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第二部 公爵家と新生活
58.母様の秘密
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“祝福持ち”だったのではないか……そう、母様について考えを述べたルイに、お祖母様はそんなあり得ないわと言った。
貴族の子供は十三歳までに魔術に関する基本的な知識を学ぶことが必須教養とされているから、下位でも貴族の家の娘だったお祖母様もそのはずだった。
「魔術の適性もない子なのですよ」
お祖母様の言葉に、ああマリーベルの適性のなさは母親の遺伝でしたかと、ルイは納得したように頷いた。
たしかに魔術適性は、強い血筋は強い者が生まれやすいなど遺伝的要因が見られますからねなどと言っている。
ちょっと、いやかなり、魔術研究の方に思考が傾きかけていらっしゃるような気がする。
「精霊となんの関わりもない人間の場合、“祝福”は赤子の時に一方的に与えられるものです。内容によっては本人が自覚していない場合もある。あれは魔術ではないので検知もされにくい。西部は農地が多いですからその日常に上手く嵌ってしまうものだと、あり得ますよ」
日常からはみ出してしまうような祝福だと、例えばシモンのように異端扱いされたり迫害を受けて本当に呪い同然なものになるけれど、そうでないようなものの場合は、聖なる力を授かったと反対に歓迎されたり、本人も周囲も気がつかず才能としてもてはやされたりする場合もあるらしい。
「“祝福”は精霊がよかれと思って勝手に与えるものなので、良い方向に働けば、言葉通りの祝福となりえます。もっとも“祝福”を与えられること自体が稀なことですが」
「あの子が……」
「しかし、そうだとしても若干疑問の余地が残るほど強力かつ広範囲なものです。少なくともフォート家に祝福を与えた蔓バラ姫のような、地の精霊の直接の眷属くらい力のある精霊でなければそこまで干渉できる力にはならない。ご存命のうちにお会いしたかったですね」
淡々とした調子だけれど、心底から残念だと思っているのがわかった。
魔術の家系であるご自分のことはあまり快く思っていない節があるくせに、本当に魔術に絡むこととなれば他のことが雑事になる……どうしようもない人だわとルイに少し呆れる。
「あの……公爵様」
「はい」
「その……その“祝福”というものは娘にも」
「わたし!?」
ないないない、そんなものはない。
庭師のエンゾからは、リュシーよりは手伝いとして助かるくらいの評価でしかないのだから。
「“祝福”は与えられた当人だけ、一代限りのものよジュリアン。でなければそこいらじゅうに異能を持つ者が現れてしまいます」
「ええ、クロディーヌの仰る通りです。“祝福”それよりも稀有な“加護”であってもそれは与えられた者だけです」
「だがフォート家の祝福とやらはそうではないのでしょう」
「あれは、“ヴァンサン王の子の血統と力は途切れない。子から子へと引き継がれる”といった、与えられた当人ではなくその血を引く次代にかかる、非常に厄介かつ異例な祝福なので特別です」
「そもそも父様、わたしそんな母様ほど上手じゃないわ。ジャンお爺さんからも母親と比べてまったくだめだっていつも文句いわれてたもの」
「ああ、偏屈者だがお前と遊んでくれるという村の老人か。言われてみればたしかにマリアンヌのようにお前に驚いたことは儂もないな……」
飲み干して空になったままだったゴブレットに、父様は手ずからワインを注ぎ入れる。
人払いをしているため、ファビアンとオルガや他の使用人も部屋にはいない。
「マリアンヌの遺言があったものだから」
「遺言?」
父様の言葉を聞いて、ルイが眉根にわずかに皺を刻んだ。
「差し支えなければ、それはどういった……?」
「え、ああ。この子は私と同じ、“緑の指”を持っているからと。だから自分の時のように娘のことも守ってくれと……」
「……成程」
「ルイ?」
口元で指を折り曲げて呟くように、父様の話に相槌を打ったルイになんだろうと思う。
あれはなにか考える時の彼の仕草だ。
「おそらくは……ご自分と同様の目をマリーベルも向けられるのではないかと心配されていたのでしょうね」
「そうだろうと思います。妻とのその約束があったからこそ、私もここまで踏ん張ってこれました」
どうやら母様の言葉の意味を考えていたらしい。
そして母様の遺言と父様の言葉を聞いて、あらためてわたしとわたしが過ごす日々ごと、母様が父様に託したその通りにずっと守られていたことがあらためてじんわりと胸に迫って、今度こそ視界がぼやける。
「父様……」
「なんだ、マリーベル」
突然、父様の腕に額を擦り付けるようにして、袖を摘んだからだろう。
父様が驚いた声を上げたけれど、離れる気になれなかった。
「……ありがとう、父様」
「まったくお前は、いつまでも娘気分で……」
子供の頃に泣いた時にそうされたように、父様の、書類仕事で乾いて少しインクの匂いのする指が頬を拭ったのに、だってと自分でもびっくりするほどの涙声で応える。
そうして本当に小さな子供に戻ったように父様の腕にぴったりくっついたまま、父様がルイに向かって告げた言葉を聞いた。
「公爵様……いや、ルイ殿。あらためて娘をよろしくお願いします――」
*****
時間が経っても大丈夫な軽食を皆でとって、お祖母様はドルー家へ公爵家の馬車で送られて戻っていった。
わたしとルイは客間へ、オルガに湯浴みと就寝支度を手伝ってもらって、衝立で区切られた場所から昨晩同様に魔術で身を清めたらしい寛いだルイの側まで近づくと、下がろうとしたオルガを止めて、嫁ぐ前の自分の部屋に移動すると伝える。
「ですが」
「部屋は使えるでしょう」
「使えますが、お嬢様……」
困惑するオルガに、構いませんとルイが声をかけた。
「彼女の好きにしてあげてください」
「いいの?」
「色々と思うところもあるでしょう。しかし、大丈夫ですか?」
なにについての、大丈夫だろう。
思い当たることがあれこれと多すぎて、答えられず少しだけ微笑んで勝手を許してくれた礼を言えば、屋敷ではそれが当たり前だったのですから今更ですとルイは苦笑した。
そういえば、そうだった。
フォート家を出てから十余日ずっと彼と一緒にいて、共寝していたのですっかり忘れていた。
「あのお嬢様……その、とても仲睦まじく見えたのはこのオルガの目が老いたからでしょうか」
かつてわたしが使っていた部屋に移動して、埃除けの布などを取り払って寝台を整える手を止めてのオルガの問いかけに、へっと変な声が出てしまった。
「先程、公爵様が屋敷では別々なのが当たり前のようなことを。まさか――」
「つ、妻にはなっています。きっちりしっかりと」
ものすごく気遣わしげな顔をオルガにされてしまって、反射的にそう言えば心底ほっとしたようにならようございましたとオルガは寝台を整える作業を再開し、こちらで大丈夫ですよと言った。
うう、子供の頃から面倒を見てもらっているだけにかなり恥ずかしい。
ありがとうと言いながら、頬に熱を帯びてしまう。
わたしが王都にいた間も、わたしの部屋は定期的に掃除されていたらしく床に埃がうっすらと積もっているようなこともなくとても綺麗だった。
薄い青に塗られた壁、淡いクリーム色の寝具で整えられた寝台に飴色の艶を持つ簡素なテーブルと椅子、小さなひきだしがたくさんついたチェストと衣装箪笥と小さな書棚。
自分で言うのもだけど、若い未婚の娘の部屋にしては少々殺風景かもしれない部屋を見回し、なんか王宮で目まぐるしく働いていた生活や、ルイと出会ってからのことが全部夢だったような錯覚にとらわれる。
まるでほんの二三日、ドルー家にでも泊まって戻ってきたみたい。
不思議な感覚だった。
「結婚してすぐ、領内から色々と相談を寄せられてルイが忙しくなってしまったのもあって……」
それとわたしが身構えていたこともあってと、付け足そうか迷ったけれどまたオルガを困惑させそうだと思って口を噤んだ。
「お嬢様」
「あ、えっと、なに?」
「……いえ、ゆっくりお休みください」
なにか注意されるかしらと、オルガの顔を見ればとても物言いたげな表情をしてけれどなにも言わずに退室の挨拶をして下がった彼女に拍子抜けし、蝋燭の火を吹き消して、一人になったかつての自分の部屋で寝台に倒れ込む。
なんだか疲れた、とても疲れた。
窓から差し込む月の光が明るく、蝋燭を消しても薄明かりだった。
「っう……っ……」
そして一人になったら、今日一日のこととこれまで自分が目隠しされてきた世界が一気に押し寄せてきてしらず嗚咽が漏れた。
泣き声が、部屋の外に漏れないように寝具に突っ伏す。
王都に出てからの後の日々が夢を見ていたようなら、その前のここで生まれ育った日々は偽りだ。
もちろんわたしの身とわたしの心を守るためだったことはわかってるし、本当に命がけでわたしをわたしが生まれ育ったこのユニ領を守ってくれていた父様には感謝しかない。
けれどそれとこれとは別で……それに。
ルイも。
彼のことだ、最初に自分の思惑のために整えた手筈が利用できるなら、それも利用することにしたのだろう。
父様ではもう手が出せないところをまるで父様から引き継ぐように、やっぱり父様と同じくなにもかもから目隠ししてわたしを守った。
あの親切だったモンフォールの当主様が母様とわたしに対して、どんなおぞましい考えと扱いだったのか、人としてすら見ていなかった。
なにもかもがそうだ、わたしが信じて見ていたものとはまるで違う。
怖い……いまわたしがそうだと思っている、いまのこの状況は本当なのか自分で自分が信じられなくなりそうだった。
なんだかどんどん暗い場所へ沈んでいくよう……。
心の中がぐちゃぐちゃで、だから部屋の扉が細く開いたかすかに軋みにも気がつかなかった。
「――やはり大丈夫ではありませんね」
聞こえた声と、扉の閉じた音にはっと顔を埋めていた枕から頭を上げて、肩だけ持ち上げて振り返る。
扉の前に立っているのは、思った通りにルイだった。
「深夜に淑女の部屋を忍んで訪ねる非礼をお許しください、マリーベル」
「どうして……」
「貴女の部屋を訪ねないと約束した覚えはありませんよ」
いつもの調子でそう言ってやってきた彼は、わたしと距離を置いて寝台の隅っこに腰かける。
わたしを斜に見下ろし、いまの貴女にとってはこういったのも腹立たしい限りでしょうがと言った彼に、驚きに一度凪いだ心が再び激しく波立つ。
憤り任せに起き上がって、枕の端を掴み投げつけたけれど難なくルイは受け止めた。
「なにがっ……嘘吐かな……っ」
う……うぅっ……と、言葉は途中で嗚咽に変わってしまって、だらだらぼたぼたと流れ落ちて止まらない涙をぬぐうことも顔を覆うことも忘れて……後から考えたらひどい形相で睨みつけてしゃくり上げる声を押し殺そうと唸っていたわたしは、令嬢としても公爵夫人としてもあるまじき姿だったに違いない。
けれどその時はそんなことを思う余裕がなかった。
「嘘は吐いていません。ですが嘘を吐かなければならないところは黙ってやり過ごし、隠し事は大いにしました。貴女のためといった私の勝手は判断の下に。ジュリアン殿は魔術師ではないので方便程度のこともしたでしょう、娘を思う父親として」
そんなことはわかっている。
「まあでも貴女からすれば、貴女の目を長年眩ましてきたことには違いありません。私もその片棒を担いだことには弁明のしようもなければ、その時間をやり直すことも叶いません。なにもかも信じられなくなりそうな気分だろう貴女を守り切るためだったと、せいぜい貴女に開き直るくらいです」
正面を向いて横顔を見せ、わたしが投げつけた枕を、ご自分の目の前でふかふかと両手に押し挟むようにして弄びながらのルイの言葉に、かっと頭に血が上るような怒りで息が詰まる。
はっ……と短く息を吐き出して、そのまましゃくり上げてしまったわたしの声に彼は目線だけをわたしに向けた。
「わたしっ……そんなことっ……」
「望まない? 本当に? 人とも扱われない境遇に陥るか不安の日々を過ごしたかった? いつ向けられるかもわからない悪意を意識しながら始終怯えながら暮らしたかった?」
「……やめ、て」
「自分のために不当な扱いを受ける父親を見てみぬ振りをするのと、おぞましい提案に頷くのとで葛藤したかった? その結果、涙ぐましい献身を選び、結局なにもかも無駄に後戻りできない我が身を嘆きたかった? 貴女を守れなかった父親はどうなるか、その末路を人伝に聞き絶望したかった? ああ、その前に気が触れることもあれば、あるいは案外受け入れてしまうことも……」
「やめて――っ!」
淡々と、教えてくれたらなどといったわたしの小さな意地など粉々に打ち砕く、無慈悲な起こり得たかもしれない現実を並べ立て問い詰めてくるルイの言葉を遮るように、涙で濁った声で目を閉じて叫び、後はもう本当に嗚咽の声しか出なくなる。
「っ……うっ、く……っ……」
「貴女はしっかりした人ですが、そこまで強い人ではありません」
マリーベルと、やはり淡々とした調子で呼びかけられる。
「貴女が見ていたものは本当です、貴女を大切に思う人達が本当にしてみせるとしていたものであり時間です。それが嘘で偽りだと?」
下ろした髪が乱れるほどにわたしが首を横に振れば、結構とルイは呟いた。
「なにも知らなかったなどとご自分を責めるのはお門違いです。教えてくれればなどといった意地なら愚かですらある」
「……それならっ……最後まで、教えないでほしかっ……」
熱くなった目元を左右の掌で押さえながら絞り出すようにそう言えば、無理ですねと切り捨てられた。
「モンフォール伯に手を出させないための手立てもですが、ジュリアン殿やユニ領を実質的に庇護下におかなければならない時点で、いずれ貴女の知るところとなる。その手続き上や、口さがない部外者の噂などで中途半端に知りたかったですか?」
ふるふると再び首を振れば、塞いでいる視界がさらに暗くなったのに手を目元から離して瞼を開けばルイが間近に寝台の外からわたしを見下ろしていて、斜めに伸びる彼の影がかぶさっていた。
「小さな子供みたいに泣きじゃくる貴女も可愛らしいですが、少々痛ましくもある顔ですね」
「え……」
「流石にいまは触れません」
言いながらわたしの顔に触れるか触れないかのところまで彼の手が伸びて、その手が目隠しするように目元を覆う。
「――……」
言葉の意味がわからない。
彼が唱える魔術のための古い言葉が聞こえて、思わす閉じた目元にぽうっと淡く柔らかな光を感じると同時に熱を帯びた腫れぼったさが引いて、冴え切って眠れそうになかった神経までもが和らぐのを感じた。きっと癒しを施す魔術だろう。
「ゆっくりお休みなさい。マリーベル」
目元を包んだ光のように柔らかな声音を聞いて彼の名を口にするより前に、わたしは心地良い眠気に誘われるように眠ってしまった。
貴族の子供は十三歳までに魔術に関する基本的な知識を学ぶことが必須教養とされているから、下位でも貴族の家の娘だったお祖母様もそのはずだった。
「魔術の適性もない子なのですよ」
お祖母様の言葉に、ああマリーベルの適性のなさは母親の遺伝でしたかと、ルイは納得したように頷いた。
たしかに魔術適性は、強い血筋は強い者が生まれやすいなど遺伝的要因が見られますからねなどと言っている。
ちょっと、いやかなり、魔術研究の方に思考が傾きかけていらっしゃるような気がする。
「精霊となんの関わりもない人間の場合、“祝福”は赤子の時に一方的に与えられるものです。内容によっては本人が自覚していない場合もある。あれは魔術ではないので検知もされにくい。西部は農地が多いですからその日常に上手く嵌ってしまうものだと、あり得ますよ」
日常からはみ出してしまうような祝福だと、例えばシモンのように異端扱いされたり迫害を受けて本当に呪い同然なものになるけれど、そうでないようなものの場合は、聖なる力を授かったと反対に歓迎されたり、本人も周囲も気がつかず才能としてもてはやされたりする場合もあるらしい。
「“祝福”は精霊がよかれと思って勝手に与えるものなので、良い方向に働けば、言葉通りの祝福となりえます。もっとも“祝福”を与えられること自体が稀なことですが」
「あの子が……」
「しかし、そうだとしても若干疑問の余地が残るほど強力かつ広範囲なものです。少なくともフォート家に祝福を与えた蔓バラ姫のような、地の精霊の直接の眷属くらい力のある精霊でなければそこまで干渉できる力にはならない。ご存命のうちにお会いしたかったですね」
淡々とした調子だけれど、心底から残念だと思っているのがわかった。
魔術の家系であるご自分のことはあまり快く思っていない節があるくせに、本当に魔術に絡むこととなれば他のことが雑事になる……どうしようもない人だわとルイに少し呆れる。
「あの……公爵様」
「はい」
「その……その“祝福”というものは娘にも」
「わたし!?」
ないないない、そんなものはない。
庭師のエンゾからは、リュシーよりは手伝いとして助かるくらいの評価でしかないのだから。
「“祝福”は与えられた当人だけ、一代限りのものよジュリアン。でなければそこいらじゅうに異能を持つ者が現れてしまいます」
「ええ、クロディーヌの仰る通りです。“祝福”それよりも稀有な“加護”であってもそれは与えられた者だけです」
「だがフォート家の祝福とやらはそうではないのでしょう」
「あれは、“ヴァンサン王の子の血統と力は途切れない。子から子へと引き継がれる”といった、与えられた当人ではなくその血を引く次代にかかる、非常に厄介かつ異例な祝福なので特別です」
「そもそも父様、わたしそんな母様ほど上手じゃないわ。ジャンお爺さんからも母親と比べてまったくだめだっていつも文句いわれてたもの」
「ああ、偏屈者だがお前と遊んでくれるという村の老人か。言われてみればたしかにマリアンヌのようにお前に驚いたことは儂もないな……」
飲み干して空になったままだったゴブレットに、父様は手ずからワインを注ぎ入れる。
人払いをしているため、ファビアンとオルガや他の使用人も部屋にはいない。
「マリアンヌの遺言があったものだから」
「遺言?」
父様の言葉を聞いて、ルイが眉根にわずかに皺を刻んだ。
「差し支えなければ、それはどういった……?」
「え、ああ。この子は私と同じ、“緑の指”を持っているからと。だから自分の時のように娘のことも守ってくれと……」
「……成程」
「ルイ?」
口元で指を折り曲げて呟くように、父様の話に相槌を打ったルイになんだろうと思う。
あれはなにか考える時の彼の仕草だ。
「おそらくは……ご自分と同様の目をマリーベルも向けられるのではないかと心配されていたのでしょうね」
「そうだろうと思います。妻とのその約束があったからこそ、私もここまで踏ん張ってこれました」
どうやら母様の言葉の意味を考えていたらしい。
そして母様の遺言と父様の言葉を聞いて、あらためてわたしとわたしが過ごす日々ごと、母様が父様に託したその通りにずっと守られていたことがあらためてじんわりと胸に迫って、今度こそ視界がぼやける。
「父様……」
「なんだ、マリーベル」
突然、父様の腕に額を擦り付けるようにして、袖を摘んだからだろう。
父様が驚いた声を上げたけれど、離れる気になれなかった。
「……ありがとう、父様」
「まったくお前は、いつまでも娘気分で……」
子供の頃に泣いた時にそうされたように、父様の、書類仕事で乾いて少しインクの匂いのする指が頬を拭ったのに、だってと自分でもびっくりするほどの涙声で応える。
そうして本当に小さな子供に戻ったように父様の腕にぴったりくっついたまま、父様がルイに向かって告げた言葉を聞いた。
「公爵様……いや、ルイ殿。あらためて娘をよろしくお願いします――」
*****
時間が経っても大丈夫な軽食を皆でとって、お祖母様はドルー家へ公爵家の馬車で送られて戻っていった。
わたしとルイは客間へ、オルガに湯浴みと就寝支度を手伝ってもらって、衝立で区切られた場所から昨晩同様に魔術で身を清めたらしい寛いだルイの側まで近づくと、下がろうとしたオルガを止めて、嫁ぐ前の自分の部屋に移動すると伝える。
「ですが」
「部屋は使えるでしょう」
「使えますが、お嬢様……」
困惑するオルガに、構いませんとルイが声をかけた。
「彼女の好きにしてあげてください」
「いいの?」
「色々と思うところもあるでしょう。しかし、大丈夫ですか?」
なにについての、大丈夫だろう。
思い当たることがあれこれと多すぎて、答えられず少しだけ微笑んで勝手を許してくれた礼を言えば、屋敷ではそれが当たり前だったのですから今更ですとルイは苦笑した。
そういえば、そうだった。
フォート家を出てから十余日ずっと彼と一緒にいて、共寝していたのですっかり忘れていた。
「あのお嬢様……その、とても仲睦まじく見えたのはこのオルガの目が老いたからでしょうか」
かつてわたしが使っていた部屋に移動して、埃除けの布などを取り払って寝台を整える手を止めてのオルガの問いかけに、へっと変な声が出てしまった。
「先程、公爵様が屋敷では別々なのが当たり前のようなことを。まさか――」
「つ、妻にはなっています。きっちりしっかりと」
ものすごく気遣わしげな顔をオルガにされてしまって、反射的にそう言えば心底ほっとしたようにならようございましたとオルガは寝台を整える作業を再開し、こちらで大丈夫ですよと言った。
うう、子供の頃から面倒を見てもらっているだけにかなり恥ずかしい。
ありがとうと言いながら、頬に熱を帯びてしまう。
わたしが王都にいた間も、わたしの部屋は定期的に掃除されていたらしく床に埃がうっすらと積もっているようなこともなくとても綺麗だった。
薄い青に塗られた壁、淡いクリーム色の寝具で整えられた寝台に飴色の艶を持つ簡素なテーブルと椅子、小さなひきだしがたくさんついたチェストと衣装箪笥と小さな書棚。
自分で言うのもだけど、若い未婚の娘の部屋にしては少々殺風景かもしれない部屋を見回し、なんか王宮で目まぐるしく働いていた生活や、ルイと出会ってからのことが全部夢だったような錯覚にとらわれる。
まるでほんの二三日、ドルー家にでも泊まって戻ってきたみたい。
不思議な感覚だった。
「結婚してすぐ、領内から色々と相談を寄せられてルイが忙しくなってしまったのもあって……」
それとわたしが身構えていたこともあってと、付け足そうか迷ったけれどまたオルガを困惑させそうだと思って口を噤んだ。
「お嬢様」
「あ、えっと、なに?」
「……いえ、ゆっくりお休みください」
なにか注意されるかしらと、オルガの顔を見ればとても物言いたげな表情をしてけれどなにも言わずに退室の挨拶をして下がった彼女に拍子抜けし、蝋燭の火を吹き消して、一人になったかつての自分の部屋で寝台に倒れ込む。
なんだか疲れた、とても疲れた。
窓から差し込む月の光が明るく、蝋燭を消しても薄明かりだった。
「っう……っ……」
そして一人になったら、今日一日のこととこれまで自分が目隠しされてきた世界が一気に押し寄せてきてしらず嗚咽が漏れた。
泣き声が、部屋の外に漏れないように寝具に突っ伏す。
王都に出てからの後の日々が夢を見ていたようなら、その前のここで生まれ育った日々は偽りだ。
もちろんわたしの身とわたしの心を守るためだったことはわかってるし、本当に命がけでわたしをわたしが生まれ育ったこのユニ領を守ってくれていた父様には感謝しかない。
けれどそれとこれとは別で……それに。
ルイも。
彼のことだ、最初に自分の思惑のために整えた手筈が利用できるなら、それも利用することにしたのだろう。
父様ではもう手が出せないところをまるで父様から引き継ぐように、やっぱり父様と同じくなにもかもから目隠ししてわたしを守った。
あの親切だったモンフォールの当主様が母様とわたしに対して、どんなおぞましい考えと扱いだったのか、人としてすら見ていなかった。
なにもかもがそうだ、わたしが信じて見ていたものとはまるで違う。
怖い……いまわたしがそうだと思っている、いまのこの状況は本当なのか自分で自分が信じられなくなりそうだった。
なんだかどんどん暗い場所へ沈んでいくよう……。
心の中がぐちゃぐちゃで、だから部屋の扉が細く開いたかすかに軋みにも気がつかなかった。
「――やはり大丈夫ではありませんね」
聞こえた声と、扉の閉じた音にはっと顔を埋めていた枕から頭を上げて、肩だけ持ち上げて振り返る。
扉の前に立っているのは、思った通りにルイだった。
「深夜に淑女の部屋を忍んで訪ねる非礼をお許しください、マリーベル」
「どうして……」
「貴女の部屋を訪ねないと約束した覚えはありませんよ」
いつもの調子でそう言ってやってきた彼は、わたしと距離を置いて寝台の隅っこに腰かける。
わたしを斜に見下ろし、いまの貴女にとってはこういったのも腹立たしい限りでしょうがと言った彼に、驚きに一度凪いだ心が再び激しく波立つ。
憤り任せに起き上がって、枕の端を掴み投げつけたけれど難なくルイは受け止めた。
「なにがっ……嘘吐かな……っ」
う……うぅっ……と、言葉は途中で嗚咽に変わってしまって、だらだらぼたぼたと流れ落ちて止まらない涙をぬぐうことも顔を覆うことも忘れて……後から考えたらひどい形相で睨みつけてしゃくり上げる声を押し殺そうと唸っていたわたしは、令嬢としても公爵夫人としてもあるまじき姿だったに違いない。
けれどその時はそんなことを思う余裕がなかった。
「嘘は吐いていません。ですが嘘を吐かなければならないところは黙ってやり過ごし、隠し事は大いにしました。貴女のためといった私の勝手は判断の下に。ジュリアン殿は魔術師ではないので方便程度のこともしたでしょう、娘を思う父親として」
そんなことはわかっている。
「まあでも貴女からすれば、貴女の目を長年眩ましてきたことには違いありません。私もその片棒を担いだことには弁明のしようもなければ、その時間をやり直すことも叶いません。なにもかも信じられなくなりそうな気分だろう貴女を守り切るためだったと、せいぜい貴女に開き直るくらいです」
正面を向いて横顔を見せ、わたしが投げつけた枕を、ご自分の目の前でふかふかと両手に押し挟むようにして弄びながらのルイの言葉に、かっと頭に血が上るような怒りで息が詰まる。
はっ……と短く息を吐き出して、そのまましゃくり上げてしまったわたしの声に彼は目線だけをわたしに向けた。
「わたしっ……そんなことっ……」
「望まない? 本当に? 人とも扱われない境遇に陥るか不安の日々を過ごしたかった? いつ向けられるかもわからない悪意を意識しながら始終怯えながら暮らしたかった?」
「……やめ、て」
「自分のために不当な扱いを受ける父親を見てみぬ振りをするのと、おぞましい提案に頷くのとで葛藤したかった? その結果、涙ぐましい献身を選び、結局なにもかも無駄に後戻りできない我が身を嘆きたかった? 貴女を守れなかった父親はどうなるか、その末路を人伝に聞き絶望したかった? ああ、その前に気が触れることもあれば、あるいは案外受け入れてしまうことも……」
「やめて――っ!」
淡々と、教えてくれたらなどといったわたしの小さな意地など粉々に打ち砕く、無慈悲な起こり得たかもしれない現実を並べ立て問い詰めてくるルイの言葉を遮るように、涙で濁った声で目を閉じて叫び、後はもう本当に嗚咽の声しか出なくなる。
「っ……うっ、く……っ……」
「貴女はしっかりした人ですが、そこまで強い人ではありません」
マリーベルと、やはり淡々とした調子で呼びかけられる。
「貴女が見ていたものは本当です、貴女を大切に思う人達が本当にしてみせるとしていたものであり時間です。それが嘘で偽りだと?」
下ろした髪が乱れるほどにわたしが首を横に振れば、結構とルイは呟いた。
「なにも知らなかったなどとご自分を責めるのはお門違いです。教えてくれればなどといった意地なら愚かですらある」
「……それならっ……最後まで、教えないでほしかっ……」
熱くなった目元を左右の掌で押さえながら絞り出すようにそう言えば、無理ですねと切り捨てられた。
「モンフォール伯に手を出させないための手立てもですが、ジュリアン殿やユニ領を実質的に庇護下におかなければならない時点で、いずれ貴女の知るところとなる。その手続き上や、口さがない部外者の噂などで中途半端に知りたかったですか?」
ふるふると再び首を振れば、塞いでいる視界がさらに暗くなったのに手を目元から離して瞼を開けばルイが間近に寝台の外からわたしを見下ろしていて、斜めに伸びる彼の影がかぶさっていた。
「小さな子供みたいに泣きじゃくる貴女も可愛らしいですが、少々痛ましくもある顔ですね」
「え……」
「流石にいまは触れません」
言いながらわたしの顔に触れるか触れないかのところまで彼の手が伸びて、その手が目隠しするように目元を覆う。
「――……」
言葉の意味がわからない。
彼が唱える魔術のための古い言葉が聞こえて、思わす閉じた目元にぽうっと淡く柔らかな光を感じると同時に熱を帯びた腫れぼったさが引いて、冴え切って眠れそうになかった神経までもが和らぐのを感じた。きっと癒しを施す魔術だろう。
「ゆっくりお休みなさい。マリーベル」
目元を包んだ光のように柔らかな声音を聞いて彼の名を口にするより前に、わたしは心地良い眠気に誘われるように眠ってしまった。
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