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01.呪いの彼女
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まだ五月になったばかりであったが、日差しは肌を灼く夏の太陽を思い出させた。
初夏らしい青空、木々の緑がきらきらと輝き眩しい。
椎の若葉に光あれ。
それらはすべて薄いガラス一枚隔て向こうにあった。
この部屋は常に薄く翳り、どこかひんやりと冷たく感じる空気が僅かな重みを含んで停滞している。
まるで澱を沈める古いワインの瓶の底のように。
訪ねてくる人はあまりいない場所だが、まったくこないわけでもない。
今日は一人いる。おまけに騒々しい。
——てなわけで、本條玲子には近づくなって人の噂で囁かれることになったってわけ。
中学二年からの友人である男の、その時々で熱中していることはわかりやすい。
影響がすぐに言動に現れる。
この語り口は一体誰なのか、そのうち一席聞かされることになるかもしれない。
いや、いまがもしかするとその一席なのかもしれなかった。
付き合えば不幸になるものすごい美少女なんて、馬鹿馬鹿しい噺以外のなにものでもない。
少なくとも、いま手元にある“葛西善蔵”より優先すべき話とは思えなかった。
藍色の荒い織り目の布の表紙と全集本らしい重みを手に感じながら頁をめくりたいが、できないために仕方なくチョコレートがけウエハースを優先している。
「あっ、人の話に生返事ばっかで、なに一人でチョコレート食ってんだよ」
「空腹で目が回ってきた。仕事の邪魔だから、独演会なら真打ちになってからやってくれ、三田村」
「はあ?」
俺の言葉に、友人――三田村陽輔は頓狂な声を上げて首を傾けた。
本人に悪気がないのはわかっているが、客観的に見て、どこかのチンピラヤクザが制服を着て凄んでいるようにしか見えない
生まれつきの明るい髪色の短髪に、目も輪郭も三角形で、ぎすぎすした痩せ型なのに骨格だけはがっしりした180cmの細長い体躯。
髪の色と骨格と身長は彼の母親が四分の一アメリカ人であることが影響しているらしい。
夜、繁華街の酒場でアルバイトをしていることを除けば、性格および素行は実に真面目で品行方正な善人だが、映画などで“狂犬”とでも呼ばれる役どころで出てきそうな見た目をしている。
「大体お前は、英語訛りが入るからキレのいい江戸っ子みたいなのは向かないと思うぞ」
「うるせーな、幼少期に単身外国に放り出されたんだから仕方ねぇの。それに人もこないのになにが仕事だよ」
人の気のない古い木造旧校舎の片隅、ひっそりと存在する第一図書室の司書部屋に俺はいた。
図書委員長である俺の仕事は第一図書室の管理運営にある。そういった取り決めであった。
一昨年前までは締め切られていた図書室だ。
この学校のメイン図書室は中央校舎の第二図書室で、こちらは連日盛況だった。
雑誌や新聞といった定期購読出版物の種類が豊富であるのと、話題の新刊書は街中の書店とほぼ同じ早さで入り、学習スペースが充実している。
生徒、教員両方の書籍リクエストに対応し、専門書も多い。
一学年七クラス。担任と副担任。各教科ごとに専任講師もいて提携大学からティーチングアシスタントでくる学部生や院生もいるこの学校の図書室のユーザーは生徒だけではない。
図書室の予算は潤沢で、そこそこの知名度な私立大学から見てもその蔵書はなかなかのものであるらしく、またそれが他校との差別化の材料として宣伝もされていた。
図書館情報システムも入っていない、蔵書の大半が古書の部類に入りそうな黴臭い本か全集本しかないここ第一図書室とはまるで違う。
「人がこなくても仕事はある」
来年には、現在建築中の新校舎をワンフロア使ったライブラリーにこの第一図書室は統合される予定で、その為、第一図書室の蔵書リストの作成も仕事の一つだった。
システムが入っていないから、蔵書管理は手書きの記録頼りであるし、ISBNコードなんて気の利いたものは付いていない本も多い。
例えば、目の前で三田村が手にしている和綴じの講談速記本などがそれにあたる。
ああ、そうか。
さっきまで俺に、同学年のいわく付き美少女の噂話を滔々と聞かせてきた調子は、落語ではなくて講談か。
「っていうか、貸出カウンターに足乗せてふんぞり返って、好きな本を気儘に読み耽ってるののなにが仕事だよ、三橋」
呆れ返った声の言葉は無視した。
取り決められた仕事はしている、その上で、この図書室の管理人として自由に使ってよい、そういった約束だった。
「……で、そのすごい美少女って何者なんだ?」
「別に何者もなにも、お屋敷町の洋館に住んでるめちゃくちゃかわいい同級生ってだけ」
「洋館に本條って……本條家か。立派に何者かじゃないのかそれは」
「昔から名士の資産家の娘ってだけだろ? 別に王女様ってわけじゃなし」
この街一番の富豪と名高い本條家の一人娘、文化財級の洋館に住んでいる正真正銘、筋金入りのお嬢様も三田村にとっては同じ庶民の括りであるらしい。
なんでも両親の教育方針で物心ついて間もなく、王侯貴族や富豪の子女が集まるスイスの寄宿学校に入れられてしまったとかで、そのためか三田村は家柄だとか肩書きだとか、大人が重要視し、またそんなものあまり関係ないはずの学生でもなんとなく人付き合いの判断材料としてしまうようなものに対し、まったく頓着もしなければ物怖じもしない。
それは俺が思う彼の美点の一つであったが、やはりこうして話していると大雑把すぎると思う。
幼少期のお付き合いがあまりに庶民離れした人々すぎていたために感覚が狂っているのだ。
「三田村、あまり一般的じゃない幼少期の環境についてはお前から聞いて知っているが、お前の感覚はちょっとおかしい」
「いいじゃないの、細かいことは」
「まあ同感だが。しかし、“呪いの彼女”って」
そう、彼女を知る男子生徒の誰もが口を揃えるのだそうな。
とにかく付き合う男がことごとく不幸に見舞われてしまうらしい。
本條玲子が中学一年の時――。
入学式で彼女を見かけた二年生のバスケ部のエースは彼女に一目惚れをし、しばらく彼女を眺めた後に告白した。校内で人気を集めていた人物であったらしい彼の告白に胸ときめかせたのかどうかは定かではないが、本條玲子は告白を受け入れたそうな。
しかし、その三日後。バイクとの接触事故で足を骨折、入院、全治2ヶ月。
それは奇しくも彼が本條玲子と一緒に帰る約束を最初に取り付けた日であったらしい。
おまけに見舞いにやってきた彼女の目の前で、痛み止めの点滴を隣の病室に入院するご老人の栄養剤と取り違えられるという出来事が起きた、とか。
退院して怪我も治り、彼女と初めてのデートに出かけて家から十歩も歩かないうちに不良に絡まれ、財布の中身を丸々取り上げられた、とか。
不吉なものを彼女に覚えた彼はそこで別れを切り出したらしい。
月日は流れ、二年生に進級した本條玲子と次に付き合ったのは彼女と同級生の秀才。
テストは常に学年一位で、バスケ部の元彼の話は聞いていたが馬鹿馬鹿しいと鼻であしらい、誰もが羨むような美少女の恋人となったその一週間後、謎の高熱で倒れた。
その日は、ジュニアの数学大会に出場する日だったらしい。
噂通りの災難に見舞われたものの、まだその時は偶然と彼は思っていた。
ところが、所属していた科学部で行なった実験中に想定外の反応が起きて、危うく彼ごと爆発しかけた目に合ったところでリタイアしたそうな。
本條玲子は、彼に誘われ科学部の見学に来ていた。
危うく難を逃れた彼を心配そうに見つめる本條玲子の眼差しに、得体の知れない恐怖を彼は感じたのだとか。
更に月日は流れ、三年に進級した本條玲子と付き合った男は、事故で生死の境をさまよった末、現在、中卒にして浪人生活の真っ最中であるらしいと伝わっている。
中学を卒業し、この緑風高等学園に入学した頃には、本條玲子が“呪いの彼女”であるといった噂は、三人目の彼氏が他校の生徒だったこともあり彼女の出身中学以外にも広がっていた。
三田村曰く、さらさらと音が鳴るようなストレートの長い髪をなびかせ、小柄でスタイルのいい体を紺色のセーラー服の制服に包み、挨拶の声も可憐に毎朝登校してくる美少女。
一応有数の進学校と評されているこの学園で学年十位以内と頭も良く、周囲の人間の話では少々おっとりした天然風味。
不思議なことに彼女の友人や、男であってもただのクラスメイト程度であれば、なんの被害にも合わない。
ピンポイントに本條玲子と付き合う男、つまりは“恋人”限定の呪いであった。
男共は皆揃って、今時、漫画にも出てこなさそうな美少女であるらしい彼女にそのような業を背負わせた神を恨む。
こんな“彼女”がいればと思うも、誰も自ら進んで不幸にはなりたくないと、くやしがっているといった話だった。
どこまで本当か嘘かよくわからないが、無数の噂が流れていて、当の本人も気に病んでいるらしく、二学期を迎える頃には男子生徒からの告白や呼び出しの類には一切応じなくなっているらしい。
かわいそうに、本人は一切なにもしていないし悪くもない。
天真爛漫な笑顔にも、どこか悲しげな翳りが浮かんで、それがまた皮肉にも彼女の魅力にプラスになっているとは、これも噂話の一環なのかそれとも三田村の主観なのかはわからない。
更に更に月日は流れ、本條玲子が高校二年に進級した頃。
噂は、男共の願望を含んだような形に発展しているらしい。
『本條玲子にキスできた男が、彼女を呪いから解放するだろう』
男というものは、本当に馬鹿だ——などと、三田村と話したその二日後のことだった。
*****
「いま、なんて言った?」
三田村から噂話を聞かされていた時と同じ体勢で、椅子にふんぞり返ったまま、上目に相手を見て聞き返した。
カウンターの向こうにはこの図書室の唯一の定期訪問者といえる三田村ではなく俯きがちに立って俺を見下ろしている少女がいる。
さらさらと音を立てるような、真っ直ぐで綺麗な長い黒髪。
軽くはにかむような表情で桃色に頬を染めている白い小さな顔。
小柄で華奢なわりに、均整のとれた曲線をどことなく醸しだしているセーラー服。
カウンターに乗せた本の上に重ねている両手の、桜貝のごとき爪の指先が小さく震えている。
それにしても、“久生十蘭”とはまた……少々意外だ。
暢気にそんなことを考えていた俺とは真逆に、張り詰めた雰囲気と真剣勝負な眼差しで少女――本條玲子は顔を上げた。
「好きです」
真っ直ぐにこちらを見る強い眼差しとは裏腹に消え入りそうにか細い声だったが、たしかに先程耳に聞こえたのと同じ言葉を本條玲子は繰り返した。
まだ、じっとこちらを見ている。
なるほど、たしかに美少女だ。
三田村やその他男共が騒ぐのも無理はない。
けれどもっとこう……小動物っぽいただ愛くるしいだけな感じの少女を想像していた。
こちらをじっと見詰めるアーモンド形の大きく黒目がちな眼が印象的で、顔立ちだけみれば猫のようで、どことなく気の強さを感じる。
「あの、三橋くん……?」
「なんでしょう?」
なんでしょうといった応対もないなと我ながら思ったが、それ以外に返答しようがなかったのだから仕方がない。
好きです、の次に来る、本條玲子の意向を聞きもせず答えられることもない。
俺は現時点で本條玲子に恋愛感情を持っていないどころかまったく関心もない、三田村が言うところ、学園でも稀な男子生徒だった。
本條玲子に限らず、基本的に女子や恋愛への興味が薄かった。
それより静かに古今東西の先人達が遺してくれた物語の世界に没頭していたい。
「えっと……三橋くんはわたしのこと嫌い?」
「いいや、嫌いではないよ」
というより、本條玲子を嫌いになるほど彼女のことを知らない。
「じゃあ、好……き……ですか?」
「一応、これが告白というものだとは理解はしているので、僕は君が言うようには君のことは好きじゃない。一つ聞くけど」
でなければ、一向に埒が明かない気がした。
いま、読みかけの“横光利一”がいいところなのだ。
「なんでしょうか?」
とりあえず、話をするのにこの姿勢は失礼だろうと考え、カウンターに乗せていた両足を下ろして立ち上がれば、天使の輪のような髪の艶を見せる本條玲子の頭頂部を見下ろす形になった。
ざっと見たところ身長157、8㎝といったところか。
ということは、178cmの俺とは頭一つ分位の身長差がある。
「君が俺を好きだとして、それで? とりあえず俺が君をどう思っているかはさっき答えた通りだけど。俺になにか要望が? 悪いけど俺はいま取り込んでいる最中なので……」
「読書に忙しいので簡潔にと」
司書部屋なの中、何年前の卒業生が書いたのかしれない本の貸出者を特定するカードが放置されている机に、頁を開いた状態で俺が伏せた本へと目を落とし、本條玲子は凛とした声で俺の言葉を遮り、俺は頷いた。
「そういう事」
なかなか理解が早くていい。
女子から告白されるのはごくたまに発生する出来事ではあるが、なかなかこうはいかない。
さすが、学年十位内常連の頭脳の持ち主だけはある。
「わかりました」
妙に落ち着き払った口調は、資産家の娘といった育ちがなせる業なのだろうか。
「三橋くん……えっと」
あらためて呼びかけた割には、なにやら躊躇って再び俯く。
好きだといっていた時より顔を赤くし、言い出し難そうな様子で口ごもっているので、少し彼女を促した。
「なに? 好かれる事自体は悪い気はしないし、出来る限りのことは誠意を持って対応するつもりだから言って」
じゃあ……と、覚悟を決めたようにぐっと息を一旦詰めて、再びきっと俺を睨みつけるように本條玲子は顔を上げる。
「わたしと付き合うか、キスしてっ」
一息にそう言って、本條玲子は耳まで赤く染めて唇を噛み締めた。
なにか鬼気迫った様子の真っ赤な本條玲子を目の前に、俺は軽く腕を組むと右手で自分の顎をつまんで彼女の言葉について検討しはじめた。
初夏らしい青空、木々の緑がきらきらと輝き眩しい。
椎の若葉に光あれ。
それらはすべて薄いガラス一枚隔て向こうにあった。
この部屋は常に薄く翳り、どこかひんやりと冷たく感じる空気が僅かな重みを含んで停滞している。
まるで澱を沈める古いワインの瓶の底のように。
訪ねてくる人はあまりいない場所だが、まったくこないわけでもない。
今日は一人いる。おまけに騒々しい。
——てなわけで、本條玲子には近づくなって人の噂で囁かれることになったってわけ。
中学二年からの友人である男の、その時々で熱中していることはわかりやすい。
影響がすぐに言動に現れる。
この語り口は一体誰なのか、そのうち一席聞かされることになるかもしれない。
いや、いまがもしかするとその一席なのかもしれなかった。
付き合えば不幸になるものすごい美少女なんて、馬鹿馬鹿しい噺以外のなにものでもない。
少なくとも、いま手元にある“葛西善蔵”より優先すべき話とは思えなかった。
藍色の荒い織り目の布の表紙と全集本らしい重みを手に感じながら頁をめくりたいが、できないために仕方なくチョコレートがけウエハースを優先している。
「あっ、人の話に生返事ばっかで、なに一人でチョコレート食ってんだよ」
「空腹で目が回ってきた。仕事の邪魔だから、独演会なら真打ちになってからやってくれ、三田村」
「はあ?」
俺の言葉に、友人――三田村陽輔は頓狂な声を上げて首を傾けた。
本人に悪気がないのはわかっているが、客観的に見て、どこかのチンピラヤクザが制服を着て凄んでいるようにしか見えない
生まれつきの明るい髪色の短髪に、目も輪郭も三角形で、ぎすぎすした痩せ型なのに骨格だけはがっしりした180cmの細長い体躯。
髪の色と骨格と身長は彼の母親が四分の一アメリカ人であることが影響しているらしい。
夜、繁華街の酒場でアルバイトをしていることを除けば、性格および素行は実に真面目で品行方正な善人だが、映画などで“狂犬”とでも呼ばれる役どころで出てきそうな見た目をしている。
「大体お前は、英語訛りが入るからキレのいい江戸っ子みたいなのは向かないと思うぞ」
「うるせーな、幼少期に単身外国に放り出されたんだから仕方ねぇの。それに人もこないのになにが仕事だよ」
人の気のない古い木造旧校舎の片隅、ひっそりと存在する第一図書室の司書部屋に俺はいた。
図書委員長である俺の仕事は第一図書室の管理運営にある。そういった取り決めであった。
一昨年前までは締め切られていた図書室だ。
この学校のメイン図書室は中央校舎の第二図書室で、こちらは連日盛況だった。
雑誌や新聞といった定期購読出版物の種類が豊富であるのと、話題の新刊書は街中の書店とほぼ同じ早さで入り、学習スペースが充実している。
生徒、教員両方の書籍リクエストに対応し、専門書も多い。
一学年七クラス。担任と副担任。各教科ごとに専任講師もいて提携大学からティーチングアシスタントでくる学部生や院生もいるこの学校の図書室のユーザーは生徒だけではない。
図書室の予算は潤沢で、そこそこの知名度な私立大学から見てもその蔵書はなかなかのものであるらしく、またそれが他校との差別化の材料として宣伝もされていた。
図書館情報システムも入っていない、蔵書の大半が古書の部類に入りそうな黴臭い本か全集本しかないここ第一図書室とはまるで違う。
「人がこなくても仕事はある」
来年には、現在建築中の新校舎をワンフロア使ったライブラリーにこの第一図書室は統合される予定で、その為、第一図書室の蔵書リストの作成も仕事の一つだった。
システムが入っていないから、蔵書管理は手書きの記録頼りであるし、ISBNコードなんて気の利いたものは付いていない本も多い。
例えば、目の前で三田村が手にしている和綴じの講談速記本などがそれにあたる。
ああ、そうか。
さっきまで俺に、同学年のいわく付き美少女の噂話を滔々と聞かせてきた調子は、落語ではなくて講談か。
「っていうか、貸出カウンターに足乗せてふんぞり返って、好きな本を気儘に読み耽ってるののなにが仕事だよ、三橋」
呆れ返った声の言葉は無視した。
取り決められた仕事はしている、その上で、この図書室の管理人として自由に使ってよい、そういった約束だった。
「……で、そのすごい美少女って何者なんだ?」
「別に何者もなにも、お屋敷町の洋館に住んでるめちゃくちゃかわいい同級生ってだけ」
「洋館に本條って……本條家か。立派に何者かじゃないのかそれは」
「昔から名士の資産家の娘ってだけだろ? 別に王女様ってわけじゃなし」
この街一番の富豪と名高い本條家の一人娘、文化財級の洋館に住んでいる正真正銘、筋金入りのお嬢様も三田村にとっては同じ庶民の括りであるらしい。
なんでも両親の教育方針で物心ついて間もなく、王侯貴族や富豪の子女が集まるスイスの寄宿学校に入れられてしまったとかで、そのためか三田村は家柄だとか肩書きだとか、大人が重要視し、またそんなものあまり関係ないはずの学生でもなんとなく人付き合いの判断材料としてしまうようなものに対し、まったく頓着もしなければ物怖じもしない。
それは俺が思う彼の美点の一つであったが、やはりこうして話していると大雑把すぎると思う。
幼少期のお付き合いがあまりに庶民離れした人々すぎていたために感覚が狂っているのだ。
「三田村、あまり一般的じゃない幼少期の環境についてはお前から聞いて知っているが、お前の感覚はちょっとおかしい」
「いいじゃないの、細かいことは」
「まあ同感だが。しかし、“呪いの彼女”って」
そう、彼女を知る男子生徒の誰もが口を揃えるのだそうな。
とにかく付き合う男がことごとく不幸に見舞われてしまうらしい。
本條玲子が中学一年の時――。
入学式で彼女を見かけた二年生のバスケ部のエースは彼女に一目惚れをし、しばらく彼女を眺めた後に告白した。校内で人気を集めていた人物であったらしい彼の告白に胸ときめかせたのかどうかは定かではないが、本條玲子は告白を受け入れたそうな。
しかし、その三日後。バイクとの接触事故で足を骨折、入院、全治2ヶ月。
それは奇しくも彼が本條玲子と一緒に帰る約束を最初に取り付けた日であったらしい。
おまけに見舞いにやってきた彼女の目の前で、痛み止めの点滴を隣の病室に入院するご老人の栄養剤と取り違えられるという出来事が起きた、とか。
退院して怪我も治り、彼女と初めてのデートに出かけて家から十歩も歩かないうちに不良に絡まれ、財布の中身を丸々取り上げられた、とか。
不吉なものを彼女に覚えた彼はそこで別れを切り出したらしい。
月日は流れ、二年生に進級した本條玲子と次に付き合ったのは彼女と同級生の秀才。
テストは常に学年一位で、バスケ部の元彼の話は聞いていたが馬鹿馬鹿しいと鼻であしらい、誰もが羨むような美少女の恋人となったその一週間後、謎の高熱で倒れた。
その日は、ジュニアの数学大会に出場する日だったらしい。
噂通りの災難に見舞われたものの、まだその時は偶然と彼は思っていた。
ところが、所属していた科学部で行なった実験中に想定外の反応が起きて、危うく彼ごと爆発しかけた目に合ったところでリタイアしたそうな。
本條玲子は、彼に誘われ科学部の見学に来ていた。
危うく難を逃れた彼を心配そうに見つめる本條玲子の眼差しに、得体の知れない恐怖を彼は感じたのだとか。
更に月日は流れ、三年に進級した本條玲子と付き合った男は、事故で生死の境をさまよった末、現在、中卒にして浪人生活の真っ最中であるらしいと伝わっている。
中学を卒業し、この緑風高等学園に入学した頃には、本條玲子が“呪いの彼女”であるといった噂は、三人目の彼氏が他校の生徒だったこともあり彼女の出身中学以外にも広がっていた。
三田村曰く、さらさらと音が鳴るようなストレートの長い髪をなびかせ、小柄でスタイルのいい体を紺色のセーラー服の制服に包み、挨拶の声も可憐に毎朝登校してくる美少女。
一応有数の進学校と評されているこの学園で学年十位以内と頭も良く、周囲の人間の話では少々おっとりした天然風味。
不思議なことに彼女の友人や、男であってもただのクラスメイト程度であれば、なんの被害にも合わない。
ピンポイントに本條玲子と付き合う男、つまりは“恋人”限定の呪いであった。
男共は皆揃って、今時、漫画にも出てこなさそうな美少女であるらしい彼女にそのような業を背負わせた神を恨む。
こんな“彼女”がいればと思うも、誰も自ら進んで不幸にはなりたくないと、くやしがっているといった話だった。
どこまで本当か嘘かよくわからないが、無数の噂が流れていて、当の本人も気に病んでいるらしく、二学期を迎える頃には男子生徒からの告白や呼び出しの類には一切応じなくなっているらしい。
かわいそうに、本人は一切なにもしていないし悪くもない。
天真爛漫な笑顔にも、どこか悲しげな翳りが浮かんで、それがまた皮肉にも彼女の魅力にプラスになっているとは、これも噂話の一環なのかそれとも三田村の主観なのかはわからない。
更に更に月日は流れ、本條玲子が高校二年に進級した頃。
噂は、男共の願望を含んだような形に発展しているらしい。
『本條玲子にキスできた男が、彼女を呪いから解放するだろう』
男というものは、本当に馬鹿だ——などと、三田村と話したその二日後のことだった。
*****
「いま、なんて言った?」
三田村から噂話を聞かされていた時と同じ体勢で、椅子にふんぞり返ったまま、上目に相手を見て聞き返した。
カウンターの向こうにはこの図書室の唯一の定期訪問者といえる三田村ではなく俯きがちに立って俺を見下ろしている少女がいる。
さらさらと音を立てるような、真っ直ぐで綺麗な長い黒髪。
軽くはにかむような表情で桃色に頬を染めている白い小さな顔。
小柄で華奢なわりに、均整のとれた曲線をどことなく醸しだしているセーラー服。
カウンターに乗せた本の上に重ねている両手の、桜貝のごとき爪の指先が小さく震えている。
それにしても、“久生十蘭”とはまた……少々意外だ。
暢気にそんなことを考えていた俺とは真逆に、張り詰めた雰囲気と真剣勝負な眼差しで少女――本條玲子は顔を上げた。
「好きです」
真っ直ぐにこちらを見る強い眼差しとは裏腹に消え入りそうにか細い声だったが、たしかに先程耳に聞こえたのと同じ言葉を本條玲子は繰り返した。
まだ、じっとこちらを見ている。
なるほど、たしかに美少女だ。
三田村やその他男共が騒ぐのも無理はない。
けれどもっとこう……小動物っぽいただ愛くるしいだけな感じの少女を想像していた。
こちらをじっと見詰めるアーモンド形の大きく黒目がちな眼が印象的で、顔立ちだけみれば猫のようで、どことなく気の強さを感じる。
「あの、三橋くん……?」
「なんでしょう?」
なんでしょうといった応対もないなと我ながら思ったが、それ以外に返答しようがなかったのだから仕方がない。
好きです、の次に来る、本條玲子の意向を聞きもせず答えられることもない。
俺は現時点で本條玲子に恋愛感情を持っていないどころかまったく関心もない、三田村が言うところ、学園でも稀な男子生徒だった。
本條玲子に限らず、基本的に女子や恋愛への興味が薄かった。
それより静かに古今東西の先人達が遺してくれた物語の世界に没頭していたい。
「えっと……三橋くんはわたしのこと嫌い?」
「いいや、嫌いではないよ」
というより、本條玲子を嫌いになるほど彼女のことを知らない。
「じゃあ、好……き……ですか?」
「一応、これが告白というものだとは理解はしているので、僕は君が言うようには君のことは好きじゃない。一つ聞くけど」
でなければ、一向に埒が明かない気がした。
いま、読みかけの“横光利一”がいいところなのだ。
「なんでしょうか?」
とりあえず、話をするのにこの姿勢は失礼だろうと考え、カウンターに乗せていた両足を下ろして立ち上がれば、天使の輪のような髪の艶を見せる本條玲子の頭頂部を見下ろす形になった。
ざっと見たところ身長157、8㎝といったところか。
ということは、178cmの俺とは頭一つ分位の身長差がある。
「君が俺を好きだとして、それで? とりあえず俺が君をどう思っているかはさっき答えた通りだけど。俺になにか要望が? 悪いけど俺はいま取り込んでいる最中なので……」
「読書に忙しいので簡潔にと」
司書部屋なの中、何年前の卒業生が書いたのかしれない本の貸出者を特定するカードが放置されている机に、頁を開いた状態で俺が伏せた本へと目を落とし、本條玲子は凛とした声で俺の言葉を遮り、俺は頷いた。
「そういう事」
なかなか理解が早くていい。
女子から告白されるのはごくたまに発生する出来事ではあるが、なかなかこうはいかない。
さすが、学年十位内常連の頭脳の持ち主だけはある。
「わかりました」
妙に落ち着き払った口調は、資産家の娘といった育ちがなせる業なのだろうか。
「三橋くん……えっと」
あらためて呼びかけた割には、なにやら躊躇って再び俯く。
好きだといっていた時より顔を赤くし、言い出し難そうな様子で口ごもっているので、少し彼女を促した。
「なに? 好かれる事自体は悪い気はしないし、出来る限りのことは誠意を持って対応するつもりだから言って」
じゃあ……と、覚悟を決めたようにぐっと息を一旦詰めて、再びきっと俺を睨みつけるように本條玲子は顔を上げる。
「わたしと付き合うか、キスしてっ」
一息にそう言って、本條玲子は耳まで赤く染めて唇を噛み締めた。
なにか鬼気迫った様子の真っ赤な本條玲子を目の前に、俺は軽く腕を組むと右手で自分の顎をつまんで彼女の言葉について検討しはじめた。
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