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第12章 呪われ公の絶息
呪われ姫の絶唱
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夜空を飛翔し、テモックはニルフック学園の屋上に降り立った。
ここまでの熾烈な喧騒が嘘のように学園は静まり返っている。
月明かりを頼りにノーラはテモックの背から降りる。
「ありがとうございます。ペートルス様とまた会えて良かったですね」
テモックは嬉しそうに鳴いた。
しかし、その鳴き声には虚しさが宿っている。
自分の背の上で動かぬ主を想うように。
「……お帰りなさい。兄とともに、無事に帰ってきましたね」
「ノエリア様……はい。みなさまのお力添えのおかげで、なんとか」
屋上に現れたノエリア。
彼女はテモックの背で眠るペートルスに歩み寄る。
顔を覗き込んでみる。
そこにはどこか懐かしい……兄の安らかな面影。
今は喧騒に苛まれることもなく、静かに眠っているのだろうか。
「…………」
沈黙が漂う。
これから起きることを、二人は理解している。
あるいはこのまま何も起こさない……という選択肢だってある。
ノーラは今一度ノエリアに意思を問うため口を開いた。
「わたしが聖歌を歌えば、ペートルス様の邪器を浄化することができます。記憶を代償にして。ノエリア様は……不安ですよね」
「当たり前です。叶うことなら、もう一度兄と話したい。私との記憶が、兄が紡いできた軌跡が……記憶から消えてしまうことが酷く恐ろしい」
どれだけ気丈に振る舞っても。
結局、ノエリアは兄との縁が切れることが怖い。
「だって……たった一人の家族ですもの」
もう父も母もいない。
残ったのは兄を地獄に突き落としたヴァルターのみ。
あんなものは家族と呼べない。
だから今、目の前にある兄を失いたくない。
唯一の家族を。
「ですが、ノーラ嬢。兄はあなたにすべてを決めてほしいと……そう思っているに違いありませんわ」
ノエリアは静かに踵を返した。
「どのような決断をされても、私は尊重いたします。責を押しつけるような真似はしません。どうか、あなたの思うがままに」
言葉を残して彼女は消える。
残されたノーラはテモックに背を預け、星々が輝く夜空を見上げた。
「デニス殿下は言いました。わたしがどんな選択をしても、ペートルス様は笑って許してくれるって」
まったくもってその通りだと思う。
瞳を閉じればペートルスの笑顔が目に浮かぶ。
誰もが恋焦がれて、心を射抜かれるような、あの笑顔。
きっと彼の笑顔は作り物。
それでも多くの人をつないできた。
「わたし、ペートルス様にはもう苦しんでほしくないんです。邪器のせいでずっと苦しんできたって聞きました。わたしもこの右目で苦労してきたから、すっげーよくわかります」
眼帯に触れる。
指先に伝う滑らかな感覚。
ノーラは眼帯を外し、邪眼と左目で空を見上げた。
二つの眼で見る星空はとても綺麗だ。
たとえ邪悪な眼であったとしても、見るものの美しさは変わらない。
「でも、ペートルス様は違います。その左耳で聞く音は、とってもうるさいんですよね。ずっとあなたが抱えている苦しみに気づいてあげられなかった」
あまりにも彼は完璧に目に映っていた。
抱く煩悶など、痛苦など。
微塵も悟らせることはなかった。
「……本当なら、ここで終わらせて楽にしてあげたい。このまま安らかに散っていく華もいいでしょう。けれど、わたしはまだ……ペートルス様に恩返しできてないんですよ」
あの日、ペートルスと出会った瞬間から。
ノーラの人生は大きく動きだした。
邪眼によって色褪せた人生が、少しずつ輝きだした。
たくさんのことを教わったのだ。
未知の世界、進む勇気、魅力的な人たち。
ペートルスが手を引いてくれなかったら、何も知らないまま終わっていた。
『僕は、彼女に世界を広げていただきたいのです』
ペートルスがノーラを連れ出すとき、彼はこう語った。
今ならその意味がわかる。
『今まで世界と隔絶され、除け者のような人生を生きてきた彼女は……僕が言うのもお節介かもしれませんが、あまりに不憫に感じた。好意の押しつけのように聞こえてしまうかもしれません。ただ、それが僕の本心です』
「あなたも……同じだったんですね」
ペートルスもまた、ある意味で孤独だった。
傍目に見れば多くの人に囲まれて、慕われていたのかもしれない。
けれど彼は周囲と隔絶されていたのだ。
常人は持ちえない音の世界。
常人は歩まない反逆の道。
そして、残りわずかな余命。
どうせすぐにこの世から消えるのだと。
彼は諦め、周囲と距離を置いてきた。
本当の意味では誰にも心を許すことができず、完璧な貴公子を演じて。
ずっと孤独に耐えてきた。
「……ばかやろう」
ノーラが吐いた罵言。
それは自分に向けられたものだった。
こんなに世話になっておいて、そばにいておいて。
彼の苦しみに気づいてあげられなかった。
「ノエリア様から聞きましたよ。わたしへの……想い」
今でも信じられないこと。
ペートルスが挙兵する直前、ノエリアに託した言葉。
だって、自分が誰かに想われているなんて……一度も考えたことがなかったから。
「――たぶん、わたしも同じ気持ちだと思うんです。人を好きになったことなんてないから、わからないけど」
ノーラは立ち上がる。
背負っていた弦楽器を下ろし、今一度ペートルスの顔を見た。
視界がぼやけて。
いつしか自分の瞳から零れ落ちるものに気づいた。
わたしは今、泣いている。
「……式神さん」
『…………』
「聖歌を歌います。旋律を奏でてください」
『承知した』
式神は短く返事をして、人の形になった。
エウフェミアの形見である弦楽器を持ち、静かにノーラの歌唱を待つ。
――邪器を浄化する。
ペートルスの記憶を消す。
そう、ノーラは決めた。
「ペートルス様がすべてを忘れても。ペートルス様との思い出は、わたしの恋心は……ずっとずっと消えませんから。今からお迎えに上がります」
静謐な気が屋上に満ちる。
幻のように霞む七色の光が、星々よりも眩く輝いた。
ノーラと式神の魔力が交差し始める。
深く息を吸い込む。
もう後戻りはしない。
前に、進もう。
「――♪」
エレオノーラ・アイラリティル。
あるいはノーラ・ピルット。
――『呪われ姫』の絶唱が、遥か彼方へ響きわたる。
ここまでの熾烈な喧騒が嘘のように学園は静まり返っている。
月明かりを頼りにノーラはテモックの背から降りる。
「ありがとうございます。ペートルス様とまた会えて良かったですね」
テモックは嬉しそうに鳴いた。
しかし、その鳴き声には虚しさが宿っている。
自分の背の上で動かぬ主を想うように。
「……お帰りなさい。兄とともに、無事に帰ってきましたね」
「ノエリア様……はい。みなさまのお力添えのおかげで、なんとか」
屋上に現れたノエリア。
彼女はテモックの背で眠るペートルスに歩み寄る。
顔を覗き込んでみる。
そこにはどこか懐かしい……兄の安らかな面影。
今は喧騒に苛まれることもなく、静かに眠っているのだろうか。
「…………」
沈黙が漂う。
これから起きることを、二人は理解している。
あるいはこのまま何も起こさない……という選択肢だってある。
ノーラは今一度ノエリアに意思を問うため口を開いた。
「わたしが聖歌を歌えば、ペートルス様の邪器を浄化することができます。記憶を代償にして。ノエリア様は……不安ですよね」
「当たり前です。叶うことなら、もう一度兄と話したい。私との記憶が、兄が紡いできた軌跡が……記憶から消えてしまうことが酷く恐ろしい」
どれだけ気丈に振る舞っても。
結局、ノエリアは兄との縁が切れることが怖い。
「だって……たった一人の家族ですもの」
もう父も母もいない。
残ったのは兄を地獄に突き落としたヴァルターのみ。
あんなものは家族と呼べない。
だから今、目の前にある兄を失いたくない。
唯一の家族を。
「ですが、ノーラ嬢。兄はあなたにすべてを決めてほしいと……そう思っているに違いありませんわ」
ノエリアは静かに踵を返した。
「どのような決断をされても、私は尊重いたします。責を押しつけるような真似はしません。どうか、あなたの思うがままに」
言葉を残して彼女は消える。
残されたノーラはテモックに背を預け、星々が輝く夜空を見上げた。
「デニス殿下は言いました。わたしがどんな選択をしても、ペートルス様は笑って許してくれるって」
まったくもってその通りだと思う。
瞳を閉じればペートルスの笑顔が目に浮かぶ。
誰もが恋焦がれて、心を射抜かれるような、あの笑顔。
きっと彼の笑顔は作り物。
それでも多くの人をつないできた。
「わたし、ペートルス様にはもう苦しんでほしくないんです。邪器のせいでずっと苦しんできたって聞きました。わたしもこの右目で苦労してきたから、すっげーよくわかります」
眼帯に触れる。
指先に伝う滑らかな感覚。
ノーラは眼帯を外し、邪眼と左目で空を見上げた。
二つの眼で見る星空はとても綺麗だ。
たとえ邪悪な眼であったとしても、見るものの美しさは変わらない。
「でも、ペートルス様は違います。その左耳で聞く音は、とってもうるさいんですよね。ずっとあなたが抱えている苦しみに気づいてあげられなかった」
あまりにも彼は完璧に目に映っていた。
抱く煩悶など、痛苦など。
微塵も悟らせることはなかった。
「……本当なら、ここで終わらせて楽にしてあげたい。このまま安らかに散っていく華もいいでしょう。けれど、わたしはまだ……ペートルス様に恩返しできてないんですよ」
あの日、ペートルスと出会った瞬間から。
ノーラの人生は大きく動きだした。
邪眼によって色褪せた人生が、少しずつ輝きだした。
たくさんのことを教わったのだ。
未知の世界、進む勇気、魅力的な人たち。
ペートルスが手を引いてくれなかったら、何も知らないまま終わっていた。
『僕は、彼女に世界を広げていただきたいのです』
ペートルスがノーラを連れ出すとき、彼はこう語った。
今ならその意味がわかる。
『今まで世界と隔絶され、除け者のような人生を生きてきた彼女は……僕が言うのもお節介かもしれませんが、あまりに不憫に感じた。好意の押しつけのように聞こえてしまうかもしれません。ただ、それが僕の本心です』
「あなたも……同じだったんですね」
ペートルスもまた、ある意味で孤独だった。
傍目に見れば多くの人に囲まれて、慕われていたのかもしれない。
けれど彼は周囲と隔絶されていたのだ。
常人は持ちえない音の世界。
常人は歩まない反逆の道。
そして、残りわずかな余命。
どうせすぐにこの世から消えるのだと。
彼は諦め、周囲と距離を置いてきた。
本当の意味では誰にも心を許すことができず、完璧な貴公子を演じて。
ずっと孤独に耐えてきた。
「……ばかやろう」
ノーラが吐いた罵言。
それは自分に向けられたものだった。
こんなに世話になっておいて、そばにいておいて。
彼の苦しみに気づいてあげられなかった。
「ノエリア様から聞きましたよ。わたしへの……想い」
今でも信じられないこと。
ペートルスが挙兵する直前、ノエリアに託した言葉。
だって、自分が誰かに想われているなんて……一度も考えたことがなかったから。
「――たぶん、わたしも同じ気持ちだと思うんです。人を好きになったことなんてないから、わからないけど」
ノーラは立ち上がる。
背負っていた弦楽器を下ろし、今一度ペートルスの顔を見た。
視界がぼやけて。
いつしか自分の瞳から零れ落ちるものに気づいた。
わたしは今、泣いている。
「……式神さん」
『…………』
「聖歌を歌います。旋律を奏でてください」
『承知した』
式神は短く返事をして、人の形になった。
エウフェミアの形見である弦楽器を持ち、静かにノーラの歌唱を待つ。
――邪器を浄化する。
ペートルスの記憶を消す。
そう、ノーラは決めた。
「ペートルス様がすべてを忘れても。ペートルス様との思い出は、わたしの恋心は……ずっとずっと消えませんから。今からお迎えに上がります」
静謐な気が屋上に満ちる。
幻のように霞む七色の光が、星々よりも眩く輝いた。
ノーラと式神の魔力が交差し始める。
深く息を吸い込む。
もう後戻りはしない。
前に、進もう。
「――♪」
エレオノーラ・アイラリティル。
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