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始まりの春 side柊
招かれざる客
しおりを挟むこの世とあの世の狭間には、万妖桜が咲いている。
淡くかすんだ花びらが夜の帳を縫い、一片も欠けることなく花を散らす。
──おいでよ、おいで。お客人。
そう言って、花枝が手招きする。艶っぽく、やわい花弁を振るわせ、しとやかな香りに、ひらりと小さく声を漏らしてみせながら。花酔う客人を見て彼らは笑みをこぼす。
そこは、桜雲の楼閣。その主は「妖主」と呼ばれる九尾のお狐様。神様も裸足で逃げ出す妖界の長。
おっかない彼は今、手持ち無沙汰を嘆いていた。
「つまらない」
太い幹に背を預けて足を投げ出す。
「ったく。こんなことなら誰か……って、来るわけないか。下手すりゃ人間どもに会うところになんか」
クソみたいな道徳を吠え散らかす偽善者。威勢がいいだけの肉塊。奴らのどこに怯える? あり得ない。
「俺に泣きつく前になんとかしろよ」
面倒ごとはもうこりごりだ。ため息が微かな甘い息吹に乗る。
八つ当たりもほどほどに、まぶたに花弁を収めようとした時。風になびいた深緋の髪紐に下がる鈴が、「チリン」と一音鳴ったのが合図だった。
「──久しぶりだな。息災か」
思わぬ珍客から声が掛かる。
「うわっ、最悪」
「それが数十年ぶりの友に言うことか」
「素直な意見さ」
「厄病神とでも言いたげだな」
「よくわかっているな。チカ」
彼は「智景」。天界でも名の知られた有名神。
「相変わらず神に対する礼儀がなってない。だから不必要に目をつけられる」
「それが理由じゃないだろ」
「これも一つだと言ってるんだ。お前は手に負えないお尋ね者なのだから、せめてその無駄に多い尻尾でも振って従順にしておけ。そうすれば、上にとやかく言われずに済む」
「チカが、だ」
「あぁ、そうだ。私のためにも、上に媚びを売ってこい。お狐様のお得意技だろ」
智景は汚れることを気にも留めず、不自然に浮き出た足元の根にどんと腰を下ろした。
「で、今日は何をしにここへ来た」
木からさっと飛び降りると、智景の隣に片膝を立てて座った。
「かの有名な妖主様は先見の明を持っているとか」
「俺は占い師でも預言者でもない。そんな超能力があるなら、チカが来る前にここを去っていた」
「そう意地悪を言ってくれるな。物は試し、とりあえず当ててみてくれ」
「面倒くさい」
「つれないな」
「チカの遊びには付き合いきれない」
やれやれ、と首を振る。
「私だって頭が痛い。何かと仲介役を押しつけられる日々、書類とのにらめっこ。お前にもわかるはずだ」
「逃げてしまえばいい。俺のように」
一瞬、視線の先。花々の影に隠れて黒い何かがうごめく。ギョロッと黒い目のぞかせ、鋭いくちばしで黒い羽を突いていた。
「私にも思い切りがあればよかったが。なかなかそうもいかない」
智景が息を吐く。
「天界暮らしは大変だな」
「他人事か」
「事実そうだ。もう俺には関係ない」
「監視を付けられた身でよく言える。周りは誰もそう思っていないというのに」
言い当てられては何も言い返せない。ただひと言、「最悪だ」と愚痴を零した。
「それほどまでに神を毛嫌いするか」
感心しながら智景は言う。
「一生反抗期の奴らのどこに、好きになる要素があるんだか」
「では人間はどうだ?」
「軟弱」
「酷評だな」と智景は笑う。
ひとしきり笑い収め、智景が居ずまいを正した。真剣な面持ちでこちらを見て、重く言葉を乗せた。
「近頃、ある『神』についての噂されている」
生返事の妖主をよそに、智景は続けた。
「噂の御仁には、『神殺し』とも言われている。単身で六柱の神々とその神使を殺め、天界を血に染めた。そうして神の席次をかっさらった人間のことを皆がそう呼んでいる」
吹き抜ける風がどこか冷たい息を帯びた。
「人間がいつまでも神の臣下である、と神々はあぐらをかいていた。彼らの変化は所詮、季節の移ろいのようなもの。物見遊山でいた結果がこれだ」
深く、冷たい納得感がすとんと落ちた気がした。
「だから消そう。それを俺にさせよう、と」
智景は首肯する。
「恐れ入った。知らぬうちに神々は、理由もなく同胞殺しに走るほど血生臭くなっていたとは」
平然とした態度に沈んだ嘲りには、不快感がそのまま表れていた。
「誰も同胞だと思っていない」
「他者の承認なんて必要ないさ。そこに神座があれば等しく神と呼ぶ。経緯や種族なんて粗末なこと。俺に押しつける前に話し合いで解決しろよ」
「お前と同じだ。あの子も神を憎んでいる。そして神もあの子を疎ましく思っている。とてもじゃないが話し合いにならない」
「面識でも?」
親戚のような口ぶりが気になった。
「少し。あの子の養父とは旧友……、だった」
智景は懐かしんで空を仰ぐ。
「あの子が最初に手にかけた神が、その養父だった。それが原因で、その身に呪いを受けた」
厄災を封じた体は息をするだけで激痛が走り、日を追うごとに蝕まれていく。並みの気力だけではどうにもならない。
「いつ爆発するかもわからない爆弾を天界が放っておくはずがない。災いが器を破った後では、何もかもが遅いのだから」
「昨日今日の話じゃあるまいし、今さら慌てたところでどうしようもない」
「だとしても、知らぬふりはできまい」
智景は舞い落ちる花びらを一枚、そっと手の中に受け止めた。それを握りしめ、たちまち可憐な浅紫色の蝶へと姿を変えさせる。
「どんな理由や事情であれ、蝶の羽ばたきは恐ろしい。それだけの影響力がある。天帝がそのようにお認めになった」
目配せをすれば、ふわりと妖主の人差し指に蝶が止まった。
「で、その神の名は?」
「葵だ」
「──……葵、ね」
妖主が蝶にふっと息を吹きかけると、淡い光を伴って桜のように儚く散った。
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