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東都編

第39話 復帰する騎士長と漂泊の尊厳公

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 公国に帰還した翌朝、宮廷内はにわかに騒がしくなった。
 グリエルモ司教から、俺の回復と騎士長復帰の報が議会及び各所に流れたからである。

 本当に生きていらしたのか。
 そもそも瀕死の報自体が欺瞞だったのではないか。
 議会と密約を交わし兄王に成り代わろうと目論んでいるなどと噂も。
 まさか、これまで散々蔑ろにされてきて今更。
 しかし騎士団を掌握している。
 司教の報ということは司教派か。
 等々、と。

 国が大変な時にお気楽な者達だと呆れる。
 俺を見てひそひそと話し合う宮廷の者達は、国の行く末よりも誰にどの派閥につくのが最善か身の振り方を考える事のが重要そうだ。
 宮廷の廊下を堂々と騎士長の装束で歩くだけで聞こえてくる人々の声に、勝手放題に言ってくれると内心うんざりとしながら大伯父の部屋へと向かう。

 現実を見ない放蕩者だろうが、継承位二位の大伯父に挨拶もなしに騎士団復帰は有り得ない。
 離宮に近い端の部屋、入口の左右に立つ衛兵を無言でひと睨みすれば慌てて敬礼し姿勢を正した。
 ここも修道騎士兵か……と、胸の内でひとりごちた。
 おそらく宮廷内に配していた公国騎士団所属の近衛騎士は一掃されている。
 なるほど、俺が王族であるにも関わらず司教派などと家臣の派閥に含まれる声が聞こえるのも無理はない。
 病床から姿を現さないヒューペリオの王の権威は最早風前の灯火で、公国の権力の中枢は議会を二分し争っているといった様相となっているのだろう。
 このわかりやすい司教の暴挙は、真に王位簒奪を狙う者を牽制するための茶番のようではあるが、どのみちくだらない。これだから宮廷は肌に合わない。

「フェリオスです。戦で受けた傷が回復した報告と騎士団復帰の挨拶に伺いました。テオドロス尊厳公殿下――」

 仰々しい爵位は便宜上のものだ。
 治める領地すら持たないが、本来ならば先々代の王になるはずだった統治者である意を含み、王より下だが諸侯より上だと示すためだけのもの。
 本人どうでもよいと思っていそうではあるが、公国はなにかにつけ序列にうるさい。
 入室を許可する声はなかったが、黙って扉を押し開く。
 酒の匂いに思わず目を細めた。
 時折、適当な場所の長椅子やバルコニーで管を巻いたり酔い潰れている姿は見かけるが、こうしてまともに彼の部屋を訪ねて顔を合わせるのは新年の挨拶以来のことで、実に約一年ぶり。
 その時も部屋の長椅子に寝そべり、まともな挨拶にはなっていない。
 酒に溺れ、もはやその目は現実を見ず、意識は夢の中を漂っているも同じ。
 緩慢な自殺を試み、その日が来るのを待っていると言って過言ではない男。
  
 テオドロス・ヒューペリオ・フラーウス。
 それが大伯父の名だった。
 金色を示す愛称名が付けられている通りに、一族でもとりわけ美しい透けるような金髪の持ち主である。
 老いと酒の害で、枯れ枝の如き皺と黒ずんだ肌色に黄色く濁った目と見る影もないが、若い頃は相当の美男子であったらしい。髪色の美しさだけが若き日を偲ばせている。
 その髪が、俺の真正面に見える長椅子の肘掛けから溢れ床に落ちていた。
 長椅子で挟んだ低いテーブルの上に、床に、夥しい数の酒壺や杯が転がり、中身が零れている。
 それらを目にしながら、後ろ手に静かに扉を閉めた。
 酔いに気が立っては人払いをするため、使用人達が片付けるのが追いつかないのだろう。
 着替えさせてはいるようだったが、衣服はぐずぐずと着崩れた姿で長椅子の背に片腕をかけ、いまにもずり落ちそうな体勢で横になっている。

「……誰だ」
「先代王が次男のフェリオスです。大伯父殿」 

 地を這うような、くぐもった酒灼けた掠れ声に、立ったまま礼もせずに応えた。
 頭を下げようがひざまずこうがどうせわからない。
 
「父親に疎まれた、血濡れか……」
「ええ、ご機嫌のようだ大伯父殿」

 父親に疎まれた血濡れ児。
 母親が俺を生んで亡くなり、育って騎士として人を斬り倒している俺のことを大伯父はそう呼ぶ。
 なんの感情も生まない呼び名で、むしろこの人に至ってはこうしてこちらを認識してくれるだけ親しみすら感じられる。王である兄のことなど無視同然であるからだ。
 兄も、あの一族の汚点あるいはお荷物のためにどれほどの人材と資産が食い潰されていると思っていると蛇蝎だかつのごとくこの男を嫌っている。
 
「ふ、ん……オレが気に食わぬなら殺せ……さっさと切り刻んでみろっ、血濡れ児っ……」 
「挨拶に立ち寄ったまででどうしてそんな面倒なこと。勘弁してくれ」

 身内殺しなど冗談ではない。
 獣が喉を鳴らすような不快な笑みに唸っている大伯父に呆れながら近づき、横になった体を引っ張り上げようとすれば触るなっとはねのけられ、片腕は長椅子にかけたまま、座面からだらりと垂れていた腕を載せ直しうつ伏せに這いつくばるように中途半端に身を起こす。
 乱れた流れるような金髪の塊が美しい艶を見せて動く。
  
「……所詮……貴様もただうるさいだけの蠅か」

 髪の隙間に、俺と同じ深い緑の瞳が見えた。
 宮廷の人間から狂人や廃人に近い目で見られている、そう思われて仕方のない振る舞いの大伯父だったが、その瞳に宿る光はいたって正気だ。
 そして俺にはとても理解できない絶望と憤りのようなものが、どこまでも深く沈んで渦巻いている。
 幼少の頃は早熟かつ聡明な王子で次代の王として嘱望されていたらしいが、成長するにつれその精神は荒み、人生を投げ捨ててしまったような素行の悪さに手がつけられなくなった。
 どうしてそんなことになってしまったのだろうと思っていた。
 だが、幼い頃にその賢さに取り入ろうとする者に怯え、周囲の者を極端に避けるようになったティアを知って、こうして大伯父の姿と言葉を眺めているとこれまでとは違った思いにかられる。
 まだ年端もいかない頃から物事が見え過ぎるというのは、柔らかな精神を嬲り翻弄させるものなのかもしれない。

 どさり。
 身を起こしかけて、糸が切れた操り人形のように長椅子の上に投げ出し、下半身が転がり落ちた大伯父に呼びかけたが、もう応じなかった。
 かわりに唸るようないびきが低く聞こえてくる。

 ただうるさいだけの蝿……。

 子供の頃からこの人とまともな会話になった試しがないが、この一族の汚点とされている人には宮廷内のすべてが見えているように何故か昔から感じられた。
 なにもかもが見え過ぎうんざりすることにも飽いた虚無のまま、死を待っているのかもしれない。
 
「失礼します。大伯父殿……」

 長椅子からずり落ちるようにうつ伏せている男に、俺は静かに言って頭を下げ背を向ける。
 部屋の扉に近づく途中で、その鼾声の不規則な抑揚に気がつく。

 んぅ……ヴゥ――……。

「歌?」

 お世辞にも美しいとは言えない。
 夢現ゆめうつつの狭間を漂泊する酔っ払いがかき消えそうな濁った掠れ声を発して呻いているだけ。
 しかし途切れがちな抑揚が生み出すおぼつかない旋律には聞き覚えがある、子供の頃、いまより幾分か若くその言動もまだもう少しばかりしっかりしていたこの人がこうして酔い潰れる際によく口ずさんでいたものだと思い出す。
 大伯父以外に宮廷の者は誰も知らない、彼がどこでそれを覚えたのかもわからない。
 
 ああ、そうだこれは子守唄だ……そして俺はその旋律を最近聞いた。
 澄んだ美しい声のゆったりとした旋律で――。

 座面に突っ伏して崩折れているように長椅子から床にずり落ち、本当に眠りに落ちた規則的な鼾声を立て始めた大伯父の、雑然とした床に流れるそれだけ美しい金髪の色を見ながら、何故だと、喉から言葉が漏れる。
 
 何故、ティアが大伯父と同じ唄を知っている。 
 
 
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