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プロローグ

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 とある海岸線。広がる白砂、水平線の彼方まで伸びる紫紺の夜空。
 静かに小鳥が飛び立ち、白い羽が舞った。

 さざ波の音だけが響く。

 「…………」

 少年がゆったりと砂浜を歩いていた。
 雪のような純白の髪に、血を塗りたくったように紅い瞳。清純な白き輝きに、一筋の純朴さが宿されていた。
 腰に下げた刀、夜闇に溶けるフード付きのコート。

 少年の名は、レヴハルト・シルバミネ。齢九歳。

 レヴハルトは俗に言う「殺し屋」だった。
 故に、彼は幼少より数多の技を仕込まれ、錬磨され。ちゅうするべき者を正しく殺せるように技術を『教育』されていた。

 レヴハルトには殺しの才能がない。
 しかしながら生まれた環境ゆえに、彼はこうして殺し屋の道を歩まざるを得なかったのだ。

 非才、無才、凡人。
 されど彼は生まれた意義を問うために、その手を血に染め続ける。

 「──いた」

 ぼそり、彼は呟く。
 視線の先には海を見つめて立っている少女。あの少女こそ、殺しの標的ターゲット

 彼はフードを外し、歳相応の笑顔を張りつけて少女に接近していく。
 相手は同い年。殺すことは造作もない。
 レヴハルトから発せられたのは純真無垢を装った朗らかな声。

 「やあ、こんにちは」


 彼の声に振り向いた少女は、怪訝な視線を向ける。

 「……誰」

 少女の外見は、星々をまぶしたように煌めく黄金の髪に、宝石を思わせる翡翠色の瞳。
 金細工のように全てが精巧で、神が作り上げたかと思わせるような美しさを持つ少女。

 彼女は何ともなしに夜の海を眺めていた。
 この海の藻屑となって消えてしまえば、どんなに楽だろうかと……子どもにしては不相応な考えを抱いて。

 少女の名は、ソラフィアート・クラーラクト。齢九歳。

 ソラフィアートは世界最高とも謳われる芸能人の娘だった。
 親が著名だからこそ、娘である彼女にも期待がかかり、しがらみが生じる。しかし彼女は周囲の抑圧を全て退け、自身が歩みたい道を思うがままに歩んでいた。
 勉学、武術、芸術、経済──すべては彼女の掌中にあるかのように転がっている。

 すべてを兼ね備えた究極の人間、それがソラフィアート。
 万能、天才、至高。
 故に彼女は生まれた意義を問うために、その瞳で世界を見つめ続ける。

 少年……レヴハルトは彼女に歩み寄り、笑みを浮かべて話しかけた。

 「こんにちは、俺はレヴハルト。俺と同じくらいの子が、こんなところで何してるの?」

 宵闇の中に、年端も行かぬ二人の子ども。
 だが……互いに内に秘めたる精神は怪物で。

 ソラフィアートは突然現れた少年をざっと見る。頭のてっぺんからつま先までを観察。
 そして言い放った。

 「あなた、私を殺しに来たの?」

 ──問いではない。意志の確認だ。
 それはレヴハルトからすれば、衝撃的な屈辱であった。殺気を抑え、笑顔を張りつけ、あらゆる工夫を凝らして偽装を施したのに……一瞬で自分が殺し屋であると見破られたのだから。

 あなたの正体など一瞬でわかると。
 それでも私を殺せると思うのかと……ソラフィアートはレヴハルトの意志を試したのだ。

 彼女の言葉は、異様にレヴハルトの神経を逆なでする。
 殺しの道でしか生きられない彼にとって、自由を弄ぶ少女の姿は羨ましかった。
 抑圧の中で囚われる少年くぐつと、抑圧を跳ね除けて飛び回る少女にんげん。己の羨望にレヴハルト自身は気がついていない。

 全てを持っているにもかかわらず、退屈そうに世界を傍観する少女。
 彼女の顔を見て、少年は思わず──

 「……大胆ね」

 鋼が空を切る。鞘から刀身を滑らせ、目にも止まらぬ速さで振り抜いた。
 一瞬にして抜き放たれた刃、ソラフィアートの首元を掠める。
 はらりと、黄金の毛先が舞った。彼女が回避しなければ、その首は落とされていたことだろう。

 殺人未遂である。
 ポーカーフェイスは砕かれた。ここからは殺意が躍る時間だ。

 「君を殺す。レヴハルト・シルバミネ」

 「そう……ソラフィアート・クラーラクト」

 短く名乗りを交わし、二人は刃の舞踏に酔う。
 この相手、只者ではない……互いに瞬間的に感知。

 「君、強いな」

 「あなたは弱いけどね」

 両者の認識には大きな隔たりがあった。端的な言葉を交わしただけで、主観的にはどちらが上かわかってしまう。


 勝負は一瞬にして終わることになる。

 「……終わりよ」

 刃を突きつけられるレヴハルト。
 彼は力なく砂浜にへたり込んだ。

 ──敗北。
 血の沼に生き、殺意だけを信じてきた……人間兵器とも呼べる彼が、敗北した。それも数多の道を股にかける天才に。

 その事実は彼を絶望へと突き落とすと同時に、一つの疑問を呼んだ。


 「…………どうして、俺の首を断たない?」

 「え?」

 「敗北とは即ち死。首を断たねば、人は死なない。
 だから首を断たれない限り、負けではない」

 純粋な疑念であった。レヴハルトの倫理観は常軌を逸している。
 要するに彼はサイコパスなのだと。
 彼我ひがの認識齟齬さえもソラフィアートは瞬時に感じ取り、諭すように言の葉を紡ぐ。

 「だって……首を断ったら、もう二度とその人とは戦えないでしょう?
 さっきみたいに美しい戦いを、もう二度とできない。それは悲しいことだと思うの」

 「……わからない」

 「勝負は私の勝ち。諦めて帰ってよ」

 人を殺めれば罪に問われるだとか、そんな合理的な説明ではレヴハルトの心には届かない。
 彼の心の奥底に訴えかけるには、闘いの楽しさを教える必要があるのだと……ソラフィアートは悟った。

 この時……レヴハルトは形容しがたい感情を覚えた。
 芽生えた奇妙な感情をどう呼称すればいいものか、彼はわからない。しかし、

 「君を殺す」

 ただ、そう呟くしかなかったのだ。

 「どうやって?」

 「君が俺を殺さない限り、殺しに行く」

 堂々とした殺害予告にソラフィアートは面食らう。
 この時、彼女もまた形容しがたい感情を覚えたのだ。

 彼女はあまりに天才だ。あまりに優秀だ。あまりに完璧だ。
 だからこそ彼女の前に立った者は、反抗的になる余地などなかったのに。

 「私が……怖くないの?」

 「知らない」

 会話が成り立っていないものの、レヴハルトは明らかにソラフィアートを恐れていなかった。
 あるいは畏怖、あるいは好奇、あるいは情欲。すべての人間から寄せられていた、下らない視線の数々とは違う。

 嬉しかったのだろうか。もしくは呆れたのだろうか。
 ソラフィアートは自分の心すらわからないままに、

 「じゃあ……えっと、私を殺してみて?」

 レヴハルトは彼女を睨んでいたが、目にも止まらぬ速さで立ち上がり……刀を振り抜いた。
 常人からすれば見切れぬ技量。しかし、彼女の前には停滞も同じ。

 難なく指先で刀を受け止めたソラフィアート。
 レヴハルトは納刀し、右手を首に当てて俯いた。

 「どうして俺は……ここまで弱いんだろう」

 「たぶんね……今のあなたじゃ、私に敵わないから。もう少しあなたが大人になって、強くなって……それでも私を殺したいと思ったのなら……私を殺しに来て」

 それは呪いだ。
 二人の生涯を永久とわに縛る、呪いの誓いだった。

 「依頼者は私。私は、私を殺してくれるようにあなたに依頼を出す。
 いつか契約を履行して。あなたが本当に殺し屋なら」

 きっと大人になれば、レヴハルトもソラフィアートの異常性に気がついて命を狙わなくなる。そんなことはソラフィアート自身が最も理解していた。
 無理な願いだとわかっていた。

 しかし、彼女もまた賭けたくなってしまった。
 己に真実の眼を向ける人がいることに。自分を怪物ではなく、人として扱う者が存在することを願っていた。

 「いいよ。俺が強くなったら、君を殺しに行く。誓おう。
 ソラフィアート・クラーラクト、その名前を忘れないよ」

 「……ん。レヴハルト・シルバミネね。
 覚えておくから……契約」

 誓いを交わし、二人はまた離れていった。
 彼らは遠き未来へ約束を交わす。

 かくして少年と少女は運命に導かれる。


 ー----


 ──そして、六年の時が経った。


 「……よって、主文のとおり判決する。 

 判決を言い渡す。
 主文、被告人レヴハルト・シルバミネを──追放刑に処す」

 罪人レヴハルト・シルバミネ。
 彼に科せられた刑罰は、生存確率0%の死地への追放だった。
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