赤い果実と灰色の世界

二ノ宮明季

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赤い果実と灰色の世界

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 少年には、音信不通になってしまった人がいた。

 ずっと仲良くしていたはずだ。小さなころからずっと。少年と同じ年頃の、少女だった。

 それに気が付くと、少年は一人――独り、灰色の街に立っていた。

 誰もいない。人ひとり存在せず、何の色も無い。

 どこか見覚えはある……いや、ここは自分の住んでいた街だ。何故か色が消え失せ、どこか他人行儀に見える。

「これ、何……?」

 少年は、辺りを見回しながら、掠れた声を上げた。

「誰かー」

 人を呼ぶ。

 返事はない。手当たり次第に様々な場所を探し回った。

 誰もいない。

 街には誰もいない。誰も存在しない。

 散歩をする人も、店を営んでいた人も、大好きだった彼女も。

「誰か! ……誰か!」

 世界は灰色。少年の声を聞く人は誰もいない。食べ物も灰色。喉を通る水も灰色。

 灰色だ。全て灰色。灰色。灰色灰色灰色灰色。

「……どうして?」

 音信不通になったと気付いたのは、少女だけだった。

 何故、どうして、こうして誰もいないのか。誰も彼もが音信不通で……存在が消え去っている。

「誰か……いや、何か!」

 世界は灰色だ。少年以外に色はない。

 焦って様々な場所を探す。誰もいない。何もない。

「あ、った……」

 ようやっと、絞り出すように口から言葉がこぼれたのは、他人の家の戸棚の中の果実を見た時だった。

 赤々とした、甘酸っぱい香りの果実。自分以外に認識した色。

 少年はドクドクと音の煩い心臓を押さえながら、果実を手にして――。





 ザクザクと森を歩く。

 あれから何年経っただろうか。相変わらず世界は灰色だ。

 少年は、少年の姿のまま、赤い果実を一口だけ齧った。

 あの時、世界が灰色に変わった時から、少年の姿は変わらなくなっていた。この世界で唯一口に出来るものも、この赤い果実だと分かった。

 少年は旅をしながら、人を探す。本当に探しているのは、少女の姿だったが……その手掛かりになるのなら、自分以外の誰かが存在していると知れるのなら、もうそれでよかった。

 赤い果実は、いたるところに生えている樹木に、たわわに実っている。

「はー……また、ダメかな」

 森を歩きながら、何度目になるとも知れない独り言。気がつけば独り言を良く口にするようになっていた。

 甘酸っぱい味が口いっぱいに広がる。

「それにしてもこの果実、どこかで何か、聞いたことがあったような気がするんだけどな」

 少年は疑問を口にしながら森を歩く。

 ザクザクと踏む草は、あの時から何年も同じ丈のまま。そうでなければ、今、彼の身長をゆうに越している事だろう。

「何だったかな」

 もう一口、と、赤い果実を口にする。

 甘酸っぱい色の果実は、もう何年も口にしているはずなのに、飽きる事が無い。

 喉も潤えば、味覚も空腹も満たされる。この果実は、一体なんだったのだろうか。





 新しい街につく度に、少年は様々な家を見て周った。勝手に人の家に入るなど、灰色になる前の世界であれば考えられなかっただろう。

 だが、こうなってからは躊躇いがなくなった。

 人が住んでいた家は、生活感を残したまま凍りついているようだ。

「あ、図書館! 図書館だ!」

 少年は久しぶりに見た大きな建物に、明るい声を上げた。

 建物が何であるのかに気が付いてからは早く、彼は走って建物に入り込むと、片っ端から本を開いた。

 何か、何かこの状況を示すものは無いか。

 これは一体なんなんだ。ほんの少しでも手がかりが欲しい。

 本を開いてはその辺に放り投げ、開いては放り投げる。

 灰色になる前の世界であった時は、一冊読んでは戻し、もう一冊読んでは戻していた。だが、もう誰も居ないのだ。これを読む人は、誰もいない。

「あ、果実」

 何十冊と本を放り投げた少年は、知りたかった果実のページへとたどり着く。

 『赤い果実は、時の実。時の神が口にした時、世界は止まる』。

「時の、神?」

 少年は眉間に皺を寄せ、暫く考えて、考えて……。

「しーらない」

 本の山へと放り投げてしまった。

「あ、何これ。悪魔?」

 少年が次の本を手に取ると、今度は『悪魔について』と書かれたページで手を止めた。

 『世界を惑わす者。いずれは灰となって去る。その時、世界は正しく動くだろう』。

「これ、予言か何か? 悪魔って、まさか僕?」

 小さくため息を吐いて、少年はまた暫く考え……結局答えも出ずに、その本も放り投げた。





 もう何年経ったのか、分からない。

 記憶もあいまいだ。

 姿は少年のまま。食事は赤い果実。少年に眠りは必要ない。

 人を探すのは、とうに諦めてしまったに近い。

 どこをどれほど見たって、世界が変わらない。色があるのは赤い果実と自分だけ。

 大好きだった少女はいない。話す相手もいない。触れる相手もいない。

 寂しいと感じたのは初めだけ。最早感情すら曖昧になっていた。

 そうなった時に、ここに足が向いていしまったのは、当然の事だったのだろう。

 少年は、少年の生まれ育ったであろう街に来ていた。

「彼女に会いたい」

 好きだった。思い出すのは彼女だけ。

 既に彼女の顔は忘れてしまった。けれども胸の中からこみ上げるのは、彼女の存在に対する愛情。

「彼女に会いたい」

 もう一言呟くと、ふらふらと彼女の居た場所へと向かう。

 街の中で一番高い時計塔。彼女はそこに住んでいた。

 おぼつかない足取りで階段を上る。薄暗くても、問題はない。この世界は灰色になったあの日から、昼も夜も無くなってしまったのだ。

 薄暗いと感じるのだって、所詮は灰色。

 そう、灰色だ。灰色の場所で、灰色の階段を上る。

 少年は赤い果実を一つ取りだすと、一口だけ齧る。甘酸っぱい香りが漂った。

「あー、なんだっけ、これって、禁忌の果実だっけ」

 彼女が居た場所が近づく。

 本当は口にしちゃ、いけないんだっけ? これは、なんだった?

 一段、また一段と、少女の場所に近づく。

「えーっと、悪魔だとか、神様だとか」

 とん、とん、と、足音が反響した。

「あー、会いたいな。君に逢いたい」

 とん、とん、とん。

 足音は響き、果実は香る。

「君に一目あって、それで僕は」

 天辺まで上ると、立ちはだかるドアをギギギと開けた。

「あ、れ」

 少年がドアを開けると、そこには彼女が居た。

 灰色の彼女が、微笑んだまま椅子に座って。

「あれ、あれあれあれあれ! 居たよ! 居た! 君に会えた!」

 少年は喜んで、手に持った果実を放り投げて彼女へと近づく。

 そして、灰色で動かない彼女を抱きしめた。

 赤い果実は長い階段を、ゴロゴロと転がる。甘酸っぱい香りを撒き散らしながら、ゴロゴロと。

「会いたかった! 会いたかったんだ!」

 落下する度に大きな音を立て、香りを纏わりつかせ、果実を削る。

「会いたかったんだ」

 少年の瞳から涙が零れ落ちた――瞬間だった。

 ゴーン、ゴーンと、時計台はけたたましい音を立てた。奏でたといってもいい。

 音と共に、世界は色を取り戻す。

「あ……あぁ……!」

 ゆっくりと開かれる少女の瞳。

「あら……」

 少女はにっこりとほほ笑んだ。

 少年は涙をこぼしたまま、笑う。そして、窓際へと向かった。

 見える世界は、色を取り戻していた。

「何のお話をしていたんだっけ。悪魔さん」

 少女の口からこぼれた涼やかな声。

 思い知らされた。そうだった。少年は悪魔だった。

「さようなら、ありがとう。君が好きだった」

 少年は全て思い出した。いや、本当は知ってた。

 あの時時を止めてしまったのは自分だったのだと。赤い果実を、時の神である彼女に食べさせてしまったのだと。

 あの時から、もう千年も過ぎていたのだと。

 ようやっと動き出した時には、少年の世界は、少年は、灰となって――。

 千年の空が、青い。

 君と出会ったころのように。

 君と会えてよかった。そして、最後に君を瞳に映せて――。

 
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