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挿話
19.5 ティータイムは背徳の誘い
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昼下がりの、フォート家のサロン。
淡く黄色味を帯びた冬の午後の柔らかな光が、長く伸びた銀髪を美しく輝かせ、その髪がかかる麗しいといった形容がぴったりな顔を仄かな影が彩る。
滑らかな象牙色の肌、青みがかった灰色の瞳、すっと通った鼻梁は涼しく怜悧な眼差しと合わせて微笑んでいてもどこか冴えた冷たい月のような印象を人に抱かせる。
薄く赤みの差す唇は品良く引き締まっているというのに悩ましいような艶めかしさが漂い、どこか背徳的にすら感じられる。
こうしてぼんやりとただ眺めている分には、ただの美女よりも綺麗だわと感心してしまうのだけれどそうも言っていられない。
同じ長椅子に少し空間を空けて腰掛けていたはずなのに、気がつけばすぐ側に、彼の腕がわたしの胸元に届いて思わず長椅子の背にもたれるように身を引く。
「――マリーベル」
姿が美しいと声も美しいのだわといつか思ったことのある、耳に染み入るような声がわたしの名前を低く誘うように囁き、すらりとした長い指がわたしの膝へ向かって下りていくのに、わたしは首を横に振った。
「あ、だめ……それ……」
「そうですか? 貴女、気に入っていたでしょう……はじめて見た貴女のとろけたような顔は忘れられません」
「い、いわないで……あれは、だって……っ」
反論するわたしに彼は意地の悪い笑みを見せた。
まるで必死に耐えようとするわたしを嘲笑うかのようで、憎たらしいのに、なんとも魅惑的なのが悔しい。
「ほら、マリーベル」
「あ、ああっ……だめ、やめて……そんなっ」
とろりとした蜜が、流れていくのに思わず目を閉じてしまう。
だめなのに……彼を止めることができない。
「お願い、本当にこれ以上はもう……」
「ふふ、いいんですか? 本当はもっと欲しいのでは?」
「ぅう……んんっ……!!」
ふるふると首を横に振って抵抗する。
本当に、ひどい……彼は楽しんでる。
わたしがこんなに、自分の欲望に耐えようとしているのに。
この大悪徳魔術師――!
「本当に、だめ……やめて、これ以上太るわけにはいかないのっ!」
「そんな、気にするようなものですかねぇ」
言いながら自分の膝に頬杖をついた魔術師が、わたしの前に置かれたワッフル生地に小さなシロップ容器の中身を全部かけてしまったのに、ああなんてことをっとわたしは叫んで顔を両手で覆った。
「なにやってんですかね、あれ」
「今日も夕方には屋敷を出ることになりましたからね、気分だけでも味わいたかったのでは? 奥様はまったく無自覚なようですが」
「――オドレイ、シモン」
サロンの隅に控えているオドレイさんとシモンのやりとりを咎めるような声を出した魔術師になんの話と尋ねれば、なんでもありませんとにっこり微笑まれながらワッフルのお皿にチーズクリームまで乗せられてああっと声が出る。
「お好きでしょう?」
「あ、甘いのと塩気の無限地獄……あ、悪徳っ、悪徳魔術師っ!」
「誰が悪徳ですか……大体、貴女そんなことを気にするような体型ではないでしょう。両手で胴がつかめそうですし、普段のドレスもコルセット無しで着る細さではないですか」
「あ、あなたにはわからないわっ」
それが危ういからこうして我慢しようとしていたんじゃない。
お茶の時間、小さな焼き菓子一つだけにしておこうと決めていたのに魔術師が家にいるものだからお茶のお供に素晴らしい焼き菓子の数々。
「いまさらっと、やらしい発言したな」
「奥様は気がついていらっしゃらないようですが」
「え、なに? オドレイさん?」
魔術師に文句を言っていて、二人がわたしになにか言ったらしいことがよく聞こえていなかった。オドレイ、と魔術師が妙に凄んだ目つきで彼女を見る。
「いえ、私も気になさることはないかと」
「でも……」
婚礼衣装の採寸を元に作られた、ナタンさんのドレスのボタンが若干、心持ち、以前の余裕がなくなってきている。
こっちにきてからというもの、王宮にいた頃のようには立ち働いてはいないし、それに。
「ロザリーさんの作るご飯やお菓子が美味しすぎるのよ――っ」
「まあ、フォート家の女料理長は芸術家ですからね。舌が鋭すぎてこの屋敷に来るまでは随分と難儀していたらしいですが」
王都の魔術師の邸宅にいた頃から、わたしはフォート家の料理長であるロザリーさんの作るお菓子の虜だ。
王宮の茶会で供される一流の菓子職人が作るお菓子に勝るとも劣らない、その魅惑の美味しさにうっとりとため息吐きながら幸せを噛み締めていたら、魔術師になんともそそられるというかある意味嫉妬を覚えるような表情ですねえと言われた。
いくら素晴らしいお菓子だからって、そんなに人の食欲を誘うような、食べてるものを羨ましがられるような顔をするほど夢中になっていたらしいのに、流石に恥じ入って俯いてしまったのももう四ヶ月以上前のこと。
「“淫蕩の快楽に次いでは、美食の快楽より以上の神聖な快楽はない”、と言いますよ」
「え?」
「また三、四日は縁のないことになりそうですから、私の快楽に付き合ってもらえませんかマリーベル」
そう言って、一口菓子をつまんで口に放り込んで、指先についた砂糖を軽く舐めながらこちらを流し見た魔術師に一瞬どきりとしたものを覚えつつ、目の前のワッフル生地を乗せたお皿を見る。
まあもうこうして目の前に用意されてしまっているわけだし。
魔術師に引き取ってもらうこともできなくはないだろうけど。
彼は結構な甘党だ。
王都にいた時も、王宮の温室のサロンのテーブルに軽食と一緒にお菓子を積んだお皿を並べて、わたしが園芸趣味の王妃様の育てているバラの鉢の世話などをするのを眺めながら一人でお茶を飲んで寛いでいた。
寝不足と疲労で朝は食欲がなかった様子だったけれど、元々、そのすらりと優美な姿に似合わず健啖家で、朝食後から昼過ぎまで眠ってすっかり回復したようだった。
彼のお昼ごはんも兼ねている午後のお茶には焼き菓子の他に軽食も用意されていて、王宮使用人に彼が頼んでいたお茶の用意が思い出される。
結局誘惑に負けて頷く。
「あ、明日から、明日からは節制するわ」
「あまり細くなりすぎてもですから、ほどほどにしてください」
「ちょっと間食を控えるだけです」
「なら、結構」
にこにことティーポットからお茶を注いでくれた魔術師に、ありがとうと言って、お皿の上のシロップがたっぷりとかかったワッフル生地を切り分けて口に入れる。
「自分の妻相手になんつー誘い文句を……」
「とある文学作品の一節の引用です、少々際どいですが」
「領地に出向いてばかりとはいえ、旦那様、ありゃ相当抑えてるな」
シモン、オドレイ――と、再びなにか低く彼らを呼んだ魔術師にどうしたんだろと思ったけれど、正直それどころではなかった。
本当に、食べたくなるような顔で食べてくれますねえと……魔術師が苦笑したけれどそんなこともいまはどうでもいい。
この上品な甘みとかすかな塩気とふわふわしっとりの生地の風味……。
「なんて、背徳的……」
淡く黄色味を帯びた冬の午後の柔らかな光が、長く伸びた銀髪を美しく輝かせ、その髪がかかる麗しいといった形容がぴったりな顔を仄かな影が彩る。
滑らかな象牙色の肌、青みがかった灰色の瞳、すっと通った鼻梁は涼しく怜悧な眼差しと合わせて微笑んでいてもどこか冴えた冷たい月のような印象を人に抱かせる。
薄く赤みの差す唇は品良く引き締まっているというのに悩ましいような艶めかしさが漂い、どこか背徳的にすら感じられる。
こうしてぼんやりとただ眺めている分には、ただの美女よりも綺麗だわと感心してしまうのだけれどそうも言っていられない。
同じ長椅子に少し空間を空けて腰掛けていたはずなのに、気がつけばすぐ側に、彼の腕がわたしの胸元に届いて思わず長椅子の背にもたれるように身を引く。
「――マリーベル」
姿が美しいと声も美しいのだわといつか思ったことのある、耳に染み入るような声がわたしの名前を低く誘うように囁き、すらりとした長い指がわたしの膝へ向かって下りていくのに、わたしは首を横に振った。
「あ、だめ……それ……」
「そうですか? 貴女、気に入っていたでしょう……はじめて見た貴女のとろけたような顔は忘れられません」
「い、いわないで……あれは、だって……っ」
反論するわたしに彼は意地の悪い笑みを見せた。
まるで必死に耐えようとするわたしを嘲笑うかのようで、憎たらしいのに、なんとも魅惑的なのが悔しい。
「ほら、マリーベル」
「あ、ああっ……だめ、やめて……そんなっ」
とろりとした蜜が、流れていくのに思わず目を閉じてしまう。
だめなのに……彼を止めることができない。
「お願い、本当にこれ以上はもう……」
「ふふ、いいんですか? 本当はもっと欲しいのでは?」
「ぅう……んんっ……!!」
ふるふると首を横に振って抵抗する。
本当に、ひどい……彼は楽しんでる。
わたしがこんなに、自分の欲望に耐えようとしているのに。
この大悪徳魔術師――!
「本当に、だめ……やめて、これ以上太るわけにはいかないのっ!」
「そんな、気にするようなものですかねぇ」
言いながら自分の膝に頬杖をついた魔術師が、わたしの前に置かれたワッフル生地に小さなシロップ容器の中身を全部かけてしまったのに、ああなんてことをっとわたしは叫んで顔を両手で覆った。
「なにやってんですかね、あれ」
「今日も夕方には屋敷を出ることになりましたからね、気分だけでも味わいたかったのでは? 奥様はまったく無自覚なようですが」
「――オドレイ、シモン」
サロンの隅に控えているオドレイさんとシモンのやりとりを咎めるような声を出した魔術師になんの話と尋ねれば、なんでもありませんとにっこり微笑まれながらワッフルのお皿にチーズクリームまで乗せられてああっと声が出る。
「お好きでしょう?」
「あ、甘いのと塩気の無限地獄……あ、悪徳っ、悪徳魔術師っ!」
「誰が悪徳ですか……大体、貴女そんなことを気にするような体型ではないでしょう。両手で胴がつかめそうですし、普段のドレスもコルセット無しで着る細さではないですか」
「あ、あなたにはわからないわっ」
それが危ういからこうして我慢しようとしていたんじゃない。
お茶の時間、小さな焼き菓子一つだけにしておこうと決めていたのに魔術師が家にいるものだからお茶のお供に素晴らしい焼き菓子の数々。
「いまさらっと、やらしい発言したな」
「奥様は気がついていらっしゃらないようですが」
「え、なに? オドレイさん?」
魔術師に文句を言っていて、二人がわたしになにか言ったらしいことがよく聞こえていなかった。オドレイ、と魔術師が妙に凄んだ目つきで彼女を見る。
「いえ、私も気になさることはないかと」
「でも……」
婚礼衣装の採寸を元に作られた、ナタンさんのドレスのボタンが若干、心持ち、以前の余裕がなくなってきている。
こっちにきてからというもの、王宮にいた頃のようには立ち働いてはいないし、それに。
「ロザリーさんの作るご飯やお菓子が美味しすぎるのよ――っ」
「まあ、フォート家の女料理長は芸術家ですからね。舌が鋭すぎてこの屋敷に来るまでは随分と難儀していたらしいですが」
王都の魔術師の邸宅にいた頃から、わたしはフォート家の料理長であるロザリーさんの作るお菓子の虜だ。
王宮の茶会で供される一流の菓子職人が作るお菓子に勝るとも劣らない、その魅惑の美味しさにうっとりとため息吐きながら幸せを噛み締めていたら、魔術師になんともそそられるというかある意味嫉妬を覚えるような表情ですねえと言われた。
いくら素晴らしいお菓子だからって、そんなに人の食欲を誘うような、食べてるものを羨ましがられるような顔をするほど夢中になっていたらしいのに、流石に恥じ入って俯いてしまったのももう四ヶ月以上前のこと。
「“淫蕩の快楽に次いでは、美食の快楽より以上の神聖な快楽はない”、と言いますよ」
「え?」
「また三、四日は縁のないことになりそうですから、私の快楽に付き合ってもらえませんかマリーベル」
そう言って、一口菓子をつまんで口に放り込んで、指先についた砂糖を軽く舐めながらこちらを流し見た魔術師に一瞬どきりとしたものを覚えつつ、目の前のワッフル生地を乗せたお皿を見る。
まあもうこうして目の前に用意されてしまっているわけだし。
魔術師に引き取ってもらうこともできなくはないだろうけど。
彼は結構な甘党だ。
王都にいた時も、王宮の温室のサロンのテーブルに軽食と一緒にお菓子を積んだお皿を並べて、わたしが園芸趣味の王妃様の育てているバラの鉢の世話などをするのを眺めながら一人でお茶を飲んで寛いでいた。
寝不足と疲労で朝は食欲がなかった様子だったけれど、元々、そのすらりと優美な姿に似合わず健啖家で、朝食後から昼過ぎまで眠ってすっかり回復したようだった。
彼のお昼ごはんも兼ねている午後のお茶には焼き菓子の他に軽食も用意されていて、王宮使用人に彼が頼んでいたお茶の用意が思い出される。
結局誘惑に負けて頷く。
「あ、明日から、明日からは節制するわ」
「あまり細くなりすぎてもですから、ほどほどにしてください」
「ちょっと間食を控えるだけです」
「なら、結構」
にこにことティーポットからお茶を注いでくれた魔術師に、ありがとうと言って、お皿の上のシロップがたっぷりとかかったワッフル生地を切り分けて口に入れる。
「自分の妻相手になんつー誘い文句を……」
「とある文学作品の一節の引用です、少々際どいですが」
「領地に出向いてばかりとはいえ、旦那様、ありゃ相当抑えてるな」
シモン、オドレイ――と、再びなにか低く彼らを呼んだ魔術師にどうしたんだろと思ったけれど、正直それどころではなかった。
本当に、食べたくなるような顔で食べてくれますねえと……魔術師が苦笑したけれどそんなこともいまはどうでもいい。
この上品な甘みとかすかな塩気とふわふわしっとりの生地の風味……。
「なんて、背徳的……」
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