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第二部 公爵家と新生活

19.名前を呼んで

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「今日こそ、きちんと話さないと……っ!」

 王妃様、王宮の皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
 早朝から臨戦態勢で食堂にいるらしき夫のルイ・メナージュ・ヴァンサン・ラ・フォート公爵の元へと、身支度を早々に済ませて寝室から長い廊下を歩いて向かっているマリーベル・ド・トゥール・ユニです。

 などとつい手紙の文句を考えてしまうくらい、実に、四日ぶりに顔を見るあの人を今日こそ捕まえなければ――と意気込んで、食堂の扉をおはようございますと開けテーブルに寛いでいる人へと目を向けて近づく。
 ローブはなしでゆったりした白いシャツに控えめに金糸の縁取刺繍を施した薄い藍色のベストと膝丈の上着を羽織っていた。
 屋敷に来てからはそんな姿もたびたび見かけるようになっていて、そういった姿の彼は変な言い方だけれど寛いだ姿でも貴族らしさが増す。
  
「おや、おはよう、マリーベル。まだ朝日が昇ったばかりですよ、朝食には少々早いのでは」
「あなたがね。夜明け前にお帰りだったようで……」

 うっすらと朝日の差し込み始めた食堂で、コーヒー片手にたぶん魔術に関するものだろう古い書物に目を落としているその目元の影が若干濃い。
 夜遅くに仕事を片付けて、休まず屋敷に戻ってきたに違いない。

「ええ、よく眠っていらっしゃったので声はかけませんでしたが。貴女の寝顔はいつ見てもかわいらし……」
「そんなことはどうでもいいの! ルイ、話があります」

 わたしがフォート家に嫁いで早くも一ヶ月。
 そして思っていたよりずっとフォート家当主は忙しい方なようで、週に二日も家にいらっしゃらない。
 それも丸一日いることは稀。

「いま、なんて仰いました? マリーベル」
「え?」

 まだなにも話していないのに、ぽかんとこちらを見ている疲労が浮かんでいても麗しいお顔。
 いや、むしろ妙な悩ましさが……って、それより持ち上げているカップと本を取り落としそうな手元がはらはらする。
 意識が朦朧としているのじゃないかしら。

「いま、私のこと――」
「とりあえず、カップをおいて。零れそうで怖いから」
「……はあ」

 ことりとカップを置いた魔術師に、まったくと胸の内で呟く。
 王宮で、あの有り得ない求婚を受けたあの時の言葉が思い出される。
 
 森林地帯側の屋敷に引きこもってめったに表に出ず――?

 嘘ばっかり。
 ほとんど休む間もないくらいの頻度で、領地のあちらこちらへとこの人は出向いている。
 よく考えてみたら、領地は東部の約六割といった尋常ではない広さ。
 フォート家は王国の前身七小国の一つだけれど、王国となっても、小国規模の領地を治めていることに変わりはない。
 王都にいる間、あんなに外面が良くて如才が無かった人が、王宮の社交にもほとんど現れないというのが不思議だったけれど納得だ。屋敷にいる間は魔術研究に勤しんでって、そりゃそうよ、そもそもそんなご自分のことをする間もない忙しさだもの。
 彼はいまなお領地の人々にとっては王様。
 それもまだ人と人ではないもの達が共存していた遥か遠い昔のおとぎ話の中に出てくる国であった頃、様々な問題を魔術の助けを借りて解決していた王様。
 
 なにしろ。
 初夜が明けてすぐ出て行った時の魔狼の件だけでなく。
 森に入ろうとすると謎の竜巻が起こるだの。
 それまで皆が利用していた湖の水が奇妙な色に染まるだの。
 いまは冬なのに農地が一面花畑になってしまっただの。
 各地からあれやこれやと知らせが届いては出かけていく。
 わたしの故郷のユニ領みたいに少し駆ければすぐ屋敷の門を出られて、即農地そして村に着くといったわけではない。
 深い森林に囲まれたフォート家の敷地自体が広大でさらにそこから、お天気がいくつもかわるような距離を馬車で移動するだけでも大変だ。

「目の下、くま
「ん、ええまあ……ほとんど徹夜になってしまったもので。オドレイは私が仕事を片付けている間は休ませていましたが。ま、反対に私は移動中にうとうとしていましたけどね」
「今回はなにを?」
「どうも精霊同士の衝突が起きたみたいで、それに巻き込まれて領民が困っていたものですから両者の説得に」
「その説得って魔術もいりますよね」
「生憎と精霊を直接見たり話をしたりする力はないですからね、私には。かつては精霊博士と呼ばれるそんな才能を持つ人も普通の人間の中にいたらしいですが……マリーベル?」

 それに、魔術はタダでは出来ない。
 魔力という人が活動するための力を代償とする。
 つまり走ったり力仕事をしたら疲れるのと同じことで、不思議で便利で万能なものではないらしい。
 フォート家の当主は人ではない様々なものの領域つまりは領地を預かるかわりに、彼等の力を借りてほとんど無尽蔵に魔力を消費できると聞いているけれど、体力が有り余っている人だって肉体を酷使すればどこかに歪みがくる。
 見るからに優雅な貴族の優男なのに、この人、頑健さが尋常じゃない。
 それに当たり前のようにわたしと話しているけれど、彼が留守にしている間、わたしはただただこの広い屋敷で呑気に過ごしているだけなのになにも思わないのかしら。
 少しずつ荒れた部分を片付けたり手を入れたり、使用人の人達のことを覚えたり、フェリシアンさんに屋敷のことを教わったりはしているけれど、ほとんど穀潰しも同然。
 強引に進められた結婚で離婚要件を見つけて穏便に撤回したいと考えているとはいえ、妻という立場であるからには別れるまではきちんと務めるつもりなのに、これでは全然なんの役にも立っていない。
 
「どう考えてもあなた一人で働き過ぎだわ、ルイ!」
「ああ、やはり空耳ではなかったですね……」
「人が真剣に話そうとしているのになににやにやしてるの?! 話聞いてる? ルイ」
「ええ、もう一度、繰り返してもらえませんか」
「聞いてないじゃないの……あのね、ルイ」
「はい、もう一度」
「だから。あなたね……ルイ」
「はい」
「……」

 にこにこと上機嫌にテーブルに頬杖ついて、すぐ側に立って彼を見下ろしているわたしを見上げる彼の様子に、なにかとても噛み合わなさを感じてしばし黙ってしまう。

「――なに?」
「なにって、ようやく妻から名前を呼んでもらえた喜びを噛み締めています」

 そっちじゃな――――いっ!

 呆れ返って絶句したまま黙っていると、わたしが立っているより食堂の入口に近い壁際から、ふっと吹き出し、結構前から仰ってますけどねと呟くオドレイさんの声が聞こえた。

「ですよねぇ。ていうかオレ、奥様がそれ以外の呼び方で旦那様のこと話してるのなんて聞いたことねぇっすけど」

 オドレイさんの右隣でそう言ったのは従僕のシモン。
 フォート家の使用人になって五年目の十七歳。
 東部の都市トゥルーズの貧民街で孤児達のまとめ役だったらしくちょっとやんちゃな不良少年ぽさが抜けないけれど気のいい少年。
 彼はどういうわけかつむじ風の精霊の加護を受けていて、小さな風を操れる。
 貧民街にいた頃はその力を大いに悪用して、見えない風の剃刀を使って人の財布や装身具を掠め取る腕利きのスリだったそうで。
 運悪く魔術師を狙って彼に捕まり、紆余曲折の末、現在に至る。
 ちなみに彼が率いて面倒を見ていた孤児達は、皆、魔術師が出資している孤児院で生活している。

「一体、前はどんな風に呼んでたんですか?」
「王都にいらっしゃる間は、魔術師様と。まだ婚約中でしたし」
「ああ、なるほど」
 
 いわれてみれば、ろくろく顔を合わせていなかった彼に名前で呼びかけたのはじめてだったかも。
 帰ってきた時に挨拶して留守の間の報告のような言葉は交わすけれど、家にいる間は彼は書斎でなにかしていることが多いし、わたしも家のことを覚えるなどすることがある。
 オドレイさんのいう通り。
 魔術師と呼んでいたけれど、本人にはともかく使用人の人達と話す時に彼をそう呼ぶのは流石におかしい。かといって旦那様というのも違和感がありすぎるし、夫というのも家の中にいる人達に対してなにか違うし、しばらくあの方とかあの人とか言っていたけれどはっきり誰とわからない言葉は使いづらく、結局名前に落ち着いた。
 いやでもそんなことぐらいで、そんな上機嫌にならなくてもと思ったら、オドレイさんとシモンの会話を聞いてみるみる魔術師の眉間に皺が寄っていく。

「なんですか、それ。どうしてそういうことあるじである私に教えてくれないんですか」
「てっきりねやなどでそう呼ばれているのかと」
「ですよねえ、夫婦だし会話とか」
「ね、ねやって?! オドレイさん、なにを言ってっ……あるわけないでしょうっ、この人ほとんど家にいないの従者のあなたなら知ってるでしょうっ!」

 最近、いえ、結構前からもしかしてそうかなと思っていたけれど、オドレイさんはちょっと抜けているところがある。
 冷静で有能な、従者と護衛だけでなく家令のフェリシアンさんの補助もする実質執事を務める、魔術師と並んで見劣りしない男装の麗人の姿からは想像できないから意外だったけれど。
 
「そういえば……そうでしたね。申し訳ございません」

 そう、初夜以降、わたし達夫婦は寝室を共にしていなかったりする。
 こちらとしてはほっとしたと同時に、これでいいのかしらといった気もしないではないのだけど。
 まあたしかに初夜の時、彼に乞われてそう呼びかけたけど結局言葉になってなかったし……。
 最初に三日ほど留守にして何故か窓から帰ってきた時だって、結局夕方に遅れて戻ってきたオドレイさんから別の村で問題が発生しましたと報告を受けて出て行ってしまった。
 その後も戻ってきてはまたすぐ慌ただしく出かけていく。
 魔術師もそうだけれどオドレイさんだって大変だ、一度声をかけた際に自分は事務的なことか魔術師が仕事を片付けるのを待っているしかないから現地では案外のんびりしていますなどと言っていたけれど。

「いや、謝ることでは……」
「ですが旦那様に報告し指示に従うのが務めとはいえ、ご夫婦の時間を奪っているのはたしかです」
「だって領地のことだし、それにそんな大げさな……そんなことより、あなたも含めてきちんと休んで――」

 ――マリーベルっ!

 がたっと椅子が動く音がしたと思ったら、両手を取られて、ただ疲労が滲みでているだけなのに妙に艶めいた憂いを帯びた雰囲気を無駄に漂わせる麗しい顔と長く下ろしたままの美しい銀色の髪が間近にあった。
 
「貴女が私の不在をそんなに憂いていたとは……嬉しいと同時に自分が不甲斐ない。幸い今日はまだなにも起きていません。存分に夫婦の時間を過ごせます」

 言うが早いかわたしを抱えて寝室へなどと言い出す魔術師に、んも~~~と両拳を握りしめて違うっと叫ぶ。

「マリーベル?」
「奥様?」
「どうしたんだ?」

 まったく、この家の人達は、自由というか呑気というか。
 色々、頓着しなさすぎというか。

「人の話を聞きなさーーーーいっ!!」

 と、いうわけでフォート家緊急夫婦会議と相成りました。
 王妃様、王宮もそれなりに大変でしたけれど、フォート家もまた少し趣が異なる大変さがあります。

******

「だからね、いくらなんでもあなた忙しすぎると思うの。戻ったら戻ったでなにかしているでしょ。きちんと休まないと体が保たないわ、あと食事も」

 引き続き食堂で、朝食をとりながらの話しとなった。
 魔術師が座っていた場所の向かい側にわたしは座って、スープに卵と茹で野菜とパン。
 魔術師はてっきりなにか食べたのかと思ったらコーヒーだけで済ませようとしていたらしく、食べなさいとわたしが頼んで出してもらったスープを口に運んでいる、少し食欲が出たのかその後パンを足した。

「まあ、ここのところ立て続けではありましたねぇ。ですがこんなことはそう滅多にあることではないですから」
「そうなの?」
「まあちょっとしたお祭りみたいなものというか、そろそろ静まるでしょう」

 お祭り? 
 精霊とか魔物かなにかにもそういったものがあるのかしら。
 
「じゃあ普段はこんなに頻繁になにか起きては出かけていない?」
「まあ、月に一、二回って頻度ですね。移動も含めて一週間ほどは留守になりますが」
「はあ。でもそれはそれで、広い領地なのに」
「たしかに領地は広いですが、地区ごとに管理監督のための役職を設けてその土地の人から選出していますから。各集落は例えば小さな村なら村長とかそういった人がまとめてくれています」
「なるほど」

 本当に、小さな国みたいなものなのねと思いながらパンを口に入れる。
 まだ家のことで精一杯、領地のことまでフェリシアンさんから教わっていなかった。

「普段はこんなにあちこちで問題が起きることはないですし、人間同士の揉め事の仲裁が多いですからもっとのんびりと。どちらかといえば私の専門外のことが多いですからそれもあって貴女のお父上のジュリアン殿にフォート家の専属法務顧問をお願いしたわけです」
「はあ……」
「すっかりばたばたしてしまいましたが、落ち着いたらユニ領へご挨拶に行きましょう」
「そうね。それにいまの状況は特別らしいっていうのはわかりました。とりあえず、今日みたいに慌ててて帰って来なくていいから」

 こちらは平和そのものだし。 
 今日だって、きちんと現地か近くの宿に休んでそれから戻ってもらった方が魔術師もオドレイさんも疲労が少なくて済むし、それにきちんとした道ばかりではないのに夜道に馬車を走らせるなんて危ない。
 そう思って言ったつもりだったのだけど、なぜか食事の手を止めてこちらをまっすぐに見つめて何故ですかと不服そうな声音で聞いてくる。

「何故って、そのほうがあなたやオドレイさんにとってもいい……」
「よくないですね」
「は? なにを馬鹿なこと言っているの。大体今日だって現地で一泊して昼に戻ればあなたもオドレイさんもきちんと眠れるし、帰る時も昼間のが安全でしょう?!」
「馬車には事故を避ける魔術を施しています。大体、夜より昼が安全と言い切る根拠はなんです?」
「根拠って……」

 なにむきになっているのこの人は。
 わからない、全然わからない。
 馬車に事故を避ける魔術を施しているというのなら、夜道も危なくはないのかもしれないけれど、いやでもそういったことでは。

「私にとってはこの屋敷ほど安全なものはありません。それに妻のそばに一刻も早く戻りたいと思うのはいけないことですか?」
「いけないってわけじゃないけど……」
「貴女に心配をかけたのは謝ります、ですが本当にこんなことは普段はないことで、私もオドレイもこれから休みますから」
「はあ」

 なんとなく。
 大事なことをうやむやにされてしまったような気がする。
 食事を終えて、休むという魔術師に手を引かれて私の私室に戻る廊下を釈然としない気分で歩く。
 魔術師はあまり自分のことや家のことは話さない。
 家のことはまあフェリシアンさんがいるからそういったものなのかもしれないけれど、でも彼自身のことをあまりにもわたしは知らないままでいる。

「しかし役に立ててないってそんなことまで気をまわしていたんですか? まだ一ヶ月で私が留守がちでろくに案内もできていないのに当たり前でしょう。むしろよくやっていますよ、戻るたびにあちこち綺麗になっているし」

 忙しくしていたからそんなところは見ていないと思っていたけれど、気がついていたのか。
 本当に少しずつだから、気がついてなくて当然と思っていたけれど。

「それに使用人たちともすっかり打ち解けているようだし」
 
 若干、腹が立つような気もしますけどねと低く言った魔術師に、さっきの根に持ってるのねと察してなんて大人気ないと呆れる。

「どうして夫である私より、彼らの方が貴女と楽しそうに会話しているんですか」
「大してかわりません。それと念のために言っておきますけど、わたしは付き合いませんからね。私室ですることがあるんです」
「わかっていますよ。さすがに徹夜仕事して帰って妻を抱くほどの体力はありません」
「いや、あの……そういったことではっ……」
「おや、ではどういうつもりで?」
「手……」
「手?」

 朝食が済んでお茶を飲み終えた頃、では部屋へ行きましょうかとわたしの手をとってそのまま、魔術師は離さずにいて、別に逃げることもしないし私も寝室のある私室には戻るのになんだか不自然に思える。
 
「このまま寝る場所まで引っ張って、添い寝しろとか言いだしかねないのじゃないかと……」
「ふむ、それは考えていませんでしたが悪くない」
「え、そうなの?! じゃあそのまま無しの方向で」
「聞いてしまったからには無理です。それに貴女はそのつもりでいたわけですし」
「つもりでいませんからっ、さっき付き合いませんって言ったでしょうっ!」
「ほんの少しですよ」

 ゆるやかに引き寄せられて、気がつけば手を繫れたまま廊下の壁際で抱き寄せられていた。
 なんていうかこういった時のこの人の動作は、まるでダンスをリードするように、なめらかで自然ですばやい。
 食事もとって流石に眠いので、すぐに寝ます。
 そう、囁きながら額を合わせてくる。
 顔が……近い。
 私を抱き寄せた繋いではいない手で右頬を撫でるように触れられて、心臓の音が少しだけ大きくなる。

「もう一度、聞かせてくれませんか?」
「な、なにを?」
「名前」

 名前、ああ彼の名前のことか。
 たしかに婚約時から言われてはいたけれど、誰しもが彼を名前で呼ぶわけでもなく私同様に魔術師様と声を掛ける人も多かったのに、そう呼ばれることに対してとくになにかあるようにも見えなかったのに。

「ルイ?」
「……どうして疑問形なんですか」
「だってそんな、急にこんな体勢でそんなことを言われてもどうしたものかと」
「どうしたものか……ですか」

 わたしの言葉に、額を離してなかなか難しいものですねえと何故かため息をついて、聞きたかったんですよと魔術師は言った。
 そして、聞きたいんですと言い直す。

「貴女の声で、私の名を呼ぶのを」
「どうして」
「さあ、どうしてでしょうね」

 意味がわからない。
 そして、もう一度呼ばないとどうやらこの体勢を解いてくれる気はないらしい。
 こんなに近くで、心の底まで覗かれそうな青みがかった灰色の目で静かに見つめられながらあらためて要求されると、ただ名前を口にするだけのことが気恥ずかしく変に意識してしまって、彼の視線から逃れるように目を伏せる。

「あの、いま呼ばなきゃだめ?」
「だめです」
「じゃあ……ルイ」
「もっと、きちんと私を見て」

 要求が多い。
 本当になんなのと、少しうんざりして下に逸らせた視線を彼に戻して、軽く睨みつけるようにして彼の名を繰り返せば、はいと答えながら彼の顔が近づいてゆっくりと唇が重ねられる。
 触れるだけじゃない。
 合わせながらゆっくりと食むように、何度も、誘うように。
 目を閉じて、応じてしまう。
 繋いでいない壁に触れていた手で彼の腕を軽くつかめば、触れ合わせている口元で彼が微笑む気配がして、離れる。

「……こういうの、部屋ではだめなの」

 離れてもまだ吐息がかかるほど近い彼に、俯きながら文句とも疑問ともそうではないなにか訴えたいようなすべてが混じってしまったような言葉を投げかければ、そう返ってくるかなと思ったとおりにだめですと彼が応える。

「とても部屋まで待てない」

 髪に口付けるように耳元にそう囁かれて、彼の腕を掴んでいる指先が甘く痺れる。
 わたし……この人のこと、好きではないはずなのに。
 
「それに部屋ではもっと、待てなくなる」

 えっと、わたしが顔を上げかけたのを逃さずに再び口付けられる。
 繋いでいる手の彼の親指が甲を軽く撫でて、他の指がそれぞれの指の間に握り直される。
 触れるだけの緩やかな、けれどいつまでも続きそうに長い口づけが、ほんのりと伝わってくる温かみが、不思議と心地良くて唇を重ねたまま少しうとうとしてしまった。
 まるで魔術師の眠気を移されたみたいだった。
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