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東都編

第41話 向き合う忠臣と涙する王女

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 執務を終え、王宮にあてがわれている私室に戻る途中の回廊から見えるその場所を見上げれば灯りが見えた。
 もう人々は一日を終えて床に就く時間。副官もとうに彼の屋敷に戻っている。
 だとしたら。
 暗い廊下の交差箇所に差し掛かって低く咳払いをすれば、立っている衛兵が居ずまいを正したのにまったくとその先はもう燭台に火も灯していない先へ進む。
 廊下の半ばに細く橙色の光が細く漏れている扉を静かに開いた。
 ゆらりと蝋燭を入れたランプの光と濃い影が揺れ、紙をめくる音に合わせて壁に大写しに引き伸ばされた影絵が動くのを見て、開いた扉を軽く小突いて壁の影絵に声を掛ける。

「夜更けに、なにをなさっているのですか?」
「え、ひゃっ……ん」
「ひゃん?」

 ばさばさと崩れる紙の音と声がした方向へと目を細め、予想していた通りの人物の姿に息を吐く。
 寝巻きにガウンを纏ってはいるが、部屋で休んでいたままの姿で出てきたような格好で。
 まだ冬は近づいてはいないが、もう夜は冷えるというのに。
 
「入っても? フェーベ王女」
「……」

 ――それは……どんなわたしに対する言葉なの……?

 あの日以来、顔は合わせてもまともに言葉を交わしていない。
 揺れた影の戸惑いの気配に、目を伏せて笑む。
 扉は開けたまま、足を部屋の奥へと踏み入れれば蝋燭の光に照らされた蜂蜜色の髪が揺れているのが見えた。
 床に落ちた書類を拾い上げるために屈んでいる菫色のガウンの背に外したローブを掛け、わたしの足元にも落ちている書類を拾い上げる。

「東都の件は処理しました。カルロ殿はティア王女を迎えに、貴女の件は東都の騎士団支部に箝口令を敷きました。そして今日の執務は終えております」
「トリアヌス……」

 目の端に映る、蜂蜜色に輝く髪が流れこちらを仰ぎ見る白い顔に、そんな格好では風邪を引きますよと言えば立ち上がる気配がした。

「貴女は喉が少し弱いのですから」

 拾い上げた書類を渡せば、ありがとうと受け取って書類を机の上に積み直す。
 それらはフェーベ王女が読んでいたものではなく、無関係と選り分け念の為オルランドに一通り目を通させていた書類だった。

「思いついてしまったら、気になってしまって」
「思いつく?」
「なんだか詩のようなものが多いから、もしかしてそうではないものがそうなのかもって」
「なるほど……。しかし、もうお休みになられる時間です」
「トリアヌス」

 夜更かしにも弱いでしょう。

「いつまでも……小さな王女扱い」
「いいえ、貴女はもう大人だ」

 え……と、驚く声が抱き込んだ胸元に聞こえたが構わず柔らかな髪に手を添える。
 そう、この方はもう大人だ。

「今回の件。一番恐ろしかったのは貴女だったはず、貴女は人に敏い王女ですから……ティア王女のこともずっと心配されている。眠れていないのでしょう?」
「お見通しなのね」

 お小さい時から貴女のことは見ていますからと言えば、ふっと、吐息の漏れる声に見下ろすと、前にも似たような……と仰ったフェーベ王女に、そうですねとわたしは答えた。
 大人だが……自分に向けられた純粋な悪意を受け止めて、平気でい続けられるほど太い神経ではない。細い肩が小刻みに震え、首に細い腕が回ったのに頭を撫でる。

「どうぞお部屋にお戻りを。王家の使用人の方々はまだぴりぴりしていますから侍女が探しにきますよ」
「なら、お茶を用意させようかしら」
「お茶?」
「お仕事、終わったのでしょう?」

 お仕事終わった?
 王女達が子供の頃、仕事に切りをつけ午後彼女達のところへ向かうことがほぼ日課であった。
 彼女達と過ごす約束をしていたからだ。
 約束をしているのに、わたしが向かうといつも彼女はそう尋ねた。ティア王女もフェーベ王女に倣って終わったのかと、王女達が尋ねるのにわたしの返事は決まっていた。

「ええ、ですので貴女のためにいられますよ。ただし、いつまでもというわけにはいきません」

 いつまでもというわけにはいかない。
 それは彼女達だけでなく、自分自身への戒めでもあったのかもしれない。
 成長されれば彼女達は、自分とこんなに近くにいられる存在ではないのだと。
 それなのに、大人になったいまでもその延長にいる。
 もうわたしから離れている、潤みを残した目元が儚く微笑む。
 零れそうな目尻をそっと親指で拭うようにして、私は目を細めた。
 互いに近くにい過ぎたのかもしれない。

 *****

「どうぞ、閣下」
「夜更けに、すまない」

 護衛としてつけている侍女が差し出し机に置いた茶の礼を言って、真向かいにかけている彼女と私に一礼し壁際に控えたその侍女を呆れた思いで眺める。
 ローブをわたしに返し、侍女が持ってきたガウンと色を合わせた毛織物のストールを羽織っている王女。

「貴重な書類もありますのでくれぐれも」
「わかっています」
 
 書類調査の小部屋で夜更けの茶会。
 ティア王女ほどではないものの、この方も時折突飛なことをなさる――。
 王も目を離せばいつの間にかいなくなること度々であるし。
 アウローラの血なのだろうか……これは。

「なあに?」
「いえ、なんでも」

 お茶を口元に運びながらもう一方の手を上げて下ろす。
 再び一礼した侍女は来た時に携えていた灯りを手に、静かで規則的な足音を立てて部屋を出ていった。

「いつから?」
「お父様の代理で公国王のお祝いに出向いた時、貴方の同行者の中に。そういえば、表立つことはないけれど儀典官のなかには武官が踏み入れない場の警護の任に就く官もいるとか」
「……敵いませんね貴女には」
「もう潮時と考えているの。あの公国騎士長にあっさり看破されてしまったのですもの。ティアちゃんも薄々気が付いているかも、疑う者が出てしまっては成り立たないわ」
「わたしとしては、いくらか心配事が減ります」

 情報は新しさが維持されて適切に管理されてこそ価値を持つ。
 一年、いや半年も過ぎればフェーベ王女の持つ有力者達のつながりの多くはその価値を失うだろう。
 王族であればいつどういった理由でどのように狙われるかわからなとはいえ、通常の警護とは別に宰相が特別に人員を割いてまで護るべき対象ではない……そう、仰っているのだろう。
 表裏のないティア王女と違い、フェーベ王女との会話において言葉は複数の意味を持つ。
 まるで、これまで積み重ねてきたわたしと彼女の間にあるもののように。
 いつから。
 いつから……そんなことになってしまっていたのだろうか。

「わたしは王に仕える文官です。ですが貴女との約束もある」
「約束……」

 杯を両手に、その中身へと視線を落として目を伏せたフェーベ王女に、覚えていらしゃるのだなと思った。約束といっても他愛のない、いまのように茶を飲みながらのちょっとした会話でしかないものだった。
 わたしが宰相になったばかりの頃、ある夜に流れ星への願掛けをし損ねたフェーベ王女のため成り行きで近い時期にある流星群を共に見ることになった。
 とはいえ流星群を観測する前に、夜更かしがあまりできないフェーベ王女も慣れない宰相の執務に疲れ切っていたわたしも寝入ってしまったのだが、その翌日の夕方、流れ星を見せられなかったことが気になって伺った際に彼女はわたしに言ったのだ。

 お星様にお願いするより、わたしの方がずっと確かだと。
 頼りになる宰相だからと。
 
 任命式で王に命じられた時よりも、宰相としての立場と権限と責任がわたしの中ではっきりした形をとった気がした。
 わたしにとって、フェーベ王女はわたしがはじめて直に目にし言葉を交わし触れられた王族で、彼女がいなければ宰相としてのいまのわたしはない。
 たしかに立場は王に仕える文官であるが、家臣として捧げるべき忠誠心は王よりもこの王女にある。それは他の誰がどのようにわたしを非難しようとどうすることもできない。
 
「わたしに出来ることでしたら、出来る限りのことはいたしますと約束しました。貴女あってのわたしですから、フェーベ王女」
「それは、わたしが王女ではなくなっても?」

 再び茶を口元に運びながらの落ち着いた問いかけに、はいと即答する。
 しばらく間をあけて、空になった杯を机に置きながら俯いてフェーベ王女はそうと言った。

「色々な方達と話をしていると、もう私達が古い時代のものとなりつつあることを実感するの」
「フェーベ王女?」
「いずれ、そう遠くないうちにきっと、王も貴族もいまほどの意味を持たなくなるでしょう。お父様もあなたもいずれ訪れるその時に備えている」

 アウローラの、血なのだろうか。
 いくぶんか突飛でいて遥か遠くまでを見通す。
 ティア王女と同じくらい、もしかすると見通すだけならそれ以上かもしれないこの方は、どうしてこうも非力なのか。

「わたしにはお父様のような狡猾さやティアちゃんのような賢さはないもの」

 お兄様達のようにあなた達の上に立って力を借りることはできないし、お姉様方のように芸術を通して人々の心に働きかけることも、剣を取って戦うこともできない。
 お母様譲りのこの姿と少しばかり物覚えの良さをいかした立ち回りのよさだけ。
 わたしの考えを読み取ったように一息に言って、フェーベ王女は顔を上げた。
 琥珀の瞳が真っ直ぐにわたしを見つめる。

「それでも? この先も、沢山のことが移り変わっても、わたしあってのあなたと言えて?」
「それはお約束に対してなんの関係もないことですよ。わたしが一度でも貴女と約束してそれを違えたことがありますか?」

 ないわ。

 そう言った彼女の、流れ落ちる透明な雫に蝋燭の光を滲ませてきらきらと輝く琥珀色の瞳があまりにも美しく、泣きながら微笑む顔が子供の頃に戻ったようで、いつまでも眺めていたかった。この方あっての自分だと口にしながら、わたしは意地の悪い家臣だ。
 他者を気遣ってではなく、自分自身の感情に無邪気に笑ったり泣いたりするフェーベ王女を願うと同時に、そんな幼い頃から彼女が時折見せる無邪気さをいつまでも誰よりも側で眺めていたい執着心がたしかにわたしにはある。
 それはフェーベ王女がいずれ誰か良い相手を見つけ一緒になったとしても関係はない。
 そのような執着心を人がなんと名付けているのかも知っている。
 知っているがその名を当てはめてしまうには、手放したくないものが互いの間には多すぎることも。
 
「出来る限りのことをしてくれるのなら、わたしが行き遅れたらカルロが揶揄う通りにお嫁さんにしてくれない?」
「それは出来る限りのうちには入りませんよ。そうならないようになさってください」

 手の甲で頰を拭って、平生の様子に戻ったフェーベ王女に肩を落として、手近な書類の端を摘み上げながら受け流し、断られ通しでそろそろ人選も難しくなってきましたからねと忠告する。

「それ、選り取り見取りでいつまでも独り身でいる宰相閣下にだけは言われたくないことね」
「前にも言いましたが、わたしの恋人は国です」
「わたしがいてこそ……なのでしょう」
「そんないつ失脚してもおかしくないこと口走る宰相など、ろくな男ではありません。結婚相手に向きませんよ、わたしという男は……」

 若干、譲歩した断り文句を返しながら、つい日頃の習性で書類に目を通してしまう。この調査を始めてから執務の合間に古語を学習し、仕掛かりの頃よりは多少読めるようにはなっていた。
 星を見ようとした時のことを思い出したのと奇妙な符合をみせて、彗星の記録らしい。
 百数十年前の記録のようだ。
 
「――まず東方に出て、ついで北方に現われ、西方に現われた。そして再び白銀の繭として西方に現われ、地に落ちた」
「あら」
「多少勉強しました。たしかに……叙事詩のようだ。単なる彗星の記録ではなく、同時期になにかしら起こった出来事も織り込んでいるのかもしれませんね」

 昔の記録は読み解きが必要なものが多い。

「オルランドにはそれらしい記述を見逃していないかの確認しか指示していません。言われたことだけに済ます彼でもないですが、この量ですから読み解きまではしていない」
「もしかしたら、でしょう」
「そうですね、ですが明日からです」

 さすがにもう夜も更けてきた。
 休ませなければいけない。
 気を紛らわすためもあったのだろう、根を詰めて作業していることは知っている。

「そろそろ本当にお戻りを。お茶も飲み終えました、わたしも休みます」
「……わかったわ」

 不服そうに立ち上がったフェーベ王女に苦笑して、おやすみなさいませとわたしも立って挨拶に頭を下げる。
 侍女に伴われて自室に戻る気配を廊下に確認し、わたしは彼女が置いていったランプ中の蝋燭を吹き消す。
 すっと暗くなった部屋の青い闇の中で深く息を吸って吐き出し、壁に背を預ける。
 窓から高く登った月明かりが僅かに差していたのが翳るまでそうして、わたしも部屋を出た。
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