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東都編
第44話 空虚な王と拐われた王女
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それはもう、遠い、過去の話だ――。
王都の街外れの一画の住人達は、大抵どこかの家や商店の下働きか、雇われの職工か人夫、あるいは屑のようなものを道端で拾い集めては売って日銭を稼ぎ口を糊していた者で、母親である女もそんな一人だった。
窓が一つしかない、暗く狭い家。
それでもその界隈では比較的まともな造りの家ではあったし、食い詰めるほどの貧しさでもなかった。
自分がどうやらただ不遇な女の私生児ではないらしいことには、物心がついてしばらくした頃に気がついた。定期的に母親である女が仕事場から持ち帰ってくる金品が、彼女の境遇にはあまりに不相応なものであり、それらは彼女の生活のためではなくその息子のためのものであったからだ。
最低限の衣食住に困らないだけの金。
書物や紙や筆記具、薬などは普通の平民にはまず簡単には買えないものであるから、母親である女が下女として勤める商店の主人が贈り主とは考えにくい。
真実を知ったのは六歳の頃だ。
思い出すだけで頭が痛くなってくる。
王家傍系の貴族の当主。
当時、下女として仕えていた家の、子を持たない男の子供を彼女は産んだ。
身ごもってから産んでその子が赤子でなくなるまでは、相手の男が手配した遠地の宿屋に追いやられ、それから解雇されその家に仕える前に勤めていた商店の下働きに戻って、家をあてがわれた。商店の主人はいわば仲介役、父親の使いだった。
周囲からは神経質で臆病な女だと思われていた。
口数も少なく他人と親しむこともあまりない。
下働きとしてはよく気がつくと重宝されていたらしいが、常になにかに怯えるように萎縮している女だった。
ただ姿は美しかった。
髪の色は薄い金で、肌の色は透けるように白く、濃い緑色の瞳のをした儚げな容姿。
幼少期に母親から虐げられていたために体つきは細かったが、それでも着飾って堂々としていればどこかの貴族の内気で物静かな奥方と疑われないような。
その髪色や肌理細かな皮膚、彼女の容姿の特徴のいくらかを持っている自分はやはりこの愚かな女の息子なのだ。
美しい姿は女がたまに盥の中で行水する時だけに見る姿で、普段はまるで隠すように髪を染め、肌もわざと煤や泥に汚していた。
どうして彼女がそんなことをしているのか、しばらくわからなかった。
だが、八つを迎えた頃に家の中で、刻印の入った赤い平らな石が嵌め込まれた指輪を見つけた。
余所の家の手伝いなどはしなくていいと厳しく言いつけられ、近所の者が忠告すれば体が弱い息子であるから外に出しても迷惑になるだけと女が頼りない声で応えているうちに、母親に苦労をかける息子といったことになってしまった。
日がな一日、届けられた書物を読みそこに書かれている知識を覚え、数式を解くなどして過ごしていたから指輪の刻印についての知識もすでに持っていた。
帰ってきた女は、彼女の息子がその指輪を弄んでいる姿を見て真っ青になった。
「これはヒューペリオ公爵家の刻印と思うけれど、どうしてそんなものがこの家に?」
母親である女は、泣き震えながら絶対に他人に漏らすなと言った。
他人に漏らすもなにも、近所の年頃の近い者達とも接点をもたせずに育てている息子に愚かな女だ。
私達は罪人なの、と彼女は言った。
驚いたことに、彼女の母親は公国の王の家系である公爵家直系の男の寵愛を受けて彼女を産み落としたらしい。だがなにか理由があって公国を追放され王国に流れついた。
「国を追放されるなんてそんな怖ろしいこと……お母様は私にずっと忌々しい者どもが邪魔しなければお前は王女だったのにと言っていたけれど、気性の激しい人だったからきっとなにか罪をおかしたに違いない……」
どうやら、生きている間に相当酷い仕打ちを受けていたらしい。彼女が少女の頃に死んだはずの母親の記憶に怯えきった様子でそう話した。
十を迎えた頃、夜更けに母親に外に連れ出され、幾本もの蝋燭が灯ったやけに煌びやかで明るい場所に連れられた。
そこは父親の屋敷で、その時はじめて父親である男と会った。
男は品定めでもするようにこちらを見て、お前がラテオかと言った。
「で、どうなんだ?」
「だ、旦那様のお言いつけ通りに……母親である私も理解できないほど恐ろしく賢い子です」
「ふん……万一のために教育は施してやっていたが、結局、お前に産ませたのに頼ることになるとはな」
「では、奥様は……」
お許しくださいと顔を覆って膝から崩れた女を、男も、そして自分も冷ややかに見下ろし、そうして床で泣き伏している女の存在などない様子で、女の元に届けた書物の内容について男は尋ね始めた。
おそらくその問いかけに答えなければ、自分の価値はないものとされるのだろうと悟り、ひどく退屈な男の口頭試問に答えていく。
その頃には中等学校と呼ばれる場所で学ぶような知識はすでに消化し、その先の展開を考えて遊んでいた。なにしろ一日家に閉じ込もっているに近いから時間だけはいくらでもあった。
論じることなど教わってもいなかったが、書物自体が論そのものともいえるものであるから必要に応じてその作法に則って編んだ考えを話せば、はじめ明らかに侮りを浮かべていた男の顔がみるみる驚嘆のそれへと変わっていった。
「信じられん、学術院に進学できるかもしれぬ水準ではないか……」
「学術院という場所がどんなところか知りませんが、どうやらまだ僕には価値があるということでよろしいですか、父上?」
そうして男の屋敷に住まうことになったが息子ではなく、屋敷の中では表向き慈善で面倒を見る子供として扱われた。
母親である女には幾ばくかの金が払われ、二度と自分達に関わらぬよう遠ざけられたが向こうも肩の荷が下りたことだろう。
仕えていた主と関係して成した、公国を追われた罪人の血を継ぐ子供などあの女には重荷以外のなにものでもなかっただろう。それが自らの腹から産まれた子であっても。
哀れだと思った、その時はじめて人を哀れむということを知った。
母親である女が外界と接触させずにいた弊害は思わぬところで現れた。
学問はともかく、普通の者にとっては当たり前の事柄がまるで欠落していて、また貴族の家に暮らす者としての立ち居振る舞いに関してはさっぱりだった。
結局それを埋めるために十年近く費やしたが、その頃にはもう屋敷の使用人も父親も精神的に自分の支配下にあった。
どういうわけか彼らがなにをしてやれば喜び、そして畏怖するか手に取るようにわかった。
最初は彼らに好かれ、そして心酔させて畏れを刷り込む。
彼等自身が気がつかないうちに、少しずつ、知らず識らずのうちに。
なかでも父親の男は早かった、十五になった頃にはもう彼にとって自分は下女が生んだ子供から頼るべき庶子となっていた。
頃合いだろうと、もう一つの王家につながる血のことを教えた。
「まさか……」
「本当です、証もある」
あの家から持ち出した刻印入の指輪を見せる。
しかし、これは後のことを考えたら男の権力欲を不必要に増長させただけで失策だった。
この家は王家の傍系。
しかも正統な跡取りと呼べる子供がいない、病弱な妻を相手に子供は望めず自分の代で家が取り潰しになるのを恐れた男は、よく見れば見目の良い従順な下女に子供を産ませた。
その女がまさか公国の王の直系の血を引く娘であったなどとは思いもよらず、かくして男は夢を見ることになった。
王国の王位簒奪と公国への影響力。
――まったく頭が痛い……。
十九で学術院に入り、それから季節が一巡りした頃だった。
学術院から屋敷に戻ったら、見るからに高貴の生まれとわかる格好をした子供がいた。
貴石を縫い付けた絹の服に、土に塗れる地面など踏むことは考えられない絹の靴。
艶々した長い黒髪に映える金銀の糸に芥子粒のような真珠を通して編まれた冠代わりの頭飾り。その年恰好と服装、黒髪からすぐに王国の第四王女だとわかった。
まるで拾われた猫のように、床に綿を詰めたクッションを幾つも重ねた上に体を丸めて眠っている。
「これは?」
「その、旦那様が、第四王女様をしばらくお預かりすることになったと……突然でお付きの方もいらっしゃらなくて驚きましたが」
彼女の面倒を見ていたらしい行儀見習いの少女に尋ねればそう答えたのに、そうと返す。
よく見れば、近くの床に父の本が一冊開かれていて、テーブルの上に菓子や果汁を絞ったものでも用意したらしい杯が散らばっていた。
「君、それ信じたの」
「え?」
「いや、あの方がそう仰っていたのならそうなのだろう。噂ではティア王女の身辺が少々騒がしいらしいから、落ち着く環境に置くために王から頼まれたのかもしれない。ティア王女は静けさを好む王女と聞くし」
「はあ……」
「こんなに小さな王女が、ね」
少し前から王宮内は王の末娘の噂で持ちきりだった。
王国法典によって定められている継承位を覆すような考えを王に持たせるほどの娘、王太子である第一王子すらもそれを認めるような発言をしたといった噂。
その噂は貴族の子弟が大半である学術院にも届いていて、主に法科の者達が騒いでいた。
彼等の先達である第一王子の書類の誤りを、八歳の第四王女が指摘し正したと。
すでに王国法典を読み通し、目にする様々な現象について学術院の学生並みに考察を行うらしい。なにより小さいながらも話す言葉が人を従わせる響きで、王の子供達の中でより重要な役目を将来担うだろうと目をつけた高官や貴族達が彼女に取り入ろうとご機嫌伺いの順番を争っているとか。
「それで? 旦那様は?」
「お部屋にいらっしゃいます」
「そう。言うまでもないけれど賓客だ。この家にお世話になっている者として僕達も王女に粗相があってはいけない」
「ええ、そうでございますね。ラテオさん」
そう頷いた少女を見ながら、なんてことだと胸の内で呟く。
短絡的で愚かな男だとは思っていたが、ここまでとは。
屋敷の階段を登りながら、本当に、頭の奥にずきずきと疼く痛みを覚える。
影響力はさておき、この家で自分は、目の前にいる男の慈善で世話されている男に過ぎない。
屋敷に暮らすことを許され、家臣同然に衣食を保証され教育の機会を施されている哀れにして幸運な孤児。
「あなたにしては、随分と大それたことをしたものだ」
僕に引き合わせるために連れ出したと、得意満面に鼻を膨らませる男の説明を聞き流し、薄く微笑みを浮かべながら突き放すようにそう言えば、人の様子を窺うことには長けている男は沈黙した。
「まあでも過ぎたことは仕方がない。一体、どちらで拐かしたのですか。幼くても王女だ。いくらあなたとはいえそう気安く近づけるものでもないでしょう」
「お、王宮の裏庭だ……学術院の敷地に近い……お前があのあたりは王女達の遊び場らしいとそう……」
「でしたら、声が近くに聞こえると不用意に話した僕にも責任がある」
そう、青くというよりは生気を失った土気色に近い顔色になっている、椅子に腰掛けている父親である男に近づき、目線を合わせるように身を屈める。
初対面であれほどこちらを見下し威丈高だった男は見る影もない。所詮王位どころか当主としての器にも足りない。権力を持ったところですぐ破滅するだろうに。
「お、お前がいくらヒューペリオの血を引き証を持っているにしても、担ぎ上げるには王国側の理由もいる」
「ええ、ですからこうしていまは勉学に励んでいるではないですか。幸いにして王国は実力が評価される。アウローラに近しく王国を出たヒューペリオの血統で、王国に留まった傍系カッシウス家当主であるあなたの息子でもある僕が、王宮に食い込むまでのたったの数年も待てないとは……」
「あの第四王女はお前が目論んでいた評判を、いま王宮で欲しいままにしているっ! 王と王太子までも認める形でっ」
ああ、頭が痛む――だからといって厳格がすぎて『王国の王は一冊の法典である』と皮肉られる王国法典が定める序列が簡単に覆るとでも本気で思ったのだろうか、この男は。
「そう興奮なさらず、お体に障ります。時折胸苦しいと仰っていたでしょう。いまのうちなら送り届ければ済む事です。理由などいくらでもつけられる」
「しかし……ここに連れてくるのに王女に“王と王妃様に頼まれた”と言ってしまった」
行儀見習いの少女から話を聞いた時にもしやとは思ったが。
この男は嘘が下手だ。
公爵の身分に不満でいるその権力欲は、傍系の凡庸な当主である自分と比較しての王家や王への妬みと羨みと劣等感の裏返し。
本当に欲しているのは別のもの、それを認めることが出来ないからこそ強迫的にさも欲望に突き動かされているかのように、こんな極端な行動が出来る。
そもそもが病弱な妻との間の後継は絶望的でありながら、妻を気にかけ愛妾も持つことが出来なかった男だ。
「本当に、困った人だ」
自分より明らかに弱い存在、決して逆らうことがないあの女に目を付けるのが精一杯。
この男は、自分の父であるにはあまりに善良すぎる。
なんとか考えてみましょうと、父親を落ち着かせて王女のいる部屋に戻ってみればまだ彼女は眠っていた。
時折口元をもぐもぐと動かしているのが、小さな動物のようだった。
気持ち良さそうに眠っているが、いつまでもそうされても困るから軽く小さく丸い肩を揺さぶってみる。
「ティア王女」
「ぅ、ん……そでからうさぎがはねたぞ……リ……ァヌス……」
「ん?」
「……ぅ、ぁれは、さつじんうしゃぎだ……かたつむりにのっている……」
「うしゃぎ?」
「……うさ……ぎ……」
むにゃむにゃ言いながら身じろぎする小さな王女に、それまで側についていた行儀見習いの少女がくすっと口元に手をあて、なんて可愛いらしいなどと呟くのに、事情を知らされていないとはいえまったくお気楽なものだと床に膝ついて肩を落とし、再びさっきよりも少し強く揺さぶる。
「起きていらっしゃるのかそれとも寝ぼけているのですか、王女?」
「……んぅ……まだねむぃ……」
揺さぶるこちらを小さな細い腕で跳ね除けような仕草をして、クッションにしがみつくよう体を丸める王女に彼女を見下ろす。まだ小さいとはいえ随分と寝起きの悪い王女だ。
彼女の朝の支度を担当する侍女はさぞ大変だろう。
「もう少しそっとしてあげてはいかがでしょう?」
「そうは言っても王女をいつまでも床に寝かせておくわけにもいかないからね」
「まあそうですよね」
王女を気遣った少女の言葉に、王女から少し身を引いてやれやれと額を押さえた。
これからこの王女をどうするのが最良かと考えていたためか、頭の奥に鈍い痛みを覚えて目と目の間を軽くつまんでため息を吐いた。
「――痛むのか?」
はっきりとした、その小さく可憐な姿にしてはやけに威厳のある、可愛げのない声が耳を打ち、顔から指を離して軽く閉じていた目を開いて見下ろせば、クッションに両手をついて俯せに上半身を起こした状態で首を伸ばすようにして顔をこちらに向けている王女の姿があった。
その引き込まれそうに大きな黒い瞳が、こちらをじっと見つめている。
「頭痛持ちというやつか? トリアヌスもお前と同じように目の間をつまんでいる」
「お目覚めですかティア王女。なにかお持ちいたしましょうか」
王宮式のお辞儀をして、控えるように身を落とした行儀見習いの少女に、黙ったまま王女は少し彼女へ目を向けると、再びこちらの顔を見て、いいと答えた。
「あまり好き勝手に飲み食いするとトリアヌスにあとで叱られる」
トリアヌス……さっき寝言でもそれらしい名を呟いていた。
側近の家臣か教育係の者だろうか、それにしても人嫌いと噂されるほど人見知りが激しいと評判のこの第四王女が随分信頼を置いている人物のようだ。
「君は屋敷の手伝いもあるから、王女のお相手は僕が務める」
「ラテオさんが?」
「旦那様がそう。これでもこの屋敷に来る前は小さい子達を引き連れていたものだよ」
嘘だがそう言えば、でもとしばらく逡巡したが、彼女を一瞥しただけで黙ったままクッションの上に立ち上がった王女に、では失礼いたしますと部屋を出ていった。
そんな彼女の背を追うように、少し首を傾げ、それから周囲の様子を確認するように視線を巡らせて、彼女に傅くように床に片膝をついたままでいるこちらへ再び顔を向ける。
八歳の、背の低い王女の背は、跪くこちらの頭のたかさとそれほど変わらない高さであった。
小さくても王女、大人達がこぞって彼女に近付こうとするのもわかるような気がした。
子供にしては物事に動じない太さがあるなどと、黙ったまま表情一つ動かさずに立っている王女を眺めていたら、ふわっ、と口元に手をあててあくびをした。
「そういえば……父様と母様に頼まれたからとしばらくカッシウス家の屋敷にお泊まりだったな」
どうやらいまのいままで半ば寝ぼけていて、ようやく状況を思い出したらしい。
まだ少し眠そうに目をこすっている。
「……本のある部屋があるだろう。ここに来た時、公がこの部屋ではない場所から本を持ってきてくれた」
「お連れしましょう」
「うん」
*****
小さくても王女。
それも王国王が第一王子であったならなどと口にして認めたというその意味を、少々軽く捉えすぎていたことに気がついたのは、父親が蒐集した書物を集めた赤に彩られた部屋に王女を通してすぐだった。
部屋に入って、はぁっと感嘆の声を漏らして王女は早足に数歩部屋の中央へと向かって進みでるとぴたりと足を止めて、扉を後ろ手に閉めたこちらへ向き直った。
「それで、お前は何者だ?」
おやおやと心の中で呟いた。
真っ直ぐにこちらを射抜く黒い眼差しは、状況を“正しく”理解していた。
どうやら僕は、密談に向いているこの部屋に王女に案内させられてしまったらしい。
「小さいのに、大した王女だ」
「むっ、小さいのは関係ない」
「ならまだ八歳で小さくて可愛いのに大した度胸と賢さをもった王女だ」
「……なんだか偉そうだぞ」
「君には言われたくないよ。家臣の家の者とはいえ、初対面の目上の者をお前と呼ぶのはあまり感心できることではないのでは? ティア王女」
「うっ……」
「まあ拐ってきた王族の君にこうも気安く話しかけている僕も、あまり人のことは言えないけれどね。けれど一応その資格はある」
「ん?」
貴族の所作ならこの十年近くの間で完璧に出来るようになっていた。
王宮儀礼に則った王族に対する、恭しい礼を彼女に見せて、自分の胸に手を置いて跪く。
「ラテオ・ヒューペリオ・カッシウス・クルウス。君の親戚のお兄さんってところだからね」
「ヒューペリオ……?」
カッシウスよりもそちらに注意を向けるあたり、幼くてもやはりアウローラ王家の第四王女だ。
公爵など名誉ばかり。
アウローラ王家から見ればカッシウス家などもはや細く遠い滅びかけの家系と言ってもいい。加えて現当主があの男だ。適当に敬意は払っておいて捨て置いていい位置付けだ。
おそらくそれもまたあの父親の無意識の鬱屈の一因でもあるだろうけれど。
比べてヒューペリオはアウローラの正統を支え、後に分かれたとはいえいまなお公国を統べる君主家として栄えている。
「隠れた王様候補なんだ、僕は」
「王様……?」
「けれどいますぐどうこうって考えじゃないし、君のことも今夜のうちに帰す方向で考えていたけれど。君はちょっと王城の外に出てみたかったんだろ? だったら丁度いい」
「なにが?」
「折角こうして会えたわけだし少し遊ぼう。君はどうかしらないけれど、なかなか自分と同じくらいに賢い人っていないから退屈していたところなんだ」
そして、それはこの小さな王女も同じなはず。
「頃合いを見て、穏便に君を帰すよ。君にとっていま王宮は少々煩わしい場所のはずだ、僕たちの利害は一致している」
明らかに戸惑いの表情を見せた小さな王女に、柔らかく微笑んだ。
懐柔し支配するのも一興だと考えなかったと言えば嘘になる。しかし結果的にそうならずに済んでよかった。
カッシウス家の断絶としばらく身を隠す代償を払うことにはなったけれど。
――おいっ!
粗野な掛け声と蹄の音が聞こえて、大河に向かって佇んでいたのをゆっくり体ごと声の方向へと向ければ、ひどくむっすりと不機嫌そうな様子の少年が馬上からこちらを見下ろしていた。
「なに川辺見ながらにやにやしてやがる。気色悪ぃ」
「思ったより早かったね。流石は北方騎馬民族の首領の息子というべきか、お迎えいたみいるよ若王」
けっと、不満の声を発している少年が、自分が乗っている馬とは別にもう一頭引き連れているのを見ながら感謝すれば、お迎えする立場はオレじゃなくあんただろうがと噛みつかれた。
「君はいつもいらいらしている、若王」
「あんたが人の神経逆撫ですんのが天才的だからだろうがっ、いっとくけど言われたことはしたからなオレは。あんたが厄介っていうだけあって無事だったみたいだけどオレには関係ない」
「ああ、失敗を恥じ入っていたわけか。気に病むことはないよ事のついでに頼んだことだし」
「違ぇよっ! てか、はあっ?! 事のついでってあんたにとって邪魔な女だから排除してくれって泣きついたんだろっ!」
「そうだったかな」
「そうだよ……んだよ、っとに」
ぶつくさと文句の言葉を次から次へと繰り出している少年王に、やれやれと肩をすくめて、彼が連れてきてくれた馬の背に乗った。
「おかげで懐かしくも楽しい語らいができたよ」
「……人の話は聞いちゃいねぇ奴だなあんた。で、どうすんだよこれから」
「君は戻るといい、僕はちょっとした買い物があるからそれから戻るよ」
「買い物?」
「正式に、医官の身分証も手に入ったことだしね。これがあればたとえ国の外に出たとしても、戦地ですら、王国の管轄内であればどこへでもすんなりと行ける。薬問屋にも出入りし放題」
「それが本当の目的ってやつかよ……」
「いや、これもついでだ。まあ優先順位としては二番目ってところかな。二十日のうちには戻るよそれまで君はのんびりしていたらいい。王国も公国も勝手に動き出す」
「じゃあそうする。あんたのそういうのは素直に聞いておくのが良さそうだから」
「君は賢明だ、若王」
「全然っ、誉められてる気がしねぇ。じゃあな」
言うが早いかあっという間に小さくなっていく姿に、また後日にと呟いて乗った馬の手綱を引いた。
「さて、“西方の白銀の魔女”は健在かな」
王都の街外れの一画の住人達は、大抵どこかの家や商店の下働きか、雇われの職工か人夫、あるいは屑のようなものを道端で拾い集めては売って日銭を稼ぎ口を糊していた者で、母親である女もそんな一人だった。
窓が一つしかない、暗く狭い家。
それでもその界隈では比較的まともな造りの家ではあったし、食い詰めるほどの貧しさでもなかった。
自分がどうやらただ不遇な女の私生児ではないらしいことには、物心がついてしばらくした頃に気がついた。定期的に母親である女が仕事場から持ち帰ってくる金品が、彼女の境遇にはあまりに不相応なものであり、それらは彼女の生活のためではなくその息子のためのものであったからだ。
最低限の衣食住に困らないだけの金。
書物や紙や筆記具、薬などは普通の平民にはまず簡単には買えないものであるから、母親である女が下女として勤める商店の主人が贈り主とは考えにくい。
真実を知ったのは六歳の頃だ。
思い出すだけで頭が痛くなってくる。
王家傍系の貴族の当主。
当時、下女として仕えていた家の、子を持たない男の子供を彼女は産んだ。
身ごもってから産んでその子が赤子でなくなるまでは、相手の男が手配した遠地の宿屋に追いやられ、それから解雇されその家に仕える前に勤めていた商店の下働きに戻って、家をあてがわれた。商店の主人はいわば仲介役、父親の使いだった。
周囲からは神経質で臆病な女だと思われていた。
口数も少なく他人と親しむこともあまりない。
下働きとしてはよく気がつくと重宝されていたらしいが、常になにかに怯えるように萎縮している女だった。
ただ姿は美しかった。
髪の色は薄い金で、肌の色は透けるように白く、濃い緑色の瞳のをした儚げな容姿。
幼少期に母親から虐げられていたために体つきは細かったが、それでも着飾って堂々としていればどこかの貴族の内気で物静かな奥方と疑われないような。
その髪色や肌理細かな皮膚、彼女の容姿の特徴のいくらかを持っている自分はやはりこの愚かな女の息子なのだ。
美しい姿は女がたまに盥の中で行水する時だけに見る姿で、普段はまるで隠すように髪を染め、肌もわざと煤や泥に汚していた。
どうして彼女がそんなことをしているのか、しばらくわからなかった。
だが、八つを迎えた頃に家の中で、刻印の入った赤い平らな石が嵌め込まれた指輪を見つけた。
余所の家の手伝いなどはしなくていいと厳しく言いつけられ、近所の者が忠告すれば体が弱い息子であるから外に出しても迷惑になるだけと女が頼りない声で応えているうちに、母親に苦労をかける息子といったことになってしまった。
日がな一日、届けられた書物を読みそこに書かれている知識を覚え、数式を解くなどして過ごしていたから指輪の刻印についての知識もすでに持っていた。
帰ってきた女は、彼女の息子がその指輪を弄んでいる姿を見て真っ青になった。
「これはヒューペリオ公爵家の刻印と思うけれど、どうしてそんなものがこの家に?」
母親である女は、泣き震えながら絶対に他人に漏らすなと言った。
他人に漏らすもなにも、近所の年頃の近い者達とも接点をもたせずに育てている息子に愚かな女だ。
私達は罪人なの、と彼女は言った。
驚いたことに、彼女の母親は公国の王の家系である公爵家直系の男の寵愛を受けて彼女を産み落としたらしい。だがなにか理由があって公国を追放され王国に流れついた。
「国を追放されるなんてそんな怖ろしいこと……お母様は私にずっと忌々しい者どもが邪魔しなければお前は王女だったのにと言っていたけれど、気性の激しい人だったからきっとなにか罪をおかしたに違いない……」
どうやら、生きている間に相当酷い仕打ちを受けていたらしい。彼女が少女の頃に死んだはずの母親の記憶に怯えきった様子でそう話した。
十を迎えた頃、夜更けに母親に外に連れ出され、幾本もの蝋燭が灯ったやけに煌びやかで明るい場所に連れられた。
そこは父親の屋敷で、その時はじめて父親である男と会った。
男は品定めでもするようにこちらを見て、お前がラテオかと言った。
「で、どうなんだ?」
「だ、旦那様のお言いつけ通りに……母親である私も理解できないほど恐ろしく賢い子です」
「ふん……万一のために教育は施してやっていたが、結局、お前に産ませたのに頼ることになるとはな」
「では、奥様は……」
お許しくださいと顔を覆って膝から崩れた女を、男も、そして自分も冷ややかに見下ろし、そうして床で泣き伏している女の存在などない様子で、女の元に届けた書物の内容について男は尋ね始めた。
おそらくその問いかけに答えなければ、自分の価値はないものとされるのだろうと悟り、ひどく退屈な男の口頭試問に答えていく。
その頃には中等学校と呼ばれる場所で学ぶような知識はすでに消化し、その先の展開を考えて遊んでいた。なにしろ一日家に閉じ込もっているに近いから時間だけはいくらでもあった。
論じることなど教わってもいなかったが、書物自体が論そのものともいえるものであるから必要に応じてその作法に則って編んだ考えを話せば、はじめ明らかに侮りを浮かべていた男の顔がみるみる驚嘆のそれへと変わっていった。
「信じられん、学術院に進学できるかもしれぬ水準ではないか……」
「学術院という場所がどんなところか知りませんが、どうやらまだ僕には価値があるということでよろしいですか、父上?」
そうして男の屋敷に住まうことになったが息子ではなく、屋敷の中では表向き慈善で面倒を見る子供として扱われた。
母親である女には幾ばくかの金が払われ、二度と自分達に関わらぬよう遠ざけられたが向こうも肩の荷が下りたことだろう。
仕えていた主と関係して成した、公国を追われた罪人の血を継ぐ子供などあの女には重荷以外のなにものでもなかっただろう。それが自らの腹から産まれた子であっても。
哀れだと思った、その時はじめて人を哀れむということを知った。
母親である女が外界と接触させずにいた弊害は思わぬところで現れた。
学問はともかく、普通の者にとっては当たり前の事柄がまるで欠落していて、また貴族の家に暮らす者としての立ち居振る舞いに関してはさっぱりだった。
結局それを埋めるために十年近く費やしたが、その頃にはもう屋敷の使用人も父親も精神的に自分の支配下にあった。
どういうわけか彼らがなにをしてやれば喜び、そして畏怖するか手に取るようにわかった。
最初は彼らに好かれ、そして心酔させて畏れを刷り込む。
彼等自身が気がつかないうちに、少しずつ、知らず識らずのうちに。
なかでも父親の男は早かった、十五になった頃にはもう彼にとって自分は下女が生んだ子供から頼るべき庶子となっていた。
頃合いだろうと、もう一つの王家につながる血のことを教えた。
「まさか……」
「本当です、証もある」
あの家から持ち出した刻印入の指輪を見せる。
しかし、これは後のことを考えたら男の権力欲を不必要に増長させただけで失策だった。
この家は王家の傍系。
しかも正統な跡取りと呼べる子供がいない、病弱な妻を相手に子供は望めず自分の代で家が取り潰しになるのを恐れた男は、よく見れば見目の良い従順な下女に子供を産ませた。
その女がまさか公国の王の直系の血を引く娘であったなどとは思いもよらず、かくして男は夢を見ることになった。
王国の王位簒奪と公国への影響力。
――まったく頭が痛い……。
十九で学術院に入り、それから季節が一巡りした頃だった。
学術院から屋敷に戻ったら、見るからに高貴の生まれとわかる格好をした子供がいた。
貴石を縫い付けた絹の服に、土に塗れる地面など踏むことは考えられない絹の靴。
艶々した長い黒髪に映える金銀の糸に芥子粒のような真珠を通して編まれた冠代わりの頭飾り。その年恰好と服装、黒髪からすぐに王国の第四王女だとわかった。
まるで拾われた猫のように、床に綿を詰めたクッションを幾つも重ねた上に体を丸めて眠っている。
「これは?」
「その、旦那様が、第四王女様をしばらくお預かりすることになったと……突然でお付きの方もいらっしゃらなくて驚きましたが」
彼女の面倒を見ていたらしい行儀見習いの少女に尋ねればそう答えたのに、そうと返す。
よく見れば、近くの床に父の本が一冊開かれていて、テーブルの上に菓子や果汁を絞ったものでも用意したらしい杯が散らばっていた。
「君、それ信じたの」
「え?」
「いや、あの方がそう仰っていたのならそうなのだろう。噂ではティア王女の身辺が少々騒がしいらしいから、落ち着く環境に置くために王から頼まれたのかもしれない。ティア王女は静けさを好む王女と聞くし」
「はあ……」
「こんなに小さな王女が、ね」
少し前から王宮内は王の末娘の噂で持ちきりだった。
王国法典によって定められている継承位を覆すような考えを王に持たせるほどの娘、王太子である第一王子すらもそれを認めるような発言をしたといった噂。
その噂は貴族の子弟が大半である学術院にも届いていて、主に法科の者達が騒いでいた。
彼等の先達である第一王子の書類の誤りを、八歳の第四王女が指摘し正したと。
すでに王国法典を読み通し、目にする様々な現象について学術院の学生並みに考察を行うらしい。なにより小さいながらも話す言葉が人を従わせる響きで、王の子供達の中でより重要な役目を将来担うだろうと目をつけた高官や貴族達が彼女に取り入ろうとご機嫌伺いの順番を争っているとか。
「それで? 旦那様は?」
「お部屋にいらっしゃいます」
「そう。言うまでもないけれど賓客だ。この家にお世話になっている者として僕達も王女に粗相があってはいけない」
「ええ、そうでございますね。ラテオさん」
そう頷いた少女を見ながら、なんてことだと胸の内で呟く。
短絡的で愚かな男だとは思っていたが、ここまでとは。
屋敷の階段を登りながら、本当に、頭の奥にずきずきと疼く痛みを覚える。
影響力はさておき、この家で自分は、目の前にいる男の慈善で世話されている男に過ぎない。
屋敷に暮らすことを許され、家臣同然に衣食を保証され教育の機会を施されている哀れにして幸運な孤児。
「あなたにしては、随分と大それたことをしたものだ」
僕に引き合わせるために連れ出したと、得意満面に鼻を膨らませる男の説明を聞き流し、薄く微笑みを浮かべながら突き放すようにそう言えば、人の様子を窺うことには長けている男は沈黙した。
「まあでも過ぎたことは仕方がない。一体、どちらで拐かしたのですか。幼くても王女だ。いくらあなたとはいえそう気安く近づけるものでもないでしょう」
「お、王宮の裏庭だ……学術院の敷地に近い……お前があのあたりは王女達の遊び場らしいとそう……」
「でしたら、声が近くに聞こえると不用意に話した僕にも責任がある」
そう、青くというよりは生気を失った土気色に近い顔色になっている、椅子に腰掛けている父親である男に近づき、目線を合わせるように身を屈める。
初対面であれほどこちらを見下し威丈高だった男は見る影もない。所詮王位どころか当主としての器にも足りない。権力を持ったところですぐ破滅するだろうに。
「お、お前がいくらヒューペリオの血を引き証を持っているにしても、担ぎ上げるには王国側の理由もいる」
「ええ、ですからこうしていまは勉学に励んでいるではないですか。幸いにして王国は実力が評価される。アウローラに近しく王国を出たヒューペリオの血統で、王国に留まった傍系カッシウス家当主であるあなたの息子でもある僕が、王宮に食い込むまでのたったの数年も待てないとは……」
「あの第四王女はお前が目論んでいた評判を、いま王宮で欲しいままにしているっ! 王と王太子までも認める形でっ」
ああ、頭が痛む――だからといって厳格がすぎて『王国の王は一冊の法典である』と皮肉られる王国法典が定める序列が簡単に覆るとでも本気で思ったのだろうか、この男は。
「そう興奮なさらず、お体に障ります。時折胸苦しいと仰っていたでしょう。いまのうちなら送り届ければ済む事です。理由などいくらでもつけられる」
「しかし……ここに連れてくるのに王女に“王と王妃様に頼まれた”と言ってしまった」
行儀見習いの少女から話を聞いた時にもしやとは思ったが。
この男は嘘が下手だ。
公爵の身分に不満でいるその権力欲は、傍系の凡庸な当主である自分と比較しての王家や王への妬みと羨みと劣等感の裏返し。
本当に欲しているのは別のもの、それを認めることが出来ないからこそ強迫的にさも欲望に突き動かされているかのように、こんな極端な行動が出来る。
そもそもが病弱な妻との間の後継は絶望的でありながら、妻を気にかけ愛妾も持つことが出来なかった男だ。
「本当に、困った人だ」
自分より明らかに弱い存在、決して逆らうことがないあの女に目を付けるのが精一杯。
この男は、自分の父であるにはあまりに善良すぎる。
なんとか考えてみましょうと、父親を落ち着かせて王女のいる部屋に戻ってみればまだ彼女は眠っていた。
時折口元をもぐもぐと動かしているのが、小さな動物のようだった。
気持ち良さそうに眠っているが、いつまでもそうされても困るから軽く小さく丸い肩を揺さぶってみる。
「ティア王女」
「ぅ、ん……そでからうさぎがはねたぞ……リ……ァヌス……」
「ん?」
「……ぅ、ぁれは、さつじんうしゃぎだ……かたつむりにのっている……」
「うしゃぎ?」
「……うさ……ぎ……」
むにゃむにゃ言いながら身じろぎする小さな王女に、それまで側についていた行儀見習いの少女がくすっと口元に手をあて、なんて可愛いらしいなどと呟くのに、事情を知らされていないとはいえまったくお気楽なものだと床に膝ついて肩を落とし、再びさっきよりも少し強く揺さぶる。
「起きていらっしゃるのかそれとも寝ぼけているのですか、王女?」
「……んぅ……まだねむぃ……」
揺さぶるこちらを小さな細い腕で跳ね除けような仕草をして、クッションにしがみつくよう体を丸める王女に彼女を見下ろす。まだ小さいとはいえ随分と寝起きの悪い王女だ。
彼女の朝の支度を担当する侍女はさぞ大変だろう。
「もう少しそっとしてあげてはいかがでしょう?」
「そうは言っても王女をいつまでも床に寝かせておくわけにもいかないからね」
「まあそうですよね」
王女を気遣った少女の言葉に、王女から少し身を引いてやれやれと額を押さえた。
これからこの王女をどうするのが最良かと考えていたためか、頭の奥に鈍い痛みを覚えて目と目の間を軽くつまんでため息を吐いた。
「――痛むのか?」
はっきりとした、その小さく可憐な姿にしてはやけに威厳のある、可愛げのない声が耳を打ち、顔から指を離して軽く閉じていた目を開いて見下ろせば、クッションに両手をついて俯せに上半身を起こした状態で首を伸ばすようにして顔をこちらに向けている王女の姿があった。
その引き込まれそうに大きな黒い瞳が、こちらをじっと見つめている。
「頭痛持ちというやつか? トリアヌスもお前と同じように目の間をつまんでいる」
「お目覚めですかティア王女。なにかお持ちいたしましょうか」
王宮式のお辞儀をして、控えるように身を落とした行儀見習いの少女に、黙ったまま王女は少し彼女へ目を向けると、再びこちらの顔を見て、いいと答えた。
「あまり好き勝手に飲み食いするとトリアヌスにあとで叱られる」
トリアヌス……さっき寝言でもそれらしい名を呟いていた。
側近の家臣か教育係の者だろうか、それにしても人嫌いと噂されるほど人見知りが激しいと評判のこの第四王女が随分信頼を置いている人物のようだ。
「君は屋敷の手伝いもあるから、王女のお相手は僕が務める」
「ラテオさんが?」
「旦那様がそう。これでもこの屋敷に来る前は小さい子達を引き連れていたものだよ」
嘘だがそう言えば、でもとしばらく逡巡したが、彼女を一瞥しただけで黙ったままクッションの上に立ち上がった王女に、では失礼いたしますと部屋を出ていった。
そんな彼女の背を追うように、少し首を傾げ、それから周囲の様子を確認するように視線を巡らせて、彼女に傅くように床に片膝をついたままでいるこちらへ再び顔を向ける。
八歳の、背の低い王女の背は、跪くこちらの頭のたかさとそれほど変わらない高さであった。
小さくても王女、大人達がこぞって彼女に近付こうとするのもわかるような気がした。
子供にしては物事に動じない太さがあるなどと、黙ったまま表情一つ動かさずに立っている王女を眺めていたら、ふわっ、と口元に手をあててあくびをした。
「そういえば……父様と母様に頼まれたからとしばらくカッシウス家の屋敷にお泊まりだったな」
どうやらいまのいままで半ば寝ぼけていて、ようやく状況を思い出したらしい。
まだ少し眠そうに目をこすっている。
「……本のある部屋があるだろう。ここに来た時、公がこの部屋ではない場所から本を持ってきてくれた」
「お連れしましょう」
「うん」
*****
小さくても王女。
それも王国王が第一王子であったならなどと口にして認めたというその意味を、少々軽く捉えすぎていたことに気がついたのは、父親が蒐集した書物を集めた赤に彩られた部屋に王女を通してすぐだった。
部屋に入って、はぁっと感嘆の声を漏らして王女は早足に数歩部屋の中央へと向かって進みでるとぴたりと足を止めて、扉を後ろ手に閉めたこちらへ向き直った。
「それで、お前は何者だ?」
おやおやと心の中で呟いた。
真っ直ぐにこちらを射抜く黒い眼差しは、状況を“正しく”理解していた。
どうやら僕は、密談に向いているこの部屋に王女に案内させられてしまったらしい。
「小さいのに、大した王女だ」
「むっ、小さいのは関係ない」
「ならまだ八歳で小さくて可愛いのに大した度胸と賢さをもった王女だ」
「……なんだか偉そうだぞ」
「君には言われたくないよ。家臣の家の者とはいえ、初対面の目上の者をお前と呼ぶのはあまり感心できることではないのでは? ティア王女」
「うっ……」
「まあ拐ってきた王族の君にこうも気安く話しかけている僕も、あまり人のことは言えないけれどね。けれど一応その資格はある」
「ん?」
貴族の所作ならこの十年近くの間で完璧に出来るようになっていた。
王宮儀礼に則った王族に対する、恭しい礼を彼女に見せて、自分の胸に手を置いて跪く。
「ラテオ・ヒューペリオ・カッシウス・クルウス。君の親戚のお兄さんってところだからね」
「ヒューペリオ……?」
カッシウスよりもそちらに注意を向けるあたり、幼くてもやはりアウローラ王家の第四王女だ。
公爵など名誉ばかり。
アウローラ王家から見ればカッシウス家などもはや細く遠い滅びかけの家系と言ってもいい。加えて現当主があの男だ。適当に敬意は払っておいて捨て置いていい位置付けだ。
おそらくそれもまたあの父親の無意識の鬱屈の一因でもあるだろうけれど。
比べてヒューペリオはアウローラの正統を支え、後に分かれたとはいえいまなお公国を統べる君主家として栄えている。
「隠れた王様候補なんだ、僕は」
「王様……?」
「けれどいますぐどうこうって考えじゃないし、君のことも今夜のうちに帰す方向で考えていたけれど。君はちょっと王城の外に出てみたかったんだろ? だったら丁度いい」
「なにが?」
「折角こうして会えたわけだし少し遊ぼう。君はどうかしらないけれど、なかなか自分と同じくらいに賢い人っていないから退屈していたところなんだ」
そして、それはこの小さな王女も同じなはず。
「頃合いを見て、穏便に君を帰すよ。君にとっていま王宮は少々煩わしい場所のはずだ、僕たちの利害は一致している」
明らかに戸惑いの表情を見せた小さな王女に、柔らかく微笑んだ。
懐柔し支配するのも一興だと考えなかったと言えば嘘になる。しかし結果的にそうならずに済んでよかった。
カッシウス家の断絶としばらく身を隠す代償を払うことにはなったけれど。
――おいっ!
粗野な掛け声と蹄の音が聞こえて、大河に向かって佇んでいたのをゆっくり体ごと声の方向へと向ければ、ひどくむっすりと不機嫌そうな様子の少年が馬上からこちらを見下ろしていた。
「なに川辺見ながらにやにやしてやがる。気色悪ぃ」
「思ったより早かったね。流石は北方騎馬民族の首領の息子というべきか、お迎えいたみいるよ若王」
けっと、不満の声を発している少年が、自分が乗っている馬とは別にもう一頭引き連れているのを見ながら感謝すれば、お迎えする立場はオレじゃなくあんただろうがと噛みつかれた。
「君はいつもいらいらしている、若王」
「あんたが人の神経逆撫ですんのが天才的だからだろうがっ、いっとくけど言われたことはしたからなオレは。あんたが厄介っていうだけあって無事だったみたいだけどオレには関係ない」
「ああ、失敗を恥じ入っていたわけか。気に病むことはないよ事のついでに頼んだことだし」
「違ぇよっ! てか、はあっ?! 事のついでってあんたにとって邪魔な女だから排除してくれって泣きついたんだろっ!」
「そうだったかな」
「そうだよ……んだよ、っとに」
ぶつくさと文句の言葉を次から次へと繰り出している少年王に、やれやれと肩をすくめて、彼が連れてきてくれた馬の背に乗った。
「おかげで懐かしくも楽しい語らいができたよ」
「……人の話は聞いちゃいねぇ奴だなあんた。で、どうすんだよこれから」
「君は戻るといい、僕はちょっとした買い物があるからそれから戻るよ」
「買い物?」
「正式に、医官の身分証も手に入ったことだしね。これがあればたとえ国の外に出たとしても、戦地ですら、王国の管轄内であればどこへでもすんなりと行ける。薬問屋にも出入りし放題」
「それが本当の目的ってやつかよ……」
「いや、これもついでだ。まあ優先順位としては二番目ってところかな。二十日のうちには戻るよそれまで君はのんびりしていたらいい。王国も公国も勝手に動き出す」
「じゃあそうする。あんたのそういうのは素直に聞いておくのが良さそうだから」
「君は賢明だ、若王」
「全然っ、誉められてる気がしねぇ。じゃあな」
言うが早いかあっという間に小さくなっていく姿に、また後日にと呟いて乗った馬の手綱を引いた。
「さて、“西方の白銀の魔女”は健在かな」
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