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Episode5.今世こそは、離さない
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セシリア……と、戻った「塔」の執務室でクリストファーはペンを動かしながら、口の中で声には出さずに呟いた。落ち着かない。
表面はただ仕事をしているものの、公爵邸の部屋に彼女一人を残していることが気がかりで、時間が経つにつれ胸の奥に不安のさざなみが広がっていく。
(あの認識阻害の魔術、魔力操作の精度をこの目で見てしまうと)
部屋にかけた生体認証付の封印魔術は強固だ。
それこそ伝説級の魔獣に一撃で深手を負わせる威力の攻撃魔術でもぶつけなければ、破られるものではない自負もある。
万一のため、彼女が眠っている間に、別の魔術も室内に張り巡らせた。
セシリアがクリストファーと対面していた時に使用していた魔力量を大きく変化させたり、他の魔術を使えば感知して、警告する魔術。
屋敷全体も個人認証付きの四重結界で守られている。
セシリア自ら部屋を脱出することはもちろん、外部から彼女を連れ出すことも常識的に考えて不可能である。
(しかし、冷静になって考えると……彼女は王家の庭では明らかに逃げようとしていた。怒ってもいたし、触れるのを許してもくれたけれど、やはり怯えるような様子も見せた)
だとすれば、彼女を閉じ込める魔術もそれ以外でも、少しばかりやり過ぎた気もする。クリストファーとしては、同じことを繰り返したくない気持ちと、焦りからしたことだった。セシリアに近づいても大丈夫なよう、自分自身の足場も固めてようやく会えたのだから。
しかし、犯罪まがいの振る舞いだと、彼女に叱られた性急さだったことは反論できない。
(色々考え合わせて、彼女もいまとは違う記憶を持っているのは間違いない……認識阻害の魔術なんて、処刑を恐れて彼女に避けられていただけだったのか? 互いの状況は違うのに)
そんなことを考えながら、クリストファーは彼の机の真ん中にこれみよがしに積まれた書類を機械的な動作で取り上げては、さらさらと一定の速度でペンを動かす。
書類を眺めるその顔は、空虚に冷めた表情で眼差しだった。
人々が好意と憧憬を向ける、元王子の貴公子の顔はそこにはない。
(いや、魔術を彼女に教えた者がいるはずだ。独学ではあり得ない)
セシリア・ヴァスト。
名前も、侯爵家であることもわかっていた。
同い年で、八歳の時にクリストファーの婚約者候補として王城で引き合わされることも。
(そのはずだったのに、何故、今回は五年も年の差がある? 婚約者になるどころか今日まで会えずにいた。最初からすべてを思い出しているというのに……っ)
クリストファーは彼の知る人生通りに、八歳を迎えそろそろ婚約者候補に相応しい娘の選定に入る話が出た時、自らセシリアの名を挙げて指名した。
流れを変化させるのはその後の影響が分からない。不確定な要素が多すぎる。
(これまでも流れは同じで、少しずつ違いはあった。あくまでその範囲内で失敗を回避しつつ彼女を守る。それが一番確実で安全なんて考えが甘かった!)
第一王子の兄にも第二王子の自分にも肩入れせず、王家に忠節を捧げる権力欲の薄い学究の家なら、王家に不都合なことはしない。
身分的にも侯爵令嬢なら問題はないと、クリストファーは説明した。
五歳年上であることには困惑されたが、成長すれば許容できる範囲だ。なにより以前見かけて気に入ったのだと言い張った。嘘ではない。今世ではないが何度も出会っている。
(まさか一度は側近達と共に納得したはずの父上が、「いま時、十も満たない年で婚約者なんて早過ぎた」と白紙にして突き返してくるなんて)
十歳を過ぎてから、再度婚約を打診したいと密かに侯爵家に根回ししようとすれば、父である王がお認めならば考えると断りの返事が届いた。
仕方なく、やはりヴァスト家の令嬢がよいと訴えれば、勝手に打診をしたことをヴァスト侯から相談された、王子の立場で臣下を困らせるなと父親直々に叱責されうやむやにされた。
(こうなったら直接本人に接触しようと、彼女が招待されそうな王家主催の催しの際に探したけれど見つけられなかった。あの認識阻害の魔術のせいだろうな)
婚約が成立しないまでなら説明がつかないことはない。
貴族の娘は他にもいる。それなりの恩恵で満足する家もある。セシリアが五歳年上なことを考えても、父親やヴァスト侯が彼女を望んだクリストファーに不審を覚えても不思議ではない。
だが、本人を探しても見当たらないとなると、セシリアと出会うことを誰かが妨害しているのは明らかだ。
問題は、妨害しているのは誰か、その目的もなにもわからないことだった。
まだ社交の場にも出られない子供で、なんの力もないうちは迂闊に動けない。
クリストファーは婚約も彼女と会うことも、一旦諦め、引き下がるしかなかった。
(この国の成人年齢は十八。それまでに王家のしがらみを断ち切り、その上で大抵の事は処理出来るだけの力と立場を手に入れると決めてこれまでやってきた)
ペンを動かす手を止めて、クリストファーはその手で頬杖をつくと他者から見れば黙考するように目を閉じた。
(生まれた時から持ち合わせていた、いまの生ではない複数の人生……)
乳幼児の頃はもちろん、物心や子供なりに分別がつくようになっても、当然それがなんなのかわからずにいた。
夜となく昼となく、頭の中で繰り返しクリストファーを苛む悪夢だった。
彼を情緒不安定にさせ、魔力の暴走をいたずらに誘発させる呪いのような悪夢。
(六歳から本格的に王子教育が始まり、様々なことを学ぶにつれて、ようやく頭の中にある出来事やその意味を理解した)
それらはただの悪夢ではない、たしかに経験した複数の人生であり、彼の意思や感情を伴う記憶であった。
自分は同じこの世界で、同じクリストファーとして、何度も同じ人生を送っている。
(そしてどの人生も、最悪だった)
八歳の時に出会い、唯一の救いとなる少女を守るつもりで蔑ろにして壊し、陥れ、貶めたあげくに二十四歳でこの手で処刑し、その三年後に早逝する。
同じ演目を異なる一座や役者が演じるように、その時々の状況や道具立ては少しずつ異なるが、大枠の流れと役どころは同じだった。
(そして本来、この記憶すべてを思い出すのは、セシリアを処刑した後――!)
冷たくなっていくセシリアに成す術もないクリストファーのそばに必ずいる、聖女の囁きと共に思い出す。
『本当に、クリス様は思い出してもいつも手遅れ……“悪しき魔女”は“聖女の祝福”ごときの魔力ではどうにもできないのに』
パキッと、無意識に頬杖を外していた手の中のペンが折れ、クリストファーが我に返れば彼の手に握られたままのペンの先から垂れたインクが、彼の手と袖口を汚している。
「ああ、やはり早く片付けて帰ろう……」
たしかにいまは互いの状況は違うが、もしセシリアにいまとは違う記憶があるのなら、クリストファーを受け入れるとは思えない。
八歳から七年の間に彼女に会うための努力をしてようやく会えた感慨と、クリストファーが知る成長した彼女とあまりに違って、表情豊かに彼に接してくれたことに舞い上がっていた。
やはりあの部屋に施した魔術はやり過ぎではない。あれくらいは必要だ。
(今世こそは、離さない――)
確認を終えた書類を、折れたペンを持たない手で取り上げて、確認済みの書類の上にのせて、クリストファーが書類仕事の片付いた机を見下ろした時、執務室の扉がノックされた。
入室の許可を待たずに、彼の直属の部下の男が入ってきて即座にクリストファーの手元へ焦茶色の髪と同じ色をした目をやるとため息を吐く。
平均年齢は四十に届きそうな“塔”において、二十半ば過ぎで宮廷魔術師長の補佐に付く男は、クリストファーが王子の頃から側にいる、同じ師を持つ兄弟子でもある男である。
クリストファーが他者に向けて人好きする貴族として振る舞う顔も、そうでない時の冷め切った荒んだ顔も知っているのは、この男と師くらいだ。
逆を言えば、他は誰一人信用できない。
現時点では守るべきセシリアもである。それが彼の不安と焦りを掻き立てる。
「なにをしてる、お前」
「……別に。書類に書かれた魔力回路の説明があまりに稚拙で、少し苛ついただけだよ」
白ローブを羽織っていても武官に間違われる体躯を揺らして近づいてきた男に、淡々とクリストファーは答えた。
表面はただ仕事をしているものの、公爵邸の部屋に彼女一人を残していることが気がかりで、時間が経つにつれ胸の奥に不安のさざなみが広がっていく。
(あの認識阻害の魔術、魔力操作の精度をこの目で見てしまうと)
部屋にかけた生体認証付の封印魔術は強固だ。
それこそ伝説級の魔獣に一撃で深手を負わせる威力の攻撃魔術でもぶつけなければ、破られるものではない自負もある。
万一のため、彼女が眠っている間に、別の魔術も室内に張り巡らせた。
セシリアがクリストファーと対面していた時に使用していた魔力量を大きく変化させたり、他の魔術を使えば感知して、警告する魔術。
屋敷全体も個人認証付きの四重結界で守られている。
セシリア自ら部屋を脱出することはもちろん、外部から彼女を連れ出すことも常識的に考えて不可能である。
(しかし、冷静になって考えると……彼女は王家の庭では明らかに逃げようとしていた。怒ってもいたし、触れるのを許してもくれたけれど、やはり怯えるような様子も見せた)
だとすれば、彼女を閉じ込める魔術もそれ以外でも、少しばかりやり過ぎた気もする。クリストファーとしては、同じことを繰り返したくない気持ちと、焦りからしたことだった。セシリアに近づいても大丈夫なよう、自分自身の足場も固めてようやく会えたのだから。
しかし、犯罪まがいの振る舞いだと、彼女に叱られた性急さだったことは反論できない。
(色々考え合わせて、彼女もいまとは違う記憶を持っているのは間違いない……認識阻害の魔術なんて、処刑を恐れて彼女に避けられていただけだったのか? 互いの状況は違うのに)
そんなことを考えながら、クリストファーは彼の机の真ん中にこれみよがしに積まれた書類を機械的な動作で取り上げては、さらさらと一定の速度でペンを動かす。
書類を眺めるその顔は、空虚に冷めた表情で眼差しだった。
人々が好意と憧憬を向ける、元王子の貴公子の顔はそこにはない。
(いや、魔術を彼女に教えた者がいるはずだ。独学ではあり得ない)
セシリア・ヴァスト。
名前も、侯爵家であることもわかっていた。
同い年で、八歳の時にクリストファーの婚約者候補として王城で引き合わされることも。
(そのはずだったのに、何故、今回は五年も年の差がある? 婚約者になるどころか今日まで会えずにいた。最初からすべてを思い出しているというのに……っ)
クリストファーは彼の知る人生通りに、八歳を迎えそろそろ婚約者候補に相応しい娘の選定に入る話が出た時、自らセシリアの名を挙げて指名した。
流れを変化させるのはその後の影響が分からない。不確定な要素が多すぎる。
(これまでも流れは同じで、少しずつ違いはあった。あくまでその範囲内で失敗を回避しつつ彼女を守る。それが一番確実で安全なんて考えが甘かった!)
第一王子の兄にも第二王子の自分にも肩入れせず、王家に忠節を捧げる権力欲の薄い学究の家なら、王家に不都合なことはしない。
身分的にも侯爵令嬢なら問題はないと、クリストファーは説明した。
五歳年上であることには困惑されたが、成長すれば許容できる範囲だ。なにより以前見かけて気に入ったのだと言い張った。嘘ではない。今世ではないが何度も出会っている。
(まさか一度は側近達と共に納得したはずの父上が、「いま時、十も満たない年で婚約者なんて早過ぎた」と白紙にして突き返してくるなんて)
十歳を過ぎてから、再度婚約を打診したいと密かに侯爵家に根回ししようとすれば、父である王がお認めならば考えると断りの返事が届いた。
仕方なく、やはりヴァスト家の令嬢がよいと訴えれば、勝手に打診をしたことをヴァスト侯から相談された、王子の立場で臣下を困らせるなと父親直々に叱責されうやむやにされた。
(こうなったら直接本人に接触しようと、彼女が招待されそうな王家主催の催しの際に探したけれど見つけられなかった。あの認識阻害の魔術のせいだろうな)
婚約が成立しないまでなら説明がつかないことはない。
貴族の娘は他にもいる。それなりの恩恵で満足する家もある。セシリアが五歳年上なことを考えても、父親やヴァスト侯が彼女を望んだクリストファーに不審を覚えても不思議ではない。
だが、本人を探しても見当たらないとなると、セシリアと出会うことを誰かが妨害しているのは明らかだ。
問題は、妨害しているのは誰か、その目的もなにもわからないことだった。
まだ社交の場にも出られない子供で、なんの力もないうちは迂闊に動けない。
クリストファーは婚約も彼女と会うことも、一旦諦め、引き下がるしかなかった。
(この国の成人年齢は十八。それまでに王家のしがらみを断ち切り、その上で大抵の事は処理出来るだけの力と立場を手に入れると決めてこれまでやってきた)
ペンを動かす手を止めて、クリストファーはその手で頬杖をつくと他者から見れば黙考するように目を閉じた。
(生まれた時から持ち合わせていた、いまの生ではない複数の人生……)
乳幼児の頃はもちろん、物心や子供なりに分別がつくようになっても、当然それがなんなのかわからずにいた。
夜となく昼となく、頭の中で繰り返しクリストファーを苛む悪夢だった。
彼を情緒不安定にさせ、魔力の暴走をいたずらに誘発させる呪いのような悪夢。
(六歳から本格的に王子教育が始まり、様々なことを学ぶにつれて、ようやく頭の中にある出来事やその意味を理解した)
それらはただの悪夢ではない、たしかに経験した複数の人生であり、彼の意思や感情を伴う記憶であった。
自分は同じこの世界で、同じクリストファーとして、何度も同じ人生を送っている。
(そしてどの人生も、最悪だった)
八歳の時に出会い、唯一の救いとなる少女を守るつもりで蔑ろにして壊し、陥れ、貶めたあげくに二十四歳でこの手で処刑し、その三年後に早逝する。
同じ演目を異なる一座や役者が演じるように、その時々の状況や道具立ては少しずつ異なるが、大枠の流れと役どころは同じだった。
(そして本来、この記憶すべてを思い出すのは、セシリアを処刑した後――!)
冷たくなっていくセシリアに成す術もないクリストファーのそばに必ずいる、聖女の囁きと共に思い出す。
『本当に、クリス様は思い出してもいつも手遅れ……“悪しき魔女”は“聖女の祝福”ごときの魔力ではどうにもできないのに』
パキッと、無意識に頬杖を外していた手の中のペンが折れ、クリストファーが我に返れば彼の手に握られたままのペンの先から垂れたインクが、彼の手と袖口を汚している。
「ああ、やはり早く片付けて帰ろう……」
たしかにいまは互いの状況は違うが、もしセシリアにいまとは違う記憶があるのなら、クリストファーを受け入れるとは思えない。
八歳から七年の間に彼女に会うための努力をしてようやく会えた感慨と、クリストファーが知る成長した彼女とあまりに違って、表情豊かに彼に接してくれたことに舞い上がっていた。
やはりあの部屋に施した魔術はやり過ぎではない。あれくらいは必要だ。
(今世こそは、離さない――)
確認を終えた書類を、折れたペンを持たない手で取り上げて、確認済みの書類の上にのせて、クリストファーが書類仕事の片付いた机を見下ろした時、執務室の扉がノックされた。
入室の許可を待たずに、彼の直属の部下の男が入ってきて即座にクリストファーの手元へ焦茶色の髪と同じ色をした目をやるとため息を吐く。
平均年齢は四十に届きそうな“塔”において、二十半ば過ぎで宮廷魔術師長の補佐に付く男は、クリストファーが王子の頃から側にいる、同じ師を持つ兄弟子でもある男である。
クリストファーが他者に向けて人好きする貴族として振る舞う顔も、そうでない時の冷め切った荒んだ顔も知っているのは、この男と師くらいだ。
逆を言えば、他は誰一人信用できない。
現時点では守るべきセシリアもである。それが彼の不安と焦りを掻き立てる。
「なにをしてる、お前」
「……別に。書類に書かれた魔力回路の説明があまりに稚拙で、少し苛ついただけだよ」
白ローブを羽織っていても武官に間違われる体躯を揺らして近づいてきた男に、淡々とクリストファーは答えた。
応援ありがとうございます!
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