、思わず俯いてしまう。
いまさらなにを恥ずかしがることがと思うのだけれど、夫として誘うように触れられるのにどうしても慣れない。
などと思っていたら、少々、それとは違う趣のものだったようで再び名を呼ばれて顔を上げた。
「なに?」
彼を向くように頬に片手を当てるようにされて、彼を見て少し頭を傾ける。
閨の睦言をこれから囁くには真面目過ぎる表情のルイに、どうしたのだろうと思った時、私も……と彼は呟いた。
「私も、一瞬、精霊博士の資質ではないかと焦ったのです。いまとなっては確認できない貴女のお母様のこともありましたから」
「母様?」
唐突に、昼間、蔓バラ姫について交わした会話に母様のことを添えて蒸し返してきたルイに、私が問いかければ、彼は頷いた。
モンフォールの当主様が貴き血と誤解した、母様にまつわる不思議な現象の話。
茎が折れたり、萎れかけたりして色が変わりつつあるような花や苗や蔓まで、母様が手当てをするとよみがえったらしいといった父様の話。
大嵐の際、十歳の母様が大丈夫だと言ったその通りに、モンフォール領の穀物畑の大半が助かったといったお祖母様の話。
たぶん祝福持ちだったのだろうといったルイの推測だけれど、結局どんなものだったのかはよくわからない。
それに本当に植物を育てる才能やただの偶然も否定できない。
何故なら、祝福だとしたらすべての現象を可能にするには、あまりにその力が強くて広範囲すぎるものになってしまうからだそうで、どちらかといえば仮に祝福を持っていたとしてもそればかりではなく、いくつかは“緑の指”と呼ばれるその才能や偶然の可能性が高いといったルイの見解だった。
「念のためもう一度お聞きしますが、蔓バラ姫と彼女の干渉以外に精霊を見たりその声を聞くことはないですね? 例えば、貴女しか知らない人などもいませんね?」
「え?」
「祝福持ちもですが……精霊絡みは判別がしにくい。なにしろ魔力は関係ない上に、生まれてすぐに与えられたものや先天的なものが多い上にその現れ方は多様です。シモンのように明らかに普通の人にはない力はともかく、日常に溶け込んでしまうようなものは本人も無自覚なまま一生を終えることもあります」
精霊博士が希少なのは絶対数が少ないのもあるけれど、そのような資質があっても発見しづらいことにもあると言ったルイに、わたしは水浴びした犬のようにぷるぷると首を横に振った。
「ないし、いないわ。それに蔓バラ姫が見せてくれるまで、この屋敷に家付精霊がいたなんて気がつきもしなかったし」
「ええ、そうですね。そうなのですが……」
そのことなら、昼間の会話で解決したはずなのに。
どうしてまた繰り返し聞いてくるのだろう。
「どうしてもジュリアン殿から聞いた、“この子は私と同じ、“緑の指”を持っている”といった貴女のお母様の遺言が気にかかってしまい……」
「でもそれって、モンフォール家に“貴き血”を持っていると狙われた母様の血を引くわたしも、植物の世話が好きで同じように狙われるのを母様が心配したからで、それに母様がたとえ“祝福持ち”でもそれは一代限りなのですよね?」
「仰る通りです。ええ……そう、きっと思い過ごしです」
わたしの言葉に、昼間音楽室でもそうだったみたいに、ルイは力が抜けた様子でわたしの肩から両腕を回して寄り掛かった。
「あの、大丈夫? なんだか神経過敏じゃない?」
「過敏にもなります……本当に、貴女という人は落ち着き払って」
「だって、魔術や精霊のことはよくわかりませんし」
「……そうなのでしょうが、私から見ると魔術適性はないのに魔力や魔術への適応が妙に高いような貴女に、どうしてもあれこれと考えを巡らせてしまうのですよ」
「でも、それなら余計に精霊とは無関係だと思いますけど? だって魔力は不要で魔術とはまったく別物なのでしょう? それに魔術って、“ヴァンサン王の子”にヴァンサン王のような精霊他人外と交流する力がないのを補うために編み出された技法ですよね?」
「ええ」
「だったらなんだか魔術に親しかったり適応が高い方が、彼等から遠くなる気がします。蔓バラ姫も言っていたし」
「なにを?」
「ルイほど彼女達に指図する魔術師はいないのに、彼女達との交流はさっぱりだって」
わたしの言葉に、ルイがちょっと驚いたように目を瞬かせる。
わたしから離れ、冊子を読んでいた体勢に戻って口元に指を当てて黙り込み、しばらくして確かにと呟く。
ちらりと彼の目線がサードテーブルへと動いて戻り、またなにか考え込むように黙り込んだルイだったけれど、なんとなくそれはもうわたしへの心配からは離れたもののように思えた。
「それよりも、このお屋敷の気になっていた問題が解決してわたしはうれしいです」
そうなのだ。
抜いても抜いてもとても追いつかない勢いの雑草問題、老朽化した建物の見た目だけでもなんとかしたい問題、そして住居部として使用している“王妃の棟”だけでも広すぎるお屋敷の手入れ問題の大半が、蔓バラ姫によって解決した。
それも代償なしで!
思わずにこにこしてしまうけれど、わたしのにこにこに反してルイは不服申し立てしたそうな恨めしげな眼差しをわたしに向けてくる。
「ええまあ。しかし貴女がああいったことを望むとは……」
「だって、下手に自分やあなたにかかるようなことを望むのも怖いじゃない」
「贖いで、代償なしに向こうが勝手にやってくれる。こんな機会は滅多にないと一つを三つに増やしたというのに……」
まったく勿体ないことこの上ない……と、ぶつぶつぼやき始めたルイに思わず顔が引きつってしまう。
「ルイ……」
わたしは大満足なんですけれどね。
それにわたしのための贖いだってことをちょっとお忘れですよね……いくら精霊が自ら人間の望みを叶えるためにその力を揮うことは、大変に珍しいことであるらしいとはいえ。
ルイは少しばかり、魔術や魔術に少しでも関係しそうなことに頭を使い過ぎるのじゃないかしらと思う。
*****
「ええ、贖いよ。私が出来ることなら一つ叶えてあげる」
そう――わたしが倒れたことに責任を感じたらしい蔓バラ姫が、彼女の意志で精霊の力をわたしの望みを一つだけ叶えるために使ってくれると申し出たのに、すかさず横槍を入れたルイは流石の悪徳魔術師だった。
「誇り高き古精霊の贖いとはそんなものですか……」
「なんですって?」
「だってそうでしょう? 強引に精霊の領域へ連れ去ろうとしたことだけだと? 私が彼女に施していた途中の加護の術を暴発させ、彼女は消耗で倒れ、彼女の内にある加護の術も破綻した……それが魔術師でもないただの人間の娘にとってどれほど危険なことか……」
「ちょっと待ちなさいっ。連れ去ったのと倒れたのは私のせいでも、あなたの魔術は関係ないでしょう、ヴァンサンの子っ!」
まったくもって、その通りだ。
言いがかりにもほどがある。
大体、あの加護の術だって、あの時点ではわたしに黙って勝手にルイが施していたもの。
その暴発に関することまで蔓バラ姫のせいだなんて、責任転嫁も甚だしい。
「貴女のような精霊が手を出してくることを用心したからです。そして案の定、貴女は私を弱らせてマリーベルの前に現れた。私を消耗させたことや領地が被った迷惑や被害も、本当なら贖ってほしいところです。貴女にとってはマリーベルの為を思ってのことで通用しないでしょうが」
「ふん、当たり前じゃない。いいわ、あなたじゃなくマリーベルを消耗させたことの二つにしてあげる」
「いいえ、先ほども申した通り、貴女がマリーベルに贖うべきは四つです」
「魔術は関係ない」
ふん、とそっぽ向いてルイの言葉を切り捨てた蔓バラ姫は間違ってはいない。
むしろ、一つだけが二つに増えたことに驚いたくらいだ。
「貴女さえマリーベルに手を出さなければ、起こり得なかった事だというのに……」
額を抑えて俯き深く嘆息しながら、緩く首を振ってぼそりとこちらに聞こえるか聞こえないかといった声量で呟いたルイに、わたしはもう内心呆れ返って言葉もない。
この人……精霊である蔓バラ姫の代償なしな力を使う権利を、もぎ取れるだけもぎ取るつもりだ。
「“ヴァンサンの子の嫁”だの“姫さま”だのと懐いたところで、“誇り高き古精霊”の貴女からみれば所詮はただの人間の娘。“誇り高き古精霊”としては、その程度で十分有り難がれと仰るのは当然なのかもしれませんが……」
「ちょっと、私たちはいつだって……」
「よき隣人。ええそうでしょうとも。四大精霊の直に仕える“誇り高き古精霊”な貴女ですから、従えている数多の小精霊達を失望させるような吝嗇なことはしないでしょう」
「……」
妙に“誇り高き古精霊”を強調しつつ、あからさまに当て付けるようなことを言うルイに、わたしのすぐ隣でうなだれて肩を震わせた蔓バラ姫を見て、流石にこれは言い過ぎだと思う。
精霊である彼女が逆上したら、厄介だろうことを考えない彼ではないはずなのに。
「あの、蔓バラ姫。ルイの言うことは……」
「……そうなの?」
「え?」
「私が連れて行こうとしたから、姫さまの内に施されていた魔術が姫さまを傷つけたの?」
「ええと……」
正直、これはどう答えたらいいのかしら。
わたしは魔術師ではないけれど、やっぱり精霊相手に嘘はよろしくないだろう。
だとすると、そうじゃないとは言えない。
だって魔術が暴発したのは、あきらかに蔓バラ姫がわたしを強引に精霊の世界の住人にしようと襲いかかってきたからで……。
「す、少しばかり……蔓に絡まれてわたしも驚いてしまったといいますか、怖かったといいますか、身の危険を感じたといいますか……おそらくはそれで……」
だから事故のようなものですと、言おうとしたのよわたしは。
悪徳魔術師の片棒なんかこれっぽっちも担ぐ気はなかったのですから。
「じゃあ、本当にヴァンサンの子の言う通りなのね……」
「え? あの……蔓バラ姫……?」
弱々しい口調でそう言った蔓バラ姫に、けれど事故のようなものですからと言うつもりだったのだけれど。
がばっと突然勢いよく顔を上げた彼女に気圧されて、言えないでいるうちに。
「でも三つよ!」
そう、彼女自身が宣言してしまう。
「ほう?」
「魔術が暴発したのは私の責任でも、壊れたのは本当に知らないわ。壊れなかったかもしれないし、あなたの施し方が悪かったのかもしれない」
「まあ……それは。いいでしょう」
「それにこれは姫さまのための贖いだから、三つは姫さまだけで考えて決めた、姫さまに直接関わる、姫さまの望みしか受付ない。ヴァンサンの子は無関係よ」
無関係というのは……それはそれで違うのでは、蔓バラ姫。
むしろルイを一ヶ月も翻弄して消耗させたことや領地が被った迷惑や被害の方が、わたしよりもずっとずっと贖うべきことなのでは?
けれども、蔓バラ姫の中では完全にルイは無関係となっているようだし。
ルイ自身も、蔓バラ姫はわたしのためにしたことだから、自分や領地が被った迷惑料は請求できないように言っていた。
精霊の理屈、よくわからない。
それにしても。
とにかくわたしの望みしか受付ない、大変に強い意志を感じる条件付けをされた贖いだわ……と、ルイを見れば渋い顔をしていたけれど、おそらく三つが落とし所だったに違いない。
仕方ないといった様子で、指を当てている口元の端が心持ち上がっている。
悪徳魔術師。
「三つ……」
「ええ、私に叶えられることならなんでも言って」
にこにこと人懐っこく、蔓バラ姫がまたわたしの腕にしがみつく。
精霊って、なんだかものすごく気紛れで身勝手な子供みたい。
「その……フォート家の“祝福”の影響を受けないようには?」
「それは無理。だってそれは私であって私ではない蔓バラ姫が与えたものだもの。私では干渉できないわ」
やっぱり無理か。
ルイもそう話していたものねと思い出しながらそうですかと返したら、ごめんなさいねと蔓バラ姫が言った。
出来ないものは出来ないから、仕方がない。
「いいの、ルイから解除できないことは聞いていたから」
ならどうしようかしら……と、ルイを見てふと彼の言葉が脳裏を過った。
――まあ、精霊が自らやってくれたら楽ですけどね。
「あ……!」
「なに?」
「ええと、ずっと悩んでいることがありました!」
「ん? マリーベル? 貴女は一体なにを……」
「蔓バラ姫は、地の精霊の属なのですよね?」
「ええ」
「整えられた庭園や花壇を荒らしてしまう草を、生えないようにすることは?」
「そうね、生えてしまったものは枯らして土に戻し、こぼれ落ちてしまった種を眠らせることならできるけれど?」
「でしたら、一つ目はそちらで!」
「マリーベル! なにもそんなことに……」
わたしを止めようとしたルイに、じゃあなにを望めばいいのと思う。
「そんなことではありません! 魔術でもできないことはないけれど、かなりきついことなのですよね? いくら通いの下働きの者がいても、エンゾ一人では広すぎる庭や花壇だと以前から気になっていたんです」
「……しかし」
「それに、いまの季節に皆の手が雑草除去にとられて大変なことにも、わたくしこれ以上煩わされたくないです!」
フェリシアンやオドレイが控えているので、ヴェルレーヌから自分一人かルイと二人きりの時以外は意識するよう注意されている言葉遣いできっぱりとルイにそう告げれば、彼は黙った。
うん、これはいままでのわたしよりもちょっと強い気がするわ。
二つ目は、廃墟同然に老朽化していて安全面からみても危うい建物がこれ以上崩れないよう、人が入れないようにして、かつ見た目に寂れた感じに見えないように出来ないか。もちろん虫などの害も起きないように。
そして三つ目は、わたしやルイをはじめとするフォート家の皆が使っている“王妃の棟”とそれにつながる主棟の正面玄関及び使用している区画までの維持管理を助けてもらえないか。
「出来るかしら?」
「それが望みと言うのならいいけれど……私、地の精霊グノーン様直属の古精霊よ。その気になれば森の一つや二つ豊かにさせたり、地中の宝を集めさせたり、あなたに“祝福”だって与えられるのに、そんな簡単なことでいいの?」
「蔓バラ姫の言う通りです、マリーベル。それこそあなたが物騒だと仰る、私の加護の術に替わるような“祝福”を受けることや、ないものをあるようにすることも……」
わたしを誘導するようなルイの言葉で、なんだかわかってしまった。
きっと、魔力の代償なしで人間のために揮われる精霊の力と魔術の違いを検証できるまたとない機会とかなんとか考えているに違いない。
悪徳魔術師じゃなくて、研究馬鹿であんな交渉したのね……。
蔓バラ姫からの申し出を聞いて、すぐさま一度では足りないとした、その頭の回転というか切り替えの早さというか、その熱心さには本当に感心してしまう。
「わたくしにとっては、いまその三つが大問題なんです! 使用人を数十や百単位で雇い入れることが難しくて屋敷の管理をルイが渋るのなら、精霊でもなんでも使って解決しますっ」
「なんだか精霊の無駄遣いのような気もするけれど……わかったわ」
「……っ、貴女のための贖いといった制限がついている以上、仕方がない」
というわけで。
廃墟同然な建物部分はすべて蔓バラに覆われた。
それも精霊の力を宿した蔓バラなので枯れることはなく、年中花が咲き、虫の害などもなく、その内側は精霊の世界同様に人間の世界とは異なる時間の流れでおまけに一種の結界にもなってくれるという。
なんて万能、栽培できるものなら栽培したい。
小さな枝を少し分けてもらって接木で増やせないかしら。
建物保存に悩む古い貴族の方々にとって、素晴らしい植物苗として取引できるのでは?
「マリーベル……大変興味深くはありますが、精霊の世界のものは人間の世界に持ち込めません」
ユニ領の土地も増えたしなどと夢想していたことにルイから釘を刺されて、我に返る。
口に出していなかったのに、どうしてわかったの!?
「貴女の顔を見ていればなんとなく察しがつきます……あなたやフォート家と蔓バラ姫の関係や、屋敷の護りもあって成り立つことです」
「……そうですか」
「ええ」
屋敷の使用部分の維持管理については、彼女の眷属でもある家付精霊がこの屋敷には複数いるから、彼等を働かせるとのことだった。
「家付精霊?」
「ええ」
そう彼女が肩を竦めて、長椅子から真横の壁へと首を回す。
なんだろうとわたしとルイが彼女の向いた先を見れば、サロンの壁際にまるで子供のおもちゃの木彫人形のように小さな体の、農夫のような格好をしたお爺さんが七人いた。
「えっ……?!」
“ふむふむ、ワシら見えておるようだぞ”
“ほっほっ、蔓バラ姫に呼ばれてみれば”
“おやおや、主殿までもこちらを見ておる”
“おおおお、可愛らしい奥方を娶った羨ましい主殿か”
“ほれほれ、近頃浮かれておるからの”
“いやいや、屋敷が賑やかなのはよい”
“しかりしかり、めでたいのう”
“めでたい”
“めでたい”
ごしょごしょと寄り集まって、ルイを指差しなにか頷き合っている。
「蔓バラ姫……なんですかこの者達は」
「本来は山の岩や鉱物に潜む小精霊達だけれど、ここが気に入っているのですって。気がついていなかった?」
「まったく」
「あなた程、私たちにあれこれ指図してくる魔術師っていないのに。本当にさっぱりね」
「精霊と馴れ合う気はありません……たしかに、長年放置している割に寂れ方がそれほどではなく、とはいえ人が住んでいればそれなりに保たれるものかと思っていましたが……」
「そんなわけないじゃない。彼らのおかげよ」
“ほっほっ、ワシらがちょいちょいやっておるからの”
“ふむふむ、ここは旨いものも多くある”
“しかりしかり、あのワシらにちょっと似た台所の娘が色々こぼしてくれる”
「それって、アンのこと?」
アンは、ロザリーさんの調理助手だ。
ロザリーさんが以前に働いていたお屋敷の厨房にいて、彼女についてきたのだという。
普通の娘さんのように見えて、スカートに隠れた足元がゆらゆらと床からいつも少しだけ浮いているので人ではない。
ルイにもどういった存在なのかよくわからないらしい。
とにかく料理長のロザリーさんに懐いていて調理を手伝い、よく働き、害意も見られないためにフォート家の使用人の一人ということになっている。
前のお屋敷では、いるようないないような存在だったらしい。
ロザリーさんは、ルイ同様、料理のこと以外は雑事なのでアンが調理助手として役立つならそれ以外の細かいことはまったく気にしていないらしい。
“おやおや、そうですぞ奥方”
“いやいや、しかしあれは精霊とはちと違う”
“おおおお、人の子でないのにまるでそのように働く娘”
“ほれほれ、あの奇妙で旨いものを作る女人を好いておる”
「本当、妙な者達が多いわ。犬狼様が花を育てていたりもするし」
「エンゾは先祖返りの人です。それにしても……アンは家付精霊の一種と考えていましたが、精霊から見てもよくわからないもののようですね」
「あなた達、私の蔓で覆ってしまったところは手をかけなくてよくなったのだから、姫さまが使っているところで働きなさいな」
蔓バラ姫の言葉に、また寄り集まってごしょごしょと相談した小人達が、一斉にこちらを向いて同時に頷いた。
特別に、蔓バラ姫がいなくなってもルイとわたしには引き続き、家付精霊達を見て声を聞けるようにしてくれるらしい。
もっともその家の者が一度気がついて声を聞くと、彼等はそれなりに見聞きしやすくなるものではあるらしい。
「私たちはいつだって、良き隣人だもの」
そう言って、蔓バラ姫も家付精霊達もどこかへ消えてしまった。
たぶんわたしが彼女に連れられた精霊の道とやらで、どこかへ行ってしまったのだろう。
ちなみに蔓バラ姫の三つの贖いがすべて行われる間で、お屋敷に一体なにが起きたのですかっと大慌てで叫びながら外から屋敷に駆け込んできて、廊下でわたし探す声を上げ続けるリュシーへの説明のために、わたしから概要を聞いたフェリシアンが部屋を出て行ったり。
おそらくフェリシアンから簡単に説明を受けて、彼と入れ替わりでやってきたテレーズが、たぶんもやもやの光状態の蔓バラ姫を見て、精霊ってなんだか不気味ですわねと呟き、蔓バラ姫がご機嫌を損ねたのをわたしがなだめたり。
警備上の確認をしたほうがよろしいのではと言い出したオドレイに、ルイが今まで通りで問題ないと指示したりと、慌ただしいことで蔓バラ姫とのやりとりを中断されもしてとても疲れた。
屋敷の中が大変だった間、外にいたエンゾとシモンとマルテに下働きの人達は、草むしりの仕事がなくなり、エンゾの指示でお庭でのんびりと水撒きして、労いのお菓子を食べて休憩しながら待機していたそうで。
エンゾが言うには、「なにかあるなら旦那様から説明があるし、明らかに大きな魔術かなにか動いている様子なのにむやみに近づいては危険だから」と、蔓バラ姫の蔓が建物を覆っている間はリュシーを止めてもくれていたらしい。
流石は、フォート家で一番の常識人。
わたしがエンゾにお礼を言えば、彼はぱたぱたと尾を揺らした。
どうやら少しばかり照れたらしい。
ルイによって、前のめりに寝台に引っ張り込まれた形になってそのまま、彼が寝具の中で脚を伸ばして座っているその奥、わたしがいつも寝ている位置へもぞもぞと膝立ちに移動して、彼の隣に並んで座り、寝具の中へ脚を入れたわたしは彼の手元を見下ろす。
羊皮紙を束ねて糸で綴じられた冊子は、手書きでびっしりと細かな文字や様々な図形や文様が几帳面に記されていた。
「手稿?」
「ええ、まあ」
就寝前に長椅子か寝台に寛いで本を読んでいることの多いルイは、いつもなら読んでいる本についてあれこれと教えてくれるのだけれど、それ以上はなにも言わずに開いていたそれを閉じると、封印するように革の紐を巻きつけてサイドテーブルへと置いた。
「マリーべル」
髪の一筋をすくうように手に取って撫で下ろされて、思わず俯いてしまう。
いまさらなにを恥ずかしがることがと思うのだけれど、夫として誘うように触れられるのにどうしても慣れない。
などと思っていたら、少々、それとは違う趣のものだったようで再び名を呼ばれて顔を上げた。
「なに?」
彼を向くように頬に片手を当てるようにされて、彼を見て少し頭を傾ける。
閨の睦言をこれから囁くには真面目過ぎる表情のルイに、どうしたのだろうと思った時、私も……と彼は呟いた。
「私も、一瞬、精霊博士の資質ではないかと焦ったのです。いまとなっては確認できない貴女のお母様のこともありましたから」
「母様?」
唐突に、昼間、蔓バラ姫について交わした会話に母様のことを添えて蒸し返してきたルイに、私が問いかければ、彼は頷いた。
モンフォールの当主様が貴き血と誤解した、母様にまつわる不思議な現象の話。
茎が折れたり、萎れかけたりして色が変わりつつあるような花や苗や蔓まで、母様が手当てをするとよみがえったらしいといった父様の話。
大嵐の際、十歳の母様が大丈夫だと言ったその通りに、モンフォール領の穀物畑の大半が助かったといったお祖母様の話。
たぶん祝福持ちだったのだろうといったルイの推測だけれど、結局どんなものだったのかはよくわからない。
それに本当に植物を育てる才能やただの偶然も否定できない。
何故なら、祝福だとしたらすべての現象を可能にするには、あまりにその力が強くて広範囲すぎるものになってしまうからだそうで、どちらかといえば仮に祝福を持っていたとしてもそればかりではなく、いくつかは“緑の指”と呼ばれるその才能や偶然の可能性が高いといったルイの見解だった。
「念のためもう一度お聞きしますが、蔓バラ姫と彼女の干渉以外に精霊を見たりその声を聞くことはないですね? 例えば、貴女しか知らない人などもいませんね?」
「え?」
「祝福持ちもですが……精霊絡みは判別がしにくい。なにしろ魔力は関係ない上に、生まれてすぐに与えられたものや先天的なものが多い上にその現れ方は多様です。シモンのように明らかに普通の人にはない力はともかく、日常に溶け込んでしまうようなものは本人も無自覚なまま一生を終えることもあります」
精霊博士が希少なのは絶対数が少ないのもあるけれど、そのような資質があっても発見しづらいことにもあると言ったルイに、わたしは水浴びした犬のようにぷるぷると首を横に振った。
「ないし、いないわ。それに蔓バラ姫が見せてくれるまで、この屋敷に家付精霊がいたなんて気がつきもしなかったし」
「ええ、そうですね。そうなのですが……」
そのことなら、昼間の会話で解決したはずなのに。
どうしてまた繰り返し聞いてくるのだろう。
「どうしてもジュリアン殿から聞いた、“この子は私と同じ、“緑の指”を持っている”といった貴女のお母様の遺言が気にかかってしまい……」
「でもそれって、モンフォール家に“貴き血”を持っていると狙われた母様の血を引くわたしも、植物の世話が好きで同じように狙われるのを母様が心配したからで、それに母様がたとえ“祝福持ち”でもそれは一代限りなのですよね?」
「仰る通りです。ええ……そう、きっと思い過ごしです」
わたしの言葉に、昼間音楽室でもそうだったみたいに、ルイは力が抜けた様子でわたしの肩から両腕を回して寄り掛かった。
「あの、大丈夫? なんだか神経過敏じゃない?」
「過敏にもなります……本当に、貴女という人は落ち着き払って」
「だって、魔術や精霊のことはよくわかりませんし」
「……そうなのでしょうが、私から見ると魔術適性はないのに魔力や魔術への適応が妙に高いような貴女に、どうしてもあれこれと考えを巡らせてしまうのですよ」
「でも、それなら余計に精霊とは無関係だと思いますけど? だって魔力は不要で魔術とはまったく別物なのでしょう? それに魔術って、“ヴァンサン王の子”にヴァンサン王のような精霊他人外と交流する力がないのを補うために編み出された技法ですよね?」
「ええ」
「だったらなんだか魔術に親しかったり適応が高い方が、彼等から遠くなる気がします。蔓バラ姫も言っていたし」
「なにを?」
「ルイほど彼女達に指図する魔術師はいないのに、彼女達との交流はさっぱりだって」
わたしの言葉に、ルイがちょっと驚いたように目を瞬かせる。
わたしから離れ、冊子を読んでいた体勢に戻って口元に指を当てて黙り込み、しばらくして確かにと呟く。
ちらりと彼の目線がサードテーブルへと動いて戻り、またなにか考え込むように黙り込んだルイだったけれど、なんとなくそれはもうわたしへの心配からは離れたもののように思えた。
「それよりも、このお屋敷の気になっていた問題が解決してわたしはうれしいです」
そうなのだ。
抜いても抜いてもとても追いつかない勢いの雑草問題、老朽化した建物の見た目だけでもなんとかしたい問題、そして住居部として使用している“王妃の棟”だけでも広すぎるお屋敷の手入れ問題の大半が、蔓バラ姫によって解決した。
それも代償なしで!
思わずにこにこしてしまうけれど、わたしのにこにこに反してルイは不服申し立てしたそうな恨めしげな眼差しをわたしに向けてくる。
「ええまあ。しかし貴女がああいったことを望むとは……」
「だって、下手に自分やあなたにかかるようなことを望むのも怖いじゃない」
「贖いで、代償なしに向こうが勝手にやってくれる。こんな機会は滅多にないと一つを三つに増やしたというのに……」
まったく勿体ないことこの上ない……と、ぶつぶつぼやき始めたルイに思わず顔が引きつってしまう。
「ルイ……」
わたしは大満足なんですけれどね。
それにわたしのための贖いだってことをちょっとお忘れですよね……いくら精霊が自ら人間の望みを叶えるためにその力を揮うことは、大変に珍しいことであるらしいとはいえ。
ルイは少しばかり、魔術や魔術に少しでも関係しそうなことに頭を使い過ぎるのじゃないかしらと思う。
*****
「ええ、贖いよ。私が出来ることなら一つ叶えてあげる」
そう――わたしが倒れたことに責任を感じたらしい蔓バラ姫が、彼女の意志で精霊の力をわたしの望みを一つだけ叶えるために使ってくれると申し出たのに、すかさず横槍を入れたルイは流石の悪徳魔術師だった。
「誇り高き古精霊の贖いとはそんなものですか……」
「なんですって?」
「だってそうでしょう? 強引に精霊の領域へ連れ去ろうとしたことだけだと? 私が彼女に施していた途中の加護の術を暴発させ、彼女は消耗で倒れ、彼女の内にある加護の術も破綻した……それが魔術師でもないただの人間の娘にとってどれほど危険なことか……」
「ちょっと待ちなさいっ。連れ去ったのと倒れたのは私のせいでも、あなたの魔術は関係ないでしょう、ヴァンサンの子っ!」
まったくもって、その通りだ。
言いがかりにもほどがある。
大体、あの加護の術だって、あの時点ではわたしに黙って勝手にルイが施していたもの。
その暴発に関することまで蔓バラ姫のせいだなんて、責任転嫁も甚だしい。
「貴女のような精霊が手を出してくることを用心したからです。そして案の定、貴女は私を弱らせてマリーベルの前に現れた。私を消耗させたことや領地が被った迷惑や被害も、本当なら贖ってほしいところです。貴女にとってはマリーベルの為を思ってのことで通用しないでしょうが」
「ふん、当たり前じゃない。いいわ、あなたじゃなくマリーベルを消耗させたことの二つにしてあげる」
「いいえ、先ほども申した通り、貴女がマリーベルに贖うべきは四つです」
「魔術は関係ない」
ふん、とそっぽ向いてルイの言葉を切り捨てた蔓バラ姫は間違ってはいない。
むしろ、一つだけが二つに増えたことに驚いたくらいだ。
「貴女さえマリーベルに手を出さなければ、起こり得なかった事だというのに……」
額を抑えて俯き深く嘆息しながら、緩く首を振ってぼそりとこちらに聞こえるか聞こえないかといった声量で呟いたルイに、わたしはもう内心呆れ返って言葉もない。
この人……精霊である蔓バラ姫の代償なしな力を使う権利を、もぎ取れるだけもぎ取るつもりだ。
「“ヴァンサンの子の嫁”だの“姫さま”だのと懐いたところで、“誇り高き古精霊”の貴女からみれば所詮はただの人間の娘。“誇り高き古精霊”としては、その程度で十分有り難がれと仰るのは当然なのかもしれませんが……」
「ちょっと、私たちはいつだって……」
「よき隣人。ええそうでしょうとも。四大精霊の直に仕える“誇り高き古精霊”な貴女ですから、従えている数多の小精霊達を失望させるような吝嗇なことはしないでしょう」
「……」
妙に“誇り高き古精霊”を強調しつつ、あからさまに当て付けるようなことを言うルイに、わたしのすぐ隣でうなだれて肩を震わせた蔓バラ姫を見て、流石にこれは言い過ぎだと思う。
精霊である彼女が逆上したら、厄介だろうことを考えない彼ではないはずなのに。
「あの、蔓バラ姫。ルイの言うことは……」
「……そうなの?」
「え?」
「私が連れて行こうとしたから、姫さまの内に施されていた魔術が姫さまを傷つけたの?」
「ええと……」
正直、これはどう答えたらいいのかしら。
わたしは魔術師ではないけれど、やっぱり精霊相手に嘘はよろしくないだろう。
だとすると、そうじゃないとは言えない。
だって魔術が暴発したのは、あきらかに蔓バラ姫がわたしを強引に精霊の世界の住人にしようと襲いかかってきたからで……。
「す、少しばかり……蔓に絡まれてわたしも驚いてしまったといいますか、怖かったといいますか、身の危険を感じたといいますか……おそらくはそれで……」
だから事故のようなものですと、言おうとしたのよわたしは。
悪徳魔術師の片棒なんかこれっぽっちも担ぐ気はなかったのですから。
「じゃあ、本当にヴァンサンの子の言う通りなのね……」
「え? あの……蔓バラ姫……?」
弱々しい口調でそう言った蔓バラ姫に、けれど事故のようなものですからと言うつもりだったのだけれど。
がばっと突然勢いよく顔を上げた彼女に気圧されて、言えないでいるうちに。
「でも三つよ!」
そう、彼女自身が宣言してしまう。
「ほう?」
「魔術が暴発したのは私の責任でも、壊れたのは本当に知らないわ。壊れなかったかもしれないし、あなたの施し方が悪かったのかもしれない」
「まあ……それは。いいでしょう」
「それにこれは姫さまのための贖いだから、三つは姫さまだけで考えて決めた、姫さまに直接関わる、姫さまの望みしか受付ない。ヴァンサンの子は無関係よ」
無関係というのは……それはそれで違うのでは、蔓バラ姫。
むしろルイを一ヶ月も翻弄して消耗させたことや領地が被った迷惑や被害の方が、わたしよりもずっとずっと贖うべきことなのでは?
けれども、蔓バラ姫の中では完全にルイは無関係となっているようだし。
ルイ自身も、蔓バラ姫はわたしのためにしたことだから、自分や領地が被った迷惑料は請求できないように言っていた。
精霊の理屈、よくわからない。
それにしても。
とにかくわたしの望みしか受付ない、大変に強い意志を感じる条件付けをされた贖いだわ……と、ルイを見れば渋い顔をしていたけれど、おそらく三つが落とし所だったに違いない。
仕方ないといった様子で、指を当てている口元の端が心持ち上がっている。
悪徳魔術師。
「三つ……」
「ええ、私に叶えられることならなんでも言って」
にこにこと人懐っこく、蔓バラ姫がまたわたしの腕にしがみつく。
精霊って、なんだかものすごく気紛れで身勝手な子供みたい。
「その……フォート家の“祝福”の影響を受けないようには?」
「それは無理。だってそれは私であって私ではない蔓バラ姫が与えたものだもの。私では干渉できないわ」
やっぱり無理か。
ルイもそう話していたものねと思い出しながらそうですかと返したら、ごめんなさいねと蔓バラ姫が言った。
出来ないものは出来ないから、仕方がない。
「いいの、ルイから解除できないことは聞いていたから」
ならどうしようかしら……と、ルイを見てふと彼の言葉が脳裏を過った。
――まあ、精霊が自らやってくれたら楽ですけどね。
「あ……!」
「なに?」
「ええと、ずっと悩んでいることがありました!」
「ん? マリーベル? 貴女は一体なにを……」
「蔓バラ姫は、地の精霊の属なのですよね?」
「ええ」
「整えられた庭園や花壇を荒らしてしまう草を、生えないようにすることは?」
「そうね、生えてしまったものは枯らして土に戻し、こぼれ落ちてしまった種を眠らせることならできるけれど?」
「でしたら、一つ目はそちらで!」
「マリーベル! なにもそんなことに……」
わたしを止めようとしたルイに、じゃあなにを望めばいいのと思う。
「そんなことではありません! 魔術でもできないことはないけれど、かなりきついことなのですよね? いくら通いの下働きの者がいても、エンゾ一人では広すぎる庭や花壇だと以前から気になっていたんです」
「……しかし」
「それに、いまの季節に皆の手が雑草除去にとられて大変なことにも、わたくしこれ以上煩わされたくないです!」
フェリシアンやオドレイが控えているので、ヴェルレーヌから自分一人かルイと二人きりの時以外は意識するよう注意されている言葉遣いできっぱりとルイにそう告げれば、彼は黙った。
うん、これはいままでのわたしよりもちょっと強い気がするわ。
二つ目は、廃墟同然に老朽化していて安全面からみても危うい建物がこれ以上崩れないよう、人が入れないようにして、かつ見た目に寂れた感じに見えないように出来ないか。もちろん虫などの害も起きないように。
そして三つ目は、わたしやルイをはじめとするフォート家の皆が使っている“王妃の棟”とそれにつながる主棟の正面玄関及び使用している区画までの維持管理を助けてもらえないか。
「出来るかしら?」
「それが望みと言うのならいいけれど……私、地の精霊グノーン様直属の古精霊よ。その気になれば森の一つや二つ豊かにさせたり、地中の宝を集めさせたり、あなたに“祝福”だって与えられるのに、そんな簡単なことでいいの?」
「蔓バラ姫の言う通りです、マリーベル。それこそあなたが物騒だと仰る、私の加護の術に替わるような“祝福”を受けることや、ないものをあるようにすることも……」
わたしを誘導するようなルイの言葉で、なんだかわかってしまった。
きっと、魔力の代償なしで人間のために揮われる精霊の力と魔術の違いを検証できるまたとない機会とかなんとか考えているに違いない。
悪徳魔術師じゃなくて、研究馬鹿であんな交渉したのね……。
蔓バラ姫からの申し出を聞いて、すぐさま一度では足りないとした、その頭の回転というか切り替えの早さというか、その熱心さには本当に感心してしまう。
「わたくしにとっては、いまその三つが大問題なんです! 使用人を数十や百単位で雇い入れることが難しくて屋敷の管理をルイが渋るのなら、精霊でもなんでも使って解決しますっ」
「なんだか精霊の無駄遣いのような気もするけれど……わかったわ」
「……っ、貴女のための贖いといった制限がついている以上、仕方がない」
というわけで。
廃墟同然な建物部分はすべて蔓バラに覆われた。
それも精霊の力を宿した蔓バラなので枯れることはなく、年中花が咲き、虫の害などもなく、その内側は精霊の世界同様に人間の世界とは異なる時間の流れでおまけに一種の結界にもなってくれるという。
なんて万能、栽培できるものなら栽培したい。
小さな枝を少し分けてもらって接木で増やせないかしら。
建物保存に悩む古い貴族の方々にとって、素晴らしい植物苗として取引できるのでは?
「マリーベル……大変興味深くはありますが、精霊の世界のものは人間の世界に持ち込めません」
ユニ領の土地も増えたしなどと夢想していたことにルイから釘を刺されて、我に返る。
口に出していなかったのに、どうしてわかったの!?
「貴女の顔を見ていればなんとなく察しがつきます……あなたやフォート家と蔓バラ姫の関係や、屋敷の護りもあって成り立つことです」
「……そうですか」
「ええ」
屋敷の使用部分の維持管理については、彼女の眷属でもある家付精霊がこの屋敷には複数いるから、彼等を働かせるとのことだった。
「家付精霊?」
「ええ」
そう彼女が肩を竦めて、長椅子から真横の壁へと首を回す。
なんだろうとわたしとルイが彼女の向いた先を見れば、サロンの壁際にまるで子供のおもちゃの木彫人形のように小さな体の、農夫のような格好をしたお爺さんが七人いた。
「えっ……?!」
“ふむふむ、ワシら見えておるようだぞ”
“ほっほっ、蔓バラ姫に呼ばれてみれば”
“おやおや、主殿までもこちらを見ておる”
“おおおお、可愛らしい奥方を娶った羨ましい主殿か”
“ほれほれ、近頃浮かれておるからの”
“いやいや、屋敷が賑やかなのはよい”
“しかりしかり、めでたいのう”
“めでたい”
“めでたい”
ごしょごしょと寄り集まって、ルイを指差しなにか頷き合っている。
「蔓バラ姫……なんですかこの者達は」
「本来は山の岩や鉱物に潜む小精霊達だけれど、ここが気に入っているのですって。気がついていなかった?」
「まったく」
「あなた程、私たちにあれこれ指図してくる魔術師っていないのに。本当にさっぱりね」
「精霊と馴れ合う気はありません……たしかに、長年放置している割に寂れ方がそれほどではなく、とはいえ人が住んでいればそれなりに保たれるものかと思っていましたが……」
「そんなわけないじゃない。彼らのおかげよ」
“ほっほっ、ワシらがちょいちょいやっておるからの”
“ふむふむ、ここは旨いものも多くある”
“しかりしかり、あのワシらにちょっと似た台所の娘が色々こぼしてくれる”
「それって、アンのこと?」
アンは、ロザリーさんの調理助手だ。
ロザリーさんが以前に働いていたお屋敷の厨房にいて、彼女についてきたのだという。
普通の娘さんのように見えて、スカートに隠れた足元がゆらゆらと床からいつも少しだけ浮いているので人ではない。
ルイにもどういった存在なのかよくわからないらしい。
とにかく料理長のロザリーさんに懐いていて調理を手伝い、よく働き、害意も見られないためにフォート家の使用人の一人ということになっている。
前のお屋敷では、いるようないないような存在だったらしい。
ロザリーさんは、ルイ同様、料理のこと以外は雑事なのでアンが調理助手として役立つならそれ以外の細かいことはまったく気にしていないらしい。
“おやおや、そうですぞ奥方”
“いやいや、しかしあれは精霊とはちと違う”
“おおおお、人の子でないのにまるでそのように働く娘”
“ほれほれ、あの奇妙で旨いものを作る女人を好いておる”
「本当、妙な者達が多いわ。犬狼様が花を育てていたりもするし」
「エンゾは先祖返りの人です。それにしても……アンは家付精霊の一種と考えていましたが、精霊から見てもよくわからないもののようですね」
「あなた達、私の蔓で覆ってしまったところは手をかけなくてよくなったのだから、姫さまが使っているところで働きなさいな」
蔓バラ姫の言葉に、また寄り集まってごしょごしょと相談した小人達が、一斉にこちらを向いて同時に頷いた。
特別に、蔓バラ姫がいなくなってもルイとわたしには引き続き、家付精霊達を見て声を聞けるようにしてくれるらしい。
もっともその家の者が一度気がついて声を聞くと、彼等はそれなりに見聞きしやすくなるものではあるらしい。
「私たちはいつだって、良き隣人だもの」
そう言って、蔓バラ姫も家付精霊達もどこかへ消えてしまった。
たぶんわたしが彼女に連れられた精霊の道とやらで、どこかへ行ってしまったのだろう。
ちなみに蔓バラ姫の三つの贖いがすべて行われる間で、お屋敷に一体なにが起きたのですかっと大慌てで叫びながら外から屋敷に駆け込んできて、廊下でわたし探す声を上げ続けるリュシーへの説明のために、わたしから概要を聞いたフェリシアンが部屋を出て行ったり。
おそらくフェリシアンから簡単に説明を受けて、彼と入れ替わりでやってきたテレーズが、たぶんもやもやの光状態の蔓バラ姫を見て、精霊ってなんだか不気味ですわねと呟き、蔓バラ姫がご機嫌を損ねたのをわたしがなだめたり。
警備上の確認をしたほうがよろしいのではと言い出したオドレイに、ルイが今まで通りで問題ないと指示したりと、慌ただしいことで蔓バラ姫とのやりとりを中断されもしてとても疲れた。
屋敷の中が大変だった間、外にいたエンゾとシモンとマルテに下働きの人達は、草むしりの仕事がなくなり、エンゾの指示でお庭でのんびりと水撒きして、労いのお菓子を食べて休憩しながら待機していたそうで。
エンゾが言うには、「なにかあるなら旦那様から説明があるし、明らかに大きな魔術かなにか動いている様子なのにむやみに近づいては危険だから」と、蔓バラ姫の蔓が建物を覆っている間はリュシーを止めてもくれていたらしい。
流石は、フォート家で一番の常識人。
わたしがエンゾにお礼を言えば、彼はぱたぱたと尾を揺らした。
どうやら少しばかり照れたらしい。
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