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第二部 公爵家と新生活
21.蔓バラ姫
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リュシーはわたしの後を追ったらしい。
蔓ばらのトンネルを抜けて、少し歩いた庭木の影になった場所につんだばかりの花が束になって落ちていて、わたしの姿はどこにも見えなかったそうだ――。
*****
見間違いや勘違いではなかった。
蔓バラのトンネルを出た、植木の影に鮮やかな紅色のドレスを着た令嬢が佇んでいた。
結わずに下ろした波打つ金髪の優雅な後ろ姿。
「あの……」
「結婚したって聞いたからお祝いしたいだけと言っているのに、何度言ってもなかなか会わせてくれないのだもの」
「何度も……?」
声をかけたわたしに、挨拶もなくそう言った彼女の言葉を聞いて眉根が寄るのが自分でもわかった。
結婚してから、何度もって……もしかして頻繁に外出していた間に?
「そう、何度も。結局こうして出向くのにひと月もかかっちゃったわ。私は“蔓バラ姫。はじめまして、お嬢さん」」
――やっぱり、あいじ……。
脳裏でそう呟きかけた言葉は振り向いた彼女と顔を合わせて、途中で消えてしまった。
真珠色の肌。
バラ色の頬。
夢見るような微笑みに細められる、暁色を湛えた瞳のない目――!
この人。
人じゃ、ない?
わたしの考えをまるで読み取ったようにくすりと彼女は笑みを漏らした。
ふいに吹いた風が冬枯れの庭に残る葉や、常緑樹の枝をざわりと音を立てて揺らす。
クスクスクス……少し高慢な響きの茶化すような笑い声が耳に届く。
どう対応すればいいのかと返事もできずに呆然としているわたしの右手を取って、“蔓バラ姫”と名乗った彼女は、前屈みに上半身を動かしてじっとわたしのつま先から頭のてっぺんまで見た。
瞳がないからいまひとつその焦点がわからないけれど、たぶん下から上までわたしを検分するような、不躾な視線を感じた。
「それにしても、随分と可愛らしいのを選んだのね」
「え?」
「ま、どうでもよいことだけれど。歓迎するわ、“ヴァンサンの子”の嫁」
「あの……ちょっとっ?!」
高飛車に意味不明な言葉を言い放って、わたしの手を引いて歩き始めた彼女への困惑と腕から滑り落ちた花束に狼狽して、続けて不意に変わった周囲の色彩にえっと目を見開いた。
幾本もの絡まる蔓、濃い緑の葉が周囲にぐるりと茂ってきらきらと虹色の光を放っている場所にいつの間にかわたしはいた。
ようやく見慣れ始めたフォート家の庭の風景も屋敷もない。
慌てて振り返ってみても、どこまでも果てしなく同じ景色だけが続いているばかり。
どこなのここ、屋敷の庭は?
「なに、これ……」
「こっちよ」
「いや、こっちよじゃなく……ちょっと待ってっ!」
ずんずんとわたしの手を引いて進んでいく金髪に隠れた背に叫ぶように言って、わたしは足止めて緑の葉が敷き詰められた地面に踏ん張った。
それでもまだ引きずられそうになる。
蔓バラ姫なんて名前や優雅な姿に似合わず意外に力強い。
「なによ」
「なにって、ここは一体どこ?! そもそもあなた一体何者?! わたしをどうするつもり?!」
「……いやだあなた、本当になにも聞いていないの?」
「は?」
「ふうん。でもまあ嫁は、嫁のようだけれど」
暁の空を切って嵌め込んだような目を細めながら、一方的な、なんだか人の気に障る言い方だ。
大体、嫁は嫁ってどういうことよ。
なにがなにやらさっぱり事情がわからない。けれど彼女の言葉から察するに魔術師は事情を知っているようで、やっぱりなにか隠していることがあるのねとそれぞれへの苛立ちを抱えながら、蔓バラ姫の手をやや強引に振り払えば、しばらくわたしを眺めて彼女は肩をすくめた。
「この国中の神と精霊の祝福の下での婚姻の契約、祝いの夜を無事に越えた次の夜に彼の所縁の地で夫婦の契り、一ヶ月も前にしてはやけに跡が濃いわねえ」
「あの、仰っていることがまったくもって意味不明なのですけれど」
「あなた初夜に相当色々された?」
「んなっ……っ!!」
な、な、なんなのそれ。
あれってああいったのが普通じゃないの?
「あっああのですね……っ!!」
「あら、耳まで真っ赤になってどうしたの?」
どうしたのじゃないわ……熱くなる頬を両手で挟みながら答えに困ってあわあわと口元をただ動かしていたら、クスクスと完全に揶揄っているとわかる声が聞こえて思わず睨んでしまった。
「怖い顔。そんなことより、私、あなたのお祝いに来たのよ。ほら」
蔓バラ姫に引っ張られていた方向へと、彼女が腕を伸ばし指し示したのを追って視線を動かせば色とりどりのバラが咲き乱れる小さな庭のようなところにテーブルセットとお茶の用意がされていた。キラキラと輝くような白いお皿も濃淡の薔薇色を重ねたテーブルクロスも緑の蔓を編んで作られたような葉っぱのモチーフがあしらわれた華奢なテーブルや椅子も素敵だった。
「あなたは“ヴァンサンの子”のお嫁さんだもの、仲良くしたいわ」
「はあ……その、ヴァンサンの子って……」
「なあに?」
聞き返そうとしてはっと気がついた。
魔術師の名前に含まれる名だ。
彼は古い貴族。大体こういったのはお祖父様とか祖先所縁の氏族の名前とかが入るもので、子っていうからにはその血筋ということだろうけど。
――正確には私ではなくフォート家です。そして加護ではなくて盟約。
不意に彼の言葉が脳裏に甦って、そろりと二、三歩後ずさる。
これって、もしかして、なにか……巻き込まれかけてる?
なにかあるなら言っておいてよ、愛人よりも対処に困る。
相手は人じゃない。
たぶん、精霊。
そもそも、ここがどこかもわからないし。
これ、わたしひとりで帰れる場所なの?
お祝いなんて言っているけれど、お伽話や言い伝えでも精霊のお祝いっていったら本当にお祝いのこともあるけれど、どちらかといえば、いばらの森の中に運命の王がやってくるまで眠りにつくとか半分呪いみたいなものの話が多い。
「ええっと、その前に確認したいことが」
「なあに?」
「ここはどこですか?」
「どこ?」
「はい」
「どこ……そうねえ」
どこ……ねえ、と顎に指を立てて悩みだした蔓バラ姫になんなのと顔を顰めてしまう。
「もしかしてわからない?」
「そ、そんなわけないでしょうっ、精霊の国と人間の国の狭間だけれどどこって聞かれたら名前もないし場所も定まらないから答えようがないってだけよっ。貴女の尋ね方が悪いのよ、“ヴァンサンの子”の嫁!」
「なっ、それって言い掛かりじゃ。大体さっきから“ヴァンサンの子”の嫁、“ヴァンサンの子”の嫁ってわたしは――」
名乗りかけて、ちょっと待ってと頭の中で自分自身の制止が入る。
たしか、名前は結構重要だったはず。
――まさかフルネームで私の名前を仰ってくださるとは。これは魔術的にも立派な契約ですよ、マリーベル。
「わたしは、なに?」
「わた~しは……えっと」
「そういえばまだ貴女の名前聞いていなかったわね?」
にっこりとそれこそ花が咲いたような華やいだ蔓バラ姫の微笑みに、ものすごく嫌な既視感を覚える。
この華やかで人畜無害そうな微笑みはまさしく。
悪徳魔術師の微笑みと同じ――!
「えっと、マリーベルとお呼びください」
ドレスのスカートをつまんで腰を落とし、王宮の王族の方に向けるようなお辞儀をすれば、彼女が呆気に取られた気配を感じて姿勢を正した。
「たぶんですが、あなたは精霊なのでしょう?」
「ええ、そうよ」
「お目にかかれて光栄です」
こうなったら、とっても高位な方にうやうやしく接しつつもわたくしめのような下々の者のことなどお気になさらないでください対応で乗り切るしかない。
もっと魔術師に色々聞いておけばよかった、家に全然いなかったけれど。
夫婦の会話大事って先にお嫁に出た郷里の友人がぼやいていたのも、いまならわかる。
とにかくこのなんだかフォート家といわくありげな精霊のご機嫌は損ねず、穏便にここから屋敷に帰してもらうなり、帰る手立てを聞き出すなりしないと。
「なにも知らないものですから、驚いてしまって失礼な態度を蔓バラ姫様」
「あら、いいのよ別にそんなの。それに蔓バラ姫でいいわ、マリーベル」
よし、名前のことはひとまず済んだみたいとほっと胸を撫で下ろす。
マリーベルなんて名前の人は他にもいる。
書類と同じできっと正式な名前が問題になるのだわ。
魔術師はいま留守だ。
リュシーがわたしが屋敷からいなくなっている異変に気がついて、フェリシアンさんから彼に知らせを出しても時間がかかる。
もしかしたら行き違ってしまうかもしれない。
それに、ここは精霊と人間の世界の間で場所は定まらないって蔓バラ姫は言っていたし、精霊の取り替えっ子にあった子供はまず探せないって聞いたことがある。
もしそうなら魔術師がわたしを探し出せるかどうかもわからない。
精霊のことなんてこれっぽっちもわからないけれど、なんとかするしか……なんとか、できるかしら?
だって、自分の夫なのにこう言っちゃなんだけど魔術師だって相当油断ならない人なのに。
精霊なんて……。
「でもリュシーみたいな子だっているわけだし……」
「リュシー?」
「あ、いえ、わたしの侍女で……黙ってここにきてしまったから心配してるのじゃないかしらって」
「それって、もしかしてあなた一緒にいたあの取り替え子? よく精霊の国を逃げ出して人間の国なんかで生きていられるわよねえ」
「生きて? それってどういうこと?」
「ああ、あなたなにも知らないのよね。一度、精霊の国の者になった人間が元に戻れるわけがないじゃない」
クスクスとおかしそうに笑う蔓バラ姫の姿に、一瞬ぞくりと背筋が寒くなるような慄えを覚える。
それは人ではないものとの隔たり、違和感。
純粋な人ではないフォート家の使用人には感じないもの。
「当たり前じゃない、彼等は人だもの」
「え?!」
あらやだ、と肩をすくめた蔓バラ姫にふと思い当たって彼女に掴まれた手の甲へ目をやれば、なにかちらちらと光る粉のようなものがついていた。もう一方の手で払ってみても取れない。
これって。
「人間は油断ならないもの。丁寧な挨拶をしながら、私の機嫌を取って帰ろうなんて考えていたりするし」
考えを、読まれてる。
「それにしてもあなた、そんなものまで見えるの?」
「え?」
「ふうん、今度の嫁は面白い子のようね」
なんなの。
ううん、そんなことよりリュシーが元には戻れないってどういう。
「普通ならそのうち弱って死んじゃうわ。だって一度精霊に育てられた精霊じゃない精霊の子よ。人間の世界でまともに育つはずないじゃない。まああの屋敷にいるから元気なんでしょうけど」
「それって、つまり」
「あの子はあの屋敷でなければ長くは生きられない。あら、どうしてそんな驚いた悲しい顔をするのマリーベル?」
「どうしてって、そんなの当たり前」
「なにが? 外に出たらすぐ死んじゃうわけでもないし、あの屋敷に暮らしていれば生きられる。あの子はあそこを嫌がっている? それにちょっとなにかが違うってだけで同族を酷い目に遭わせる外の人間の世界で幸せになんて暮らせるの?」
「それは……」
――人は条件さえ揃えば、まるでそうすることが正しい行いであるかのように人に対し残酷なことが出来るものです。
魔術師の言葉をまた思い出す。
たしかに、詳しくは知らないけれどフォート家の使用人の人達は、あの家に来る前は辛い思いをしていたことが多いとは聞いている。
「そう。人間は油断ならない。けれどあの屋敷は人間の世界も精霊の世界からも干渉が出来ないよう何重にも鍵がかかっている箱みたいなものだもの」
何重にも鍵のかかった箱。
そういえば、屋敷が一番安全なようなこと魔術師も……。
「大変なのよ、特に入口の鍵はあの子の術が織り込んであるから、あの子を弱らせないと入ることも出来ないのよね。盟約を結んだ守護精霊なのに、酷いでしょう」
「酷いって、いまなんて言ったの?」
弱らせるって、魔術師を?
じゃあ魔術師は……。
「いやね、人間ってすぐ野蛮なこと考えて。だから少し弱らせただけよ」
「弱らせるって、どうやって……」
「人間は私達ほど力を振るい続けることはできないし、後片付けに魔術が必要になるみたいだから、あちこちでお祝いしてあげただけ。ついでに私の言葉も伝えてもらってね。だって祝い事にも盟約相手を近寄らせないって腹立つじゃない?」
――まあちょっとしたお祭りみたいなものというか、そろそろ静まるでしょう。
「ああ……祭りみたいなものって、そういう」
「飽きてきてもうどうでもいいわって思った途端に、入口の鍵が緩んだものだから来たの。あの子は私達を避けようとするけれど、私はあの子が好きだもの」
「……なんて迷惑な」
そうか、精霊と人間では根本的に違うんだわ。
加えて、いつなにを仕掛けられるかも言葉を利用されるかもわからない。
それは多少騒動が起きてもその都度片付けに行くのを選ぶ、一時的なことならなおさら。
「あら、随分じゃない。私達はいつだって親しい隣人のつもりでいるのに」
「そういえば、考えを読まれてたんだった……」
つい普通に会話していた気でいたけれど。
魔術師にも一度やられたことがある。
あの時は、父様もいる席で話すわたしの本当のところも知りたいからといって……って、こうして考えているのも蔓バラ姫には筒抜けなわけよね。
ふふっと軽く笑いながらくるりとわたしに背を向けて、テーブルセットに向かって歩き始めた蔓バラ姫に思わずため息が出る。
リュシーのことも、彼女のことを知っているに違いない魔術師がいまどうなっているのかも気がかりだけど、とにかくいまはこの状況をなんとかすることが先。
「それに、なんだかちょっとわかってきたわ」
魔術師はなにも話していないわけではない。
最低限のことは折にふれて、わたしに伝えてくれている。
少なくとも、万一の時に、わたしだけでもなんとか対処ができるくらいのことは。
「わかりにくいのよ。あの悪徳……捻くれ魔術師」
蔓ばらのトンネルを抜けて、少し歩いた庭木の影になった場所につんだばかりの花が束になって落ちていて、わたしの姿はどこにも見えなかったそうだ――。
*****
見間違いや勘違いではなかった。
蔓バラのトンネルを出た、植木の影に鮮やかな紅色のドレスを着た令嬢が佇んでいた。
結わずに下ろした波打つ金髪の優雅な後ろ姿。
「あの……」
「結婚したって聞いたからお祝いしたいだけと言っているのに、何度言ってもなかなか会わせてくれないのだもの」
「何度も……?」
声をかけたわたしに、挨拶もなくそう言った彼女の言葉を聞いて眉根が寄るのが自分でもわかった。
結婚してから、何度もって……もしかして頻繁に外出していた間に?
「そう、何度も。結局こうして出向くのにひと月もかかっちゃったわ。私は“蔓バラ姫。はじめまして、お嬢さん」」
――やっぱり、あいじ……。
脳裏でそう呟きかけた言葉は振り向いた彼女と顔を合わせて、途中で消えてしまった。
真珠色の肌。
バラ色の頬。
夢見るような微笑みに細められる、暁色を湛えた瞳のない目――!
この人。
人じゃ、ない?
わたしの考えをまるで読み取ったようにくすりと彼女は笑みを漏らした。
ふいに吹いた風が冬枯れの庭に残る葉や、常緑樹の枝をざわりと音を立てて揺らす。
クスクスクス……少し高慢な響きの茶化すような笑い声が耳に届く。
どう対応すればいいのかと返事もできずに呆然としているわたしの右手を取って、“蔓バラ姫”と名乗った彼女は、前屈みに上半身を動かしてじっとわたしのつま先から頭のてっぺんまで見た。
瞳がないからいまひとつその焦点がわからないけれど、たぶん下から上までわたしを検分するような、不躾な視線を感じた。
「それにしても、随分と可愛らしいのを選んだのね」
「え?」
「ま、どうでもよいことだけれど。歓迎するわ、“ヴァンサンの子”の嫁」
「あの……ちょっとっ?!」
高飛車に意味不明な言葉を言い放って、わたしの手を引いて歩き始めた彼女への困惑と腕から滑り落ちた花束に狼狽して、続けて不意に変わった周囲の色彩にえっと目を見開いた。
幾本もの絡まる蔓、濃い緑の葉が周囲にぐるりと茂ってきらきらと虹色の光を放っている場所にいつの間にかわたしはいた。
ようやく見慣れ始めたフォート家の庭の風景も屋敷もない。
慌てて振り返ってみても、どこまでも果てしなく同じ景色だけが続いているばかり。
どこなのここ、屋敷の庭は?
「なに、これ……」
「こっちよ」
「いや、こっちよじゃなく……ちょっと待ってっ!」
ずんずんとわたしの手を引いて進んでいく金髪に隠れた背に叫ぶように言って、わたしは足止めて緑の葉が敷き詰められた地面に踏ん張った。
それでもまだ引きずられそうになる。
蔓バラ姫なんて名前や優雅な姿に似合わず意外に力強い。
「なによ」
「なにって、ここは一体どこ?! そもそもあなた一体何者?! わたしをどうするつもり?!」
「……いやだあなた、本当になにも聞いていないの?」
「は?」
「ふうん。でもまあ嫁は、嫁のようだけれど」
暁の空を切って嵌め込んだような目を細めながら、一方的な、なんだか人の気に障る言い方だ。
大体、嫁は嫁ってどういうことよ。
なにがなにやらさっぱり事情がわからない。けれど彼女の言葉から察するに魔術師は事情を知っているようで、やっぱりなにか隠していることがあるのねとそれぞれへの苛立ちを抱えながら、蔓バラ姫の手をやや強引に振り払えば、しばらくわたしを眺めて彼女は肩をすくめた。
「この国中の神と精霊の祝福の下での婚姻の契約、祝いの夜を無事に越えた次の夜に彼の所縁の地で夫婦の契り、一ヶ月も前にしてはやけに跡が濃いわねえ」
「あの、仰っていることがまったくもって意味不明なのですけれど」
「あなた初夜に相当色々された?」
「んなっ……っ!!」
な、な、なんなのそれ。
あれってああいったのが普通じゃないの?
「あっああのですね……っ!!」
「あら、耳まで真っ赤になってどうしたの?」
どうしたのじゃないわ……熱くなる頬を両手で挟みながら答えに困ってあわあわと口元をただ動かしていたら、クスクスと完全に揶揄っているとわかる声が聞こえて思わず睨んでしまった。
「怖い顔。そんなことより、私、あなたのお祝いに来たのよ。ほら」
蔓バラ姫に引っ張られていた方向へと、彼女が腕を伸ばし指し示したのを追って視線を動かせば色とりどりのバラが咲き乱れる小さな庭のようなところにテーブルセットとお茶の用意がされていた。キラキラと輝くような白いお皿も濃淡の薔薇色を重ねたテーブルクロスも緑の蔓を編んで作られたような葉っぱのモチーフがあしらわれた華奢なテーブルや椅子も素敵だった。
「あなたは“ヴァンサンの子”のお嫁さんだもの、仲良くしたいわ」
「はあ……その、ヴァンサンの子って……」
「なあに?」
聞き返そうとしてはっと気がついた。
魔術師の名前に含まれる名だ。
彼は古い貴族。大体こういったのはお祖父様とか祖先所縁の氏族の名前とかが入るもので、子っていうからにはその血筋ということだろうけど。
――正確には私ではなくフォート家です。そして加護ではなくて盟約。
不意に彼の言葉が脳裏に甦って、そろりと二、三歩後ずさる。
これって、もしかして、なにか……巻き込まれかけてる?
なにかあるなら言っておいてよ、愛人よりも対処に困る。
相手は人じゃない。
たぶん、精霊。
そもそも、ここがどこかもわからないし。
これ、わたしひとりで帰れる場所なの?
お祝いなんて言っているけれど、お伽話や言い伝えでも精霊のお祝いっていったら本当にお祝いのこともあるけれど、どちらかといえば、いばらの森の中に運命の王がやってくるまで眠りにつくとか半分呪いみたいなものの話が多い。
「ええっと、その前に確認したいことが」
「なあに?」
「ここはどこですか?」
「どこ?」
「はい」
「どこ……そうねえ」
どこ……ねえ、と顎に指を立てて悩みだした蔓バラ姫になんなのと顔を顰めてしまう。
「もしかしてわからない?」
「そ、そんなわけないでしょうっ、精霊の国と人間の国の狭間だけれどどこって聞かれたら名前もないし場所も定まらないから答えようがないってだけよっ。貴女の尋ね方が悪いのよ、“ヴァンサンの子”の嫁!」
「なっ、それって言い掛かりじゃ。大体さっきから“ヴァンサンの子”の嫁、“ヴァンサンの子”の嫁ってわたしは――」
名乗りかけて、ちょっと待ってと頭の中で自分自身の制止が入る。
たしか、名前は結構重要だったはず。
――まさかフルネームで私の名前を仰ってくださるとは。これは魔術的にも立派な契約ですよ、マリーベル。
「わたしは、なに?」
「わた~しは……えっと」
「そういえばまだ貴女の名前聞いていなかったわね?」
にっこりとそれこそ花が咲いたような華やいだ蔓バラ姫の微笑みに、ものすごく嫌な既視感を覚える。
この華やかで人畜無害そうな微笑みはまさしく。
悪徳魔術師の微笑みと同じ――!
「えっと、マリーベルとお呼びください」
ドレスのスカートをつまんで腰を落とし、王宮の王族の方に向けるようなお辞儀をすれば、彼女が呆気に取られた気配を感じて姿勢を正した。
「たぶんですが、あなたは精霊なのでしょう?」
「ええ、そうよ」
「お目にかかれて光栄です」
こうなったら、とっても高位な方にうやうやしく接しつつもわたくしめのような下々の者のことなどお気になさらないでください対応で乗り切るしかない。
もっと魔術師に色々聞いておけばよかった、家に全然いなかったけれど。
夫婦の会話大事って先にお嫁に出た郷里の友人がぼやいていたのも、いまならわかる。
とにかくこのなんだかフォート家といわくありげな精霊のご機嫌は損ねず、穏便にここから屋敷に帰してもらうなり、帰る手立てを聞き出すなりしないと。
「なにも知らないものですから、驚いてしまって失礼な態度を蔓バラ姫様」
「あら、いいのよ別にそんなの。それに蔓バラ姫でいいわ、マリーベル」
よし、名前のことはひとまず済んだみたいとほっと胸を撫で下ろす。
マリーベルなんて名前の人は他にもいる。
書類と同じできっと正式な名前が問題になるのだわ。
魔術師はいま留守だ。
リュシーがわたしが屋敷からいなくなっている異変に気がついて、フェリシアンさんから彼に知らせを出しても時間がかかる。
もしかしたら行き違ってしまうかもしれない。
それに、ここは精霊と人間の世界の間で場所は定まらないって蔓バラ姫は言っていたし、精霊の取り替えっ子にあった子供はまず探せないって聞いたことがある。
もしそうなら魔術師がわたしを探し出せるかどうかもわからない。
精霊のことなんてこれっぽっちもわからないけれど、なんとかするしか……なんとか、できるかしら?
だって、自分の夫なのにこう言っちゃなんだけど魔術師だって相当油断ならない人なのに。
精霊なんて……。
「でもリュシーみたいな子だっているわけだし……」
「リュシー?」
「あ、いえ、わたしの侍女で……黙ってここにきてしまったから心配してるのじゃないかしらって」
「それって、もしかしてあなた一緒にいたあの取り替え子? よく精霊の国を逃げ出して人間の国なんかで生きていられるわよねえ」
「生きて? それってどういうこと?」
「ああ、あなたなにも知らないのよね。一度、精霊の国の者になった人間が元に戻れるわけがないじゃない」
クスクスとおかしそうに笑う蔓バラ姫の姿に、一瞬ぞくりと背筋が寒くなるような慄えを覚える。
それは人ではないものとの隔たり、違和感。
純粋な人ではないフォート家の使用人には感じないもの。
「当たり前じゃない、彼等は人だもの」
「え?!」
あらやだ、と肩をすくめた蔓バラ姫にふと思い当たって彼女に掴まれた手の甲へ目をやれば、なにかちらちらと光る粉のようなものがついていた。もう一方の手で払ってみても取れない。
これって。
「人間は油断ならないもの。丁寧な挨拶をしながら、私の機嫌を取って帰ろうなんて考えていたりするし」
考えを、読まれてる。
「それにしてもあなた、そんなものまで見えるの?」
「え?」
「ふうん、今度の嫁は面白い子のようね」
なんなの。
ううん、そんなことよりリュシーが元には戻れないってどういう。
「普通ならそのうち弱って死んじゃうわ。だって一度精霊に育てられた精霊じゃない精霊の子よ。人間の世界でまともに育つはずないじゃない。まああの屋敷にいるから元気なんでしょうけど」
「それって、つまり」
「あの子はあの屋敷でなければ長くは生きられない。あら、どうしてそんな驚いた悲しい顔をするのマリーベル?」
「どうしてって、そんなの当たり前」
「なにが? 外に出たらすぐ死んじゃうわけでもないし、あの屋敷に暮らしていれば生きられる。あの子はあそこを嫌がっている? それにちょっとなにかが違うってだけで同族を酷い目に遭わせる外の人間の世界で幸せになんて暮らせるの?」
「それは……」
――人は条件さえ揃えば、まるでそうすることが正しい行いであるかのように人に対し残酷なことが出来るものです。
魔術師の言葉をまた思い出す。
たしかに、詳しくは知らないけれどフォート家の使用人の人達は、あの家に来る前は辛い思いをしていたことが多いとは聞いている。
「そう。人間は油断ならない。けれどあの屋敷は人間の世界も精霊の世界からも干渉が出来ないよう何重にも鍵がかかっている箱みたいなものだもの」
何重にも鍵のかかった箱。
そういえば、屋敷が一番安全なようなこと魔術師も……。
「大変なのよ、特に入口の鍵はあの子の術が織り込んであるから、あの子を弱らせないと入ることも出来ないのよね。盟約を結んだ守護精霊なのに、酷いでしょう」
「酷いって、いまなんて言ったの?」
弱らせるって、魔術師を?
じゃあ魔術師は……。
「いやね、人間ってすぐ野蛮なこと考えて。だから少し弱らせただけよ」
「弱らせるって、どうやって……」
「人間は私達ほど力を振るい続けることはできないし、後片付けに魔術が必要になるみたいだから、あちこちでお祝いしてあげただけ。ついでに私の言葉も伝えてもらってね。だって祝い事にも盟約相手を近寄らせないって腹立つじゃない?」
――まあちょっとしたお祭りみたいなものというか、そろそろ静まるでしょう。
「ああ……祭りみたいなものって、そういう」
「飽きてきてもうどうでもいいわって思った途端に、入口の鍵が緩んだものだから来たの。あの子は私達を避けようとするけれど、私はあの子が好きだもの」
「……なんて迷惑な」
そうか、精霊と人間では根本的に違うんだわ。
加えて、いつなにを仕掛けられるかも言葉を利用されるかもわからない。
それは多少騒動が起きてもその都度片付けに行くのを選ぶ、一時的なことならなおさら。
「あら、随分じゃない。私達はいつだって親しい隣人のつもりでいるのに」
「そういえば、考えを読まれてたんだった……」
つい普通に会話していた気でいたけれど。
魔術師にも一度やられたことがある。
あの時は、父様もいる席で話すわたしの本当のところも知りたいからといって……って、こうして考えているのも蔓バラ姫には筒抜けなわけよね。
ふふっと軽く笑いながらくるりとわたしに背を向けて、テーブルセットに向かって歩き始めた蔓バラ姫に思わずため息が出る。
リュシーのことも、彼女のことを知っているに違いない魔術師がいまどうなっているのかも気がかりだけど、とにかくいまはこの状況をなんとかすることが先。
「それに、なんだかちょっとわかってきたわ」
魔術師はなにも話していないわけではない。
最低限のことは折にふれて、わたしに伝えてくれている。
少なくとも、万一の時に、わたしだけでもなんとか対処ができるくらいのことは。
「わかりにくいのよ。あの悪徳……捻くれ魔術師」
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