本條玲子とその彼氏

ミダ ワタル

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33.分かれ道

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 カランカラン。
 カウベルの音を聞きながら店のドアを開けると、珍しく複数の人が会話するざわめきが聞こえた。
 入口から細長い店内を覗き込めば、ホワイトオークのカウンターが数組の客で埋まっていたのに驚く。
 今夜は盛況のようだ。
 訪ねるのは悪天候の夜が多いとはいえ、店内にこれほど客がいるのは初めてだった。
 歓楽街の片隅。
 細い路地同士が合流する三叉路の、二股の道に挟まれて建つ三角形のビルの半地下なんて至極わかりにくい場所だというのに、看板も出さない商売っ気のなさの店なのだ。
 元大手証券会社の敏腕ディーラーだったという三田村の父親がオーナーであるこの店は、彼がまだ勤め人であった頃にこういった店があればいいと思い描いたそのままを実現させて、客対応や細々したことはバーテンダーとしてバイトに入っている息子に任せている。半ば趣味でやっているような店だ。
 さっぱりと飾り気の無いモダンな内装。一見、一杯飲みのショットバーだが、実際は違ってボトルキープもするし、しっかりした料理も出す。
 いつもならドアを開ければすぐ聞こえる、三田村の軽く淡々とした挨拶の声がないと思ったら、どうやら彼はカウンターの更に奥にある厨房に引き込んでいるようだった。

「あらっ、若先生じゃないですか」

 入口から少し店に入ったところで三田村が出て来るのを待ち、客が座る場所はそこだけしかないカウンター全体をぼんやり眺めていたら、さっぱりした調子の聞き覚えのある女性の声がして、カウンターの中程の位置へと目を向ける。
 声を掛けてきた妙齢の女性が、背を軽く反らせてこちらに向かって小さく手をふり、ここ空いてますよ薄く透ける水色のコートと鞄を置く隣の席を空ける。
 その人が顔見知りであることを確認してから、どうもと俺は頭を軽く下げて空けてもらった席へ近づいた。
 確認が必要だったのは、その女性の和装姿しか見たことがなかったからだ。
 鈴千代という名で活躍している、料亭街で一番の芸者は叔父の直弟子だった。

「マスターっ!」

 髪を結い上げていない綺麗に巻いてセットされた頭を揺らして、鈴千代さんが厨房へと声を張れば、はいともへいともつかない面倒そうな三田村の応じ声が返ってきた。

「なに言って急かしたって、作るための時間は変えられねーのっ! あと二分待ちっ」

店主マスターと呼べるのは彼の父親であるが、常連客以外の客はほぼ三田村のことをそうだと誤解する。まだ高校生であるのにそのことを常連客から面白がられているそうで、料理を急かす半ば嫌味で呼ばれたと思ったのだろう。
 落ち着いた雰囲気のバーにまったくそぐわないその軽薄な調子、客相手にその受け答えはどうなんだと思ったが、父親の知り合いである常連客が圧倒的多数を占めている店だからそれで通用しているらしい。
 なんだかんだで店主の息子として可愛がられているのだ。
 なにか焼いているのか、よい匂いが厨房から漂ってくる。

「違うわよ、お友達っ。失礼ですよねぇ?」

 前半分の言葉は厨房で調理中の悪友の三田村へ向けてで、後半分は俺に対する同意を求める言葉らしかった。
 俺にだけ敬語なのは、叔父が師匠で、俺自身は三橋流宗家の息子であるからだ。

「お仕事はもう終わったんですか、鈴千代さん。少し時間が早い気もしますけど」

 詩織の相手をして彼女が出ていってから稽古を切り上げて、着替えて出てきたから時間は二十三時に差しかかっていた。遅い時間ではあるものの、叔父の帰りや話を聞くに、二次会に付き合わされることも多いだろう料亭街の売れっ子芸者が仕事を終えてバーで寛ぐには早すぎる。

「ええまあ。御贔屓いただいてる大得意のお客様が、掛かってきた電話一本でお座敷畳んじゃったものですから。今夜はその方のお座敷しか予定していなかったので早じまいなんです」
「へえ」
「決まりとはいえ、お約束通りの玉代にキャンセル料まで頂いちゃって。いらしてすぐですよ、一差しだって舞ってないってのにっ」
「はあ」

 愚痴にしてはやけに突っかかるような物言いに困惑気味に相槌を打てば、彼女の方を向いていた背後から、「しつこい」と、またも聞き覚えのある苦味のある男の声がした。

「……緊急の用件だったんだ。おい、予報じゃ降水確率ゼロだったはずだぞ」

 俺がこの店にやって来るのは、基本、雨の日だ。
 湿度の多い日は筝は機嫌を損ねるから、気分転換と夜食目当てで訪れている。
 そのことをよく知っている、この店の常連客。
 一年の時の副担任、倫理教師の桟田だった。

「降ってませんよ。桟田先生」
「じゃ、なんで来てんだよ。ガキが酒場に出入りすんなって言ってるだろうが」
「その言い方だと、雨の日は来ていいみたいに聞こえるけど」
「ダメに決まってんだろ、馬鹿っ!」
「あ~もう、なに怒鳴ってんだよ先生っ……って、三橋!? やべ、外降ってんの? オレ今日、傘持ってきてねぇんだけど……」

 バーテンダーの制服の腰に黒いエプロンを巻き、片手に白い皿を載せて、厨房から姿を現した三田村の桟田同様に人をお天気ニュース扱いする言葉に顔をしかめる。

「……降ってない」
「じゃ、なんで来てんだよ。そりゃ、桟田先生が怒鳴るわな……。ほいっ鈴千代姐さん、ラストの蝦夷鹿。パイ包み黒胡椒ソースお待ちどうっ」

 桟田とまったく同じ言葉を繰り返して、丁寧な動作で三田村は鈴千代さんの前に皿を下ろす。
 艶やかな赤黒いソースに彩られた、きつね色の美しい照りを見せるパイ包みに思わず目が引きつけられる。パイの中にはきっと大振りにカットされた濃厚な味わいの肉が入っている。

「ラスト……?」
「ラスト。春先に入ってきて保存してた分これで終わり。今シーズンの蝦夷鹿は終了!」
「取っておいてやろうとか、そういった考えはないのか! 三田村!」

 仕込みの重要な部分は父親がやっているらしいが、チンピラヤクザな容貌とは正反対に真面目で几帳面な性格で、凝り性でもある三田村の料理の腕前は相当で、下手な店より美味い。
 特にジビエは、海外からの冷凍輸入じゃなく、三田村の父親の道楽と伝手で猟師から直接買い付けている期間限定なのだ。

「食べ頃ってのがあるもんを、いつくるかわかんねえ奴のためになんでとっとくんだよ」
「うふふ、ごめんなさいね。若先生っ」

 ちっともごめんなさいなどと思っていない微笑みを見せて、白魚の手が円形のパイ包みの中央にフォークを入れれば、予想通りに薔薇色の肉の断面が見えた。

「人の皿物欲しげに見るなよ、三橋……」
「見てない」

 ミントの葉とライムを潰し炭酸水に沈めたものを、ロンググラスで出されて受け取りながら、呆れ顔をしている三田村にぼやく。
 ノンアルコールのモヒート、底で透明に渦巻いているのはおそらくガムシロップだろう。

「三橋への洒落か?」

 突き刺してあるストローで軽くグラスの中身を混ぜていたら、顎をしゃくって俺のグラスを示すようにして桟田が三田村へ呟いた。

「お、わかった? 先生」
「なんだ?」

 二人の会話の意味が掴めずにそれぞれの顔を交互に見れば、俺が座っているすぐ斜め左に置いてあった潰れた煙草の箱を無骨な左手で取り上げ、出した一本に火をつけ咥えた桟田が一服してから口を開いた。

「モヒートの語源は、“湿る”とか“濡らす”って意味のスペイン語のmojarに由来する説と、西アフリカのブードゥ教で“麻薬”や“誘惑”の意味を含むmojoに由来するって説が代表的なんだよ」
「相変わらず……無駄に物知りな先生ねぇ」

 桟田の眼球がじろりと動いて鈴千代さんを一瞥する。
 口には出さないが、黙って食えと言わんばかりの眼差しだった。毒舌気味で物事を大雑把に受け流すところが共通している二人なので、常連同士、友好的に交流しそうなものだがそうでもないらしい。

「先生なら気がつくって思ったけど、さすが!」
「おだてて誤摩化そうたってそうはいかないからな……」
「一応、他のお客いるんで……説教は後でお願いします」

 カウンターに両手をついて律儀な様子で頭を下げた三田村に、桟田は仕方なさそうに煙を細く静かに吐き出した。

「本当、板についてきたな……お前。大学よりそっちの道のが向いてんじゃないのか?」
「冗談止してくれよ、親父の店で、オレはバイトだっての」
「なにが俺への洒落なんだ?」
「お前が来るっていったら“雨”だろ? でもって女子を手当り次第に“誘惑”する妖怪天然タラシだろ?」
「……」

 くだらない。
 にやにやと、目も顔も三角な容貌では胡散臭いだけの笑みを見せている三田村に俺は鼻白んだ。

「若先生、がきんちょにしては色気ありますもんねぇ。やっぱり学校でおモテ・・・になるんですか?」

 “がきんちょ”はこの人から見ればその通りだろうからともかくとして、最後の方、一音一音区切るような鈴千代さんの言い方は明らかに人を酒の肴にからかう口調だった。

「入学時からとっかえひっかえだ」

 仏頂面で桟田が答えたが、ありがたくもなんともない。

「あらまあ。この先生にしてこの生徒ありですねぇ」
「おれは別になにもないぞ」
「よく仰いますよ。うちの若い子がこないだから先生にぽーっとなっちゃって、次に先生がいるお座敷にお声が掛かるの心待ちにしているのですけど?」
「教師の安月給でお座敷遊びなんか出来るか」
「あらそ。じゃ、黒岩さんを誘ってくださいな。いただきっ放しじゃ申し訳ないですから」

 あっという間にパイ包みの半分以上を平らげて、赤ワインのグラスを傾けると、鈴千代さんはそう澄まし顔で桟田に言った。
 ちっと、小さな舌打ちを桟田が音を立てる。
 桟田は粗野っぽく見えるところはあるが、そういった不調法なことをするところは見ないから珍しい。

「信用商売で、生徒がいるとこでそういう話するな」
「あら」
「ったく、人見て言ってるんだろうが……わかったよ、声かけとく」

 不承不承といった様子で桟田は鈴千代さんに応じて、口元に煙草を戻すとフィルターを軽く噛み深くゆっくりと吸い込むようにした。

「ま……また色々と世話かけるしな」
 
 ぼそりと呟く。
 私立高校の教師と料亭街の売れっ子芸者の大得意である御仁が一体どんな知り合いなのか、軽く興味を覚えかけてそういえばと、三田村が学校の帰りに桟田は実は資産家のようなことを言っていたと思い出す。
 そういった家の人なのならなにかしらの付き合いなのだろうと、あっさりと興味は失せた。

「ありがとうございます」
「行くとはいってないぞ」
「先生が連絡してくれるんなら、だってまさかあの黒岩さんの……」
「鈴千代」
「はいはい。案外きっちりしてんのねえこの先生ってば」

 紙ナプキンで口元を軽く拭って、お勘定と鈴千代さんは三田村に微笑む。
 桟田との会話から察するに、どうやら鈴千代さんが今晩予定していた座敷に水を差したのが桟田であり、それを根に持っている彼女に桟田は苦々しく応じたようだ。

「それじゃ、若先生。お師匠様にもよろしくお伝えくださいね」
「あ、はい」

 三田村に金を払い、ぱちんと小ぶりなハンドバックの金具を鳴らすと、鈴千代さんはするりと形のいい脚を伸ばしスツールから下りた。

「……同族嫌悪?」

 鈴千代さんが店を出るカウベルの音の余韻が消えてから桟田に尋ねれば、「かもな」と桟田は苦笑してロックグラスを傾けた。まだ底から一センチほどの水位で琥珀色の液体が残っている。
 二杯目の終盤かと俺は胸の内で呟いた。
 桟田の飲み方は決まっていて、ストレート、ロック、水割りと薄めていき、きっちり三杯で終わりにする。
 翌日に影響させないためというのがその理由らしいが、顔色も言動もその三杯で酔ったように見えたことはなかった。いつもボトル丸一本飲み干しても酔わなさそうに思えるほど、平然としている。
 
 一人が店を出たのをきっかけに、そろそろかと他にいた客もばらばらと間を置いて帰り出す。
 ものの十分程で、店内の客は俺と桟田だけになった。
 三田村は客が帰った後の片付けで忙しい。カウンターの内部に造りつけてある流しでグラスを洗っている。

「さて、説教タイムだな。なんでまた雨でもないのに出て来た?」

 待ち構えていたようにそう言い出した桟田を億劫に思いながら、お代わりで出してもらった烏龍茶に口をつける。
 甘いモヒートの余韻がすっきりと洗い流される。

「雨でなくても弾けない日もあるというか、あったというか……どうにも音がバラバラと崩れるので……」

 烏龍茶のグラスをカウンターに置き、自分の両手を見下ろしながら軽く握って開きながら答えれば、桟田は長い溜息を吐きだした。
 甘みを含む匂いがする煙がもやのように視界をけさせて消えていく。

「それで、雨の日同様気分転換? よくわからんが……スランプってやつか?」
「どうでしょうね。消化不良な感じだけど弾けることは弾けるし」

 リクエストの一曲で気が済んだのか、詩織が思いがけなくあっさり離れの稽古場から出ていったあと、彼女に前衛奏法と評せられた曲をまた数回さらった。
 違和感はある。しかし演奏としてひとまず形はついたので、今夜はそこでよしとして切り上げた。

「要領得ないな」
「そう言われても」

 叔父や内弟子の人にも通じない話を、筝を弾いたこともないこの人にどう説明したものか。
 考えあぐねて俺はしばらく黙りこんだ。

「風邪引いてたからじゃねーの? ピアノとか三日も弾かなきゃ勘が鈍るみたいな話聞くし」

 三田村がそれまでさせていた水音を止めて、乱入してきた。同時に彼の足元で冷蔵庫を開く音がする。
 手元に出ている食材でもしまうのだろう。なにかしている気配によく働く奴だと感心する。

「ほれ、三橋。雉子きじ、それもラスト」
「えっ」
「客に出すには少ない余りで、ちょっとだけど」

 急にぬっとカウンターの向こうから小さな皿を突き出して乱入してきた三田村に、少々面食らいながらも皿を受け取る。白い皿のスペースに対して明らかに小さいテリーヌが乗っていた。
 赤味の濃い挽肉にごろごろと白っぽく混じっているのはフォアグラらしい。所々見える黒い点は胡椒にしては大きい。それだけだと寂しいからか、カットしたオレンジが添えられている。

「片付けてるのかと思ったら……お前は。三橋をあまり甘やかすな」
「そう言うけど先生、こいつの食いもんの恨みはしつこいんだって。それにまだ本調子じゃないなら、滋養になるもん食わせておかないと」
「どうしてお前が、三橋の栄養状態まで気を回す?」
「こいつ弱ると面倒がオレにかかってくるんですよ、中学ん時から」

 若干心外に思える三田村と桟田のやりとりを聞きながら、三田村に言われた言葉を頭の中で繰り返す。
 ピアノか……。
 玲子もそうなのだろうか。結構、本格的に習っているけれど。
 そんなことを思いながら、フォークの先で出されたテリーヌを突いて口にすれば、黒い粒はトリュフのようだ。
 美味いなと思いながら、上手く弾けずに子供が癇癪を起す寸前のような表情で練習している玲子の様子を想像して思わず口元が緩んだ。

「お、にやつくほど美味い?」
「いや、ああ美味いけど、そうじゃなくて。玲子が……ピアノやっているから、彼女だったらどんな感じかって想像してさ」

 三田村に答えながら、続けてテリーヌを口に入れる。
 ひとしきり堪能し、料理と玲子の想像に向けていた意識を周囲に戻せば、なにやら店内が妙な静けさでカウンターの向こうに立つ三田村が、まるで信じていた兄貴分のヤクザに裏切りにあったチンピラのように細い目を見開いて呆然としていたのに俺は首を傾げる。
 ゆらりと細く、桟田の煙草の煙が俺と三田村の間を一筋流れた。

「どうした、三田村?」
「三橋が、普通の男みたいなこと言ってる」
「は?」
「流石……皆殺しの天使」
「皆殺し?」

 穏やかでない桟田の言葉に眉をひそめれば、比喩的表現だから気にするなと煙草を灰皿に揉み消して苦笑し、水割りの入っているロンググラスを手に取った。
 表面が結露したロンググラスが桟田の口元へと運ばれ、カウンターに戻る。
 中身は半分程から三分の一程まで減り、溶けかかった氷がプリズムのように店の照明を乱反射させ、七色の光を放った。

「美しさってのも、才能のうちだからな」
「それって玲子ちゃんのこと?」

 三田村の問いかけに、桟田は軽く目を伏せて汗をかいたグラスの縁を左の指で弄び、右手で頬杖をついた。

「ま、本條は美少女だけどな。美少女ったって古今東西、世の中ごまんといるさ」
「はあ」
「おれの別れた女房だって地味だが美少女だったぞ? 母親なんかはおれはその当時を知らんが、数多の男を惑わせた逸話や方々で絵になって残っているくらい、壮絶な美少女だったらしいし」
「なんだよ、先生。自慢かよ」
「ま、そんなところだ」

 くっくっと喉を鳴らして桟田は笑むと、突然俺の背を左手で叩いてきた。
 桟田は左利きだ。
 だから、結構力がこもっていて痛かった。

「っ、なんですかっ!?」
「まあ、がんばれ!」
「意味がわからない……。バツイチって噂、本当だったんですね」
「別に隠しちゃないが、誰が噂してんだ……ったく」
「先生の奥さんてどんなだったの?」
「聞きたいか?」

 妙に陽気に応じる桟田に、説教するのじゃなかったのかと胸の内で呟く。
 珍しく酔っているのだろうか、そうだなあとどこか遠くへ思いを馳せるように呟くと再び桟田はグラスを口に運ぶ。

「おれの事が好きで、けど未練なんてこれっぽっちもなくて、怖くなるほど物分りのいい冷たい女房だった」
「さっぱりわかんないんだけど」
「いい女だったってことだ」

 生徒相手に酔って惚気たにしては苦い笑みを浮かべて、桟田はグラスの中身を飲み干した。
 学校で着ていたスーツのまま来たらしい、スラックスのポケットから二つ折りの革財布を出して代金をカウンターに置くと立ち上がる。

「お前ももう帰れ、三橋」
「はい……」

 たしかにこれ以上の長居は三田村の迷惑になるだけの時間に差し掛かっている。
 桟田の言葉に俺は従い、椅子を降り、どう考えても安過ぎるような代金を三田村の言うままに払うと、桟田と連れ立って軽薄な見送りの挨拶を受けながら店を出た。
 半地下から地上へ上り、斜め右と左へ伸びる道の真ん中に立った俺に、桟田は左方向へ足の先を向けて手を軽く上げた。

「帰り道で補導されるようなヘマすんなよ」
「大丈夫です」

 その物言いは教師としてどうなんだろうかと思いながら答えれば、じゃあなと桟田はくるりと背中を向けた。
 他も店じまいの時間で、細い路地の三叉路は静かだった。
 ゆったりとした歩幅で歩く桟田の足音だけが小さく聞こえる。
 これまで同時に店に来たことも出たこともなかったが、反対方向から来てたのかとなんとなく眺めていた桟田の後ろ姿に背を向け、彼とは反対の右方向へ歩き出した時、ふと自分の歩く音と二重奏でリズムを刻んでいた桟田の足音が止まった。

「ああそうだ……三橋っ!」

 突然、太く低い破れたような掠れ声が俺を呼び止めた。
 反射的に桟田を振り返れば、街頭一本の頼りない夜の空間を隔て、こちらを向いて後ろ向きに歩いているらしい桟田の影があった。

「鍵、だがな」
「え?」

 よく聞こえなかったので、その場から聞き返せば焦れたように桟田は声を張り上げた。

「鍵だ! 第一図書室のっ! 八月になっても返さなくていいぞ、お前にやる」
「は!? なに言ってんですか、学校のでしょう?」

 桟田に駆け寄るのもなにか面倒で、しかしどんどんと遠ざかっていく彼に仕方なくこちらも声を張り上げれば、「おれのだよ」と予想外の答えが返ってきた。

「え……」
「おれが、昔作った合鍵だ」

 もう必要ないからな、と。
 夜の空気に漂うような呟きが耳に届く。
 後ろ向きで歩いていた桟田だったが、立ち止まって微かに苦笑しているようだった。

「お前もいらなくなったら、譲ろうが捨てようが好きにしろ」
「それは、どういう……」
「じゃあな」

 一歩、桟田の方へと踏み出し問い質そうとする前に、桟田は今度こそ俺に背を向けて帰っていった。 
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