言の葉ウォーズ

二ノ宮明季

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 俺は、目の前で退色血《スミゾメ》を流しながらニヤニヤと笑う樒を見ながら、呆然と立ち尽くしていた。
 どうするべきなのかが、見えてこないのだ。
 何人もの百合を、結果的に殺してきたのは俺なのだから。俺に百合を殺す事は出来ない。だけど樒を倒さなければ、今の百合がどうなるのかが分からない。それでも、樒は百合で、俺が間接に殺してきた、百合で……本当に、どうしたらいいのかが分からないのだ。
「ねぇ、蓮夜。僕を殺さないの? ほら、早くやって見なよ」
 樒はニタニタと笑って俺を挑発する。
 やらなければいけない。殺らなければいけないのだ。
 大切な人が二人ガケから落ちそうになっていたって、二人を助けることは不可能なのである。樒としての百合か、モモとしての眠っている百合か。二者択一だ。選択しなくてはいけない。同時に、どちらかを捨てなければいけない。
 俺は、刀を握る右手にぐっと力を込めた。そして、樒を見据える。
 ……彼は、百合『だった』やつだ。今は侵蝕者《カキソンジ》の樒。ならば――。
 俺は樒に向かって駆け出した。
「酷いよ、蓮夜。お願い、止めて」
 思わず、身体が凍る。樒がこちらを見ながら懇願したからだ。
 どうしても刃を樒に向けることが出来ない俺の腹に、《彼女》は蹴りを入れる。
 肉体の中に入っていた空気が放出され、俺は一瞬だけ圧縮パックの気分を味わった。痛覚が無い事を知っていたが、こんな肉体感覚再現がある事は知らなかった。そして出来ればいらなかったし、知りたくなかった。
 俺の身体は、その場に崩れる。ずるり、と、樒の流した退色血《スミゾメ》が指に触れる。
 ぬるぬるとする、本物の血液のような感触。次に感じたのは、その血液が、自分に沁み込んでくる物だった。
 まさに、墨が紙を染めるように、当たり前に、すぅっと俺の中に入り込む。
 慌てて起き上がって距離を取ると、俺の両手は黒くなっていた。服に拭っても、色は全く取れない。
 ……侵食されている。
「油断大敵、だよ。でも蓮夜は可愛いなぁ」
 樒はニコニコと笑いながら、俺に言う。
 出来れば可愛い存在でありたくなかった。百合に好意的にみられるのは良いのだが、この場合は……複雑だ。
「ねぇ、僕が好き? 百合が好き? モモが好き?」
「…………」
 答えられなかった。樒が好きな訳ではないとは言えるが、その樒は百合だ。百合の事は好きだ。更に百合は、モモだ。モモの事だって、好きだ。
 この好きを種類分けするのなら、百合に対しては《愛情》を、モモに対しては《恋慕》を抱いている事になるのだろう。だって、恋は下心、愛は真心と言うのだから。
 そもそも俺の感情自体は偽物のようなものなのだ。そして、この感情は恋愛ではない。焦がれはするが、恋い焦がれはしないのである。
 どの百合に対しても、ラブかライクかと問われれば、ライクだろうし、だからと言ってラブに劣っている感情だとは思わない。これが偽物であれ、本物であれ。
「答えられないか。でも、可愛い事には変わりないから安心してね」
 俺がごちゃごちゃと考えている内に、樒は自ら振った質問を放り投げた。
「百合は微妙に可愛くなかったからさ。だから余計に、蓮夜が可愛く見えるんだ」
「……は? 百合?」
 俺は驚いて、樒を見る。樒はほんの少しだけ、忌々しげな表情を浮かべて言葉を続ける。
「君がいう所の、モモだよ。ほら、蓮夜の後ろの方で起き上がっている、あのモモ」
 慌てて振り返ると、モモが身体を起こして、周りを見回していた。
 それから俺を見ると、今まで見た事が無い程機敏な動きでこちらに近づいてきた。
「蓮夜、あの人悪い」
「え、あ、あぁ、うん」
 第一声、何かと思うと樒を指差してズバリ。いや、まぁ、そうなんだけど……どうなの?
「やぁ、百合。ここでは久しぶり」
「さっきまで喋ってたくせに。黒百合とか名乗って、偉そうな事を抜かして我儘言いまくりだったでしょ」
 俺には何が何だか変わらず、二人を交互に見てしまった。
「あ、蓮夜に教えてあげるよ。百合が眠ってる間、僕は精神体的な自分と空想テリトリーを作って、そこに百合の精神を引きずり込んだ」
「あぁ、そういう事だったの」
「うん、そうなんだ」
 便利な説明台詞。おかげで俺も何となくわかった。
 だが同時に、場合によっては手を抜いて戦っていた樒に勝てる見込みすらなかったのだと思い知らされた。
「そこで、今まで蓮夜に殺されてきた百合の話を一杯見せてあげたんだよ。嬉しい?」
 ――今まで、殺してしまった百合を……。そして、その話もモモの耳に入れたのか。
 俺はもう、このモモの傍に居る事は出来ないだろう。それらを聞いたのなら、モモは俺の事を嫌いになるのだろうから。
「ねぇ百合。どう思った? 蓮夜の事を嫌いになったんじゃない? 僕が憎しみと愛情を蓮夜に向けるように、君もそうなんじゃない?」
 ……おそらく、この質問には肯定が返って来るのだろう。そしたら俺は……どうすればいいのか。とにかく、モモを助ける以外の選択はないかもしれない。でもここで樒を倒せる自信は、ない。
「そんな事、あるわけない。わたし、蓮夜の事は好き」
「…………へ?」
 我ながら、素っ頓狂な声が出た物である。
「でも、自分を何度も殺した相手だよ」
「それがどうしたの?」
 百合が、樒をばっさりと切り捨てた。いっそすがすがしい程のばっさり感に、俺は目を丸くして彼女を見た。
 百合の表情に、曇りや揺らぎは見当たらない。
「あなたの言葉を借りるのなら、あの《百合》が全てわたしなんでしょう? 従って、《樒》だってわたしになるって事」
「従わないけど、続けて」
 いや、そういう意味じゃないだろ。その《したがって》は。常用外の《遵って》をモモが使うべきだったとでも言うのだろうか。そんな訳ないか。この流れに関係ないし。
 ただ単に、語感で上げ足を取ったに過ぎない。
「しかも、こうして侵蝕者《カキソンジ》になっているのは今の所樒だけ。他は皆、成仏した、っていう言い方も出来ると思うの」
「ふんふん。だから?」
 樒は俺と話しているときとは違い、モモには冷たい視線を向ける。
 ……先程の、百合が可愛くないという言葉は、本心からの物だったのだろう。
「今、自分が死んだことで蓮夜を責めているのは樒一人」
「えー、本当にー?」
「絶対とは言わない。けど、今の所わたしの中では確定してる」
 侵蝕者《カキソンジ》らしい、と言えば良いのだろうか。張り付けた偽物のような表情で、樒はモモを茶化す。モモは、全く気にしていない様子だが。
 モモが眠っている間も、こういったやりとりがあったのだろう。……ありそうだなぁ、本当に。
「で、樒とわたしは同一人物。じゃあ、わたしがするのは一つ」
 ここで一度言葉を切ると、モモは俺の目をじっと見つめた。
「わたしは、蓮夜にされちゃったこととか、間接的に死に関わられた事、全部《赦す》よ。だからもう、自分を責めなくてもいい。蓮夜の事、わたしは好きだから赦せるの」
 はっきりと言われたそれに、俺は不覚にも泣きそうになった。
 ずっと言って欲しかった。けれど、赦されるわけにはいかなかった。ありえないと思っていた。
 《好き》も《赦す》も、絶対に言って貰えないと思っていた。これから先、何度百合が変わったとしても、絶対に。
 しかも今回のモモは、セン以外には無関心だったのだ。そのセンに俺が酷い事をした以上、天と地がひっくり返ったとしてもありえないと思っていた。
 うっかり目の前がぼやけそうだ。偽物の液体が、本物かのようにあふれそうだ。
「……何それ」
「否定出来るの? わたしと同一人物なのだと言ったあなたが」
 小さく毒づいた樒からは、表情が抜け落ちていた。非常に侵蝕者《カキソンジ》らしい、それでいて、人間らしいとも思える物だ。
 百合は、視線を俺から樒へと移すと、真っ直ぐに聞いた。
「百合にとっては、同一人物じゃないんでしょ?」
「ん。でも、もしわたしが他の百合の立場だったとしても、やっぱり恨まないし、赦すと思う。そうなると、赦せてないのは樒だけだよ。何番目の百合とか関係なく、只々、樒っていう個人が一人で蓮夜を恨んでいるだけ」
「本当、可愛くないなぁ、百合は」
 樒は小さく舌打ちをしてから、張り付けた満面の笑みで俺を見る。
「ねぇ蓮夜、僕と百合、どっちが好き?」
 モモと、ニコニコ顔の樒には申し訳ないが、俺は考えてしまった。
 何回目の百合の侵蝕者《カキソンジ》なのかは分からないが、それでも俺が今選ぶべき相手は誰なのか。
 さっきは何とか答えを出したようで、結局出し切れなかった質問への回答。
 ……考えるまでもないじゃないか。樒が初めの百合だろうとも、今優先すべき、今俺が好きな相手は誰なのかは、今度ははっきりと言える。
「モモが、好きだ」
 自分にとって都合が良い事はよく分かっている。
 しかし今、俺の中では樒よりもモモを優先させたいという感情が渦巻いていた。
 欲しい言葉を貰ったから、というのもあるのだろうが、揺らぎなく、真っ直ぐに進む様に惹かれてしまったのだろう。自分の感情ながら、仮初の感情ながら、そう思う。
 ほんの数分の会話で、あっさりと俺はモモに攻略されてしまったのである。これが恋愛ゲームであれば、なんとチョロいのだろうか。SNSの恋愛ゲームにおいては、アイテム課金不要の無課金プレイヤーに優しいキャラに、俺はなってしまったのだ。
「……ふぅん、じゃあ、ますます百合が欲しくなっちゃったな」
 樒はまた、表情を消したまま呟く。ぞくり、と、全身が粟立った。
「でも先に、蓮夜にはお仕置きしないと、僕の気が晴れないよ」
 そのまま口元にだけ笑みを浮かべて、彼女――いや、彼は俺に言う。
「さて、蓮夜。もっともっと深く繋がろうか。君を僕の物にしてあげるよ」
「……モモ、下がってて」
 俺はモモを背中に庇いながら、樒をじっと見た。
 今守るべきは、モモだと確信したのだ。もう迷う事は無い。……迷っては、いけない。
「蓮夜、お願いがある」
「何?」
 モモに、俺は短く尋ねる。
「わたし、茜音の方に行って、説得して来たいの。蓮夜の事が好きなように、茜音の事だって好き。あのままにはしておけない。なんか茜音、変だったもの」
「……センは今、白いの二人と戦ってるよ。完全に樒の仲間になったっぽくなっちゃってて」
「ん。わかった。それでも、ちゃんと話したいの」
 背中からの言葉の中に、モモの決意が感じられた。
 そりゃあそうだよな。モモは、センの事だって凄く大切なんだから。
 そして、自分の友達の事を放っておけない子なんだ。
 だからこそ俺は、センに対して…………。
「モモ、行ってきて。樒はここで俺が食い止めて見せるから、ちゃんと話してみて」
 俺がやるべきことは、一つだ。
 それも、最初から決まっていたたった一つ。
「あと、それから……」
 刺し違えてでも樒を止める。止めを刺す。
 モモに対する最後の言葉になるかも知れなくて、名残惜しい。けれど、それでも言っておきたくて、俺は口を開いた。
「俺、モモの傍にいたセンにヤキモチを焼いていたんだと思う。結構酷い事言ったな、って……」
「ん。わかってる。二人とも、やきもち焼きって事くらい」
 くすっと、笑われた気がする。それだけで本当に嬉しくて、嬉しくて、嬉しかった。
「ここ、ちょっとの間お願い。必ず蓮夜を助けるから」
「……無理、しないようにね」
「蓮夜も、無理は多少にしておいて」
 ……無理しないのは全力で無理そうです、ごめんなさい。
 それでも俺は、モモに対して強く頷いたのだった。
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